第一章ー9
◆◇◆
その日の夜。
俺は西条ヨシさんが彩花の声を認識できなくなったことに関して、ほんの少し、違和感を覚えていた。
介護士になって以降、認知症を患っている御利用者とは毎日のように接してきた。
一般に言われている認知症の症状は、物忘れだ。普通の物忘れとは違い、物事そのものが記憶から抜け落ちてしまうのが認知症だ。
普通の物忘れは、例えば、『なにかをやろうとしたけれど、なにをしようとしたのか忘れてしまった』といったものである。老人に限らず、誰もが経験したことがあるだろう。
『なにかをやろうと立ち上がったけど、なにをやろうとしたのか忘れてしまった』という場合、自分が何故立ち上がったのかは理解できる。『なにかをやろうとしたこと』は記憶に残っているからだ。
ところが、認知症の場合、『なにかをやろうとしたこと、そのもの』を忘れてしまうため、何故立ち上がったのかが分からなくなり、混乱が生じる。
それが、単なる物忘れと、認知症の違いだ。
その他、『徘徊』や『物盗られ妄想』、今までできていたことができなくなる『失行』、そこがどこで、いつ頃なのかということが分からなくなる『見当識障害』などなど、様々な症状がある。
認知症は個人差も大きく、また、『認知症』と一口に言っても、いくつも種類がある。それによって、表に出て来る症状も変わる。
介護士になってから、それら、認知症による症状はこの目で見てきたし、西条ヨシさんも、良いおばあちゃんではあるが、認知症であることに違いはないように見える。
しかし、
特定の誰かの『声だけ』を認識できなくなる、という忘れ方をしている人にはこれまで出会ったことがなかった。
子や孫を認識できなくなっている、という症状の御利用者は何人もいる。
誰かを認識できなくなる一歩手前の状態として、『声を認識できなくなる』というステップがあっても良いのかもしれないが、どこか違和感があった。本当に、そうなのだろうか、と。
俺は医師ではないし、認知症についても大学で勉強した知識しか持っていない。
一人で悶々と考えてみても、答えは出そうになかった。
「……」
眠りに落ちる頃には、そんな疑問は頭から消え去っていた。




