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江國香織「前進、もしくは前進と思われるもの」を読む

 二〇一九年七月二八日、大阪府中央区南船場にある文学バー「Liseur リズール」において読書会が開催された。題材は江國香織「前進、もしくは前進と思われるもの」だった。その読書会に僭越ながら私も参加させていただいた。会はなかなか盛況だったようで、小さなバーに四〇人前後の参加者が所狭しと集まっていた。

 さて、読書会の題材に選ばれた本作について、まずは梗概を記述する。主人公の長坂弥生は、かつてホームステイ先で世話になったケイトから、彼女の娘であるアマンダを家に泊めてやってほしいと頼まれる。ケイトにはずいぶんと世話になったこともあり、弥生はアマンダを泊めてやることにした。物語は、弥生がバスに乗ってアマンダが到着する空港まで迎えに行くところから始まる。弥生がアマンダを迎えに行くまでの道中において、回想が挿入される。弥生の夫はアマンダのホームステイに消極的だということ。その夫の母親が痴呆症で入院していること。その母親が世話していた猫を弥生夫婦が預かっていること。その猫が死んでしまったこと。死んだ猫を夫が「海に投げた」と言ったこと。その回想から、弥生と夫の関係がどこか冷えていることが窺い知れる。また、弥生は野心家でありプライドの高い女性だった。女性として自信を持っているかのように振舞ってきた。学業は留学するほど熱心に取り組んできて、就職してからは仕事をそつなくこなしてきた。友人関係や恋愛においてもそれなりに充実していた。夫との関係も、昔は順風満帆と言えるほどだった。それにも関わらず、いつからか弥生は夫のことが「わからない」と思うようになる。そう思うようになってからは夫に対する不信感が募るようになっていく。そして夫から告げられた「海に投げた」という言葉。その言葉は弥生の心を強く動揺させるものとなった。そんな状況下で、弥生はアマンダと合流する。しかし、アマンダはボーイフレンドのジェレミーと同伴してきて、尚且つ自分達はホテルで宿泊することを告げてくる。そこで、まるで堰を切ったかのように弥生は微笑みを浮かべて「ゆうべ、夫が猫を捨ててしまったの」と言い出す。そして弥生は、「すがすがしい、と思える心持ち」で空港を後にする。

 以上が本作の梗概となる。実のところ、私は初読時ではあまり心惹かれるものを感じなかった。回想が挟み込まれているとはいえ、物語は弥生がアマンダを迎えに行って、半ば決裂する形で空港を去るという流れだけだ。文庫十三頁ほどの長さとはいえ、物語の展開は平坦なものだ。そのためあっさりと終ってしまったという読後感が心の中を占めた。

 そんな思いのもとに読書会へ臨んだわけだが、リズールの店主であり芥川賞作家でもある玄月さんの話を聞いてみると、自分の考えがひどく浅はかなものだと思い知った。そこまで奥が深い物語だったのか、と発見することができた。

 玄月さんが語ってくださったのは、本作の構造分析であった。一文一文を丁寧に読解していくという方法のもと、参加者一同で本作を再読していった。玄月さんによると、本作における情報の提示の仕方に無駄がない、という。例えば冒頭において、


 リムジンバスに乗るのはひさしぶりだった。長坂弥生は二日前に電話で座席を予約した。(中略)午前七時十五分のバスを予約した。アマンダの乗った飛行機が着くのは十時五分だから、これでちょうどいいだろうと思ったのだ。


 と書かれている。この時点で「いつ、誰が、何処で、何をしているのか」ということが端的に伝わってくる。本文によれば、午前七時ごろに、長坂弥生が、リムジンバスに乗って、アマンダという人の元へ向かっている、ということが分かる。それによって、この話がどう進んでいくのかということも予測がつく。また、玄月さんが特に注目なさっていたのは次の段落だった。


