Episode.Ⅲ 兄妹
二人が田舎村の施療院を出て四日、スコラクス山脈を越えて平地の村を二つ通過し、また山に分け入ってから一夜明けた、早朝のことだった。
「昼までには麓の街に降りられるだろう」
シャノアは後からついてくるアルウィンに、振り返ってそう言った。
「王都って、遠いんだな」
「馬で行けば短縮できたけどね、傷にひびくだろう」
第一、二人には馬を買うだけの金がなかった。もともと二人の所持金はゼロで、山に入ったときにシャノアが採った薬草や獣の皮を町で売って金に換えていた。それでも二人の旅が金銭的に厳しいことには変わりなく、野宿と安い宿での寝泊りを繰り返して、食費も切り詰めなければいけなかった。
「この山を降りて町を一つ越えれば王都入りか……急がないとな」
眼下に見える街並みに目を細めて、彼は更にその先の王都へと視線を向ける。遠く霞むその都市は、かつての彼が生きた場所だ。
顔は笑っているものの、彼が無理をしていることは、シャノアにはわかっていた。時折夢でうなされてはいるが、睡眠時間はおおむね足りているはず。だとしたら彼に今必要なものは。
「アルウィン」
「ん?」
「今日はあの街で観光をしようか」
急に突拍子もないことを言い出した彼女に、アルウィンは反論することも忘れてぽかんと口を開けていた。しばらく呆然としてからやっと言葉を取り戻したアルウィンは、彼女の提案に反発した。
「だって今まで、寄り道のひとつもせずに歩きづめだったじゃないか。どうして今更」
「それが、やっぱり無理が祟ったと見えてね、今になって傷が痛みだしたのさ」
だけど彼女はひらりとそれをかわしてしまう。
「私は、無理を通してまで君の案内をしなくてもいいんだろう?君が最初に言ったことだ」
確かに、アルウィンはルサラ山でそのような趣旨のことを言った。言ったからには、彼女を無理に追い立てて先に進むわけにはいかない。シャノアは困惑顔のアルウィンにしたり顔で笑った。
「傷が痛むなら観光するより宿で休んでいたらいいだろ」
アルウィンがどれだけ言葉を弄しても、シャノアは笑って取り合ってくれなかった。その足取りは軽やかだし、顔色も良い。彼女が気を遣ってくれていることは、いくらアルウィンでもわかった。
*
正午を少し過ぎたころ、二人は山を降って街の入り口にたどり着いた。アルウィンは周囲を見渡し、思わず感嘆の声をもらす。
「すごいな……露店商がこんなに」
二人の目の前には、簡易式の露店を立てたり、布を敷いた上に胡坐をかいて商品を売りさばいている商人たちがたくさんいた。ずらりと並ぶ商品の種類は豊富で、店に立ち寄る人々の群れで通りはごった返していた。今まで通った町の中でも、ここはもっとも活気があるようだった。
「私も王都周辺は詳しくないけれど、この街は王都へ向かう旅人がよく通るようだからね、必然的に栄えるだろう」
「すごいな……」
目を丸くして目の前の光景に見入るアルウィンは、同じ言葉を繰り返すことしかできなかった。シャノアはそんな彼を見上げて、おかしそうに笑う。
「少しは観光する気になったかい」
からかい混じりにそう聞かれて、アルウィンは言い返すこともできずに唸る。
確かに、記憶喪失中の彼にとっては、さまざまな物が行きかう露店商の列は、甘美な餌だった。好奇心が掻き立てられて、足が自然とそちらへ向く。
ふとそのとき、ぐぎゅるるるる、と腹が鳴る音が盛大に響いた。
二人の間に、しばし沈黙が落ちる。
それからおもむろにシャノアが顔を逸らし、アルウィンが口を押さえて肩を震わせながら俯いた。
「……っと、とりあえず、腹ごしらえしようぜ……」
「いっそ笑い飛ばしてくれていいんだよ、アルウィン」
今まで余裕ぶっていたシャノアは赤面こそしなかったが、気まずそうな顔をしていた。アルウィンは必死で笑いを堪えていたが、ついに堪えきれなくなって大声で笑いだす。それは人々の喧騒に混じって、昼下がりの街に心地よく響き渡った。
昼食には露店商で買った串焼きをたいらげ、宿をとってから二人は心ゆくまで街を回った。露店商の他にも、通りで開かれている本屋や武器屋など。手持ちの金がほとんどなかったため何も買わなかったが、それでも楽しかった。
シャノアはさすが兵士なだけあって、武器のこととなると饒舌だった。武器商人とは話が弾んでいたようだ。どうやら彼女は魔術も齧ったことがあるらしく、本屋でもアルウィンにはわけのわからない理論が書かれた本を興味深そうに立ち読みしていた。
