序3
次の日は、気象予報の通りの雨だった。
その日は土曜日だったので、洋太はベッドから出ずに昼まで寝ているつもりだった。
しかし何度寝返りを打っても全く寝付けない。
仕方なく、洋太は服を着替え、一階に降りていった。
居間のテーブルの上には、洋太の分の朝食だけが残されている。
パンに目玉焼きにレタスとトマト。付け合せにヨーグルトも置かれている。
洋太は目玉焼きとレタスとトマトをパンにはさみ、もそもそと食べる。
すると居間に母親がやってきた。
「あ、母さん、牛乳とって」
冷蔵庫を開けたのを見計らって、洋太は母親に声をかけた。
牛乳をグラスに注ぎ、母親はテーブルの上に置く。
「昨日は、どうしたの? 帰ってくるなり部屋に閉じこもって、学校で何かあったの?」
母親は心配そうに、洋太の顔をのぞき込んだ。
「別に、何にもないよ」
牛乳を口に含み、パンを飲み下す。
「そう。なら良いけど」
背を向け、母親はもう一度冷蔵庫を開ける。
「そういえばさ、昔俺が遊んでた洋館覚えてる?」
母親は冷蔵庫からお茶を取り出し、自分専用の湯飲みに入れる。
「ん~、もちろん覚えてるわよ。あんた、決まってあそこの庭で遊んでたもんね」
「それじゃあさ。あそこに人が越してきたのって、知ってる?」
母親は洋太を振り返り、目を丸くした。
「そうなの?」
今初めて聞いたように、母親は洋太を見つめる。
湯飲みを持ったまま、洋太の向かいの席に腰掛けた。
「そんな話、ご近所さんからは聞いてないけどねぇ」
母親はちびちびと、湯飲みに口をつけて、お茶をすすった。
「ところで」
急に母親の目が鋭くなった。
「何であんたが、そんなこと知ってるの? もしかして……」
洋太はしまったと、口を押さえたがもう遅かった。
「まったく。暗くなったらあの家の前は通っちゃいけないって、何度も言ってるでしょう? 噂によるとあの家の近辺には、変な人が出没するんだから」
「別に、変な人に会ったわけじゃ」
洋太は言い訳をしたが、母親は取り合ってくれなかった。
「じゃあなんで、人が越してきたかって、聞いたの?」
「そ、それは」
洋太は言葉に詰まった。
あさってを向き、出来るだけ母親と視線を合わせないようにする。
あくまで口を割ろうとしない息子に、母親は大きく息をついた。
「とにかく、もうあの家に近づいたらだめよ」
言って、母親は椅子を立って、居間を出て行った。
あとに残された洋太は、ポツリと一言。
「別に、変な人じゃないと思うんだけどな。変な鳥はいたけれど」
言ってから、洋太は少女の顔を思い出し、考えを否定した。
「いや、やっぱり変な人だよな」
あの言動といい、あの服装といい、普通の人とはとても思えなかった。
「もしや、あの子は幽霊?」
手から持っていたパンを落とし、洋太は頭を抱えた。
「それなら、あの洋館にいたのもうなずけるし。黒い服で足があったのは、きっと彼女が外国の幽霊だからだ!」
根拠もなく口に出してから、はたと疑問に思ったことがあったが、あえて無視しとくことにした。
「日本にもついに、国際化の波が」
牛乳のグラスを片手にをうんうんと頷いているところに、居間の扉が開く音がした。
「何が国際化の波、だって?」
入って来たのは、姉の由紀子だった。
「国際化うんぬんは、あたしを見れば分るでしょ?」
片手に英語雑誌をかかえ、洋太の背後にあるソファに腰掛けた。
姉の由紀子は、外国のコンクールで賞を取ったプロのピアニストだった。普段は外国に住んでいて、ここ一週間ほどは日本での公演が終わったために、骨休めに実家に帰ってきているのだった。
ちなみに家にはいないが、洋太にはもう一人兄弟がいた。
三人兄弟の真ん中、兄の将太である。
将太は外国に住んでいて、スイスの時計職人になるための修業の毎日である。
兄は夏休みであろうと、正月であろうと、ほとんど帰ってこない。修行中の身であるから自由はほとんどなく仕方のないことだが、月に一度定期的に手紙が来て、元気でやっていることを知らせてくれた。
雑誌に目を通しながら、振り返らずに由紀子が言う。
「ところであんた、その前に幽霊がどうとか、って言ってなかった?」
さすが地獄耳である。
洋太は落ちたパンを拾い、再び口に運んだ。
「さあ?」
洋太はとぼけてみせた。
姉に言い訳が効くとは思えなかったが、他に何を言えばいいのか思いつかなかった。
「ま、別にいいけど。しかし、あんたに霊感があったなんてね」
由紀子は素直に感心したようだ。
「うちの家系が、手先が器用なことは知ってたけどさ。霊感まであったとはねぇ」
面白がっている由紀子に、洋太は口をはさむ。
「姉ちゃん、絶対真面目に考えてないだろ」
「うん」
間髪入れず返ってきた返事に、洋太はうなだれた。
「こっちは、一応真面目に昨日見たことを考えてんだから、邪魔するなよ」
すると、由紀子は雑誌を閉じ、洋太のほうに体を向ける。
「昨日見たこと? あんたは、昨日一体何を見たって言うのかな」
洋太は思わず口に手を当てたが、姉の目は好奇心でいっぱいだった。
このような状況で姉に口で勝てたためしはない。
洋太はあきらめて、昨日見たことを事細かに説明した。
「・・・・・・ってわけなんだ」
話を聞き終わった由紀子は、真面目な顔をして洋太を見つめている。
「洋太、あんたもうその洋館に、近づいちゃ駄目だからね」
いきなりの忠告に、洋太はあっけに取られた。
姉ならば、こんな面白そうなことを放っておくはずがないと思ったからだ。
「何でさ?」
不機嫌そうに眉根を寄せ、洋太は由紀子に尋ねる。
「あんたが鈍いのは、今に始まったことじゃないけど。普通に考えれば、その子の言動も、行動も、十二分ぐらい怪しいって思うでしょ?」
由紀子は洋太に指を突きつける。
姉の剣幕に洋太は何も言えず、こくこくと頷いた。
「それに何? 先人たちの奇跡、未知の草木。そんな怪しい言葉使うのは、人には言えない事してる危ない人達に決まってんでしょうが」
姉の言葉とともに、昨日見た少女の顔が頭の中に甦ってくる。
そう言われてみれば、まんざら姉の言っていることが嘘とは言い切れない。
「とにかく、触らぬ神にたたりなし、って言うしね。あんたが関わらない限り、大丈夫だと思うけど」
洋太は素直にうなずいた。
姉の勘がよく当たることを、洋太は経験から理解していた。
由紀子はこの話題はこれまで、と言うように、元のようにソファに座りなおし、英語雑誌を広げる。
居間には、屋根を打つ雨の音だけ響いていた。