序9
洋太は高い門扉の前で、立ち尽くしていた。
洋館の門の前までやってきたものの、中に入る決心がなかなか付かなかったのである。
入れば、もう後戻りは出来ない、洋太にはそんな気さえするのだ。
昨日、洋館の門の前に来たときも、同じような感じはしたのだが、その時は好奇心の方が勝っていて、迷うことなく洋館の中に入り込んだのだ。
だが、今度は状況が違う。
洋太は既に殺人現場を目撃しており、次はもしかしたら自分の番かもしれないのだ。
今度こそ、自分の命が危ういかもしれない
洋太はつばを飲み込む。
不意に背後で鳥の羽音が聞こえたような気がした。
「何してるのさ」
突然、背後から声を掛けられ、洋太は心臓が飛び出すほど驚いた。
洋太が慌てて振り向くと、そこには肩に手提げカバンを下げた、銀髪紅眼の少年が立っていた。
手提げカバンの中には、野菜や肉や卵などの食料品がいっぱいに詰められている。
どうやら買い物帰りらしい。
少女の使用人兼護衛というのは、まんざら嘘でもないようだ。
少年はあごで門を指して、素っ気なく聞いた。
「入るの? 入らないの? どっちかにしてよ」
洋太は慌てて道を譲る。
まだ、入る決心は付かなかった。
少年は鼻を鳴らし、門に手を掛ける。
昨日まで掛かっていた錠は、もう付いていなかった。
門は耳障りな音を立てて開き、少年はその隙間を通り抜けていく。
通り抜けてから、足を止め、洋太を振り返った。
「僕はあんたが嫌いだから、どうなろうが知ったこと無いけど。忠告はしといてやるよ」
洋太が何も言えず立ちつくしている間にも、少年は話し続ける。
「もし、今度あんたが似たような状況になっても、僕は助けてなんかやらない。自分で招いた事態は、自分で切り抜けるんだね」
少年の言葉が、昨日女性を殺した時のことを言っているのは、洋太にも何となく察しが付いた。
「だからって、あの人を殺すことはないだろう!」
声を荒げて言い返す洋太に、少年は呆れた顔をする。
「やはりあんたはサル以下の知能の持ち主なんだな。いいかい。あいつは人間じゃない。絵画に宿った、ただの思い出の残りカスなんだ。あんたみたいな頭の悪い奴を、自分の空間に取り込んで、精神を絵の中に閉じこめる。そうなったら、取り込まれた人間は一生植物人間か、悪くて死だ」
少年の目には、洋太に嘘を教えてからかっている様子はなく、冷たい感情だけが宿っている。
「あの絵は、今までに何人もの人間の精神を取り込んで来たんだ。それを持ち主から預かり、僕らが沈静化し、洋館の地下室にしまっておいたんだ。それなのに、あんたがまたあいつを覚醒させて、挙げ句精神を取り込まれそうになって。それを助けてやったってのに、今度は人殺し扱いかい? これだから何も知らない馬鹿は扱いが難しいんだ」
洋太は一歩後ろに後ずさった。
一息に少年に言われ、洋太は返す言葉もない。
「う、ええと」
洋太が言葉に詰まっている間に、少年は背を向け、さっさと洋館の玄関の前まで歩いていく。
「あんたが、昨日の事を忘れて、誰にも言わず、もうここには来ない、って言うのなら、それでもいいよ。でも、あんたがこれ以上首をつっこむつもりなら、サティの話だけは聞いといたほうがいい。無理強いはしないよ。何も知らない方が、もしかしたら幸せかもしれないね」
最後は、自分に向けてのつぶやきだったようだ。
その端正な横顔に、わずかに影が落ちる。
少年は洋太振り返らず、扉を開け、家の中に入っていく。
取り残された洋太は、門の前に立ちつくし、少年の消えた扉を見つめていた。
洋太の頭の中で、ぐるぐると少年の言葉が回り続ける。
――何も知らない方が、もしかしたら幸せかもしれないよ。
引き返すなら今のうちだ。
何もなかったことにしろ。
これ以上あいつらと関わるな。
関われば、きっと今のような平凡な生活には戻れない。
頭ではそれを理解していても、洋太の答えはもう決まっていた。
後戻りはしない!