一般的な知識はほぼ欠けていないはずのアルウィンだったが、思わぬところで無知を披露してシャノアに大笑いされたり、押し売りにひっかかりそうになったり。見たことのない果物や骨董、美しい織物や装飾品、何やらよくわからない壺や瓶など、面白いものがたくさんあった。失った記憶のことなど頭の片隅に追いやられるような、目まぐるしい日だった。
「この街の西側、やけに廃れていないか」
日が傾いて街灯に火が灯され、通りに溢れかえっていた人もまばらになってきた頃。そろそろ宿に帰るかというときになって、シャノアは少し声を落としてそう言った。
「そうだな。昼間なのに、通りに人がいなかった」
それは、二人が共通して持つ感想だった。街を回っているときに少し西側へ逸れると、その途端に人の声が遠のいた。見たところ人が住んでいないわけではなさそうだけれど、誰もが家の中に引っ込んでいるようだった。
まるで、何かを恐れるように。
「スラム……とかじゃないか」
「その割にはそれらしいゴロツキがいなかったし、スラムにしては綺麗すぎる」
確かにそう指摘されると、違和感があった。
二人は街の北東あたりから入ってきたので最初は気づかなかったが、賑やかな世界の裏に全く別の、不気味な静けさを湛えた世界がある。二人そろって黙考していると、不意にアルウィンの背後から何かが突進してきた。アルウィンは衝撃で前によろめいただけだったが、ぶつかってきた方はその程度では済まなかったらしい。
短い悲鳴とともに、どさっ、と人が倒れこむ音がした。振り返ると、地面に尻餅をつき、両手で後ろ手に体を支えている子どもがいた。
「ごめん、大丈夫か?」
「君、怪我はない?」
アルウィンとシャノアは慌ててその場にしゃがみ込み、その女の子を心配そうに覗き込む。だけど彼女は地面に座り込んだまま俯くばかりで、答えるどころか声を発する様子もない。二人が顔を見合わせて困り果てていたところに、もう一人、男の子がやってきた。
「リトセ!」
息を切らしながら彼が呼びかけると、座り込んでいた少女はぴくりと反応して顔を上げる。
「……お兄ちゃん」
女の子はか細い声で呟き、そうかと思うとすぐさま立ち上がって俊敏な動きで兄の後ろに隠れた。
二人とも年は十歳前後で、確かに似通った容姿をしていた。ただ少し気になるところもあった。彼らは二人とも腕や足が折れそうに細かった。着ているものの布が余るほど。
「ごめんなさい、妹が、ぶつかって」
震える声で謝る男の子はどう見ても怯えていて、顔も青ざめていた。それでもしっかりと妹を背にかばうのだから、立派なものだ。
「俺は大丈夫だよ。それよりそっちの女の子は、怪我してないか?」
男の子は妹の方を振り返り、小声で何がしか言葉を交わしてから「だいじょうぶです」と答えた。ほっとして息をつくアルウィンの横で、シャノアが再びしゃがみ込んだ。地面に膝をついて、彼女は子どもたちと視線を合わせる。
「ちょっと聞きたいんだけど、いいかな」
柔らかい笑顔で、シャノアはそっと話を切り出す。妹は相変わらず隠れたままだったが、兄の方はいくらか緊張の緩んだ様子で頷く。
そうか、こう話せばよかったのかと、アルウィンは一人で納得してしまった。
「私はシャノア。君の名前を教えてくれる?」
「……ヨ、ヨハン」
「そう、ヨハン。君はこの街の西側、何があるか知っているかな」
シャノアの問いかけに、妹は兄の服をきつく握りしめ、兄はあからさまに動揺した顔をした。黙りこくってしまう彼らを急かすことなく、シャノアは辛抱強く答えを待つ。
「……お姉さんたち、旅の人?」
恐る恐る問い返した彼に、シャノアは自然な返答を返した。
「うん、そうなんだ。だからこの街のことはよく知らなくて」
「だったら……西の方には近づいちゃだめだよ。絶対」
「そう。どうしてかな」
「竜がいるから」
間髪入れずに返ってきた答えに、アルウィンは目を丸くして、シャノアはその青い瞳を光らせた。
「西の山には竜が棲みついているから」
*
濃紺の空に散りばめられた光の欠片はそれぞれに輝き、とろけるような黄金色の三日月がほのかな光のヴェールを纏っている。その日の夜はかなり冷え込んだため、空気が澄みきって星がよく見えた。
「宿の主人に聞いたら、同じ話をされたよ」
濡れた髪をタオルで無造作に拭きながら、シャノアはベッドに腰かけた。久しぶりにまともな入浴を済ませた二人は、アルウィンの部屋で今日出会った兄妹の話の確認をしていた。
「なんでも、二週間前あたりからこの街の西側を荒らし始めたらしい」
宿屋の主人の話によれば、西の畑は全滅なのだという。竜によって取って食われた者もいるという話で、西側に住む住人たちは皆、一日中家の中で震えあがっているらしい。他の街に避難する人も出てきたという。
