Episode.Ⅶ 悪夢
最後の最後で、彼女に邪魔をされるとは。銀色の長髪が風に靡き、彼女が纏った濃紺の外套も大きくはためく。
「そこをどけ!」
「無理な相談だな」
アルウィンの怒鳴り声に、シャノアは冷え切った声で答えを返した。優美な動作で、彼女は細身の剣を鞘から抜き放つ。
「誰も通すなと、陛下からの命令でね」
彼女のよく通る声が、確かにそう言った。
なら、イヴは今、魔王と直接対決しているのか。それを知って、アルウィンの焦燥感は更に募る。
明らかな敵意を持って、シャノアはアルウィンを睨めつけていた。どうやら、今苛立っているのはアルウィンだけではないらしい。今日は彼女の腹の立つ笑みを見る機会はなさそうだった。
「……ならば、力づくで通るまでだ!」
自分も剣を抜いて、アルウィンは怒鳴り声を返した。
それからのことは、よく覚えていない。二人が率いる隊の兵士たちが入り混じって戦った。仲間の悲鳴と剣のぶつかる音が聞こえていた。
頭の中には、ただ一つ、強い目的意識しかなかったと思う。
イヴを助けるんだ。死なせやしない。彼女すら助けられなかったら。
俺には、何も残らないんだから。
そうして、何人斬り伏せたかわからない。携えた剣も、それを持つ手も、鎧も髪も顔も血で汚れていたから、相当殺めたに違いない。
気がつくと彼は、廃教会の石段の前に佇んでいた。馬もどこかへ逃げてしまい、残ったのは血のついた剣と自分の身一つ。
アルウィンは大きく目を見開き、乾いて割れた唇を開いてどさりと膝をついた。声の出し方を忘れてしまったように、開いた口からは隙間風に似た呼吸の音だけが聞こえていた。
自分とそっくりな緑色の瞳が。
白い手が。
血に染まった純白の鎧が。
嘘みたいに神々しく、アルウィンの目の前に横たわっていた。
彼のいないところで魔王は死に、イヴも死んで、全ては終わっていた。
*
アルウィンは剣を杖代わりにして、よろめきながらも立ち上がった。行く当てなんてなかった。ただぼんやりしたまま、彼は廃教会の裏手に回り、鬱蒼とした暗い林を抜けてゆく。
その先に広がるのは、草の一本もない荒地だった。それはどこまでも続いているわけではなく、少し行くと切り立った崖になっているらしい。
そこに濃紺の外套を見つけて、彼は虚ろな目のまま一歩ずつその人物に歩み寄っていった。
だがアルウィンの気配に気がついてか、その人は彼が辿り着く前に振り返る。フードを目深に被っていたから一瞬誰だかわからなかったけれど、目を凝らさないでもそれが誰なのかは明白になった。
銀色の長い髪が、フードからこぼれ落ちて風になびく。
その瞬間、目の前が真っ赤になった。疲弊していたはずの体は即座に動き、彼女へ剣の刃を振り下ろす。虚ろだった彼の目にはぎらつく光が宿っていた。
彼女は背後からの一撃を余裕で避けて、静かな目でアルウィンを見る。その白い頬には黒い土がついていて、それ以上に手が土にまみれていた。そのときはあまり気にしなかったが、多分あれは、魔王を埋葬した後だったのだろう。奴の遺体が見当たらないと、他の兵士が騒いでいた気がする。
「……るさない」
自分の声とは思えない、怨念に満ちた嗄れた音が負の感情を形と成す。
「お前は」
腹の底から叫んで、感情の抜け落ちた人形のような顔の女を睨んだ。
「お前たちは、決して許すものか……!」
全てがイヴに絡みつく茨となって、彼女を締め殺した。臆病な王、性根の腐った教皇、彼女を聖女と崇めたてた民、人間の対抗勢力となる魔族、強大な魔力を有する魔王、そして。
強過ぎた敵。
「お前が、イヴを殺した!」
シャノアが邪魔をしなければ、間に合ったかもしれない。イヴが殺される前に、彼女のいるところに辿り着けたかもしれない。どうしようもない「もしも」が頭の中でぐるぐる回っていた。
斬りつけてくる彼の剣を受け流すシャノアはひたすら無感情で、突然向けられた殺意に動揺する様子もない。銀色の髪が風にひらめいて、土煙の中で光った。
