15
クロームを何時ものナップザックに入れて背負い、父親に促されながら病院の無機質で清潔な廊下を進む。
すれ違う数人の患者は皆静かで弱弱しく、パジャマ姿というのが翔馬に非現実味を与えた。
病室をいくつも通り過ぎ、誰も居ない奥まった薄暗い場所へ入って行く。
「えっ、ここ、なの?」
白とライトグリーンの壁色で統一された爽やかな雰囲気溢れる病棟とは明らかに異質な空間に翔馬は幾らか尻込みして父親に問うた。
「そうなんだ。母さん、明るい場所が苦手なんだよ」
「病気のせい?」
「そうだ。」
そして辿りついたドアの横に貼り付けられたプレートを見て、翔馬はまた違和感を覚える。
"阿木 黒江"
――"あぎ"、それは、母親の旧姓だった。
お祖母ちゃんと同じ苗字……
母親は、あの日迎えに来た男とサイコンしたんじゃなかったのか?
父親に聞こうと思ったが、それは今ではない。
「良いか、翔馬。母さんは……病気のせいで、少し、
…かなり、前とは変わってしまっているけど、ちゃんとお前の母さんだから。」
父親は先に立ち、ドアを開けた。
「入るなら、此処で消毒して…」
と言って、父親は手を洗い、千羽鶴にも軽くスプレーを振りかける。
「大層だけど、これと、これも被るんだ」
そして、給食室のおばさんが着ているようなスモッグと帽子を被った。
翔馬は頷いたが、同じようにする気が起きない。
離せば勝手に閉まるドアを押さえてはいるものの、部屋へ足を踏み入れるのを留まった。
父親はそんな翔馬を責めることなく、千羽鶴を前に
ビニールカーテンが張り巡らされたベッドへ近づいていく。
「クロエさん、僕だよ。
今日は翔馬が来てくれたんだ」
SF映画で見たような、ロケットを操縦するマシーンに似た装置から管が幾つも伸びて、ベッドに繋がっているのを翔馬はボンヤリと眺める。
「うー、うー……」と、苦しそうなうめき声が返事の代わりに上がり、翔馬は耳を塞ぎたくなった。
思ったよりもかなり酷そうな母親の病状。
そして何よりも
その声は、あのブタバアに驚くほどそっくりだったのだ。
「翔馬……遠くからでいいから、母さんの顔、見てくか。」
父親は、クロームから何処まで聞いているのだろう。
「母さん、お前のこと見たら、喜ぶと思うんだ。」
翔馬はその場から直ぐにでも逃げ出したい気持ちだった。
「どうかな……父さんだと、あまり嬉しくないみたいでさ……」
縋るような父親の声。
現実を受け入れたくない願望。
確認して、安心したいという焦り。
"警察署に捕まった"
"ブタバアはブタバコ行き!!!"
というマサシの台詞が脳内を駆け巡る。
「じゃあ、ちょっと…」
翔馬は意を決して、一歩を踏み出した。
しかし、その瞬間、シーツからものすごい勢いでボンレスハムのような太く丸い腕が伸び、ビニールの幕を搔き分けて、父親が持ってきた千羽鶴が引っ張られた。
ギョッとする翔馬が気絶する前に見たのは
千羽鶴を噛み千切ってムシャムシャと頬張る、ブタバアの姿だった。