Episode.Ⅰ 少女
記憶が遠のいてゆく。光が薄れてゆく。
「お前は」
手に馴染んだ剣はまるで手枷でもあるかのように重くまとわりつき、足取りも覚束ない。何体もの魔族を斬った剣はかなり刃こぼれしており、もう使い物にはならなくなっていた。
「お前たちは、決して許すものか……!」
それでも彼は立ち向かい敵と対峙する。その魔族の銀色の髪が鉄錆のにおいのする風に靡いて、相手は何かを呟いた。それに、彼は勢いよく反論する。
「黙れ、我らに仇なす魔物が!ここで死ぬがいい!」
青年は強く地を蹴り、走り出す。自分めがけて勢いよく振り下ろされた剣を、魔族は自らの長剣で受け止めた。幾度も剣が交わり、人影のない戦場に金属がかち合う音が虚しく響きあう。彼が相対する者はフードを深く被っていて、性別も顔も判然としない。その魔族が薙ぎ払った剣が、青年の衣を裂いて左腕を浅く傷つけた。彼も負けじと重い四肢に鞭打って斬りつける。敵は押されながらもなんとか後方に飛び、間を置かずに高く跳躍して剣を振り上げた。狙うは今なお闘志を燃やす満身創痍の男だ。
がきぃんっ、と派手に刃がぶつかり合った。
*
青年は小さく呻き、重い瞼をゆっくりと持ち上げた。どうやら仰向けに寝ているらしく、視界いっぱいの灰色の空が広がっている。なんだか雪が降りそうな天気だった。それを裏付けるかのように吐く息は白く曇り、指先は冷気にあてられて冷たくなっている。
「……起きたか」
ふと隣で声が聞こえ、彼は驚いてそちらへ首を動かした。そこには、木の幹に背をもたせかけて浅く息をついている少女がいる。見事な金髪に青い双眸を持つ彼女は、鎧を取り払った軽装の上に、分厚い外套を不器用に巻きつけていた。彼女のものと思しき鎧が無造作に木の根元に投げ捨ててある。豊かな金髪は無残にも右側だけ不恰好に切り落とされていて、腹部には大量の血液が赤黒く滲んでいた。その他にも大小の傷をいたるところに負っていて、一目で瀕死だということがわかる。
「……っあんた、ひどい怪我だぞ。早く治療しないと」
「…………はぁ?」
途端に、彼女は大きく眉をひそめて素っ頓狂な声を上げた。片腹痛いと言わんばかりに皮肉な笑みを口の端にのせた少女は、肩で息をつきながらようやっとこう言う。
「……何を言っているんだ、君は」
それより自分の心配をすることだな、と付け加え、少女は辛そうに息を吐いた。彼のほうからすれば、その言葉はそのまま彼女へ返る。瀕死の人間を気遣うことの、何がそんなにおかしいのか。青年は自分も顔をしかめながら、地面に肘をついて、軋む体を苦労して起こす。少女はそれを見て、大きく目を見開いた。
「……どうして」
「え?」
肩で息をしつつ、彼女は鋭く青年を睨む。その視線に狼狽え、彼は何も言えなくなってしまった。
「あんなにひどい怪我だったのに、どうして動けるんだ」
少女は噛み付かんばかりにそう続ける。この問いかけには、彼も困ってしまってすぐには答えられなかった。様子のおかしい彼に気がついて、少女が何かを言いかける。
「わからない」
それよりも先に、青年が呟いた。聞き落してしまいそうに小さな声で。だけどそれは、静寂な森の中ではっきりと彼女の耳に届く。
「……わからないって?何だ、それ」
「いや……俺も今気がついたんだ。わからないってことに」
彼は左腕の浅い切り傷をしげしげと見つめ、呆然としながら言う。その、赤く血の滲んだ新しい傷跡は、見る間に塞がってぴたりと皮膚の裂け目を閉じる。ぽた、と傷の名残の赤い血が肘を伝い、地面に落ちて土に染み込む。
「……まさか、君」
「ああ、そのまさかだ」
ふっ、と自嘲して、青年は彼女と目を合わせる。
「自分が何者なのか、なぜここにいるのか、どうしてこんな怪我をしているのか、全部思い出せない……あんたのことも」
藁にもすがる思いで、彼は必死に少女に問いかけた。
「あんたは誰だ?俺のことを何か知らないか?」
金の髪の少女は、きつく唇を引き結んで、目の前の青年の目を見つめ返した。乾いて割れた唇が開かれ、音を紡ぐ。
「……君は」
だが、言葉は最後まで紡がれることはなかった。
少女の首がかくんと傾ぎ、青ざめた手が力なく垂れ下がる。痛みで気を失ったらしく、瞼は閉じられてしまっていた。
彼は慌てて彼女に這い寄り、その口元に手をかざして息があるかを確かめる。幸い、浅く短くはあれど息はしていた。彼はほっと息をつき、暫く考えた末に自分も重い鎧を取って、傷に障らないようにそっと少女を背におぶる。
彼女は今のところ、彼の記憶の一番の手がかりだったし、何よりこんな寒い森の中に置き去りにして死なせるわけにはいかなかった。
