Episode.Ⅱ 橙色
「……案内してくれとは言ったけどな」
木々の根っこを避けて歩く足を止め、アルウィンは先を行く少女の背を睨む。
「駄目だ、やっぱり戻ろう!無茶だ!」
鬱蒼とした山の奥深くで、青年の大声が哀れっぽく響いた。
ここは、二人が手当てを受けた街から徒歩で南に行って半日ほどかかる場所に聳える山脈の中だった。シャノアによれば、名をスコラクス山脈というらしい。二人は、その中のルサラ山という山を登っていた。
この山はスコラクス山脈を越える旅人たちの間でもっとも敬遠される山なのだという。何故なら。
「だいたいこの山は……」
言いかけたアルウィンの背後から、突如茂みの揺れる音と共に狼のような魔物が飛びかかってくる。一瞬遅れてそれに気がついたアルウィンだったが、それでは遅すぎた。魔物の赤い目が不気味に光り、彼を捉える。
だが、その爪がアルウィンに届く前に、銀の光がそれの胴体を引き裂いた。悲鳴を上げて、魔物は泥の中に弾き飛ばされる。
「……魔物が多すぎるんだ」
腰を抜かして座り込んだアルウィンの横に立ち、少女は剣を一閃させて刃についた血を払った。
女の子に、しかも手負いの人間に助けられた負い目を感じ、彼は言い訳めいたことを呟く。
だけど実際に、この場所は魔物の出現率が通常時を大幅に上回っていた。
あの街から王都に行くには、この山脈を越えることは絶対条件。ついでに言えば、ルサラ山を通る道は王都までの最短ルートだった。
だがこの山は魔物の巣窟になっている。だから旅人たちは仕方なく迂回する道を行くのだ。そこまで知っていて、シャノアはあえてこの山を通ることを選んだ。
「このくらい、戦場よりかはましだろう。そろそろ自分の身くらい自分で守ってくれ」
「無茶言うな!だいたい俺は戦場の記憶がないし、まして実戦なんてからきしなんだよ!」
いまだに鞘から抜かれていない剣を杖代わりにして立ち上がり、彼は軽くシャノアを睨む。彼女は肩まである金色の髪を耳にかけて、アルウィンよりも少し高くなった場所から彼を見下ろした。その目は威圧的ですらある。
シャノアは強い。
その剣技は力技というより、知識で培われていた。
基本の型をしっかり意識した上で、かといってはまりすぎてもいない実戦的な戦い方だ。生き物の急所を熟知し、地形や気候の知識も豊富で、何より驚異的な俊敏さを誇っている。その身軽さが彼女の大きな武器となっていた。
だけど、どうにも向こう見ずなきらいがある。まるで、いつ命を捨ててもいいと思っているかのような。
今だってそうだ。
「だいたい、怪我が治りきっていないのにこんなおかしな山を越えるなんて無謀だ」
アルウィンが言っているのは自分の体のことじゃなく、シャノアの怪我のことだった。
彼が昨日王都までの道案内を頼んだとき、彼女は即座に出立の日取りを明日として、さっさと用意に取り掛かった。医術師たちは彼女を止めたが、彼女は聞く耳を持たず予定通りに施療院から出た。
「確かになるべく早くに王都へは行きたいが、あんたに無理をさせたくない」
相変わらず上から睥睨する彼女を見上げ、アルウィンはそう言い切った。恩人に無理をさせてまで目的を果たしたいとは思わない。シャノアは、彼の目を見てしばらくののちに、大きなため息をついて腰に手を当てた。
「あそこは急拵えの医院だろう」
「ん?……ああ。教会が病室を貸してたみたいだったな」
「あの町の病院には患者が収まりきらなかったんだろうね。医術師だけでなくシスターや神父まで駆り出していた。私や君はあの患者たちの中では充分軽傷の部類に入る。頃合いだったよ」
なるほど確かに彼女の言うことはもっともだ。治りかけの自分たちより、重症の人にベッドを使わせたほうが良いに決まってる。
「それに」と続けて、彼女はアルウィンの肩から腰までを指先でなぞって示す。それは、他の傷と違ってまだ塞がっていないアルウィンの傷痕だった。
「君のその異常な治癒能力も、怪しまれずにはいられない。説明のしようがないことを聞かれてもどうしようもないから、あの場は出て行くのが一番だった」
違うかな、と問われて、アルウィンは言葉に詰まる。シャノアの言うとおりだった。並みの人間より遥かに高い治癒能力について、医術師やシスターたちは何も聞かなかったが、不信感は抱かれていただろう。
アルウィンもこの山に入って気づいたことだが、この回復の早さはまるで。
「アルウィン、私の怪我を心配するなら君が代わりに剣を振るってくれ」
少女は彼の背後を指さし、そう言う。そこでは、さっき彼女に斬りつけられた魔物が唸り声を上げながら、泥の中から身を起こしていた。シャノアがわざと浅く斬ったんだろう。でもそれだけじゃない。魔物が立ち上がることができた大きな理由は、彼らの持つ高い治癒能力にある。
アルウィンと同じだ。
彼の体の仕組みは、魔物と似通っているところがあった。
彼とて、まさか自分が魔物だとは思いたくないが、人間だと言える証拠もない。記憶がないのだから。
気落ちしていた彼は、魔物の唸り声で我に返った。
ひゅっ、と耳の近くで空気を裂く音がした。横殴りに飛んできた爪を、わずかな差でかわす。そのまま木の幹に倒れ掛かるようにして背をついた。心臓が情けなく脈打つ。そのまま座り込みそうになる。