王都近郊の、それなりに重要であるはずのこの都市がここまでの被害にあっても王国騎士団が動かないのは、やはり此度の戦の影響が残っているからのようだった。
「そもそも竜は、元々とても温厚なんだよ」
濡れた髪を耳にかけながら、シャノアは訥々と語り始める。
「ただ縄張り意識が異常に強いだけで……こちらから危害を加えなければ、攻撃はしてこないはずなんだ」
「でも実際に、街を荒らしているんだろう?」
木の椅子に座ったアルウィンは顔をしかめながら言う。シャノアが言っていることと、この街の西に棲むという竜の行動はかなり矛盾していた。
シャノアは押し黙って、額を押さえる。
「……そうまでしなければならない理由があるとしか、思えない」
アルウィンはどうもシャノアが竜に肩入れしすぎているように感じた。彼女は、何か竜に対して特別な思い入れでもあるのだろうか。
「……気になるのか?」
そっと問いかけると、彼女は特に隠すでもなく、ありのままの答えを言う。
「実はね。でもまあ、今は君を王都まで送り届けるのが先決だ。西側の山なんて向かう予定はないし、竜の話は気にしなくてもいいだろう」
彼女にそう言ってもらえると、アルウィンとしては助かった。
手負いの体で道案内をしてくれている義理があるので、彼女の事情にはなるべく合わせたい。ここで彼女が竜の様子を見に行きたいといえば、アルウィンは彼女についていって西の山へ行くだろう。
だけど、ユーナという少女の夢を見た頃から、彼の中で着実に焦燥感が芽生えつつあった。アルファルド、スザン、ユーナ、ベネット、ジル。失った仲間の名は夢の中で数多く見た。取り戻した記憶と感覚が確かなら、七英雄と呼ばれた聖女の騎士たちは、内五人が既に帰らぬ人となっている。六人目はまだ夢に見ていない。シャノアに聞けば分かるかもしれなかったが、そんな勇気はなかった。
「……俺とシャノアは、どんな関係だったんだ?」
ふと気になって、問いかける。
会話の流れを無視した質問に、シャノアは面食らった顔をしていた。
アルウィンは勝手に、シャノアと記憶を失う前の自分は赤の他人だと思い込んでいたが、彼女はそんなこと一言も言っていない。彼女に問いただせば、まだ得られる情報はあるかもしれなかった。
「知人程度だったのか、上下関係にあったのか、それとも友達だったのか」
「いや、友達ではなかった」
そこだけやけにはっきりと否定されて、アルウィンは苦笑いを浮かべる。そんなにはっきり言わなくても、と顔に書いてある彼を見て、シャノアは少し笑って付け足した。
「だけど、剣を交えたことはあるよ」
「……覚えてない」
これは完全に、目から鱗の情報だった。
「君、強かったよ。剣に迷いがなかった」
シャノアがそう言うのなら、過去のアルウィンは相当な腕前だったのだろう。
遠くを見るように目を細めるシャノアは、どこか寂しげだった。
「……シャノアは、どうして剣を選んだんだ?」
口をついて出たのは素朴な疑問だった。
今まで夢に見た記憶の中で、男の兵士は数多く見たが女性はあまり見ない。というかシャノアとユーナぐらいしか思い当らなかった。一般的にも、女性の兵士は少ないはずだ。それなのに、何故。
「一番ありふれた理由だよ。守りたいものがあったんだ」
嘲るような笑みだった。
その皮肉な笑い方は板についていたけれど、アルウィンとしてはあまり好きじゃない。
「私はただあの人の、絶対的な盾になりたかった」
アルウィンは、目を見開いた。
頭が真っ白になる。
同じだ。
彼女が言っていたことと。
『私は盾になる』
『それなら俺は、この剣に誓って』
お前を守るよ。
「アルウィン、君も多分、私と同じだ」
彼女の声で、考えに沈んでいた意識が現実に引き戻される。戸惑いを隠せずにいるアルウィンに、彼女は今度こそ、何の含みもない笑顔を向けた。
「自分や他人を犠牲にしても、守りたいものがあったんだ」
その言葉がずっと頭に染みついて離れなかった。
シャノアが出て行ったあとの部屋でベッドに寝転がり、アルウィンは何度も寝返りを打った。
もしかしたらシャノアは、ユーナなのかもしれない。
ユーナの顔を思い出せない以上、他のことで推測していくしかない。ここまでの旅の途中で、シャノアの剣の腕前はしっかりと思い知った。考えてみれば、あれほどの腕ならば上位の騎士であってもおかしくない。むしろそう考えるのが妥当だ。
聖女を守護するのは王国軍でも選りすぐりの七人の騎士たち。そこにシャノアがいたって、何らおかしくはない。たかが一兵卒が、七騎士の一人であったアルウィンと手合せをすることなど、普通に考えればあり得ない。
守ると誓った人はまだ一人、生きているのかもしれなかった。