9 野鳥病院の10年(「よみがえれ新浜」1986年)再録 4 蓮尾嘉彪
9 野鳥病院の10年(「よみがえれ新浜」1986年)再録 4 蓮尾嘉彪
【教わりながら】
野鳥病院もはや10年、獣医の免状はあるものの、血管注射すらあやしげな私が薬なし、器具なし、知識なしで始めてしまった当初と今。獣医としての力量には大した違いはあるまいけれど、たくさんの鳥をむざむざ死なせてしまった経験だけは多少とも生きているはずです。
当初から、行徳動物病院の初代、後藤秀樹先生(現在浜松在住)にはたいへんお世話になりました。「犬の歯は全部犬歯でしょ」とだじゃれを言ったら「えっ」と驚かれるほどのきまじめな方で、オオワシの翼骨折の手術をお願いしたばかりか、レントゲン撮影や薬品、器具の指導とお世話をかけ、どうしても実費すら満足にとってくださらずに困ったものです。
野鳥病院として大切なのは、治療や手当よりもむしろ鳥を健康に養うことです。せっかく病気やけがに適切な処置をしても、餌が十分でなかったり不適当だったりして、餓死させてしまうようでは何にもなりません。
カルガモのヒナは、最初鶏の餌やパン、ミジンコや糸ミミズまでやってみましたが、満足に育ちませんでした。金魚に与えるスイミーミニがよいと教えてくださったのは葛西の方で、このえさとヒヨコ電球を使った保温室で、今では8割前後のヒナは自信を持って育て上げられるようになりました。ようやく昨年になって、私共の育てた足環つきのカルガモがぞろぞろとヒナを連れて泳ぐのを見ました。孫たちの誕生です。
ヒヨドリはすり餌だけで育てると、たいてい翼や脚が曲がってしまいます。トマトを大量に与えることで症状がよくなることは、柏の方に教えていただいたのでしょうか。ヒヨドリのみならず、トマトは骨の発育不全によくきき目をあらわすようです。
【忘れ得ぬ鳥たち】
10年間につきあった「患者」のうちで、第1に思い出すのは、どちらかと言えば非業の最期をとげたものです。
最初の年だったでしょう。保温箱もないころは、バンやカルガモのヒナは、ふところに抱いて暖めていました。夜、ふとんに入れておいたバンのヒナは、朝になって背中の下で平たくのびていました。
1979年の秋に入ったアカショウビンは、与えた小魚を徹底的に叩きつけて呑みこむ習慣でした。生きた魚ならともかく、冷凍のワカサギはぐちゃぐちゃになり、アカショウビンの羽毛はべとべとになってしまいました。寒さと羽の汚れのため、1月に死にました。
1980年1月、新浜鴨場の池で泳いでいたシロエリオオハムは、一見外傷がなく、与えた魚を喜んでどんどん食べるので安心していたところ、1週間後に急死。厚い羽毛のためとは言え、首の横についていた8センチもの大裂傷に気付かなかったとは。
1983年1月に銚子から持ち込まれたミツユビカモメは、全身油でべったりでした。体羽の汚れはシャンプーで一応落ちたものの、風切羽もひどくいたんでいたので、思いきって抜いてやりました。ところが、一向に代わりの羽が生えてきません。健康に3年近く生きたものの、風切羽は失われたままでした。春になってユリカモメがガーガー声で求愛の歌をうたうと、「タベタイ、タベタイ、タベタイ(kittiwakeという英名そっくりに聞こえます)」と合いの手を入れて、存在を主張していました。1985年10月、他の多くの鳥と同じようにカビに内臓を侵されて死にました。
くらい話ばかりではありません。完全に野外復帰に成功したという自信をもてる例もあるのです。ヒナから育て上げ、放鳥してからもしばらく戻ってきて、餌をねだっては飛び去って行くものなどその典型です。
シラサギ類は、ヒナばかりか弱って収容された若鳥もよく餌をもらいに来ます。ちゃんと野外復帰したものが、冬になって獲物が乏しくなると、久々に顔を出すことも少なくありません。「何だお前、このくらいの寒波でだらしがないんじゃないか。」と文句を言いながら、いそいそと餌をやります。ところが春先になり、連れ合いができたとたんにぱったりと来なくなります。「そんな、あなた、みっともないじゃありませんか」きっと彼女に言われたのでしょう。
ダイサギの嘴は、連れ合いができると1~2週間たらずで黄色から黒に変色し、目先が鮮やかな空色になります。黒い色素は中からにじみ出すような感じです。逆に禽舎などで一人ぼっちのダイサギの嘴は、夏になっても黄色のままです。
ツバメのヒナは、放すとついと飛び立ったきり帰ってこないことが多く、そのあとはそこら中の電線にとまった子ツバメを口笛で呼んでみたものです。ツバメの家族の中の1羽が口笛にはっきり反応したことがありましたが、みなし子は他の親鳥に養ってもらうのでしょうか。旧観察舎のころ、2羽の子ツバメが飛びたって間もなく戻ってくるようになり、2週間ほど毎日帰ってきては餌をねだったことがありました。作業員詰所の屋根にはしごをかけ、電線にとまったツバメにせっせと餌をやりました。やがて体重がふえ、給餌も間遠になって、完全に独立してくれました。
猛禽類のヒナの野外復帰訓練は、小鳥よりもむしろ楽です。でも他のヒナ達に被害が及ぶのが困りものです。
最初の成功例はトビのミルヴス君でした。三宅島で傷ついて収容され、海洋学者のジャック・モイヤー氏から宣教師のスミスご夫妻へとバトンタッチ、観察舎にやってきました。半年ほど禽舎で暮らしたあと、翌春3月に禽舎の屋根代わりの網をはずして放したのですが、あぶなっかしい飛び方ながら、夕方にはちゃんと禽舎に戻ってきました。しかし、飛翔力に自信がついてからのミルヴスの悪さといったら。まず同居していたユリカモメをバラバラにし、ドバトを少なくとも2羽食い殺し、バドミントンの羽根やボールをさらい、顔見知りの人と見ると後から頭をけとばし、犬をおどかし、はては干潟の水鳥を追い散らかして、明らかに楽しんでいました。中にはわざわざ油あげを持って来て、手からさらわせている人もいましたっけ。1年ほど残りましたが、翌年の春に姿を消しました。
小鳥店から押収されたフクロウのヒナも、放鳥後毎晩餌をもらいに来ていました。夜、鳴きまわる声はみごとでした。しかし、入院中のムクドリやスズメのヒナを、かごに体当たりしては襲うので、とうとうしめ出しました。
昨年放したサシバのしばちゃんもかわいい鳥でした。7月15日から2ヶ月近く、あたりを飛びまわっては、カマキリやカナヘビなどを得意そうに持ち帰り、ていねいにむしって食べます。姿を消す直前、一緒に渡ろうよとでも言いたげに、一日中べったりとつきまとっていた姿は忘れられません。今はきっと東南アジアのどこかで元気でいると信じています。
野鳥病院のおかげで、暖かい人々とめぐり合うことができ、鳥たちと深くつき合うことができることを感謝しつつ筆をおきます。