06
「クロエさん……っ。」
「おかあさんっ。」
隣で泣く父親を意識して、それを真似れば母親は変わってくれると期待して、
ちいさな翔馬は大きなキャリーカートに縋りつく。
入学式に着ていたサラサラのワンピース、輝く宝石が埋め込まれたブローチ、決して近づくことが許されなかった鏡台に並べられた化粧品、その他全てが詰め込まれた、母を形成するもの。思い出のもの全てと一緒に、
母とさよならするなんて絶対にしたくない。
「お母さん、会いに来るからね。」
「やだよ。
ここにいてよ…っ。」
「ちゃんと、お父さんのいうコト、聞くのよ。」
「いや、だ…うっ」
その時、母親がいつも、彼を叱責するときの冷たい眼差しになるのを感知したので翔馬は頷くしかなかった。
「……うん……」
「クロエさん、もう一度、もう一度考え直してくれ。」
昇竜は土下座せんばかりに嘆願する。
「翔馬のためだ、頼む…!!頼む、行かないでくれ……」
翔馬の身体に腕を回して、昇竜は幼い子どもを何とか視界に入るように前へ前へと押し出すが、母親は返答せず
それどころか顔を背けて勢いよく玄関のドアを開け、取り残されて絶望感に暮れる親子二人を振り返りもせず旅立った。
暗雲立ち込める、といった表現がしっくりくる家の中で、
父と息子は引っ越しをすることなく静かにその地に住み続ける。
近所でも評判の、誰もが羨む暖かい家庭だったはずの場所は悪い霊にでも憑りつかれてしまったかのようにガラリと雰囲気が変わってしまった。
「会いに来るって、言ってたよね。」
翔馬は、自室に籠ると何度も愛用の縫いぐるみに確認した。
「言ってた、よー。会いに来るからネッ。」
クロームと名付けられたそれは、玩具メーカーに勤める母が4歳の誕生日にプレゼントしてくれたもので、
人口知能が搭載された世界に一つのオリジナルだった。
「おかあさん、僕のこと……もう……どう思う?わかる?クローム。」
「わかるよ、スキだよ。」
「好き、かなあ。でも、おかしいよね…会いに来ないなんて。」
試すように翔馬は尋ねる。
「なにかあったのカモ?」
「何かって?」
「ワカンナイから、パパにキいてみようよ。」
「聞けるわけないよ。」
翔馬は涙を拭きながら言った。
本当は、一番聞きたいけど、真実を告げられた時に今より悲しくなるのに耐えられそうになかった。
嘘を吐かれたのは解っている。
手っ取り早く出ていきたかったから、その場しのぎの適当なことを言われたのは、
いくら何でもわかっていた。
それでも心のどこかで、母は大変な目に合っていて、会いに来るのが出来ないという物語を頭に描いて安心することで心を保っているのだ。
「ママもしかしたら、ビョーキなのかも?」
クロームが優しく言う。
「ショーマにウツるとイヤで、アワナイのかも?」
翔馬は顔を上げた。
そうだったら、どんなに良いか。
自分たちを捨てたのも、同じ会社の上司と不倫して、新しい子供がお腹に出来たのも、
全部全部母親が家族を庇うためにでっち上げた大嘘で、
あの日出て行かれたドアの向こうにチラリと見えた高級な黒い外車も、
全然関係ない通りすがりの人の乗っていたものだったらどんなに幸せか。
「そうだったら、僕はもうお母さんに会わなくても良いのかな。」
翔馬は天井に向かって呟いた。
窓際で、母の手作りモビールが夜風に揺れているのが目に入る。
ペガサスと三日月、というデザインはアニメに影響を受けて翔馬がリクエストしたものだ。
その当時は確かに、愛されていたのに。