第一節 巨砲の復権-01
一九四一年 十二月八日 午前四時三十分 ハワイ諸島沖合
第一艦隊旗艦 戦艦大和
北風が吹きすさぶ払暁の北方航路に鋼鉄の一団が突き進んでいた。厚い雨雲と逆巻く怒涛に包み隠された彼女たちは針路を東方に定め、ただ一心に進み続けていた。どの商船も航行を避ける北太平洋の波は高く、例外なく冷たい水飛沫を彼方から来た戦船に叩きつけていた。艨艟達の先頭に立つ一万トン級乙巡すらも前進に苦労している程だ。当然のように彼女よりも小さい駆逐艦は波間の木葉の如く波に弄ばれている。しかしながら、一団の中心に位置する六万五千トンの浮城はバルバス・バウの助けもあり波濤をことごとく砕きながら航行を続けていた。彼女の名は【大和】。皇軍のフラッグシップとして、そして大艦巨砲の申し子として海に生を受けた彼女はマストに軍艦旗、そして中将旗を激しく靡かせながら初陣を迎えようとしていた。
そんな彼女の中枢たる戦闘艦橋の上部。昭和十六年の夏に集中して行われた大規模演習――俗にいう太平洋特別演習から得られた戦訓を基に防空指揮所と呼ばれるようになった空間に若き中将の姿があった。波に揉まれる一万トン級乙巡【最上】の船尾を、そして彼方の北太平洋に朧気な視線を送るコートの襟を立てた彼の耳にタラップを昇る足音が聞こえたが、彼は依然として海を見つめながら呆れを示す苦笑いを浮かべるだけだった。彼には分かっていた。こんな時間に突風吹きすさぶ艦橋トップにやって来る物好きなど彼はこのフネで一人しか知らない。
「遠足の日に早起きしてしまう人なんですか? 北海中将? 」
「どちらかと言えば運動音痴の運動会当日だよ。高嶋大佐。」
若い大佐はやれやれと言わんばかりの表情を浮かべながら北海の傍らに立った。
「波が高いな。」
そう呟くように言った北海に航海長から提出されていた気象レポートを脳内でめくりながら高嶋は続けた。
「夜明け頃には一旦落ち着くみたいですが、昼前からまた荒れるようで。」
「嫌な天気だ。」
高嶋の言葉に北海は短くそう言った。その声音からは不服の色が漏れていた。高嶋は知っていた。北海がこの破天荒な作戦を未だに不服に思っていることを。彼らは作戦準備段階で可能な限り作戦を推し進めた聯合艦隊(以下、GF)司令部に対して抵抗していたが、それぞれが着任した時点で作戦実行がGF内部では確定事項となっていたため、その抵抗は単に山本GF長官、そしてその子分の不興を買うだけに留まっていた。
「司令、やはりまだ……。」
「言うな。」
高嶋の言葉を強い口調で遮った北海だったが、高嶋は動じすに言った。
「今が憤りを晴らす最後の機会だと思いますが。」
北海は高嶋を一瞬、睨みつけた後に諦めを具現化した溜息で降伏を示した。
「いかに艦隊司令であっても、女房役の参謀長には敵わないという訳か。」
彼は自嘲してから内心を吐露し始めた。なお、溜息と共に視線を海原に戻した北海の視界の中に「女房役」という単語に若干だが頬を赤らめた高嶋は入っていない。
そして、北海は静かに言った。
「俺はこの作戦、失敗すると思う。」
かつて無謀極まりない甲巡と戦艦の一騎打ちで勝利した英雄は荒れ狂う北太平洋に自らの言葉を投げかけた。
一九四一年、既に二年前から戦火に苛まれた世界において、大日本帝國もまた渦中の更なる深みに踏み入ろうとしている国家の一つであった。仏印進駐を機に急激に米国と対立を深めつつあった大日本帝國は合衆国が下した屑鉄及び石油資源の輸出停止処分、そして極めつけに全く許容しかねない内容――満洲・インドシナ・支那沿岸部のみならず台湾、そして沖縄の市場開放を要求するハル・ノートを突き付けられた結果として文言による対米交渉を断念し、武力による問題解決を模索していたのだ。
そして、時のGF長官――タイ動乱に始まり泥縄式に発生したスプラトリー諸島沖海戦において醜態を晒した戦艦部隊とは対照的に損傷した英巡洋戦艦【レジスタンス】(リナウン級三番艦)に引導を渡した空母部隊の長である山本五十六大将は帝國海軍が金科玉条とした海戦要務令を一切無視した解答を用意していたのだ。
帝國陸海軍が対米英を主眼として構築した「ア号作戦」、その海軍作戦の中核であり主要戦力のほとんどを動員した「Z作戦」。それが博徒の導き出した答えだった。