洋太は決意を固め、門に手を掛けた。
「どうぞ、楽にしてください」
通された居間は、洋太の家より数倍広く、数倍豪華だった。
細かい彫刻に彩られたテーブルに、使い込まれたソファ。天井にはシャンデリアが吊され、まぶしい輝きを放っている。壁際をところ狭しと埋める家具達も、一つ数百万も値の張りそうな物ばかりだった。
洋太は屋敷の中をじっくりと見たのは、これが初めてだった。
いつも外から見るだけだった洋館に、まさか入れる日が来ようとは。
洋太は好奇の目で部屋の中を見回した。
「少々散らかってはおりますが、ご容赦ください」
少女は困ったように頬を染め、洋太に頭を下げる。
洋太は少し考えて、押し黙った。
あまりに聞くべき事が多すぎて、何から聞けばいいのか洋太自身も考えてなかったのだ。
「え、ええと」
洋太が頭をかくと、少女は青い目を細める。
「そう、ですね。まず、昨日のことについてお話しましょうか。大体のところは、シェスに聞いたと思いますが、あなたが昨日目にした女性は、じつは以前ある絵のモデルになった、実在した女性なのです。彼女の名はジャンヌ・サンド。サンド子爵の愛人だった方です」
そう言って、シェスが部屋に持ってきた一枚の絵画を指し示す。
そこには、昨日見た女性がそのままの姿で描かれていた。
「彼女は病弱で、あまり長生きは出来なかったようです。肖像画が描かれて間もなく、他界したと聞いています。子爵との間に息子を一人もうけたようです。自分の短命が思い残りだったのでしょうか。彼女の強い思いがこの絵に宿り、人を絵画の世界に取り込んでは、自分の相手をさせていたようです」
洋太は、昨日女性にお茶を勧められた時のことを思い出す。
「あの紅茶やお菓子を口にした者は、二度と現実の世界には戻れません。あれらには彼女の強い思いが込められているのです。囚われた者の精神は、身体と引き離され、永遠に絵の中を彷徨うことになるのです」
洋太はいまいち実感がわかなかった。
精神が何たらと言われても、ピンと来なかったのだ。
まだ絵の表面に大きな口ができて、人を丸呑みにする光景の方が、洋太には違和感がなかった。
「ええと、要するに昨日の女性は死んだ人間で。この絵の中で、何か食べると、死んじゃうって事だよね」
サティはゆっくりとうなずく。
「その通りです。私たちはこの絵を描いた作者を調べました。この絵と同じような画風絵が、同じような事件を引き起こしているのです。残念ながら、この絵を描いた作者のことは詳しくは分かりませんでしたが。私たちはこの作者が描いた作品を“黒の絵画”と呼んでいます。この女性の絵も“黒の絵画”の一つなのです」
サティは運ばれてきた紅茶を口に含む。
「一応言っておきますが、この紅茶は大丈夫ですよ」
大丈夫と言われても、洋太はすぐには目の前に出された紅茶を飲む気がしなかった。
紅茶のカップをソーサーに戻し、サティは話を続ける。
「あなたはどうやら、そう言った類の美術品を、覚醒させる能力があるようですね」
少女の背後に控える少年の眉が跳ね上がる。
目に見えて少年の顔が不機嫌になるのがわかる。
「覚醒させる能力があると言うことは、沈静させることも出来るのでしょうが、今のあなたは無自覚のまま、その力を使っているようですね。それは、とても危険なことです」
洋太は自分の力が、どうのと言われても、またまたピンと来なかった。