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次の日、洋太が言われたとおりの時間の少し前に美術館にやってくると、石村や職員達が式の準備に忙しそうに走り回っていた。
洋太はとりあえず邪魔にならないように、部屋の隅っこで今日の演説のカンニングペーパーを暗記することに徹した。
時間通りに開館式典は始まり、町長や後援者などこの美術館の開館に尽力してくれた人達と一緒にテープカットを行い、美術館の説明をして半日を過ごした。
午後からは一般の人達にも入館してもらい、午後三時は館長の洋太自ら絵画を説明して回るという催しもあり、その客の中には母の姿もあった。
母は洋太の一挙一動を神経をとがらせて、心配そうな顔で見守っていた。
まるで授業参観をされているようで、洋太はあまり落ち着かなかった。
それでも洋太は大きな間違いもなく、胸をなでおろした。
説明がすべて終わると、閉館までの午後五時まで洋太は特にすることもなく、館長室にある手すり付きの椅子に深く腰掛け、天井を眺めていた。
頭には昨晩の姉の含み笑いの顔が浮かんでくる。
姉は今日を楽しみにしていろと言ったが、いったい何のことか洋太にはさっぱり判断が付かない。
「う~ん」
椅子の背にもたれかかりながら考えてみたが、やはり何も浮かばなかった。
考えているうちに午後五時になり、来館者が次々に帰っていく。
それから十分ほど経過してから洋太は館長室を出た。
洋太は出会った学芸員に石村の居場所を聞いて、入り口の前で片付けをしている彼を見つけた。
「石村さん、俺もう帰っていいかな。それとも手伝えることある?」
石村が一瞬考え込んでいる間に、洋太に背後から声をかける者がいた。
「洋太―!」
声は男のもので、しかも洋太のよく知る声だった。
洋太が振り返ると、案の定、そこには見知った姿があった。
黒く短い髪に、黒に近い焦げ茶色の瞳。
縁のない眼鏡をかけ、首からは今回はデジカメがぶら下がっていた。
それは洋太の親友で幼なじみの光治だった。
「ははぁ、やっぱり洋太だったんだ。昨日学校休んでたし、テレビで洋太によく似た人が出てたから、もしやと思ってやってきたら」
光治は眼鏡のふちを指でなぞりながら、洋太の全身をざっと見渡した。
「ネクタイを締めてる洋太なんて中学校以来だけど、相変わらず似合ってないな」
「学生服の似合わない光治に言われたくない」
不機嫌に言い返し、洋太はふと疑問に感じた。
「俺に何か用でもあったの? 開館中には見かけなかったし」
「いや、いたよ。こっそり影から洋太の雄姿を観察してたんだよ」
光治はまったく悪びれのない様子で答えた。
「へー、そうなんだ。まったく気配感じなかったけどな」
洋太はあごに手を当てて考えるそぶりをする。
「もちろん。特技の一つだからね」
自信たっぷりに光治が胸を張る。
「俺の勘も鈍ったかなぁ」
首をひねる。
「ま、気にするなって」
肩をばんばんと叩く光治と平気な顔をしている洋太を、石村は不思議そうに見つめている。
「そんなことより、いま帰るとこだろ? だったら一緒に帰ろうぜ。帰り道でいろいろ聞きたいこともあるしさ」
洋太が石村に目を向けると、石村は渋い顔で首を横に振る。
「もしかして、まだ館長の仕事があるとか?」
わずかに肩を落とす。
「一応は。しかし、これは出たくなければ出なくてもいいものだ」
石村の含みのある言い方に、洋太はひっかかりを覚える。
「出る?」
洋太は尋ねる。
石村は視線をさまよわせる。
「少し前に自宅に招待状が届いているはずなのだが。知らないということは、どこかで手違いでもあったのだろう」
考え込むそぶりをする。
「何の招待状がですか?」
横から光治が口を挟む。
石村は軽く頭をかいて近くで片づけをしていた学芸員に何事かささやく。
するとその学芸員は仕事の手を止め、美術館の中に消えていった。
「聞いてないのならここで説明するしかないな。サディーナ美術館では定期的に会員を招いて船の上で催しをすることがある。今回は日本支部の開館にあわせて行われるのだが」
石村は言いにくそうに話す。
「それって、今晩のことですか?」
洋太は眉をひそめる。
石村は大きくうなずく。
「あぁ、近くの港で七時に船が出る予定だが」
話を最後まで聞かずに、光治が石村に詰め寄った。
「僕も。僕も行っていいですか?」
瞳を輝かせる光治に、石村はじろりと鋭い目を向ける。
「しかし、その服では」
「七時なら今から家に帰って、着替えてくれば間に合うと思います」
「一般人の入場は」
「洋太の、館長の友達ってことで何とかなりません?」
「館長に行く気がなければ」
「洋太。もちろん行くよな、なっ」
洋太も光治の勢いに押されてこくこくと首を縦に振るしかなかった。
そこへ、さきほど石村が言いつけた学芸員が戻ってきて、白い封筒を手渡した。
石村は封筒から、二枚の招待状をしぶしぶ取り出した。
「わたしは正直、この集まりに君たちが参加することを勧めない。参加するのはサディーナ美術館の後援者たちなどだが、彼らが必ずしも人格まですばらしい人ばかりではないことを心に留めておいてほしい」
石村は真剣だったが、光治はまったく動じた様子はなかった。
「わかってますって」
石村の手からひったくるように、光治は封筒を受け取った。
洋太はそんな石村の様子を見て、嫌な予感がわずかにしたが、その陰りはすぐに消えてしまった。
後で振り返ると、それは漠然とした不安だったのかもしれない。
そしてそれは虫の知らせだったのかもしれない。