作戦目標はハワイ、真珠湾。その美しき波止場に泊まる米太平洋艦隊主力を開戦劈頭に空母部隊及び特殊潜航艇を用い奇襲攻撃、之を一網打尽にし、加えて海軍陸戦隊及び陸軍海上機動旅団による強襲上陸を目的とする。つまり、米太平洋艦隊の殲滅のみならずハワイ諸島の占領を目標としていたのだ。山本GF長官は米国と短期決戦を企図するなら彼らの艦隊のみならずアジアではない領土を占領されるという事実が必要だと声高に叫んでいた。
無論のこと、この無謀極まりない作戦は南方攻略を第一とする軍令部を中心に猛烈な批判を浴びたが、GF全幕僚の辞任をほのめかす博徒の前に軍令部は計画を認めるしかなかった。本来なら航空主兵主義派に対抗すべき大艦巨砲主義派はスプラトリー諸島の醜態により既に過去の物であり、戦艦こそ海軍の主力と信じていた彼らは重要なポジションから姿を消すか、その口を閉ざしていた。なお、ハワイ諸島の維持占領は兵站の維持を想定していない机上の空論であるとした陸軍の真当な指摘をフィリピン作戦の延期及びマレー作戦を担当する全陸軍部隊をタイから陸路で進発させるという強硬手段により山本大将は補給線を担う輸送船をかき集めていた。(陸軍としては主戦場を英米軍が勢力下におく中国大陸に定めていたためフィリピン作戦やマレー作戦の変更に異論は少なかった)
北海は言葉を続けた。
「空母四隻の艦載機は全部で三百機弱。もちろん一度に発艦できる数はこの半分強だが。それでも、言うまでもなく帝國海軍が持つ最大規模の攻撃隊だ。奇襲が成功すれば、撃沈は無理だろうとも、無視できない損害を与えられるだろう。特殊潜航艇も然りだ。」
「それは山本長官のお言葉です。」
高嶋の返答に北海は頷きながら言った。
「だが、それはアメリカ人が無能集団だった時の話だ。主力艦の全部が港から居なくなったんだ。気付かないはずがない。そして俺はアメリカ人が戦艦で甲巡に負けるような能無しとは違うと知っている。」
北海はアメリカ人が無能ではない……、いや少なくとも米海軍が無能ではないことを肌身で知っていた。彼は帝國から朝鮮における実質的指導権と商品市場を譲り受けた米国が東アジア大陸の泥沼――韓国戦争及びレディバード号戦争に入り込んでいく様子を一海軍士官として現場で見ていた。彼が見たものは精強な世界第一位の海軍力を形成する資金と技術だけではない。そこには豊富な知識を持つ参謀達と決断力ある司令官の姿があった。
「我々は行動を秘匿するために母港をバラバラに抜錨し、回りくどい行程で集結地である単冠湾に集った。それでも不備があるのか……と、あの御仁って言うでしょうね。」
軽い皮肉を含んだ高嶋の言葉に北海は疲れ切った溜息と共に言った。
「残念ながら、そうではなかったようだ。」
二人は既に米軍が行動を起こした兆候を察知していた。それは【大和】に乗り込んでいた艦隊司令部直属の敵信解析班の成果だった。今から数時間前、彼らはハワイ方面で一時的に短距離無線交信が極めて増大し、そして沈黙したことを捉えていた。それは大規模な艦隊が真珠湾を出撃し、無線封鎖を行ったことを意味する。
「作戦には強襲攻撃も含まれるとは言え……。」
高嶋の言葉に北海は即座に付け加えた。
「フネがいない港を襲っても戦術的には意味はない。」
微かに眉を顰めた高嶋に「あの御仁がハワイを分捕るつもりならね」と付け加えた北海は続けた。どうせ我が物になるならば破壊するのは惜しい。
「あとは真珠湾に張り込んでいる諜報員なり、哨戒線の潜水艦なりが敵艦隊出現を知らせてくれれば南雲長官も気兼ねなく作戦行動を変更できるが。」
北海が尋ねるように高嶋を見ると彼は首を横に振った。彼らの手元にはそんな報告は入っていなかった。
「参謀長、オアフ島沖合に展開している潜水艦の総数は? 」
「八隻です。」
高嶋は即答した。この帝國海軍の潜水艦を一同に所轄する第六艦隊から派遣された八隻の内、純粋な哨戒任務を行っているフネは三隻だけであり、残りの五隻は特殊潜航艇――俗にいう甲標的を一隻ずつ背負っている特別攻撃隊であった。いずれもオアフ島を中心に扇状に展開しているはずだった。
「不安が残る数字だな……。」