*
北には魔を統べる王、南には聖なる力を生まれ持つ少女。二つの強大な力は同じ世で共存することが叶わず、やがて大きな戦が起こった。
結果としては、人間の勝利だった。
聖女の死を代償に、聖王国軍は魔王を討ち取った。
人間の王が敷いた法に従って、魔王の統べる民たちは人間の奴隷と成り下がることになった。
「あなたはどうか、最後まで私のそばにいてね」
弱々しい月明かりの下、一人の少女が微笑んでそっと頬に触れてくる。
「アルファルドも、スザンも、ユーナもみんな死んでしまった……だけどあなただけは、どうか」
「大丈夫だ。お前を置いていったりしない。そしてお前は、俺が絶対に守り抜く」
願うような少女の声に対し、男の声は絶対的な自信に満ちていた。戦場を甘く見ていたわけじゃない。 だけど、阻むものは何もないと思っていた。
「二人で生きて帰って、同じ家で家族として暮らそう」
彼は少女のほっそりとした手を取り、主に誓う騎士の如く片膝をついて少女を見上げた。彼女は少し驚いた顔をしたあと、泣き笑いでありがとう、と言った。
その表情は確かに覚えているはずなのに、その声は確かにこの耳に残っているはずなのに。
目が覚めれば、全てが霧散して掴み損ねてしまう。
「……夢か」
あたりはまだ真っ暗で、目を凝らして壁掛け時計の針を読むと、午前の三時を少しばかり過ぎたところだった。むくりと起き上がり、鈍く痛む胸をさする。記憶を失った状態で森の中で目覚め、命からがら街まで降り、病院で手当てを受けて数日。他の傷はあらかた塞がったが、この胸の傷だけはなかなか治らなかった。
あの少女はと言えば、傷の状態が悪く、病院に運ばれてからずっと熱で寝込んでいた。たまに目が覚めてもすぐに深い眠りに落ちてしまうらしい。そのため彼女に自分のことを問う機会が得られず、事態は停滞していた。
だが、夢は見る。
記憶に関わりのありそうな夢を、不定期に。
さっきの夢も何かの手がかりになりそうだった。
だけどどれだけ思い出そうとしても、思い出せなかった。
そんなある日、ずっと眠っていた少女が目を覚ましたとシスターから報告があった。急いで駆けつけてみると、彼女はベッドの上で上半身だけを起こしていた。不揃いだった髪はうなじのあたりで切り揃えられている。
「良かった、もう大丈夫なのか」
「……ああ、世話をかけたみたいだね」
「そんなことはいいよ」
青年はベッドのの横に置いてあった丸椅子に腰を下ろす。おかしな間があいた。何とか会話のクッションを探そうとするけれど、そういえば記憶喪失だった。そんなもんない。
仕方なく、単刀直入に本題に入ることにした。
「……なあ、あんたは誰だ?俺のことを知っているのか?」
ずっと閉じ込めていた疑問が溢れ出す。その問いかけに、少女はあっさりとこう答えた。
「ああ、知っている」
返答に、心臓が大きく高鳴った。震えだす手をきつく握って、青年は黙って続きを待つ。
やっと大きな手がかりを掴める。
「といっても、君は有名人だから、中央の人間なら大抵は知っているはずだ。ここの人たちが騒がないのは単に辺境の村だから。君の顔を知らないんだろう」
「ゆ、有名……?俺が?」
「そうだ。何せ君は聖女を守護する騎士の一人だったもの。本来なら、今頃王都で七英雄として表彰でもされているんじゃないか?」
彼女はこれらの情報にまったく興味がなさそうだった。さっさと話を進めていく。
「私は、君が戦場の端っこで戦っているのを見つけて加勢しただけ。覚えてない?銀の髪の魔族だ。そいつを仕留めるときにもつれ合いになって、私たちは崖からまっさかさま……ってわけ」
「は、端っこって……何で俺はそんなところに」
「こっちが聞きたいよ」
「その魔族は?」
彼女は一瞬黙したあと、目を逸らして答えた。
「……取り逃がした」
彼は俯いて、そうか、と返した。
「とにかく、私は下っ端の兵士だったから君に関してはこれくらいしか知らない。お役に立てなくて悪かったね」
「……ありがとう。あんたのおかげでだいぶ自分のことがわかった。良ければ名を聞いておきたいんだが」
「その前に、君、自分の名前は知っているのか?」
もっともなことを言われて閉口する。できれば俺の名前も教えてくれ、と何とも間抜けな台詞を付け足した。少女は仕方なさそうにため息をついて、二つの名前を声にのせる。
「……君はアルウィン、私はシャノア」
まだ記憶が戻ってきていないことを痛感する。どちらも青年には、まったく覚えのない響きだった。
だけど。
「シャノア」
「……何だ」
