Episode.Ⅴ 希望
ちょっとだけ暴力表現があります。たいしたことないですが、苦手な方はご注意を。
妹の名は、イヴといった。
王都郊外の村で生まれた、ごく普通の女の子だ。彼女は、兄のアルウィンと幼馴染のユーナ、優しい両親に囲まれて、幸せに暮らしていた。彼女が10歳の時の、あの日までは。
「お兄ちゃん、お客さんが来たよ」
「……客?」
家の庭にある井戸から水を汲み上げていたアルウィンは、妹に袖を引かれて振り返る。彼女が指し示す方向を見やると、家の柵の外に白い服を纏った三人の男がいた。見たことのない顔だ。アルウィンが睨めつけると、三人のうちのひとりがにい、と口の端を吊り上げる。不気味な男だった。そいつの胸元には金十字が輝いていた。
「単刀直入に言わせていただきますと、お嬢さんを聖女様として王都に連れ帰りたいのです」
王都の大教会の使いだというその男は、二人の従者を引き連れてやってきた。家に招かれ、粗末な木のテーブルを挟んで両親と差し向かいに座ったその男は、悠々とした態度でそう言った。突然のことに、両親は困惑した顔をする。
「……何故イヴなのですか?この子は何の取り柄もないただの女の子です」
母の言葉に、男は顎を撫でながらにやりと笑った。
「では、お嬢さんをこちらへ」
「え……」
「少々、確かめたいことがあるんです」
訝しみながらも、母は戸の影から事の次第を伺っていた兄妹を振り返リ、妹の方だけを手招いた。イヴは躊躇いながらも、大人しく男の前に立つ。
一瞬のことだった。
使者の男が乱暴にイヴの腕を掴み、懐から素早く折りたたみナイフを出す。ぴんっ、と刃が出て、それはそのままイヴの腕を切り裂いた。
短い悲鳴と共に、鮮血が散る。
「イヴ!」
母が叫んだ。父はがたん、と席を立ち、机の下に忍ばせていた剣を引っつかむ。
昼下がりの小さな家に、子どもの啜り泣きが響く。床の木板にぽた、と赤い血が落ちた。
妹は、ごく普通の女の子だった。
ただ一つ、治癒能力が人並みはずれて高いことを除けば。妹ほどではないにしても、その力はアルウィンにもあらわれていた。おかげで兄妹は村人から爪はじきものにされ、遊び相手は幼馴染のユーナくらいしかいなかった。
そのときも例に漏れず、イヴの傷はすぐに塞がった。イヴは荒い息をつきながら、怯えて泣いていた。男はそんな彼女を無感動な目で見やり、知らしめるようにもう一度彼女の腕を引っぱる。
「これのどこが、普通だと?」
「イヴを離せ」
父が、低く唸るような声で言い、剣を抜く。普段は無口で穏やかな父が、このときは本気で激怒していたのを覚えている。母は椅子から立ち上がり、泣きそうな顔でイヴを見つめた。イヴはといえば、男に腕を掴まれたまま、混乱と恐怖で声も出ないようだった。
「ガウス卿、いかがなさいます」
側近の男たちが、す、と前に出てくる。ガウス卿と呼ばれたその男は、興味がなさそうに無造作な答えを投げ返した。
「三人とも殺しちゃってください」
聖女様に、家族なんて俗物的な物いらんでしょう、と付け加えて、男は薄く笑う。
何。
何を言っているんだ、この男は。
アルウィンは頭が真っ白になった。この強引な状況に、ついていけない。
だけど両親は違った。
父は剣を抜いて側近の男たちと戦いながら、「逃げろ!」と叫んだ。母はその言葉通りに、アルウィンを抱えて離れの部屋に走る。そして火の絶えた暖炉の中にアルウィンを隠し、羽を模した金属の飾りを握らせた。
「アルウィン、これから何を見ても、何があっても、声を上げちゃだめよ。この羽飾りを持っていればあなたは誰にも見つからないから」
今思えばこれは、何かの魔術だったのだろう。実際このとき、アルウィンは誰にも見つからなかった。
「ごめんねアルウィン、愛してる。イヴのこと守ってあげて」
囁くような声だったけれど、その声には強い思いが込められていた。
