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黒い絵画  作者: 深江 碧
三章
52/79

3-1

 深々と底冷えする夜だった。

 洋太は美術館の仕事で夜遅くまで館長室に残っていた。

 今日中にと頼まれた書類を整理し終え、ちらと時計に目を向ける。

「もう九時かぁ」

 机に向かったまま大きく伸びをする。

 あくびが出そうになるのを慌ててこらえる。

 椅子から立ち上がり、堅苦しい背広を着替えるために更衣室へと向かう。

 部屋を出ようとドアに手をかけた途端、外から遠慮がちに叩かれる。

 洋太はちょっとだけひるんで、はい、と小さく応える。

「すこし、いいですか?」

 ドアの外から聞こえたのは知った少女の声だった。

「うん」

 洋太はうなずき、こちらから館長室のドアを開ける。

 廊下の暗がりに立っている少女に目を留める。

 少女はちょっとだけ驚いた顔をして、青い目で洋太を見つめる。

「あ、あの」

 少女はうつむき口ごもる。

 彼女が何か言うよりも早く、洋太が口を開く。

「サティ、もしかしてまだ仕事があるの?」

 洋太はわずかに肩を落とす。

 折角仕事がひと段落したと思ったのに、まだ仕事が残っているなど、洋太にとっては大きなショックだった。

サティは慌ててかぶりを振る。

「いいえ、今日の仕事はこれまでです。ただ、私の個人的なお願いがあって来たのです」

「個人的なお願い?」

 洋太は首を傾げる。

 サティはゆっくりとうなずく。

「でも、洋太さんはお疲れのようですね。でしたら、また次の時にでも」

 うつむくサティに、洋太はほっと胸をなで下ろした。

「なあんだ、仕事じゃないなら別にいいよ。俺、ちょうどいま帰ろうと思ってたところだし、そんなに時間がかからないことなら、何だって付き合うよ」

 サティの顔がぱっと明るくなる。

「ありがとうございます」

 笑みを浮かべ、深々と頭を下げた。




 洋太はサティの後ろについて廊下を歩いていく。

 一階に下りて、美術館の展示室までやってくると、サティはある絵画の前で足を止めた。

「こちらです」

 サティが手で示したのは、夕闇に染まる一軒家の絵だった。

 それはヴェネツィアで行方不明になったレヴィア・イスウェル最後の作品だった。

 洋太の胸に熱いものがこみあげてくる。

 彼女はもういない。

 どこにもいない。

 まるでその夕闇迫る絵が、そう語っているかのように、洋太には思えた。

 洋太はぐっと息を飲みこむ。

 そうしないと、涙で目がにじんでしまいそうだった。

 そこで洋太は不思議に思う。

「これ、黒い絵画、だよね?」

 サティの意図が読み取れず、洋太は首を傾げる。

 確か、サティは母親を殺した黒い絵画が嫌いだったはずだ。

 それをわざわざ洋太に見せる理由は何だろう。

 洋太は疑問に思った。

 サティの顔を振り返る。

「そうです。これは今見つかっている黒い絵画で一番新しいものです」

 サティが静かな声で答える。

 目を細め、洋太の隣でその絵画を眺めている。

 その顔には何の感情も読み取れない。

 その横顔から、サティの意図を読み取ることはできなかった。

 サティは黒い絵画の額縁に手を伸ばす。

「洋太さん、この絵に触れてみてください」

 洋太はぎょっとしてサティを見る。

 以前、サティは洋太に黒い絵画に触れてはいけないと言わなかっただろうか。

 触れれば恐ろしいことが起こるとも。

「えぇ? 黒い絵画って俺は触っちゃいけないって、頭からばりばりと食べられるって前にサティが!」

 サティの顔が奇妙に歪む。

「……洋太さん」

 額に手を当て、サティは疲れたように息を吐き出す。

「へ?」

 洋太は目を丸くする。

「もう一度、黒い絵画について説明し直した方がいいでしょうか」

 サティはすねた様な青い目を洋太に向ける。

「え、ええと」

 洋太は苦笑いを浮かべ、頭を下げた。

「お願いします」

 サティは溜息一つ、朗々と話し出す。

「まず、黒い絵画とは、画家レヴィアが描いた絵画のことを言います。これは直接作者本人にお会いした洋太さんの方がよくご存じですね?」

 洋太はこっくりとうなずく。

 ヴェネツィアに向かう列車の中で会った、赤い髪の女性のことだ。

 彼女はどうやらシェスと同郷のようだった。

「そして黒い絵画を見た人間は、絵画の世界に引きずり込まれてしまう。その絵画の中で何かを口にした者は、元の世界に二度と戻ってこられない。ここまでいいですよね?」

「うん、わかる」

 教え諭すようにサティは言葉を選びながら話し続ける。

「ただ、普通の人ならば精神を取り込まれるだけなのですが、洋太さんの場合はすこし違っているようです」

 そこで言葉が途切れる。

 考え込むように青い目を彷徨わせる。

「頭からばりばりと食べられるとか?」

 洋太は真面目な顔で話す。

 間をおかず、サティの否定が入る。

「それは、違うと思います」

 どうしてそこまで洋太が頭からばりばりと食べられることにこだわるのか、サティは知らなかった。

 洋太が小さい頃に読んでもらった絵本にそんな話があったため、本人も意識せずに勝手に黒い絵画のことをそう思いこんでいるだけだった。

「恐らく洋太さんの方にその原因があると思います。洋太さんが無自覚に使っている力、例えば黒い絵画を目覚めさせてしまう力もそうですね。洋太さんは物に対して何かしら干渉する力を持っているようです」

 それにはサティも自信がなさそうだった。

 サティ自身にも、洋太の力がどんなものなのか、よくわからなかったのだ。

「干渉? それって具体的に、どういうことができるの」

 洋太の率直な質問に、サティは考え込んだ。

「それは」

 洋太の力を言葉にして説明することは容易ではない。

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