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どこを見渡してもだだっ広い田んぼの畦道
自転車を走らせて、翔馬は研究所からの帰宅を急いでいた。
「降水確率95%以上、ダヨ」
「解ってる、滅茶苦茶曇ってるだろ」
小5の時、家庭科の実習で作ったキルティング生地のナップザックはもう何処かへいってしまった
(探す気にもならないが)
今、クロームが収納されているのは中学三年の時に伯父からプレゼントされたスポーツメーカーのバッグだ。
「つかオマエさー、朝に予報できなかったわけ?こんな天気になるって」
「仕方ナイよー異例事態。」
その返事に溜息を吐いて、翔馬はペダルを漕ぐ足に力を込める。
――ホントに修理されたのかよ、と心の中で毒づいた。
今日はクロームのポンコツ具合の点検と内蔵メモリの修復の為に、母親であるクロエが生前勤務していた玩具会社の工場へ行っていたのだった。
クロームは元々製品化を検討されていた国内最高級の優秀な人工知能搭載の縫いぐるみだったが、幼児への悪影響がクレームの対象となることは避けられないと予見されて立ち消えになった為に所持しているのは開発の第一人者だったクロエの息子、つまり翔馬のみで、彼女のかつての同僚たちが有り難がって数年に一度、点検修理を請け負ってくれている。
とはいっても、もう使い続けて10年以上経つのだ。
アップルやソニーなら、とっくにサポート終了の引導が渡されていてもおかしくない。
修理してくれる橘樹さんには悪いけど、もう潮時なのかもしれないと翔馬は思っていた。
「あー、降ってきた。」
小雨が降り始める空を見上げて翔馬は憎々し気に呟く。
大体にして、数十キロメートルあるこの距離をただのママチャリで往復することが無謀なのだ。
「チャンピオンじゃねーし。」
「ナニ笑ってる!?」
「え?」
「石コロアルよ!!!」
クロームがアニメに登場する中国人のような口調で注意を促した時にはもう遅かった。
補正されていない砂地に埋まった思いがけない大きさの石つぶてに車輪が乗って滑り、翔馬の自転車は大きく傾く。
叫ぶ間もなく転倒し、足を横に伸ばす前に田んぼへ真っ逆さまに落ちてしまった。
「ってえ……」
自転車ですっ転ぶなんて、もう何年も犯していない失態だった。
誰もいないのに翔馬は照れ隠しをするように何でもない風を装って、痛みを押し殺し自転車を元の道へと押し上げる。
「田んぼに水が張ってなくて良かったよ。」
翔馬は軽く笑って、クロームの入ったバッグを拾い上げた。
「あ?」
しかし、そこに有るはずの重みが消えている。
「ああ、何だ、そこか」
見まわすと、少し離れた所に転がる小さな熊の姿が見えた。
「ゴメンゴメン、大丈夫だったか?」
大丈夫に決まっている。
痛覚はないのだから………翔馬はクロームの脚を掴んで逆さづりにし、僅かに付いた土と砂を叩いて問いかけた。
「…………」
しかし答えがない。
「どうした?ただの屍か?」
翔馬はからかう様に言って、クロームを振る。
「おい?
おい、クローム……?」
背中にヒヤリとした汗が滴り落ちるのが、いつもより数倍鋭い感覚となって伝わる。
――母親の形見
家族
弟、が。
「クローム、おい、ちょっと、待ってクローム!!!!!!!」
翔馬は激しさを増していく雨の中、縫いぐるみを叩いたり揺さぶったりして起動させようと必死になった。
十数年触っていない電源ボタンをなんども連打するが、反応は無い。
このまま濡れさせていたら、中のコンピューターに悪いか……?
翔馬は諦めてクロームを再びバッグに詰め込んで、念の為に自分のスウェットを被せ、上半身裸で自転車に乗った。
「あっ!!!!!」
しかし、車輪が回らない。
チェーンが切れてしまっていたのだった。