そしてアルウィンの目の前で、母は殺された。アルウィンは口を塞いで声を殺し、見開いた目から涙をこぼしながらそれを見ていた。
*
「ねえアルウィン、本当に行くの?」
ユーナは不安そうな目でアルウィンを見つめた。彼女の声は言外に行ってほしくないと言っていたけれど、アルウィンは気がつかない。
「行くよ。イヴを助けに」
あの惨劇から二年が経った頃、アルウィンは王都へ行くことを決意した。
「あいつ、聖堂の奥に監禁されてるって聞いた。早く助けないと」
「無茶よ、一人でなんて……アルウィンも、殺されちゃうわ」
ユーナは震える拳を胸元で握って青ざめた。アルウィンは何も言わない。
二年前のあの日、アルウィンの両親はどちらも殺されてしまった。助かったのはアルウィンひとりだけ。イヴは、この世にたった一人残された彼の肉親だった。
「おじさんとおばさんと……お前には、感謝してる。ありがとう」
「そんな……私たち、あなたを家の奥に閉じ込めて存在を隠すことしかできなかった」
「それで充分だよ」
どういうわけか、あの日以来アルウィンはこの村では死んだ者とされていた。教会からの追手もない。
だからこそ、下手に外に出て存在を知られるわけにはいかなかった。異常な治癒能力を持つアルウィンはもともと村の連中から気味悪がられていたし、今度こそ教会に突き出されるかもしれない。
行き場を失った彼を匿ってくれたのが、ユーナの両親だった。このことが教会に知れれば、彼らも処罰を受ける。それを承知の上で。
「でも、もうこれ以上お前の家に迷惑をかけるわけにはいかないんだ。あとは自分でやる」
「……私たち、まだ14歳なんだよ」
ユーナは信じられない思いでアルウィンの横顔を見つめた。年不相応なほど大人びた、覚悟を決めた目が、ユーナには恐ろしかった。
まるで、いつ死んでも構わないと言っているみたいで。
まだ自分と同じ年の男の子がすべてを一人で抱え込み、哀しい決意を秘めているのが、ただただ怖かった。嫌な予感が、彼女の全身に満ちる。
何処かで狂ってしまった歯車がこの兄妹を運命の渦に引きずりこみ、坂を転げ落ちるように、二人とも遠くへ行ってしまう気がした。
「……だけど俺がやらなきゃ、誰がイヴを守るっていうんだ」
その声を聞いたとき、ユーナはやっと思い知った。
どんな言葉も誰の声も、もう彼には届かないのだと。
「じゃあ、今まで世話になった」
王都へ向かう彼の背中を見送りながら、少女はきつく拳を握り、唇を引き結んだ。そうして、彼には聞こえないような小さな声で、自分に誓う。
「私、あなたを追いかけるから」
このままじゃ。
きっと二人とも、帰ってこない。
「あなたがイヴを守るのなら、私があなたたち二人を守る」
私が必ず、あなたたちをこの村に連れ戻してみせるから。
*
はぁっ、はぁっ、と息を切らしながら、少女は大理石が敷き詰められた廊下を走り抜ける。ただし、あくまで上品さを損なわない程度に。彼女がなりふり構わず全力疾走しなかったのは、何も彼女がお淑やかだったからではない。起こったことをまだ現実として受け止められていなかったからだ。少女は大きな白い扉の前で立ち止まり、胸元で手を握りしめて息を整える。そしてその重たい扉を押し開けた。
そこには、両腕を縛られて床に膝をついている青年がいた。その足は鎖で柱に繋がれている。
少女は目を見開き、その人を見る。青年も、少女の方を振り返ったまま言葉を失くしていた。
よろめきながら数歩だけ歩き、それから少女は前につんのめりそうになりながらその人に駆け寄った。自分も膝をついて、腕が動かせないその人の代わりに抱きしめる。
「兄さん……!」
会えなくなってから、六年の月日が経っていた。
背格好も顔も変わっているのに、二人とも一目見ただけでお互いがわかった。
「イヴ」
優しく名前を呼ばれた途端、イヴの瞳から涙が溢れ出す。