「……何をそんなに必死になっているんだ」
外套についたフードを被ったまま、彼女はぽつりと呟いた。よく通るはずの声も今はなりを潜めて、聞き落としそうなほどに覇気がなかった。
「君の主はもういないのに」
彼女にそう言われた途端、その事実がずしりとのしかかってきた。呼吸が苦しい。心臓の音がうるさい。
守るものなんてもう、何一つ残ってない。
「黙れ、我らに仇なす魔物が!ここで死ぬがいい!」
地を蹴って駆け出し、彼はシャノアへと剣を振り下ろした。彼女はこれも難なく避けて、静かにアルウィンを蔑む。もう全て終わったことなのに
今更争って何が変わるのか、と言うような目だった。
「……お前だって、俺と同じだ……」
呻くような呟きを聞き、彼女は不快感も露わに眉を寄せて彼へ問う。
「私と君の、何が同じだと言うんだ」
「俺たちはどちらも、主を守れなかった」
気狂いじみた笑みを浮かべて、アルウィンは自分の敵へと剣を振るう。彼女は細身の剣でそれを受け止めて、彼を睨みつけた。力が拮抗して、合わさった剣がかたかたと震える。
「あのとき、どうして魔王の元に向かわず俺たちの足止めに徹した?」
シャノアが僅かに動揺した隙に力任せに剣を弾き、アルウィンはがら空きになった腹めがけて刃を一閃させる。確かな手応えが手に伝わり、鮮血が散った。少女は体をくの字に折り曲げ痛みに表情を歪めながらも、何とか距離を取る。
「お前があのときすぐに退却していれば、主人のもとに駆けつけていれば、魔王は死ななかった!」
あのとき、あの一戦が運命を分かったきがしてならなかった。
きっとアルウィンがシャノアと剣を交えていたとき、同じようにイヴも魔王と戦っていたはずだ。
「お前の判断ミスが、主を殺したんだ!」
八つ当たりをできるなら誰だって良かった。殺意を向けてくれる敵がいれば、剣を振るう理由があれば。
何だってよかった。
だからアルウィンは、わざとこんなことを言った。
斬りつけられて血の滲んだ腹部を押さえていた手を外し、シャノアは俯していた顔を上げる。その目は相変わらず静かだったけれど、彼女が今までにないほど憤っていることは気配でわかった。不気味に光る青い瞳がアルウィンを睨み据えたかと思えば、彼女は瞬き一つ分の速さで距離を詰めて大きく剣を振る。その一閃は、アルウィンの衣を裂いて左腕を浅く傷つけた。彼も負けじと彼女の間合いまで踏み込んで、渾身の力で攻撃を繰り出す。
余力の使い方なんて考えていなかった。体が動かなくなるまで、全力を出し切るつもりだった。
熱くなっているアルウィンとは違って、シャノアは少しは理性が残っていたらしい。押されていると見せかけて、一気に後方に飛ぶと間を置かずに仕掛けてきた。攻撃したたきの勢いのままつんのめりかけた彼の上に、影が落ちる。シャノアは高く飛び、正確にアルウィンを狙って剣を振り下ろしていた。上からの勢いを伴って重くなった剣を、彼は受け止めきれずにまともに喰らう。疲労困憊の状態だったため、足がついていかない。
シャノアのフードが落ちて、銀色の髪が土煙の霞越しに光った。先ほどのお返しとばかりに、彼女の長剣は鎧すら砕いて肩から腹にかけて一直線に傷をつける。鮮血が散り、アルウィンは苦しそうに咳き込んだ。赤黒い血がぼたぼたと地面に落ちる。
今の傷は、深い。彼の絶大な治癒力をもってしても、回復は遅れるとすぐわかるほど。
「……確かに、陛下をお守りできなかったのは私の責任だ」
シャノアは、肩で息をしながら掠れた声で言う。
「だけど私は、あのときの判断が間違っていたとは思わない」
はっきりとそう断言し、彼女は再び剣を構える。乱れた息はなかなか戻らず、疲れきっているのは二人とも同じだった。
「あの人を信じて命令に従ったことを、後悔はしない。結果がどうであれ、選ばなかった道を未練たらしく語るほど、私の覚悟は軽くない」
自分にないものを持つ人だったから、彼女は主を敬愛し、忠誠を誓った。その人が下した命令を、最後まで信じて従うことが、彼女にとっての恩返しだった。