北海はそこまで言って口を紡いだ。帝國海軍が潜水艦隊を本格的に建設し始めたのは一九三七年のことだった。それまで日本海海戦以来、不磨の大典と等しいと見なされていた戦艦を中心とする昼間一挙決戦が米海軍による中速戦艦の量産により崩壊し、次なる一手として登場した漸減邀撃の担い手として期待された潜水艦隊だったが、全く異なるアプローチが潜水艦量産の障壁となって立ち塞がっていた。
潜水艦に航空機を搭載し、敵地奥深くに痛打を与えることができないだろうか。奇しくも後のGF長官となる男によって生み出された疑問は水上爆撃機を搭載する超大型航空潜水艦として具現化していたが、総勢十八隻という潜水艦建造能力を考慮に入れなかった数字と広大な航続力を実現する大型の船体はそれら特殊な用途に用いるフネ以外の潜水艦、つまり普通の潜水艦の建造遅延という弊害を巻き起こしていた。
「哨戒線が突破された可能性も否定できません。」
高嶋の言葉に北海は唸った。彼の脳裏には難題の全てを引き起こした人物の風貌が自然と浮かび上がっていた。
「せめて南雲艦隊が米軍の無線交信を傍受できていると願いたいものですが。」
高嶋の苦しい言葉に北海は脳内に現れたGF長官の姿を消し去り、意図的に第一航空艦隊(以下、一航艦)を指揮する南雲中将が将旗を掲げるフネを思い浮かべた。排水量相応の飛行甲板に駆逐艦並の小さな艦橋を持つ【蒼龍】は中型空母としては一つの完成形とも評されるフネだったが、やはり航空母艦であった。飛行甲板を可能な限り広くするために右舷に寄せられた小さく低い艦橋が持つ無線傍受能力は小さなものだった。なお、南雲中将の手元には【蒼龍】よりも大型である二万五千トン級の最新鋭空母【翔鶴型】二隻が編入されていたが、就役から半年経たずの参戦のため、練度不足を危惧した南雲中将は敢えて歴戦艦である【蒼龍】を旗艦に選んでいた。
「参謀長は南雲中将が米軍の交信を傍受できていないと思うのか? 」
「希望的に考えるならば、南雲中将の手元には比叡と霧島がいます。空母が捉えられなくとも、あの二隻が傍受できていると考えたい所ですが。」
北海の問いに高嶋は空母を水上脅威対象から守衛すべき最後の砦の名を上げた。それは艦齢二十七・二十六と戦艦としては盛りが過ぎたフネの名であった。古武者ながらも三十ノット弱という健脚により空母を守る最後の盾としての任務を与えられた彼女達の立ち位置は帝國海軍における戦艦の立ち位置を表明しているにも等しかった。なお、彼女達を含めた一航艦の面々は北海が率いる第一艦隊(以下、一F)から見て後方五十海里に位置していた。
高嶋は溜息混じりに続けた。
「残念ながら、あの二隻には敵信傍受班が乗っていません。例え、電波的に傍受できていたとしても、それを解析する頭がありません。」
高嶋の結論に「高速は頭脳を犠牲にしている」という誰が言ったかも分からない迷文句が北海の頭を過ったが、彼はそれを無視し、表情を苦くした。彼は自らが決断、それも戦争の趨勢を決するであろうことを選択しなければならないことを悟った。
「つまり、我々に残された選択肢は二つしかない。無線封鎖を破り、南雲艦隊に敵艦隊出動を連絡するか、それとも座して、推移を見守るか。」
北海の言葉に高嶋は何も発しないまま、真剣な眼差しで彼の上官を見つめた。それは彼が北海の決断を支持するという態度であった。
北海は瞑目した。決断は重大であった。そして、奇襲前の無線使用は作戦要綱で明確に禁じられた行為であり、自らの位置を堂々と宣言する危険な行為だった。しかしながら、北海が再び目を開くまでに時間はさして掛からなかった。
「よし。やってくれ。」
北海の言葉に迷いの色はなかった。高嶋は決断した指揮官に一瞥するとタラップに向かって進み始めた。
「高嶋参謀長っ。」
北海の言葉に高嶋は振り返った。そこには先ほどあった不服で舌を湿らせる将官ではなく、完全に決意を固めた水上打撃部隊指揮官の姿があった。
「我らの義務を果たす。一F針路変更、オアフ島沖二百海里まで接近。一航艦の盾になれ。」
時に現地時間午前四時三十五分。宣戦布告まで残り二時間五分、攻撃隊発進まで一時間二十五分のことであった。北風は鋼鉄製の彼女たちを依然として強く打ち付けていた。