 四日間の有給をとるのは難しいことではなかった。実績さえあれば会社は認めてくれるものだ、と弥生は考えている。学生時代に世話になったホームステイ先の娘が、夏休みを利用して日本に遊びに来るという。東京に滞在するあいだは、弥生が泊めてやることになった。


 ここでは、弥生がアマンダの元へ向かう理由、アマンダとは誰か、ということに加えて弥生の人物像についても触れられている。「実績さえあれば会社は認めてくれるものだ」と弥生は考えていて、その証拠として四日間の有給を取ることができたという。そのことから、弥生は仕事先において優秀な人材だということが推測できる。また、弥生は学生時代にホームステイを行っている。それはつまり、弥生は留学経験があることを示す。理由はどうであれ、彼女が学業に熱心だったことが窺い知れる。

 こういった流れで本作を読み進めていった。そのおかげで、この作品が短いながらも奥行きのある世界を構築していることが分かった。特に弥生という人物がどのような人なのかということがよく伝わった。

 それを踏まえて、もう一度この話と向き合ってみた。そして発見できたことは、長坂弥生という女性がとても可哀そうだということだ。

梗概でも少し触れたように、弥生は野心家でプライドの高い女性だ。「野心。それこそが前へ前へ進む原動力なのだし、それを恥じる必要はどこにあるだろう」とは弥生の述べた発言だ。そうした生き方を、少なくとも学生時代のころから行ってきて、今の弥生という人物像が形成されている。ホームステイを行ってから十七年が経過していて、今の弥生は三十代後半という年齢に達している。それでも、「白いシャツに紺色のパンツ、素足にうす茶色のモカシン。(中略)仕事にも私生活にも汲々とした、四十女にしては悪くない」服装を身に纏って、「濃いめにマスカラと口紅をつけて」「自信のある、みちたりた女に見えるように」努めている。

 そんな弥生の生き方がどこか窮屈で可哀そうだと思った。心理学において「優越コンプレックス」という言葉がある。ブランド品や役職などといった、他の存在によって価値を認められた「モノ」に頼ることで、さも自らの存在価値も高まっていると錯覚してしまう心理状態のことを「優越コンプレックス」と呼ぶ。それが長坂弥生によく当て嵌まっていると感じた。外見を良く見せたり、体面を保つために躍起になったりといった彼女の生き方は、とても薄っぺらく、そして脆く見える。自分を良く見せることに固執するその様は、仏教における「末那識」を想起させる。そもそも「自分」という概念は目に見えるものではなく、己の感覚のみで形成されるものだ。それはひどく脆弱で、気持ち次第で如何様にも変化し得る。そのような流動的なものに執着すること、つまり「渇愛」とは空しいものだ。かつてのゴーダマ=シッダールタはそう説いている。「渇愛」の心は自分の可能性を狭めるばかりか、自分の世界をも小さなものに留めてしまう。そのような生き方は、さながら籠の中に囚われた小鳥のようで、それを見る度に哀れだと感じてしまう。

 ここまでの言及から、仏教に通じる考えにまで発展してしまった。しかし、この発想は必ずしも突飛なものだとは思わない。そもそも、この「前進、もしくは前進と思われるもの」という話には、仏教で説かれた「生・老・病・死」という四大苦が含有されている。

 まず、「生」とは生きる上での苦しみを指す。それは弥生が自分を良く見せようと振舞う姿や、夫との夫婦関係に代表される。本作において、それらの有り様は必ずしも幸せそうには見えない。むしろ苦悩している印象を受ける。それについては、これまで前述した内容からもお分かりいただけるだろう。

 続いて、「老」についてだが、これは弥生の夫の母親や弥生自身を指す。夫の母親については次の「病」とも絡んでいるため、後述することとする。弥生と「老」の関係だが、それは弥生のアマンダに対する気持ちからそれは窺い知れる。弥生はアマンダが十九歳になることを知って、自分が学生だった頃から十七年が経っていることを痛感する。それからも、アマンダの若々しい姿を見ては十七年という時間の経過と自分が老いていることが脳裏をよぎる。