だけど、その主を失った結果は残る。主の盾となれなかった自分になど、生きる価値は見出せない。
彼女は血が出るほどきつく唇を噛み、なりふり構わずに叫んだ。
「そうさ、君の言う通り、私は弱くて未熟だった!だから死なせてしまった!」
じわりと血が滲むのも構わずに、彼女は腹の底から大声を上げた。これほどに怒りにかられて理性を忘れた彼女の姿を、アルウィンは初めて見た。
「だけどそれを、お前にとやかく言われる筋合いはない!」
息が切れるほど怒鳴ってから、彼女はアルウィンを馬鹿にしたように嗤った。その笑い声が、不気味に戦場の片隅に響き渡る。
「何もわかっていなかったのは君の方だ!聖女様は君を頼りはしなかった!わかってもらえないと思ったから話さなかったんだ!」
「うるさいっ!!」
怒りで頭が真っ白になった。
それは自分でも薄々感じていたことだっただけに、彼女に言われると余計に腹が立った。
イヴは、こうなることをわかっていた。アルウィンはわかっていなかった。失った日々が元通りになることを、何の根拠もなく信じきっていた。信じて疑わないで、必死になって走り抜けて。
結局残ったのは、自分の命ひとつだった。
結果だけで判断するなら、彼がこれまでしてきたことは全くの無意味だったことになる。それが怖かった。認めてしまうくらいなら、全てを忘れて眠りたかった。
耳障りな剣の音が段々と遠くなる。閃いた銀色の線が頬を、腕を、足をかすめた。斬りつけられた胸の傷からは絶え間なく血が滴り落ちるので、血液の足りなくなった頭は上手く働かなくなってきている。
このまま訳も分からずに死ぬのなら、それも悪くないと思った。
手の中で鉛のように重さを増した剣の柄を握り直し、霞む視界の中、目を凝らして標的を捉える。
これで最後だと感じた。
この一振りで最後だと。
歯を食い縛って、彼は最後の一振りに今出せる力の限りを込めた。ひゅっ、と刃が風を切った。
*
がきんっ、と刃が合わさる。
交差した剣越しにシャノアを睨み、アルウィンは低い声で問いかけた。
「……リトセはどうした」
険しい表情で詰問する彼に、シャノアは少し以外そうにしてから不意に笑う。
「真っ先に気にするところはそこなんだね。君らしいや」
「早く答えろ」
睨みつけながら催促すると、彼女は力を込めて剣を弾き、間合いを取った。それから、少し離れた場所にある木の根元を指し示す。そこには、木の幹に寄りかかって眠るリトセの姿があった。
「ここに倒れていたんだ。恐らく栄養失調だろう。命に別状はないはずだよ」
それを聞いたアルウィンはしばらくシャノアを睨みつけていたが、やがて微動だにせず構えていた剣をあっさりと下ろす。彼のこの行為に、シャノアは驚く素振りを見せなかった。そこが、アルウィンにとって腹の立つところだった。
「……復讐はいいのかい?」
わかりきったことをわざと聞くシャノアをもう一度睨んで、アルウィンは彼女の横をすり抜ける。
「それは今じゃなくてもできる。今は、リトセを街に届けることが先決だ」
きん、と剣を鞘に収めた彼を見て、シャノアもそれに倣った。アルウィンがリトセをそっと抱きかかえる姿を少し離れた場所から眺めて、彼女はほっとしたようなため息をついた。
ふとそのとき。
不自然な風を感じて、シャノアは空を振り仰ぐ。ぱっと見は、何でもない灰色の曇り空だ。上空から目を離して周りに広がる森を注意深く見回し、彼女は息を呑む。
「アルウィン、伏せろ!」
シャノアの声が響き渡った後に、異常な強風がその場に吹き荒れた。ついで、バキバキと木が倒れる凄い音。
シャノアの声と自身の勘に従って、リトセを抱きかかえたまま咄嗟に伏せたアルウィンは、背筋に悪寒が走るのを感じた。斬撃が頭のすぐ上を掻いた音が耳に残っている。今、立ったままでいれば首が飛んでいた。
すぐに起き上がって剣を抜き、彼は目の前に広がる光景に舌打ちする。恐れていた最悪の事態が起こったのだ。
そこには、白い竜がいた。