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昼間より明るくみえる高い広間の天井には、豪奢なシャンデリアがつるされ、白い清潔なシーツをかけられたテーブルの上には、前菜からデザートまでの数百種類の料理の数々が並べてある。
広間には千人を超える着飾った人々があちこちで談笑している。
洋太の着ている服も決して安くはないが、心持その場にそぐわないように感じられる。
光治は最初からそのことには興味がないらしく、さっさと人ごみに紛れ、姿をくらませてしまった。
一人残された洋太は、じたばたしても仕方がないと肝をすえて、人の群れの方へ歩いていった。
洋太が広間の中央ほどまで進み出ると、少しずつ照明が落とされ、奥の壁に近い部分が明るく照らし出された。
さらに明かりに近づこうと人垣に紛れると、突然周囲が手を叩き始めた。
拍手が鳴り止む頃には、洋太は人の隙間から明かりの下にいる老婆を見つけることができた。
髪は白髪なのか銀の髪か白く染め抜かれ、その老婆が六十を過ぎているだろう事がわかった。
老婆は葡萄色のシンプルなドレスに、黒いカーディガンを身に纏い、華やかなこの場の雰囲気にはそぐわないように見えた。
英語での簡単なスピーチが終ると、老婆は傍らにいる少女に声をかけ、その人物を舞台の中央に引き出した。
その人物は今日の朝から行方知れずになっていたサティだった。
少女が進み出ると背後に控えていた楽団が指揮者の合図を受け、それぞれに楽器を弾き鳴らし始めた。
少女は黒い服の胸の前で手を組み、静かに歌い出した。
――何でサティ? しかもこんなところで歌なんて。
洋太はサティが歌を歌うことに最初は驚いていたが、だんだん慣れてきて歌を楽しむ余裕が出てきた。
はじめはゆったりした曲調で、それはどこかで聞き覚えのある曲だった。
名前は忘れてしまったが、誰もが一度は聞いたことのある曲。
聴きなれた曲にもかかわらず、洋太は知らず知らずのうちに聞き入ってしまっていた。
サティの歌声は耳に心地よく、心に染み渡ってくるかのようだった。
それは周りの客も同じようで、観衆はざわめきひとつなく、その歌声にうっとりと聞き入っているようだった。
歌が終わると拍手はさざなみのように広がり、割れんばかりの喝采になった。
洋太も気がつけば、サティに大きな拍手を送っていた。
サティは軽く礼をして、惜しむ観衆を後に横の扉から姿を消した。
彼女が戻ってくることがないとわかると、観衆はやっと拍手をやめ、各々お雑談に戻った。
彼女が消えてから洋太はぼんやり立ち尽くしていたが、お腹は正直に空腹を訴えた。
目に付いたものを皿に盛り付け、部屋のはしっこへと向かう。
給仕の者に飲み物をもらい、食べ物と一緒にお腹に流し込む。
大半を食べ終わったところで、傍らから声をかけられた。
「こんにちは。いやはじめましてかな? 山敷洋太君」
男はいつの間にか洋太の右横に立っていた。
黒い髪に鳶色の瞳をした三十代ほどの男性で、柔和な笑みを浮かべ洋太を見下ろしている。
「僕はディーン・ハヌマ・アーストン。君が日本支部の新館長、山敷洋太君だね?」
洋太は名前を呼ばれたことにますます驚き、まじまじと男性を見つめた。
洋太の無遠慮な態度に、男性は少しも気を悪くした様子もなく、眼鏡の奥の鳶色の瞳をじっと洋太に向けていた。
洋太はその男性の瞳に薄ら寒いものを直感的に感じ取った。
男性は笑顔を浮かべているのに、その鳶色目には少しの温かみも感じ取れなかったのだ。
洋太はこれ以上この男性と関わり合いになりたくないと判断し、挨拶もそこそこに彼に背を向けた。
「君は、なぜ自分が新館長に任命されたのか、知りたくないかい?」
歩き出した洋太を追いかけるように声がかけられる。
「君みたいな、ただの高校生がどうして館長という立場につくことができたのか、知りたくないかい?」
洋太は足を止め、振り返らずに男性の声だけに耳を傾けている。
男性の言葉には洋太の態度を面白がっている響きがあった。
「理由を知っているの?」
好奇心を抑えられずに、洋太は振り返ってしまった。
男性は変わらずの笑顔で少し離れた場所からじっと洋太を見つめている。
「ただし、ここで話すわけにはいかないがね」
男性が顔を傾けると、眼鏡がシャンデリアの明かりに反射し、妖しく光った。
洋太が男性について広間のドアをくぐろうとしたとき、広間から厳しい声が追いすがってきた。
「兄さん!」
その声の主は黒いドレスに身を包み、先ほど歌を披露したサティだった。
息を切らせ、洋太と男性の間に割ってはいる。
「兄さんは、洋太さんをどこに連れて行くつもりだったんですか?」
すごい剣幕で今にもつかみかかりそうなサティを、兄のディーンは涼しげに押しとどめる。
「何を怒っているんだい、サラ。僕はただ、もう少し静かな場所で彼と話をしたいと思っただけだよ」
サティは形の良い眉を吊り上げ、青い目でひたとディーンを見据える。
「もう少し静かな場所とはどんなところですか? それならば私も一緒にお供いたします」
ディーンはやれやれといった仕草で肩をすくめ、サティに向き直る。
「うちの歌姫は気が強くてたまらないね。せっかくの男同士の話にまで首を突っ込んでくる始末だ」
サティは肩をいからせる。
「話をはぐらかさないでください! 兄さんが何を考えているのかは知りませんが、洋太さんに危害を加えるつもりなら、私が許しません!」
ディーンは首をすくめる。
「おお、怖い怖い。昔はあんなに、兄さん兄さん、と慕ってくれていたというのに」
「いつの話ですか! あなたの本性を知っていれば、あんな素直に信用しなかったものを」
兄妹の言い争いはいつまでたっても終わりそうになかった。
「あの~」
すっかり話から取り残されている洋太は、喧嘩腰のサティに呼びかける。
「俺には、話がさっぱりなんだけど」
彼女もそれに気づき、洋太に視線を向ける。
「洋太さん、兄さんを信用してはいけません!」
「それじゃあ、僕が嘘をついたみたいじゃないか」
「ほんとの事じゃないですか」
「最初についてきたのは洋太君の方なんだよ? 君は彼の意思を尊重しないというのかい?」
サティは戸惑いの眼を洋太に向ける。
「兄さんの言っていることは、本当ですか?」
「う、うん」
洋太が小さくうなずくと、サティの顔に陰が落ちる。
「わかったかい、サラ。これは君の出る幕じゃあないんだよ」
「それでは、私も一緒についていきます!」
サティはなおも食い下がる。
ディーンは大仰にため息をつく。
「わかってないな、君は。歌姫は素直に客の機嫌取りでもしていればいいのに。もっと物のわかった賢い子だと思っていたんだがね」
ディーンは眼鏡の角度を直しながら目を細める。
「要するに、邪魔なんだよ、君は」
言い放たれた言葉は冷たい刃の響きがあった。
ディーンの金の瞳は、洋太には獲物をいたぶる爬虫類じみて見える。
今になって洋太は、自分が危うい状況にいることを理解した。
「さあ、行こうか」
判断したときにはもう遅く、がっちりと肩をつかまれ、サティの姿が遠ざかっていくところだった。
洋太は彼女の落ち込んだ様子に何も言えなくなった。
曲がり角で再びサティを振り返った。
彼女の姿は、もうそこにはなかった。




