序7
「詳しいことは、後で説明します」
サティはシェスの方に視線を戻す。
いや正しくはシェスに締め上げられた女性の方に。
「あなたは、どうやって彼女を目覚めさせたのですか?」
洋太はサティの真剣な口調に、うろたえた。
彼女の言っている意味が、理解できなかったのだ。
「目覚めさせた? 何それ。あの人、寝てたの?」
目を丸くして、洋太は目の前の少女と少年に締め上げられている女性とを見比べる。
寝ていたところを、自分が来ることによって起こしてしまったのだろうか。
洋太は女性に対して少し悪い気がした。
「意識していないのですか? 自分のしたことを」
サティはあごに手を当て、考える素振りをする。
「ならば、眠らせる方法も、きっと分からないのでしょうね」
誰に言うわけでもなくつぶやく。
サティは少年に指示を出す。
「覚醒させた者でなければ、沈静は出来ません。仕方ありませんが、この絵画は破棄します」
少女が言い放つなり、シェスはわずかなためらいもなく掴んでいた女性のうでをへし折った。
ごきん、というくぐもった音を立て、女性は耳をつんざくほどの悲鳴を上げる。
「ぎゃああああぁぁぁぁぁ!」
少年は口を大きく開けている女性の頭を掴み、力をこめた。
洋太は一瞬何が起こったのかわからなかった。
悲鳴はやみ、静けさが戻ってくる。
女性の首は有り得ない角度で曲がり、その身体は力無く床に崩れ落ちた。
目を見開き、口をだらしなく開け、驚きに顔を歪めている。
床に倒れた女性の口からは、赤黒い血がこぼれている。
洋太は目の前で起きた光景を、目をいっぱいに見開いて見つめていた。
「何で」
洋太は女性を殺したにもかかわらず、全く顔色を変えない二人を見上げる。
「何でだよ」
少女が口を開くより前に、洋太は彼女の胸ぐらをつかんだ。
シェスが顔色を変えたのを見ても、洋太は手を離さなかった。
「何で、あの人を殺したんだよ!」
言った途端、頭に強い衝撃が走った。
目だけを動かして横を見ると、シェスが殺意のこもった赤い瞳で、洋太の頭を掴んでいる。
「シェス! やめて」
サティが制止するより前に、洋太の身体は床に叩きつけられた。
今回ばかりは受け身も取れず、洋太は思い切り床に体をぶつける。
背中をしたたかに打ち、身体をくの字に曲げ、洋太の呼吸が一瞬止まる。
階段から落ちたときにもぶつけたせいで、背中がずきずきと激しく痛んだ。
「やっぱり、最初に殺しておけばよかった」
吐き捨て、シェスは虫ケラを見るような目で洋太を見下ろした。
洋太は全く暖かみのない、赤い瞳に寒気を覚えた。
「やめてください」
サティが割って入るのを視界の隅で捕らえ、洋太はわずかに安堵した。
やはり成り行きと言っても、このままここで殺されるのはまっぴらだった。
シェスは真っ向から主人であるサティを見つめる。
「あんたにとっては、こいつはただの行きがかりの人間だろう? だったら、こいつが死のうが生きようが、どうでもいいはずだ。こいつはあんたに手を出そうとしたんだ。だったら、殺してもかまわないだろう?」
「私はあなたが殺す必要のない人間まで手に掛けるのを、黙って見過ごすつもりはありません」
二人のやり取りを、洋太は倒れたままぼんやりと眺めている。
「あなたは、自分の気に入らない人間ならば、平気で殺せるというのですか?」
洋太は、少女の声が微かに震えていることに気付が付いた。
少女にとって、その質問はできれば聞きたくないことだったらしい。
しかし少年は素っ気なく答える。
「そうだ。邪魔ならば殺す。それの何が悪い」
サティは悔しそうに下唇を噛み、拳を握りしめた。
「あなたは」
サティは少年を青い瞳で睨みつけている。
洋太は痛みのせいで、意識がだんだん薄れていくのが分かった。
身体から力が抜け、不思議な浮遊感が身体を包む。まるで、身体から意識が抜けていくような。
これ以上目を開けている事が出来ず、洋太は深い闇の中に沈んでいった。
最初に異変を感じたのは、サティだった。
彼女は周囲を見回し、女性が倒れている場所の周りだけ、景色が歪んでいるのに気が付いた。
「言っておくけど、僕はあんたの身の安全を心配して言ってるんだよ。今までだって何度死にそうな目に会ったか、まさか覚えてないわけじゃないよね?」
「静かに」
サティは自分の口に指を当てる。
言い合いを途中で中断されたのが不満なのか、シェスは眉根を寄せる。
「話なら、後で聞きます」
有無を言わせぬ口調で、サティは異変のあった方向を目で示した。
景色の歪みにシェスもすぐに気付いた。
「外から、力を取り込んでる? そんなの、今までなかったことだぞ」
顔に焦りの色を浮かべ、シェスは銀の髪を不機嫌にかきあげる。
「これも、彼の影響でしょうか」
サティは考える素振りで、冷静に状況を分析した。
振り返り、気を失っている洋太に目を向ける。
「だから、こんなサル、さっさと追い出すなり、殺すなりすればよかったんだ」
「文句を言っている場合ではありませんよ」
瞬く間に、その周辺に変化が現れた。
先ほど首を折られた女性が起きあがり、焦点の合わない目で二人を見つめる。
だらしなく開いた口からは唾液と血がしたたり、意味不明の叫びが曲がったのどの奥から絞り出される。
「どうやら、正気を失っているようですね」
「げっ」
シェスは嫌そうな声を上げた。
どうやら、自分が殺したとはいえ、あんな首の曲がった変死体に近付くのは嫌らしい。
サティは目を閉じ、小さく息を吐き出した。
「仕方がありませんね」
そう言って、サティが指をすりあわせると、指の間に一枚の紙が挟み込まれた。
その紙の表面は、文字や文様のようなもので埋め尽くされていた。
中国や日本の呪符を元に、サティが使いやすいように独自に改良した符だった。
サティは気持ちを落ち着け、女性の死体に向けて、符を飛ばす。
「火焔」
短い言葉は、その瞬間言霊となり、符を代償にして世界に干渉する。
女性の死体は内側から炎に包まれ、火は周りにも広がる。
絨毯に、ソファに、家具に、壁に、彼女の世界の全ての物に燃え広がり、女性は悲鳴を上げる。
「わたくしの世界が。わたくしの思い出が。全てが消えてしまう。何もなくなってしまう!」
女性は首を捻じ曲げたまま、甲高い声で叫んだ。
サティは悲しげな色を瞳に宿し、女性に語りかけた。
「あなたは、何も失ってはいません。これは幻なのです。あなたはとうの昔にしに、ここはあなたの生きた時代ではないのです」
女性は繰り返し繰り返し狂ったように言葉を繰り返す。
しだいにその声も小さくなり、やがて消えた。
女性の体も燃え尽きていた。
景色が女性のいた一点に収束し、景色が薄緑の光に照らされた地下室へと戻る。
サティは女性がいた場所に置いてあった、一枚の額に収められた絵を手に取る。
そこには、たったいま燃え尽きたはずの女性の絵が静かに微笑んでいる。
サティは周りの額を指でそっとなぞる。
「あなたにはまだ、あなたの血を継ぐ者と、この一枚の絵画が残っているではないですか」
どこか悲しそうにつぶやく主人を、従者は黙って見守っていた。