第二章ー6
「トイレ行ってきます」
「あ、どうぞ。行ってらっしゃい」
西条ヨシさんはウォーカーと呼ばれる、押し車のような器具を使っている。
外に出る際は杖を使用するのだが、バリアフリーのふれあい西家においてはウォーカーの方が圧倒的に安全だ。下部に小さな車輪がついており、使用者が体重をかけられる腕置きが上部に取り付けられている。使用者が力を入れると車輪が回り、前方へ進む構造になっている。
西条さんはウォーカーを押してトイレまで歩いていく。
玄関の右手側にあるトイレへ向かっていったため、俺のいる場所からはちょうど死角になる位置だが、西条さんはウォーカーさえ押していれば、ふらついたりすることはない。
足元がおぼつかない御利用者と違い、特別、付き添っていく必要はない。
「さて、と」
西条さんを見送り、次の作業へ移る。
「主任、連絡帳書いておきますよ」
「お、悪い。助かる」
御利用者への昼食提供、その後の口腔ケアが終わると、基本的にホールは落ち着く。昼食終了から間もない時間帯であるため、無理に動こうとする御利用者もおらず、ゆったりとした時間が流れる。
この落ち着いた時間を利用して、レクリエーションを行う事業所もあるのだが、ふれあい西家はそういった取り組みはしていない。市川園長の方針で、無理に「〇〇をしよう!」と言っても、御利用者によっては、やりたくない人もいる。
そういった方まで巻き込んで、無理やり全体で○○をしよう、というレクは行わないように決まっている。
「小林さんの次の利用日は……」
御利用者が落ち着いているこの時間帯は、職員にとって貴重なものでもある。
事業所と御利用者の家族を繋ぐ連絡帳への記入や、日々の御利用者の状態をパソコンに打ち込む作業など、事務作業を行える数少ない時間だ。介護は肉体労働と思われがちだが、書類の作成や、その管理も大切な仕事の一つだ。
俺は御利用者の対応は松岡主任に任せて、黙々と指を動かす。
本来であれば、パソコンとはいえ、個人情報であるため、人の目に触れやすいフロア内で打ち込むことは禁止されるべきだろう。ただ、今の介護現場でそれを徹底することは難しい。
あまりに、人がいないのだ。
「あのー、すみません」
「はい、なんでしょうか?」
こちらが事務作業中でも、御利用者にとっては関係ない。
気軽に声をかけられる。
俺は御利用者の対応をしながら、少しずつ、事務作業を終わらせていく。
「あれ? ヒロ、西条さんは?」
不意に主任から声をかけられ、
「え? トイレですけど?」
反射的に答える。
が、
――あれ?
ちょっと待て。
書き物に集中していて気付くのが遅れた。
西条さんがトイレに立ってから十五分程が経過していた。
健康な人間であっても、お腹が痛ければトイレに籠ることもある。不思議なことではないかもしれないが……。
俺は不安を覚え、椅子から立ち上がった。
その瞬間、
ドン!
西条さんが向かったトイレの方向から、なにかが落ちるような、あるいは、なにかが倒れるような、鈍い音が聞こえてきた。