シャノアは、彼のそんな様子を近くの木の上で苛立たしそうに見ていた。
完全に高見の見物を決め込んでいる彼女に、アルウィンは目で助けを求める。
「相手から目を逸らすな!狙われるぞ!」
「えっ……」
彼女の言うとおりに、次の攻撃が来る。喉笛に噛みつかれそうになって、アルウィンは慌てて身をかがめた。
「言わんこっちゃない……」
何やってるんだ、とため息交じりに呟き、シャノアは危なっかしいアルウィンを見て舌打ちした。
「腰を低くしろ!逃げ腰にならないで相手をちゃんと見る!」
叱責が飛んできて、アルウィンは苦虫を噛み潰したような顔をした。
だから出来ないって言ってるのに。
でもシャノアはそんな弱音きっと聞き入れてくれない。仕方ないと腹を据え、彼はきつく奥歯を噛んで臆病な気持ちを噛み殺した。彼女の助言に従って腰を低く沈め、相手の動きをしっかりと見る。
「ずっと訓練してきたんだ、体が覚えてる」
シャノアのその言葉は、アルウィンに暗示をかけてくれた。
そうだ。ずっとやってきたじゃないか。
彼の中で”何か”がそう言った。
剣は手の中で重みを増して馴染み、体の奥底から熱がこみ上げてくる。アルウィンの中に確かに眠っている、聖女の騎士だった”アルウィン”がゆっくりと呼吸を始める。
不思議な感覚だった。まるで自分の体が、他の誰かに動かされているような。
魔物が地を蹴るのと、アルウィンが動くのが同時だった。
シャノアはその光景を見て、息をのんで目を見開く。
目が。
今一瞬、アルウィンの目が、今までにない鋭い光を宿したのだ。
魔物の断末魔が耳をつんざき、森の空気を震わせた。敵がこと切れるのと時を同じくして、アルウィンも自分が攻撃した時の勢いでつまづき、泥の中に膝をつく。斬りつけ方が下手だったせいか、彼の手や外套には魔物の血が大量に付着していた。だけどそれらは、魔物が死んでしばらくすると紫色の粒子となって空気に溶ける。振り返れば、彼が倒した魔物も同じようにして消えかかっていた。
大きなため息をつき、彼は重たい体を引きずっていき、近くにあった木の幹にもたれかかる。手にはまだ肉を裂いたときの感触が残っていて気持ち悪い。無意識に手で口元を押さえた。
そうしていると不意に手が差し伸べられる。見上げると、シャノアが笑顔でそこに立っていた。
「お疲れ様、アルウィン」
労いの言葉を述べて微笑む彼女に苦笑を返し、アルウィンは差し伸べられた手を掴んで立ち上がった。
*
橙色の光が世界を包む。眩しくて周りがよく見えない。
「あのねアルウィン、私、後悔はしてないのよ」
夕日を背にして、少女は微笑んだのかもしれない。その表情は逆光で見えなくなっていて、気配で察するしかなかった。
「剣を取って、あなたたちの後を追ってきたこと」
アルウィンはひどく腑に落ちなさそうな顔をしていた。彼は腰かけていた石段から立ち上がり、一歩彼女に歩み寄る。
「どうしてお前は、俺たちのことに巻き込まれようとするんだ」
「そうしたいから」
間髪入れずに返ってきた答えに、彼は思わず言葉に詰まる。追い討ちをかけるように、彼女は手に持った抜き身の剣を前へ振り下ろす。その切っ先は、アルウィンの目と鼻の先に突き付けられていた。
「私は盾になる」
彼女は凛とした声でそう宣言した。
「あなたたちは、私が守る」
一切の迷いを断ち切って、光の洪水の中で不敵に笑う彼女は、アルウィンと似通っていた。何もかも投げ打つ覚悟と、邪魔するものを打ち砕く覚悟を秘めた、潔い戦士の姿。
アルウィンは、彼女にだけは、こうなって欲しくなかった。
彼はため息をついて、自分も腰につけていた剣を鞘から抜く。そして、きん、と彼女の剣と自分の剣を交差させた。
「それなら俺は、お前を守るよ……ユーナ」
それは、夕暮れの中庭で交わされた、一つの約束。
「この剣に誓って」
*
夢から覚めたとき、アルウィンは泣いていた。悲しいと感じるよりも先に、涙は頬を伝って流れ落ちていた。
今夜は山の麓の森で野宿をしていた。急に現実に引き戻され、彼は泣きながら身を起こす。冷たい涙が、粗末な毛布の上に零れ落ちた。
守れなかった。
その事実ははっきりしていた。
彼女をどこで失ったのかは、まだ思い出せない。だけど、共に騎士として戦場を駆け抜けたのであろう彼女は、きっと戦いのさなかに亡くなった。そうとわかるのは、夢の中でアルウィンが跪いていた少女の言葉のせいだった。
『アルファルドも、スザンも、ユーナも、みんな』
目を閉じて、嗚咽を堪える。
『死んでしまった』
その言葉以上に、体はそれを充分すぎるほど知っていた。
どうして守れなかったんだ。
悲しみは自責の念へと変わり、脆くなった心を容赦なく砕く。
お前は、強い騎士だったんだろう。何もかも切り伏せる覚悟と力を持っていたんだろう。
だったら何故、たった一つの誓いくらい守れなかった。それともその程度の力だったから、主だった聖女様も死なせてしまったのか。
わからない。思い出せない。
そのことがひどく、もどかしかった。
彼が一人で泣いているのを、シャノアは背を向けたままで聞いていた。その上で彼女は、下手に声をかけることもせず、静かに瞼を閉じたのだった。