ずっと会いたかった。
たったひとり聖堂の奥で過ごしながら、ずっと待っていた。心が凍えそうなときも、死んでしまいたいと思うときも、いつだって兄の存在がイヴを繋ぎとめていた。この世でたった一人の、血の繋がった兄妹。
「もうそろそろいいですか?」
六年ぶりに再会した兄妹を冷めた目で見下ろし、アルウィンから少し離れていたところにいた教皇はうんざりした様子でそう言った。噛み殺しそうな目で、アルウィンはその男を睨む。
それは、かつてガウス卿と呼ばれていた男だった。
二人の両親の仇だった。
「聖女様、騎士団に鼠が潜んでいたので引きずり出しましたが、いかがいたしましょう?」
教皇は薄ら笑いでわざとらしくそう聞いた。イヴは険しい表情でその目を見つめ返す。
「……あなたは、とうに気がついていたのでは?」
「当たり前です。彼が二年前に教会騎士団に入団したときから知っていましたよ。子どもの浅知恵なんてたかが知れている」
思いきり嘲られて、アルウィンはぎり、と奥歯を噛んだ。ばれていないなんて甘い考えは持っていなかったが、こういう言い方をされると腹が立つ。
「……じゃあどうして今まで放っておいた?」
「鼠一匹にいちいち構っていられるほど、私は暇じゃないんです」
教皇はあっさりと答えた。この答え方がさらにアルウィンの神経を逆撫でする。
わかっている。わざとやっているのだ、この男は。
「あのときせっかく逃がしてあげたのに、自分から敵地に飛び込むとはずいぶんと馬鹿な子だ」
教皇の言葉に、アルウィンは目を見開いた。
あのとき。
両親が殺されたあのとき、アルウィンは確かに、母の魔術によって隠されていた。だけど効力が持続する時間はさほど長くない。羽飾りはその日の夜には魔力を失って壊れた。この男は、その気になればアルウィンを殺すことができた。
できなかったわけじゃない。しなかっただけだ。
「……失策だったな。あんたが手を抜いてくれたおかげで俺は戦う力を手に入れた」
「剣を取り上げられて満足に動けもしない状態でよく言えますね」
アルウィンは無言で教皇を睨んだ。
確かに、完全に油断していた。警戒はしていたはずなのに、二年も無事だったせいで心に隙ができていた。だから簡単に取り押さえられて剣を奪われたのだ。
だけど、剣がなくたって喉笛に噛みつくことくらいできる。不穏な考えが彼の頭に思い浮かんだちょうどそのとき、今まで黙っていたイヴが動いた。
彼女は座ったまま教皇に頭を下げる。
「教皇猊下、お許しください。兄の罪科はすべて私が償います」
驚きのあまり、アルウィンは絶句した。イヴは凛とした声で続ける。
「どうか兄を生かしてやってください」
「イヴ!こんな奴に頭を下げること……っ」
言いかけたアルウィンの頭が、大理石の床に叩きつけられる。教皇が彼の頭を足蹴にしていた。
「君の両親は目上の人に対する礼儀を教えなかったようだ」
「どの口が……っ」
「兄さんやめて!」
まだ言い返そうとするアルウィンを、妹の悲鳴のような声が遮る。兄は戸惑った様子を見せながらも、彼女の言うとおりに口を閉ざした。
「……教皇猊下、お願いします、どうか……」
教皇は案外早くアルウィンの頭から足をどけた。イヴはほっと息を吐き、顔を上げる。
だけどそれは束の間のことだった。
アルウィンの頭を、教皇の蹴りが直撃する。イヴが今度こそ悲鳴を上げた。まともに食らってしまい、アルウィンは床に倒れ伏しながら咳き込んだ。今蹴りが来なければアルウィンは確実に教皇に掴み掛っていた。そういう意味では見事な判断だった。
泣きながら兄を助け起こすイヴを見やり、教皇は薄く笑う。
「聖女様、私は今日はあなたを虐めに来たわけじゃないんですよ」
「……兄を痛めつけに来たということですか」
「それも違います」
いつになく敵意を剥き出しにした彼女を面白そうに見やり、教皇は弾んだ声でこう言った。
