私が憧れる作家
私が小説を書き始めてからはや四年。これまで様々な場所で、色々な物語を紡いできた。ウェブ上で批評会を行ったり、サークル内で一冊の本にまとめたり、学校で執筆のノウハウを教わったり、と実に有意義な時間を過ごした。その中で喜びもあったり、または悔しさもあったりした。それでも折れることなく、ひたすらに書き続けてきた。そのおかげで、いくつかの公募で賞をいただいた。今までの努力が実を結んだかのようで、とても嬉しかった。
ここまで私が執筆活動に没頭できたのは、やはり人との出会いがあったからだと思う。一癖も二癖もある人々と交流を図っていくうちに、とても良い刺激を受けた。仲間でもありライバルでもある彼らと切磋琢磨していくことで、技術を磨いていこうと高みを目指せた。その中でも、特に憧れを抱いた方々がいる。それは、津村記久子氏と柿村将彦氏だ。お二人とも私と同じ大学の出身で、津村氏は講義の講師として、柿村氏は大学の先輩として出会った。このお二方からいただいたものは、今でも私の糧となっている。
津村記久子氏は、『ポトスライムの舟』を執筆なさって第一四〇回芥川賞に選ばれた。その他にも数々の文学賞を受賞なさっている実力派の作家だ。そのような方と出会えたのは、やはり大学の存在があったからこそだと言える。我が校は偉大なり、とややプロパガンダめいたことを思いつつ。
津村氏とは二〇一六年に大学での講義でお会いした。そこでは津村氏がどのように執筆活動に取り組んでいるのか実体験を元にお話しくださった。その中で特に印象に残っているのは、「良くもなく悪くもないことをネタにする」という発想法だ。津村氏が語ったのは、幸せなことや不幸なことを小説のネタにすると、どちらか一方に偏ってバランスが悪いということだ。ネタを探ろうと考える時、人は特別な事柄に目移りしてしまいがちだ。宝くじが当たった、とか有名な観光地へ訪れた、という具合に日常から離れた事柄に注目しようとする。けれども、それらをネタにしてしまうとリアリティある作品が作りにくいのだそうだ。リアリティを生み出すには日常的な事柄を取り入れることが重要である。それは良いことでもなく悪いことでもないことに注目するということだ。
日常的な事柄といえば、たまたま立ち寄った店のケーキが美味しかった、とか道の前を歩いていたカップルが気になる話をしていた、とか、そのようなことで構わない。そこで大事なのが、自分は何を思ったのか、ということとその出来事を詳細に述べる、ということの二点だ。自分が思ったことを述べることで、何の変哲も無い出来事が引き立って見える。それから、出来事を詳細に述べることで具体的なイメージがしやすくなり、物語によりリアリティを与えることができる。
普段は気にしないような日常の事柄を切り取って、自分の作品世界に落とし込む。津村氏はそのようにして数々のリアリティある作品を生み出している。
ちなみに、この発想法は私も心がけており、何かと周りを観察しては携帯電話のメモ帳に書き連ねている。最近気になったことは、京都清水寺を訪れた修学旅行生のある一グループが皆揃ってティアードロップ型のサングラスをかけていたことだ。五、六人の男女混合グループだったが、全員が同じサングラスをかけていたのだ。しかもよりにもよってパリピが夏のビーチで使っていそうなタイプの物をだ。アレは正直引いた。
続いては、柿村将彦氏について述べる。柿村氏は三コ上の先輩で、同じ講義を受講していた。その講義内で掌編の小説を書いて、それを受講生内で読み合うことを行った。その時に衝撃を受けた。舞台は森の中。鬱蒼と生い茂る草木をかき分けて、二人の少年少女が歩いていく。その際の背景描写がとても緻密で、他の受講生と比べても遥かに完成度が高かった。陽の光が届きづらく薄暗い森の中を不安そうに歩く子供らの様子が鮮明にイメージすることができて、いとも容易く物語世界へ入り込むことができた。
その後も素晴らしい作品を提出なさり、一年後には卒業なされた。ちなみに、卒業時の単位がオールS評価だったと聞いて、さらに驚愕した。ついでに卒業論文が大学の学報誌に掲載されていたのを読んで、開いた口が塞がらなかった。まさに文句のつけようもない優等生だったのだ。
それからしばらくして、さらに驚愕すべき報せが届いた。柿村氏が二〇一七年度の日本ファンタジーノベル大賞を受賞したという。題名は『隣のずこずこ』となんとも微笑ましいもの。思わず『となりのトトロ』を想起させるが、その内容はてんで異なる代物だった。とある平和な町に突如として喋るたぬきが現れる。信楽焼みたいな見た目をしたソイツは、なんと一ヶ月後に村を滅ぼすと言い出した。最初は信じられなかった町民たちも、たぬきの超常的な力を目の前にして、少しずつ己が運命を受け入れていくのだった──という始まり。なんともダークな雰囲気ではないか。
ここでも柿村氏の描写力が発揮される。町というよりも村に近い田園風景が広がる当作の舞台。村の中心から緩やかな坂道が麓まで伸びており、自転車で下っていくと追い風が気持ち良い。のどかで平和な町の風景が事細かに描写されている。
その描写力といい、人々の静かな絶望感といい、物語の運び方といい、どれを取っても優れている。これは大賞に相応しいと言えよう。
『隣のずこずこ』を一読して、私は内心シビれた。それとともに、別な気持ちも脳内をよぎった。それは身近な人間が一足も二足も先に小説家への道を歩んでいるということへの焦燥感。そんな人の後を果たして追っていけるのかという不安。まるで目を覚まさせるような衝撃が奔った。
ライバルなどと呼ぶのはあまりにも烏滸がましい。だが、自分もこの道を歩んでいくためには避けて通れない壁だった。怯んでしまいそうになるが、むしろその状況が嬉しかった。先人(と称するとまるで故人であるように聞こえるがもちろん存命だ)が道を築いてくれたおかげで、少なくとも私自身は迷わずに道を進むことができる。そうして私は今日に至るまで、執筆活動に専念してこられたのだ。
同好の士というものは、実に良いものだ。お互いに刺激を受けて、自分の創作へ活かすことができる。そうして切磋琢磨を繰り返すことで、お互いに高め合うことに繋がる。仲間のような居心地の良さと、ライバルのような緊張感。両義的な感情を併せ持つことのできる関係は、夢を目指す上でとても大切なものだと思う。