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黒い絵画  作者: 深江 碧
二章
38/79

2-8

 みなが寝静まった夜半にこっそり部屋を出て行く者がいた。

 その者は暗闇の廊下を明かりも持たずによどみなく進んでいく。

 やがてある扉の前まで来ると、扉を軽くノックした。

「シェス、少しいいですか」

 影は扉に向かって語りかける。

 すると扉の向こうから、そっけない声が返ってくる。

「開いてるよ」

「失礼します」

 サティはゆっくりと扉を開ける。

 その扉の向こうは外、最後尾の展望車両になっていた。

 空には満点の星が輝き、傍らをごうごうと夜風が通り過ぎていく。

 銀髪の少年は長い髪を風になびかせ、手すりにもたれかかり輝く夜空を眺めていた。

 サティはおずおずとシェスの背中に話しかける。

「あの、シェス」

 シェスはゆっくりと振り返る。

「何が聞きたい?」

 手すりに片手を置き、赤い目がサティを見つめる。

「僕が答えられる範囲のことなら、八年前の主従の契約に従い、どんな問いにも答えよう」

 それを聞いて、サティは背筋を震わせる。

 いつ聞いても、嫌な言葉だ。

 まるでシェスがシェスではないような、別人になってしまったかのような、そんな感覚さえする。

 最近は特にそうだ。

 まるで八年前の契約の執行が近いかのように、シェスは最近度々この言葉を口にする。

 サティはうつむき、揺れる足元を見つめる。

「では、聞いてもいいですか?」

 青い瞳をシェスに向け、ゆっくりとかぶりを振る。

「別に、契約のことにかまわず、あなたが答えたくないことだったら、無理に答えなくていいのですよ」

 サティはシェスの顔色を窺う。

 シェスの顔は相変わらずの無表情で、何の感情も読み取れない。

「私も、シェスの嫌がることは、無理して聞きたいとは思いません」

 サティはシェスに訴える。

 シェスはわずかに眉を寄せ、難しい顔をする。

「そんなこと」

 言いかけて、口を閉じる。

 ばつが悪そうにそっぽを向く。

「じゃあ、何が聞きたいんだよ」

 シェスはぶっきらぼうに話す。

 サティはほっと胸をなでおろした。

 ようやく元のシェスに戻ったようだった。

 そのすねた顔は彼女のよく知る少年の態度だった。

 しかしそう言われると、今度はサティの方が困ってしまう。

「ええと」

 首を傾げる。

 黒くつややかな髪が肩を滑る。

「あ、あの。シェスは彼女のことを、レヴィアさん、と言いましたっけ? 彼女のことを以前から知っていた様子ですが」

 そんなことか、とシェスは少し拍子抜けしたようだった。

 小さく息を吐き出す。

「彼女は、あちらでは有名な人物だからね。名前くらいは聞いたことがあるよ。まあ、こうして実際に会うのは初めてだけど」

「そ、そうなんですか」

 サティは扉の前に立ったまま、両手を握りしめる。

 少し安心したような、不思議な気分だった。

 シェスにもサティの知らない側面があって、過去がある。

 八年もの間、ずっと一緒にいたサティにとっては、それがちょっと意外だった。

 今まではそんなことを考える余裕もなかったが、今なら自分の思ったことも言えるような気がした。

「あ、あの、シェス」

 サティは意を決して、顔を上げる。

「もし、私の従者が嫌なら。故郷に帰りたいなら。わたし、止めませんから」

「はあ?」

 シェスの顔に露骨に感情が現れる。

 サティはさらに言い募る。

「この八年の間、シェスはずっと我慢してきたのでしょう? 故郷にも帰らず、文句も言わず、泣き虫だった私の世話をしてくれたことには、とても感謝しています。でもだからこそ、私はこれ以上シェスに迷惑を掛けたくはないんです。シェスならもっと相応しい仕事があると思うし、もっと給料の多い家に行くことが出来るはずです」

 最後の方は声が小さくなってしまった。

 お世辞にも、アメリカの中では富裕層とは言えない平均的な家庭の出のサティは、シェスに相応しい給料を払っているとは言えなかった。

 一流の執事ともなれば、年収数千万も下らないというのに。

 薄給で働いてもらっているシェスのことを、サティは常々心苦しく思っていた。

「べ、別に八年前の契約を反故にするつもりはないんです。ただ、シェスにはもっと相応しい仕事があると思って」

 真っ直ぐにシェスの顔を見られない。

 元来の泣き虫癖が表に出てきてしまったようだ。

 目の前がにじんで見える。

 サティはうつむいたまま、顔を上げられないでいた。

 列車の風の音に混じって、シェスの溜息の音が聞こえてくる。

 こつこつと鉄板の上を歩く足音がして、シェスの靴先が足元に見える。

「相応しい仕事、か。昔の僕の上司がそんなことを言ったっけ。“君に相応しい仕事がある”とね」

 頭上から聞こえたシェスの声は、ぞっとするほど冷たかった。

 その声には、どこか世の中を諦めたような、自嘲的な響きを含んでいる。

 まるで独り言のように、シェスは話し続ける。

「それがどんな仕事だったか。それは、気に入らない人間を殺す仕事。こっちでは掃除屋、暗殺者、呼び名は色々あるけれど、やってることは一つだ」

 シェスの声音は変わらない。

 サティは恐ろしくて、顔を上げることが出来なかった。

 黙ったまま、ぎゅっと両手を握りしめている。

「一人殺せば、何千万、何億と大金が転がり込んでくる仕事だった。でも、それは僕に相応しい仕事じゃなかった。だって、すぐに飽きてしまったから」

 その言葉は呪詛のように、サティの体を縛り付けた。

 指先ひとつ動かすことが出来ず、顔も上げることが出来ずに、サティはじっと黙り込んでいる。

「つまらなくなったんだ。僕は仕事にそれほど熱心ではなかったし、大金にも興味はなかった。上司は散々もったいないもったいない、と言って引き留めたけど、僕はその仕事を好きになれなかった。仕事を辞めようと考えていた時、あんたの母親に出会ったんだよ」

 サティは青い目を見開き、ぱっと顔を上げる。

「母さんに?」

 それはサティにとって初耳だった。

 シェスがサティと出会う前に母親に会っていたなど、一度も聞いたことがなかったのだ。

 顔を上げると、予想以上にシェスの顔が近くにあったことに驚いた。

 赤い瞳が真っ直ぐにこちらを見下ろしている。

「えっと、あの」

 サティは無意識のうちに後ろに下がる。

 しかしすぐに列車の扉に背中が当たってしまい、それ以上下がることはできなかった。

 それでもシェスから距離を取ろうと退路を探したが、鉄の手すりに囲まれて、どこにも逃げ場はなかった。

 サティはその時初めて、従者の少年を異性として意識した。

 視線を彷徨わせ、サティは扉にもたれかかりながら手探りで取っ手を探す。

「そ、それで、シェスは、母さんとはどうやって会ったんですか?」

 多少声が裏返りながらも、サティは内心の動揺を悟られないように振る舞った。

 今まで美術品の世界で働いてきたサティにとって、危険な目に合うなど日常茶飯事だった。

 出所の怪しい美術品を買い付けに行けば、嫌でもトラブルに見舞われたし、命を狙われることしばしばだった。

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