序8
洋太は薄暗い部屋の中で目を覚ました。
見慣れた天井。
見慣れた窓からは、薄日が差し込んでいる。
そこは勝手知った自分の部屋だった。
昼間降っていた雨の音は聞こえない。
洋太はベッドから起きあがり、窓に顔を近づけた。
外では夕日が山の向こうに沈み、空が朱色に染まっていた。
「夢?」
洋太はぼんやりとした頭で、沈む夕日を眺める。
ベッドの隣には、洋館に持っていったはずのリュックと懐中電灯が置かれている。
打ったはずの背中も痛くはなかった。
しばらくの間部屋の中で立ち尽くし、洋太はゆっくりと階段を降りていく。
「おはよ」
洋太は居間にいた母親と姉に起きぬけの挨拶をする。
母親と姉はそろって洋太を振り返り、口を開ける。
「あんた、近所の洋館に、忍び込んだんだってね」
二人はほとんど異口同音に言う。
洋太はうっと言葉につまり、冷や汗を浮かべる。
「いや、あれは、純粋な好奇心と言おうか、何というのか」
最後の方は自分にも聞こえない声で、洋太は言い訳をした。
「別に、あんたを今更責めようって訳じゃないけど。いつもながら結構無謀なことしてるわよねえ。これは立派な不法侵入よね」
口をもぐもぐと動かしながら、姉の由紀子が話す。
「高校に入って、少しは落ち着いたと思ったのにねぇ」
次は母親だ。
母親も由紀子と同じように、何かをかじっている。
「ま、そのおかげで、このケーキが貰えたんだから。結果的には良かったけどね」
二人の座っているソファの前のテーブルには、包装された痕跡のある大きな円形のケーキが置いてある。
所々欠けてはいたが、少し前までは完全な円形をしていたはずのケーキに、洋太の目は釘付けになった。
「何、それ?」
洋太は、この家では滅多に見かけない、高級そうなケーキを指さし、二人に尋ねる。
「ああ、これ?これはフランスでは名の通った高級洋菓子店、マルフィ・デ・マルセーユの名物ケーキなのよ。何でも、一日に限定五十個しか焼かなくて、私だってまだ食べたこと無かったんだから」
姉はフォークを振り、皿の上で小さくなっていくケーキの説明をする。
「いや、俺が聞きたいのは、そんな事じゃなくて」
洋太のぼやきに、今度は母親が応じる。
「洋館に住むお嬢さんが、洋太を運んでくるついでに、くれたのよ」
「ほら、あんたが幽霊と勘違いしてた女の子」
姉が補足説明し、洋太は納得した。
「へー、そうだったのか」
洋太は頷いてから、顔からさっと血の気が引いていく。
ようやくそこで、頭が正常に回りだした。
「そ、その女の子って、黒髪の、青い目をして、黒服の?」
姉はフォークで洋太を指しながら、首を縦に振る。
「そう、その子。でも、あんたを運んできたのは、銀髪の美少年の方だったけどね」
洋太は今更ながら、洋館であった出来事が夢でなかったことを自覚した。
「丁寧な物腰の、行儀の良い外国人のお嬢さんだったわよ」
母親はケーキを切っていたフォークを皿の上に置き、お茶を飲む。
のんびりとした空気が流れる居間で、洋太一人だけは慌てている。
あの出来事全てが夢でなかったとすると、女性が殺されたことも、また事実なのだ。
そんな洋太の内心など露知らず、女性二人組は腹が立つほどゆったりとくつろいでいる。
「そう言えば、あんたの目が覚めたら、伝えて欲しいことがあるって、あの女の子が」
「な、何?」
洋太はテーブルに両手を付いて身を乗り出す。
いつになく真剣な弟の様子に、姉は思わす身を引く。
姉はその態度に戸惑いつつも、伝言を口にする。
「えーと、“もし、明日都合がよろしいようなら、学校の帰りにでも、屋敷を尋ねてください”だってさ」
「そ、それだけ?」
少々拍子抜けするほど短い言葉に、洋太は肩を落とす。
がっかりした弟を後目に、姉は妙な勘違いをしたらしかった。
「ははーん、あんた、あの子のこと、好きなんでしょ」
意地の悪そうな笑みを浮かべる姉に、洋太は溜息をつく。
「姉ちゃん、人からかって楽しんでるだろ」
すると姉は大真面目な顔で、
「まだからかってないわよ。これからからかうのよ。これから」
洋太は少し頭痛がしてきた。
姉がこれから、と言うことは、これから洋太を本気でからかって遊ぼうということだろう。
洋太が全力で否定しても、姉は当分この話題を蒸し返すだろう。
「で、ホントのところはどうなのよ」
うきうきと聞く姉に、めざとく聞き耳を立てる母親。
洋太は今までの疲れが、どっと出てきたような気がして、テーブルに突っ伏した。
「おおい、洋太。一緒に帰ろう」
親友の光治の誘いを、洋太はやんわりと断った。
「ちょっと今日は別に寄るところがあって一緒に帰れないんだ。本当に、ゴメン」
洋太は光治に向かって、手を合わせた。
次の日の放課後。
洋太は黒髪の少女に言われたとおり、あの洋館を訪ねるつもりだった。
洋館は帰り道の途中にあるが、親友の光治には昨日のことを話していない。
事情を話し、洋太があの洋館に立ち寄ると言ったら、気の優しい親友は、絶対に止めるだろう。
今の洋太には、親友を危険にさらす気はさらさらなかった。
洋太と光治は幼馴染みで、小学校の頃からの大親友だ。
家が近いこともあって、子供の頃はよく一緒に洋館で遊んだりもしたものだ。
中学校も高校も、いつも一緒に行動し、決まってトラブルを起こし、周りに多大な迷惑をかけたものだった。
「ちぇ、最近の洋太って、つき合い悪いな。放課の時も、話しかけても上の空だったしよ」
「本当に、ごめん」
文句を言う親友の背を見送り、姿が見えなくなってから、洋太はリュックを背負い直し、夕日の教室を後にした。