「良い名前だ。君に良く似合う」
屈託なく笑ってそう言ったアルウィンに、少女は面食らった顔をする。それから我慢できずに苦笑した。
「そう。どうもありがとう、アルウィン」
彼の名を呼んだ彼女の声には、少なくとも不信感は少しも滲んでいない。アルウィンもつられて微笑んだ。
そのとき、頭の奥が不意に激痛を訴えて、彼は呻きながら頭を押さえる。荒い息の音が耳の中で木霊する。シャノアの声が聞こえた気がするが、よく聞き取れない。
『……いに……さ、ない』
声が聞こえる。これは多分、自分の声だ。
『お前は、許さない。許すものか』
その声は憎しみに満ち、ぞっとするほどの感情が込められていた。復讐にとらわれ、赦しを認めないものの声だった。
『イヴを殺した!』
イヴ。
また、聞き覚えのない名前だ。どうして俺はこんなに怒り狂っているんだ。イヴという人を殺されたからか。こんな風になるほど、誰かが憎いのか。
「アルウィン!」
気がつくと、シャノアが心配そうな目で覗き込んでいた。その目には動揺の色が映り、彼女も戸惑っていることを語っている。
アルウィンはと言えば、まだ続く痛みに歯を食いしばって耐えていた。冷や汗を大量にかいていて、体は小刻みに震えている。
「……何か、思い出したのか」
シャノアがそっと問いかけると、彼は震える手を握りしめて弱々しく首を横に振った。
「わからない……ただ、記憶を失う前の俺は、誰かをひどく憎んでいたみたいだ。イヴという人を殺されて……」
「……イヴ」
シャノアが呟くようにその名を呼ぶ。表情は翳って見えないが、何か知っていそうだった。
「……知っているか?」
「知らないな」
だが、期待はあっさりと裏切られる。肩を落とし、今度は自分で考えてみる。イヴという人のためにあれほど怒り狂うのなら、それはよほど強い思いを抱く人だ。恐らくそれは、愛情の類。今のところ、「アルウィン」がそんな感情を抱く人物はひとりしか思い当たらない。
「……なあ、俺は聖女を守護する騎士だったんだよな」
「ああ……そうだよ」
「ならもしかしたら、”イヴ”というのはその聖女様の名前じゃないのか」
少し短絡的な考え方かもしれないが、現状ではそれが一番納得のいく答えだった。
「違う」
だが、これも容赦なく否定される。
「聖女の名前はフェリシアだったはずだ。イヴじゃない」
「……フェリシア」
また、聞き覚えのない名前だった。
聖女様がイヴじゃないのなら、イヴとは一体誰なんだ。あの夢の中の少女も気になる。
色んなことがこんがらがって、アルウィンは混乱していた。無理やり記憶を引きずり出そうとすれば、また頭痛が邪魔をする。
「アルウィン、なんにせよ無理はしないほうがいい。記憶が戻る望みがあるなら、一つずつゆっくり思い出していけばいいだろう」
シャノアは、そっと青年の頭に手を伸ばした。
「だめだ、それじゃ遅すぎる!」
だけど、何かに取り憑かれたかのような大声に、その手はびくりと震え、躊躇ったのちにシーツの中へ引っ込められてしまう。
「俺は、早く思い出さなければいけない……そんな気が、するんだ」
両手で痛む頭を抱え、彼は切羽詰まった声で告げる。
何か。何かが、心の底で悲鳴を上げていた。思い出せ、と。何かやらなければいけないことがあったはずだ。絶対的な敵がいたはずだ。守らなければならないものがあったはずだ。
「……王都に」
アルウィンがふと呟いた言葉に、シャノアはぴくりと肩を震わせる。
「王都に行けば、何かがわかるかもしれない。俺のことを知っている人や……家族だって、いるかもしれない」
その思いは、打ちひしがれた人間にとっては何よりの救いだった。覚束ない足元を支えてくれるかもしれないという希望は、彼に歩み出す力を与えた。
今は王都の景色も思い描くことはできないが、実際に見れば何かを思い出すかもしれない。共に戦った騎士とているはずだ。だが、それには肝心な道がわからなかった。
「シャノア、頼む!」
いきなり両手を掴まれて頭を下げられ、少女はぎょっとして肩を跳ねさせた。
「王都までの案内役をしてくれないか」
「……は?」
「今の俺はお前しか頼れる奴がいないんだ。頼むよ」
「そんなこと言ったって……」
シャノアは明らかに困惑した顔をしていたし、お世辞にも乗り気なようには見えなかった。それでも、アルウィンがずっと頭を下げ続けるものだから程なくして彼女が折れた。
「わかった、わかったよ」
「本当か!?」
「ただし王都の近くまでだからな」
「充分だ、ありがとう!」
かくして、つい数日前に会った二人は、王国の首都に向けて旅をすることになったのだった。