序10
だから、危険と言われても、すぐには反応することが出来ない。
「へえ」
洋太は気のない返事をする。
返事をした途端、少年の顔が引きつるのに気付いた。
しかし少年はあらかじめ少女に言い含められていたのか、不機嫌な顔で洋太を睨みつけただけだった。
少女は負い目を細める。
「何が危険かと言いますと、あなたの周りにそう言った物があると、昨日と同じような事態になりかねないといことです。もし、私たちのいない場所で、そう言った事態が起これば、あなたは恐らく命を落とすでしょう。だから万が一に備えて、沈静の仕方を覚えてもらいたいのですが」
そこで少女は言いよどみ、うつむいた。
洋太は不思議そうに首を傾げる。
「どうかしたの?」
少女は視線を彷徨わせる。
「あなたの高校では、アルバイトは禁止されていますか?」
突然突拍子もないことを聞かれ、洋太はとりあえず首を縦に振る。
「ええと、多分大丈夫だと思うけど、それが?」
洋太は要領を得ない様子で、少女の顔をのぞき込む。
「では、これを」
少女は意を決して顔を上げ、後ろに控える少年から受け取った紙を洋太に手渡す。
手渡されたのは一枚の羊皮紙で、そこにはびっしりと英語の文字が並んでいる。
もちろん、英語が得意ではない洋太は、最初の一文字さえ読めなかった。
少女は説明を続ける。
「それは、契約書です。かなりの内容を簡略化していますが、それだけの説明でも十分理解していただけると思います。そんなに硬く考えなくても、出来うる限り私達がサポートいたしますので、心配しないでください。その内容に同意してくださるのなら、右下にサインをお願いします。もし、分からない場所があれば、何なりとお聞きください」
洋太はわけが分からず、首をひねりながらも、手渡された万年筆を受け取り、紙の右下に自分の名前を書きいれた。
サティは洋太から受け取った紙を確認し、小さく頷いて背後の少年に手渡す。
たまらず、洋太は少女に尋ねる。
「あの、さっきの契約書って、一体何が書かれてたの?」
滅多に驚きを表に出さない少女も、目を丸くして洋太を見つめる。
「あなたは、あの内容に同意したのではないのですか?」
「いや、同意も何も。俺、英語苦手だし、とりあえずサインしとけばいいかなぁ、って」
笑いながら頭をかく洋太に、サティは何とも形容しがたい表情を作る。
「契約書の内容を確認しなかった、私が悪いのでしょうか」
がっくりと肩を落とし、頭を抱える少女に、洋太は乾いた笑い声を立てた。
「ま、まあ、大丈夫だよ。君もサポートしてくれるって言ったし、何とかなるよ」
サティは頭を振り、こめかみに手を当て、渋い顔で話す。
「契約は既に執り行われてしまいましたし。こんなことを、いつまでも悔やんでいては仕方がありませんよね。そうですね。まず、サディーナ美術館という名は、ご存じですか?」
洋太は少しの間思考を巡らせ、頭の中からその名に関する事を引き出した。
「確か、美術館の名前だよね。俺も名前ぐらいしか聞いたことないけど。アメリカかどっかにある美術館だったような」。
「そうです」
少女は静かに答える。
「サディーナ美術館。大富豪エルネスト・アーストンが、芸術に造詣の深かった、妻サディーナのために造った美術館です。古今東西を問わず、様々な文物を収蔵し、規模はメトロポリタン美術館と匹敵するほどです。現在の館長は、創設者のひ孫にあたるクラリス・アーストンが務めています」
少女の説明を、洋太は右から左に聞き流していた。
「それが、さっきの契約書と、どういう関係があるの?」
頭の上に疑問符を浮かべ、洋太は口をはさんだ。
「創立百五十周年を迎える今年、日本にもその分館が建てられることとなりました」
「へー」
「あなたには、そこの館長を務めてもらいます」
「なるほど」
「申し遅れましたが、私は現館長の姪で、サディーナ美術館の館長秘書を務めさせていただいています、サティ・ハヌマ・アーストンを申します」
そこまで聞いて、洋太の顔色が一変した。
色々なことを聞き飛ばしていくうちに、反応が遅れたのだった。
「って、ええ? 館長? っというより、君が館長秘書? その年で? って言うより、俺が何で、館長なんかに?」
頭が混乱しすぎて、洋太は上手く舌が回らない。
その様子を黙って見ていた、シェスは一言、
「やはり、知能はサル以下だな」
冷たく言い放った。
しかし、洋太はそんなことも気にとめず、さらに二人を呆れさせる発言を口にする。
「俺が館長なんかになったら、怪盗と対決しなきゃいけないじゃん!」
「は?」
サティは一瞬、聞き違いかと思い、洋太に問いただした。
「あの、さきほど、怪盗と対決、とおっしゃいましたか?」
「そうだよ」
洋太はさも当然とばかりに胸を張って言う。
「俺の将来の夢は、正義の怪盗になることなんだ。それで、ライバルの探偵と、対決するのが夢なんだ」
これには、さすがのサティも絶句する。
「怪盗、と申されても、それは正式な職業ではありませんよ?」
衝撃から立ち直り、こめかみを押さえつつサティは洋太を見つめる。
「当たり前だよ。だって、それは夜の姿だからさ。昼間は正体がばれないように、普通に生活してるに決まってるじゃん」
洋太は何も知らない子供に、一つ一つ教える親のような態度をとる。
「いい? もし、俺が仮に館長になったら、俺は探偵側の人間になるんだよ? そしたら、夢の探偵との夢の対決が、できなくなるんだよ? それでもいいの?」
洋太は熱のこもった口調で、サティに切々と語りかける。
「いえ、あの、それは」
サティはなおも口を開いたが、洋太は全く取りあわなかった。
「俺、断然怪盗側のほうがいいな。かっこよく参上して、お宝を奪うのが俺の夢なのに、それなのに、館長なんて」
そんなこと夢にされても困る、と言いたげに、サティは目で訴えた。
「探偵との夢の対決が、将来の夢が、すべてが水の泡だなんて」
サティとシェスの主従二人は、あきれて果てている。
「サルに館長を任せるなんて、あんたはよっぽど美術館を潰したいらしいね」
サティは頭を抱え、シェスに謝る。
「すみません。別に、美術館を潰したいつもりじゃないんです」
「僕に謝ったって、仕方がないことだよ」
冷たく返す少年に、少女はますます肩を落とす。
その後サティは、落ち着いた洋太を説得し、渋々ながらも承諾させた。
結局洋太は自分が探偵になって、怪盗との対決ができればいいや、という結論に至ったらしい。
かくして、ここに高校生の新館長が誕生した。
周囲の人間に果てしなく迷惑をかけつつ、洋太は稀代の館長になっていくことになる。
しかし、それはまだ十年以上先の話である。




