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黒い絵画  作者: 深江 碧
一章
27/79

1-17

 絵の中は恐ろしいほどの嵐だった。

 波間をまるで木の葉のように漂う洋太は、生きた心地がしなかった。

 洋太は手足を動かし前に進もうとするのだが、荒れ狂う波の前には何の成果も生まなかった。

 無駄なことだとわかっていても、洋太には沈まないように泳ぐことしかできなかった。

 見たこともないほどの巨大な波が、覆いかぶさるように頭上に現れたのを見上げて、洋太は海の中で自分がいかに無力な存在であるかを実感した。

 波に飲まれ浮き上がろうともがく洋太の足を、不意に誰かが引っ張った。

 視線を下に向けると、絵の中で溺れる男が洋太の足を血眼になってつかんでいる。

 男はおびえと恐怖の入り混じった表情で、洋太を海の底へと引っ張っていく。

 洋太は海中へと引きずり込まれた拍子に、口から大量の泡を吐き出した。

 助けてくれ、助けてくれ。

 まるで男の悲鳴が聞こえるようだった。

 男は鉄の塊であるかのように、海の底へと沈んでいく。

 洋太はどんどん光の届かない、暗い海の中へ引っ張り込まれていく。

 もう片方の足で男を蹴り払おうとしたが、男はますます強い力でつかんでくるだけだった。

 水面がどんどん遠ざかっていき、洋太の心に暗い影が差し始めた。

 もうこのまま自分は溺れ死んでしまうのではないだろうか、という不安が確信に変わっていくにはそう時間はかからなかった。

 最初に家族の顔が思い出され、次に親しい友達の顔が浮かんできた。

 母や父は悲しみ、きっと姉には死んだことを怒られてしまうことだろう。

 短い間だったけれど、サティとシェスにはいろいろと迷惑をかけてしまったし、光治や真奈美には悪いことをしてしまった。

 特に真奈美は自分のせいで洋太を殺したと思うかもしれない。

 ――あれは真奈美のせいではないのに。

 洋太はもがきながらも、頭は冷静である自分をおかしく思った。

 ――俺の不注意なのに。俺が馬鹿だったから、何も知らなかったから悪いだけなのに。

 徐々に光の届かない深い海の色になってきた。

 洋太には抵抗する体力も残っていない。

 ――ごめん、みんな。

 洋太は海面へと伸ばしていた手をおろし、意識が遠ざかっていくのが感じられた。

「こんなところで、あきらめてしまうのですか?」

 水の中であるのに、地上でしゃべっているのと同じ調子で、その声は洋太の耳に届いた。

 洋太の周囲に温かい光が満ち、周囲の景色がゆっくりと変化していくのが感じられる。

「本当にこんなところであきらめて、あなたは死んでしまうつもりですか? ならば、あなたもここまでの人間だったということですか」

 洋太は何も考えずにその声を聞いていたが、頭の中でその言葉を拒絶した。

 ――あきらめてるわけじゃない。

 必死にかぶりを振る。

 声はなおも問いかける。

「本当に、そうですか?」

 洋太は心の中で強く思う。

 ――死にたくない。

 声の主の姿は見えない。

 目の前にぼんやりとした光が見えるだけだ。

「死の瞬間は、みんなそう思うんですよ。でも結局、死を受け入れる」

 洋太はもがくように、手足をばたつかせる。

 ――死にたくないよ。

 涙がこぼれそうだった。

 できることならば、生きたい。

 洋太は強くそう思っていた。

 声の調子は変わらない。

 声の主は、不思議そうに尋ねてくる。

「どうしてですか? あなたはあきらめかけていたのに」

 洋太は何とかして声の主に伝えようとする。

 ――俺はあきらめないよ。だってこのまま死にたくないから。助かるものなら、助かりたい。

 光は小さくため息をついたようだった。

「矛盾していますね。さきまで、死ぬことしか考えてなかったのに。それとも、人間とは皆そんな風なものなのでしょうか」

 ――それは。

 洋太はその問いに答えられなかった。

 そもそも海の中で溺れながら、こんな問答などうんびりしている暇はないように思うのだが。

「人は必ず死にます。ただそれが、早いか遅いかだけの違いで」

 声は徐々に鮮明になり、声の主の姿がうすぼんやりと光の中に浮かび上がってきた。

「なぜ生きたいのです? このまま死ねば、この先の苦しみを知ることなく楽にいけるのに。友人が悲しむからですか? 家族が苦しむからですか? そんなもの、自分が死んでしまえば、まったく関係ないのに」

 洋太は海の中でその言葉を黙って聞いていた。

 光の中に浮かび上がったのは、二十代ほどの赤髪の女性だった。

 帽子を目深にかぶっているために、女性の表情まではうかがえない。

「死は安息を与えるものです。夜に眠るのと同じくらい自然なものです」

 流れるようなその口調は、まるで劇の一場面のようだった。

 洋太は海の中なのを忘れて、首を傾げる。

 ――もしかして、きみは死神とか?

 女性は自嘲気味に笑う。

「そうであるのかもしれない。そうでないのかもしれない。ご要望ならば、あなたをこのまま楽に死なせてあげることもできます」

 ――じゃあ、俺を助けることも?

 洋太は目の前の女性に問いかける。

「もちろんできますよ。何故なら、ここはわたしの描いた絵の中ですから。でも、あなたが生きたいという理由を教えてくれたなら考えますけれど」

 洋太はしばし考え込んだ。

 しかし不思議なことに女性と会話をしてからというもの、あまり息苦しさを感じなくなっていた。

「答えは決まりましたか?」

 女性の問いかけに、洋太はゆっくりとうなずく。

 ――確かに自分が死んだからといって、他人のことを気にする必要はないのかもしれない。不慮の事故とか、仕方ないこともあるし。でも俺は助かるものなら助かりたいと思う。俺が馬鹿だったから。忠告を無視して、いろいろなことに人を巻き込んでしまったから。助かったら、まずいろんな人に謝らなきゃいけない。生きていれば何度でもやりなおしもできるけれど、死んでしまったらそれまでだから。

 洋太は女性に苦笑いを浮かべる。

 赤髪の女性は静かに微笑む。

「そうですか。でもわたしが今ここであなたを助けたからといって、この後の事態が好転するとは限らないですけど」

 洋太は首を傾げる。

 ――へ? どういうこと?

 女性は口元にいたずらっぽい笑みを浮かべる。

「あとは、あなたの運しだい、ということです」

 言うと、女性は洋太の足しがみついている男に右手をかざす。

「あなたこそ、見苦しいと思いませんか。死してなお、生に執着する姿は」

 女性の言葉は洋太に向けられたものではなかったが、彼の心をちくりと刺した。

 洋太の心中を知ってか知らずか、女性はもう一方の左手を天に真っ直ぐ伸ばしてつぶやいた。

「わたしが描いたためとはいえ、あなたを絵の中に閉じ込めてしまいました。願わくば、あなたに死後の平穏が訪れんことを」

 それが呪文のように、突然海の中が光に満たされた。

 洋太はとっさに瞳を閉じたが、まぶたの裏まで光が焼き付いてくるような気がした。

 光の洪水に、洋太はじっと目を閉じていた。

 次にまぶたを開けたとき目の前に現れたのは真っ暗な水底。

 現実の海の中だった。

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