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「洋太さんは以前に、どうして母の名を名乗るのか聞きましたよね」
デッキの人気のない場所まで歩いて来て、サティは船の手すりにもたれかかりながら話し始めた。
船の進む先を見ていた洋太は、視線を隣にいる少女に戻す。
所々に外灯はあったが、この暗闇でサティの表情まではっきり見通すのには不十分だった。
「母は私が八歳のときに亡くなりました。このことはご存知でしたか?」
洋太はうなずき、続きを促す。
サティは海の暗闇に青い目を向ける。
「母は優しい人でした。私が物心ついた頃には実の父はいませんでしたが、母のおかげでちっとも寂しくありませんでした。母は歌うことが大好きで、パーティーで今回歌った曲は、生前母に教えてもらったものでもあります。母はいつも笑みを絶やさず、弱音をはかない強い女性でした」
懐かしそうに目を細め話すサティに、洋太もうれしくなった。
「サティはお母さんのこと、大好きだったんだね」
「えぇ、尊敬していました。そして私が五つのとき、母は再婚しました。相手はサディーナ美術館の理事、リチャード・アーストンでした。だから私と兄のディーンは血のつながっていない義理の兄妹に当たるわけです」
洋太はうなずく。
「そっか。それで二人は瞳の色が違うんだ」
サティは夜のような青い瞳。一方の兄のディーンは鳶色の瞳をしていた。
容姿もサティはどこか少女のような細身で幼い顔立ちなのに比べて、ディーンは大人っぽい顔立ちにがっしりした体型だった。
サティはさびしげに微笑み、話を続ける。
「今思い出してみれば、あのころが私にとって一番幸せな時期でした」
口調に硬いものが混じり、夜風がいっそう冷たく感じられる。
「私が八歳のとき、母は突然死にました。窓から飛び降りて、自らの命を絶ったのです。あんなに優しかった母が、この世からいなくなったのです」
サティの声は震えていた。
悲しみを必死にこらえているように洋太には思えた。
サティはなかなか次の言葉を探せずに、沈黙が黒い雲のように広がっていった。
「母は」
絞り出した声はまだかすかに震えてはいたが、伝えなければならないという少女の強い意思が感じられた。
「母の精神は、その時はもう、黒い絵画の中に取り込まれてしまっていたのです」
洋太は息をのんだ。
黒い絵画。
ようやくその恐ろしさの実感がわいてきた。
精神が取り込まれるとどうなるか、黒い絵画がどんなに危険なものか、今になって理解し始めたのだ。
「母は意志の強い人でしたから、取り込まれてもすぐに死にいたる、ということはありませんでした。ただ、うわ言のようにある人の名前を呼んでいました。ラフル、ラフル、と。もしかしたら、それは私の父の名前だったのかもしれません。それ以前に、母は父のことを何も教えてくれませんでしたから。名前はおろか、素性も、何も。黒い絵画に精神を取り込まれてから、母は食事もとらず、眠ることもしませんでした。心配した義父が、母を病院に入院させたのですが、その三日後に」
サティは唇を引き結ぶ。
必死に涙をこらえようとしているようだった。
――自殺、しちゃったんだ。
それ以上話すことのできなくなったサティに、洋太が心の中で付け加える。
「す、すみません」
サティはそのまま、手すりにもたれかかるように座り込んだ。
洋太は視線を海に向け、黒い波間を見下ろしていた。
冷たい夜風が乾いた音を立てて通り過ぎていく。
どのくらいそうしていたか、いつのまにかサティは立ち上がり、じっと洋太の顔を見つめていた。
目は赤く、顔は腫れぼったかったが、震える声で話し続けた。
「私は、その黒い絵画を憎みました。その絵画を描いた人物が、許せなかったのです。だからすべての黒い絵画の所在と、作者の行方を見つけ出そう。そのためには、どんなことでもしようと、そのとき誓ったのです。サティというのは、母を忘れないように名乗ったものですが、もしかしたら母はこんなことは望んでいないかもしれません」
サティの言葉に、洋太は否定も肯定もしなかった。
それは洋太が口を出していい物事とは別のことのように思ったのだ。
「そう、なんだ」
洋太はかろうじてそれだけを答える。
サティは小さくうなずく。
「しかし、私はもう後戻りはできないのです。他人から見たら馬鹿なことだと思われようと。最後には自らの後悔と身の破滅が待っていようと。私は前に進むしかないんです。もう、決めたことですから、その選択は今更覆せない」
彼女の静かだが強い口調に、洋太は目を細める。
「俺は。俺は、実際にそんな目にあったことないから、何が正しいのかわからないけど。でも」
洋太は頭をかきながら、視線を泳がせる。
「でも、自分は良くっても他のみんなに迷惑かけちゃうこともあるし。俺も、よく姉ちゃんや母さんに迷惑をかけちゃうけどさ。でもさ、その心配してくれる人のこと、俺だったら姉ちゃんや、母さんのこと、もっと考えなきゃいけないな、と思うんだ。たとえば、サティだったら、兄のディーンって人。サティのこと心配してるようだったけど」
言った途端、青い目がいっぱいに見開かれる。
「うそです!」
ぴしゃりと言い返すサティに、洋太は驚いて首をすくめる。
「兄さんが、彼が、他人の心配、ましてや私の心配をするはずがありません。自分さえよければ他人がどうなってもかまわない、と考えている、あの兄さんが」
サティは肩を怒らせて言い放つ。
洋太は目を丸くして彼女を見つめている。
「他人、じゃないだろ。俺はよくわからないけれど。あの人、サティのこと、心配しているような口ぶりだったよ。お兄さんだったらさ、妹のことちょっとは心配しているんじゃないかな。血はつながってなくても」
言っている洋太もあまり自信はなかった。
ただ直感でそう感じているだけだった。
「厳しい態度とっててもさ、ほんとにその人が嫌いってわけじゃあ、ないんじゃないかな。父さんもさ、普段俺のこと聞いても顔色一つ変えないけど、ほんとはすごく心配してるって、前に姉ちゃんこっそり教えてもらったしさ」
サティは船の手すりにもたれかかる。
「そんな、こと」
白い頬に長い黒髪が落ちる。
「別に、これは俺の感想だから、ほんとにそうかどうかはわからないけどね」
黙りこんでしまったサティは、首をゆっくりと横に振る。
「本当に、そんなこと。でも、もしそうなら、すごくうれしい」
洋太ははっと息をのんだ。
今にも泣き出しそうなその微笑みは花が開くように自然で、儚いくらい白く純粋に思えた。
暗い影が消えた笑顔は、彼女にもっとも似つかわしい表情だと感じたし、洋太は少女がずっと孤独で、寂しかったのだと理解した。
母親が死んでから、彼女はおそらくずっと孤独に生きてきたのだろう。
そのことは、ずっと家族に囲まれてきた洋太には計り知れなかった。
洋太の周りには常に姉や兄、両親がいたし、親友の光治もいたので、さびしいとは思わなかった。
そしてそれがずっと当たり前だと考えていた。
しかし目の前にいる少女は幼いころに母を亡くし、義父や兄からは家族らしい愛情を受けなかったのだろう。
洋太は少女に同情したが、きっとそれは相手にとって失礼だろうと思い、考え直した。
どうしたら、サティの力になってあげれるだろう。
洋太は自然にそう考えていた。
「えっと。じゃあさ、俺の友達紹介するよ」
そんな言葉が口をついて出た。




