会社にて
「古海くん、ちょっといいかしら?」チーフの辺野さんがデスクからぼくを呼んだ。
「はい、なんでしょうか」作業中のエアタブを操作する手を止めて、椅子から立ち上がる。ぼくはまだ入りたての新入社員なので、席は端の方にある。先輩社員たちの席の後ろを抜けて、辺野さんの席へと向かう。
辺野さんの机は女性らしくいつも清潔に片付けられていて、白い表面は滑らかな陶磁器のように美しい。辺野さんは微笑みながらぼくに言う。「ねえねえ、アンツヴィル60って知ってるよね?」
「あっ、うちの会社のソフトのことですか。もちろんです。ぼくもアリたちを眺めて、日々癒されてますよ」
「ああそう。自社の製品を使っているのは、いい心がけね。で、アンツヴィルのことで少し話をしたいんだけど、今ちょっといいかな?」
「ええ、はい。大丈夫ですけど」
「じゃあ、隣の会議室に行きましょう。すぐに来てね」
「はい、わかりました」
ぼくは自分の机に戻り、エアタブのスクリーンを消して、会議室へ向かう辺野さんの後を追っていく。目の前に見える辺野さんの細い首。柔らかそうな髪から、なんともいえない良い香りが流れてくる。
会議室へ入って、辺野さんが椅子に腰掛ける。ぼくはテーブルをはさんで彼女の向かいに着席する。辺野さんは菫色のブラウスを着ていて、よく似合っている。辺野さんの正面で話をするのは、まだ少しどきどきする。
「古海くん、会社はどう?」
「はい、なんとか。ようやく慣れてきたかなあって感じですね」
「そう、まだまだこれからよ。うちもそんなに大きな会社じゃないでしょ? だから、社員のみんなにはいろいろな仕事をやってもらうことが多いの。で、早速本題に入るんだけど、今うちでアンツヴィルの派生ヴァージョンを作ってるっていう話、古海くんは知ってるでしょ?」
「はい。でも、まだ関わることはなくて、詳しいことは全然知らないんですけど」
「うん、その方がいいのよ。古海くんにテストプレイをお願いしたいと思ってて」
「えっ。それはゲームのデバッガーみたいなことですか?」
ぼくの問いかけに、辺野さんは手のひらを組んだ上にあごを乗せながら、少し首を傾けて答える。
「そう、大体そんな感じね。まだ開発の途中なんだけど、あまりゲームの内容を知らない人に一度モニターしてもらいたくて、新人の中の古海くんに声をかけてみたらどうかって話になったのね」
「業務時間に仕事としてゲームをする、っていうことですよね?」
「ええ。最新のメガネゴーグルを使う特殊なVRで、うちの会社としてもこれまでにない初めての試みなの。テストプレイは身体への影響を考えると、一日三ステージくらいが限界って感じかな。シミュレート世界に長い間没入してしまうと、あんまり良くないって開発部から言われてるしね」
「でも面白そうですね。もちろん大丈夫です!」
「そう、よかったわ」辺野さんがニコリとする。「客観的な視点が必要なのよ。ひとまずざっと体験してもらって、バグとか感想とかをまとめてほしいの。そうして集めた意見や感想は、開発部へのフィードバックとして利用させてもらうわ」
「わかりました。ゲームが好きでこの会社に入ったわけですし。ようやくぼくにも雑用以外の仕事が回ってきたって感じですよ」
「オーケー、では明日から早速お願いします。古海くんのプレーヤー名は『フルミ』で登録するように伝えておくわ。じゃあ、よろしくね」
「はい。了解です!」
といった感じで、簡単な打ち合わせだった。辺野さんと話ができて、とてもいい気分だ。まあ、あっという間だったし、仕事の話だけどね。
それにしても明日から新しいアンツヴィルのテストをやることになるなんて、入社早々ラッキーなのかもしれない。いい仕事をして、辺野さんと会社のお役に立てるよう、がんばりたいと思う。