「あなたにプレゼントを贈りに来たんです」
額と口の端から血を流しているアルウィンも、顔を強張らせていたイヴも、ぽかんとしてしまった。
「一つ目のプレゼントはそれです」
彼はアルウィンを指差してそう言ってから、続けて言った。
「二つ目はこれからお目にかけましょう」
二人は既についていけていなかった。ただ教皇ひとりが、楽しそうに笑っている。気味が悪いほどに上機嫌だ。彼は部屋の奥にある扉に向かって、いつもの調子で「お入んなさい」と声をかけた。
ぎい、と軋んだ音を立てて古びた木の扉が開く。
兄妹は、二人揃って目を見開いた。
扉の向こうから現れたのは、二人がよく知る人物だったから。子どものときから、ずっと一緒にいた人だ。
「……アルウィン!イヴ!」
その人は二人の名前を呼ぶなり駆け寄ってきた。そして二人纏めてその腕で抱きしめる。
「……ユーナ、なんでお前がここに」
茫然としながらアルウィンが問いかけると、ユーナはしてやったりという顔で笑った。
「私も教会の騎士だからよ」
「はあ!?訓練の時にお前なんか見かけなかったぞ!」
「そりゃあ、所属部隊が違うもの。当たり前でしょ」
事も無げに言われて、アルウィンは何も言い返せなくなってしまった。
今日は驚くことばかりだ。
「……兄さん、ユーナ」
大切な兄と幼馴染を抱き寄せて、イヴは涙まじりの小さな声で言う。
「来てくれてありがとう」
泣きながら微笑む少女が、今までどれだけ苦い思いを舐めてきたか。実際に知らなくても、アルウィンとユーナには簡単に想像がついた。この六年でイヴはすっかり大人びて、落ち着いた静かな目をするようになったから。
彼女はもう、何も知らない子どもじゃなかった。その小さな背中に重たいものを背負っている。
「感動の再会に水を差すようで悪いですけどね」
教皇はまったく悪いと思っていなさそうな調子で割って入った。睨めつける視線が二つに増えて、教皇は密かに眉をひそめる。
「その人、もうイヴじゃありませんよ。元の名で呼んだときはアルウィン卿、ユーナ卿共に騎士団から除名します」
二人は表情を険しくした。除名云々に反応したわけじゃない。イヴの呼び名に関してだ。
二人とも、イヴが名を奪われて聖女様の偶像を押しつけられていることは知っていた。だけど実際に直面するととても腹立たしい。
「それから、聖女様とアルウィン卿が兄妹だということは内密に。ばれた場合は、アルウィン卿とユーナ卿の命で償ってもらいましょうか」
「なっ……!」
「聖女様」
反論の言葉を紡ぎかけたイヴを制して、教皇は無言の圧力をかける。少女はびくりと肩を跳ねさせて口をつぐんだ。
「その二人をあなたの騎士とすることを認めましょう」
「いきなり……何故ですか」
この男は今まで執拗なほどにイヴを外界から遠ざけてきた。聖女の神秘性を保つために。それが突然騎士をつけることを許した。それも、イヴの故郷の人間を。
長年この男と一緒にいたイヴは、何かと勘繰らずにはいられなかった。この人の行動はいつだって読めない。だからこそ不気味で恐ろしい。
「何故?愚問ですね」
そしてこのときも、彼の行動には確かな意味があった。
「中途半端な希望を与えられたほうが苦しいでしょう」
教皇の薄ら笑いを見て、彼女はぞっとした。
中途半端な希望。その通りだ。だけどイヴは、そうとわかっていてもこの希望に縋らずにはいられない。
逃げられない。
「せいぜい足掻くといい」
冷たいはずなのにどこか楽しそうなその声がたまらなく怖かった。
ばたん、と扉が閉まる音とともに、教皇は奥の部屋へ姿を消した。
”卿”の使い方がいまいちよくわかってません。アルウィンとユーナの”卿”は英語で言う”sir"みたいな感じだと思うんですが、ガウス卿の”卿”はなんとなくつけました。まあそういう雰囲気を醸し出したいだけなんであまり気にしないで読んでください。