奇妙なことだが、それは弥生に、かつての自分を思い出させた。あるいは友人の誰彼を。アマンダのまとっている気配は、かつてたしかに自分たちのものだった。


 このことから、弥生は昔の自分や当時の青春について思いを馳せている。それはつまり郷愁の思い、ノスタルジーと呼ばれるものだ。少なくとも弥生は、自身が老いていることに対していい気持ちを抱いてはいないだろう。

 次は「病」という観点から本作を捉える。「病」と関わっているのは弥生の夫の母親だ。母親は痴呆症を患ってはいるものの、「たった三週間で四人部屋のボスになり、(中略)ベッドにすわってテレビを観ながら栗むしようかんを食べ」るといった入院生活を送っている。では何が苦なのかと言えば、それは彼女の息子である弥生の夫の反応だ。夫は母親の見舞いを丸々弥生に任せている。「見たくないんだ」と言って、手土産を弥生に持っていかせる。この行為は、自分の母親が病に伏しているという現実から逃れていることを示す。そもそも、夫は肝心なところで逃げようとする性格だ。死んだ猫を「海に投げた」と弥生に告げた際にも、「猫を捨てるなどという行為のために、傷ついたのは自分だと」言わんばかりの表情を見せていた。こうすることで自分も悲しい目に遭った被害者なんだと他者に訴えているのだ。しかし、弥生に相談することもなく猫の遺体を海へ投げ捨てたのは(事実かどうかは本文だけでは図り知れないが)夫であることには変わりない。夫にも多少の非があることは事実だろう。そうした態度を自分の母親に対してもとってしまっていることを思うと、なんだか寂しい。年齢が年齢なだけに、いつ母親の容体が急変するか分からない。元気な頃は自慢の息子として弥生の夫を育ててきたという。それだけ息子に対する愛情は深いはずなのに、夫はそれを無碍にしている。この背景には、病を敬遠する心理がある。病気であることがさも悪いものが取り憑いたかのように振る舞い、病人を隔離するように病院や福祉施設へ押し込めるのは人間の心理なのかもしれない。とはいえ、その行為によって悲しみが生まれることもまた事実であるため、容易に肯定することはできない。

 そして、最後に「死」について捉えていく。本作における「死」の象徴は猫である。猫の名前は「ぎんなんちゃん」と言い、夫の母親が大事に育てていた。しかし、母親が入院してからは弥生の家で面倒を見ることになった。しかし、ぎんなんちゃんは弥生にも夫にも懐かず、「ベッドの中や、洗いたての衣類の山の上に粗相」をするなどとても手がかかった。そのため、弥生も夫もぎんなんちゃんのことを良く思わなかった。しかし、元から容体が優れていなかったのか、ある日ぎんなんちゃんは亡くなってしまう。それを知った弥生は、それまで良く思っていなかったぎんなんちゃんに対して悲しんでいる。また、ぎんなんちゃんの遺体を捨てた夫も、正々とした様子はなく、まるで死んでしまったことを悲しむかのように暗い表情を見せた。このことから、「死」というものに対する苦が含有されていることが分かる。

 以上が、私なりの考察となる。初めはまるで面白さを感じていなかったが、読書会を通して改めてこの作品に向き合ったことで、それまで見えなかった奥深さや巧みな文章表現に気づくことができた。それは大変重要な経験となったように思う。

 最後に。新参者の私を迎え入れてくださったリズールの玄月さん、ならびに読書会で貴重な意見をお聞かせくださった参加者の皆さんに心から感謝申し上げたい。

 今度はお酒を呑みながら語らいたいと願いつつ、ここで筆を止めさせてもらう。

参考文献

『号泣する準備はできていた』江國香織

2006年6月28日 発行 新潮文庫 新潮社

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