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アタック  作者: 青木一郎
4/4

追跡と再会

 早晩、山沿いの高速道路を一台のワゴン車が走り抜けていく。他の車は見当たらず、辺りは不気味なほどの静寂に包まれていた。運転席の男は耳に手を当てなにやらわめき散らしている。


「おいクロード、頼むから早くサセてくれよ。あのガキが追ってくるわけねえだろ」

『ダメです。可能な限り距離を取ってください。人払いは済ませてありますが、アタッカーが物理的に接触不可能な距離と時間になるまでもう少しの辛抱を』

「制限時間の終了まで残り何分だよ」

『三十分程かと』


 秀作はチッと舌打ちをして、たばこを口にくわえて火をつけた。


「くそっ、制限時間後は楽しめないってのに、クロードのやつトロトロしやがって」

『……全部聞こえておりますが』

「分かってるよ!」


 やにがねとりと歯の周りに付く。助手席を見ると、叶はまだぐったりと眠っていた。


 ――ちょっとくらい先に楽しんだって罰は当たらねぇか。


 ハンドルを片手で操作しつつ、もう片方の手の指を叶の身体に伸ばしていく。

 と、その時、通信機から取り乱した声が聞こえてきた。


『ああああっどうやって。ちっ、人間の乗り物に頼りましたか、秀作さん、緊急事態が発生しました。上空よりの監視を中止します』

「はあ? どうしたクロード」

『……ちょっと宿敵が』


 謎の言葉を残したまま通信がブツンと切れる。


「あ? おい、クロード、つなげろおい」


 返事の代わりに外からクロードの声が聞こえてくる。のんびりしたクロードのあんなに取り乱した声は今まで一度も聞いたことがなかった。秀作は窓を開け、外の様子をうかがう。

 

バイクをふかす音が遠くから聞こえてきて、それがだんだん大きくなっていく。あまりの爆音に秀作は顔をしかめた。

 

彼は車のバックミラーに人影を認識し、背筋がぞっと冷たくなった。豆粒大の人影が急速に大きくなっていく。


「……なんだありゃ、時速二百キロは出してるぜ」


 さらに問題なのは、その人影にクロードの人払いのチカラが効いていないということだった。

 アクセルを思い切り踏み込んで加速するが、レンタカーのワゴン車では大した速度も出せない。じりじりと距離が詰められていく。


「攻撃しましょう。秀作さん、うまく避けてくださいね」


 上空からクロードの声が聞こえたかと思ったら、後方から爆発音がした。バックミラーに赤い火炎と火の粉が映る。


「おい、やめろ馬鹿! 当たるぞ!」

「迎撃しなくては追いつかれます。あれこそアタック側の天使です」


 火煙の渦をかいくぐるようにして、真っ赤なバイクが姿を見せる。ヨーロピアンと呼ばれる流線型の美しい車種。乗車姿勢が前傾しており、レースにも使われるほどスピードを出すのに向いている。

 クロードの上空砲火を縫うようにかいくぐり、バイクはワゴン車の斜め後ろに陣取った。


「ストップ、攻撃すとーっぷ! やめろやめてくれ!」


 秀作は窓から顔を出して空に手を振るが、火の玉の雨は容赦なく降り注いでくる。


「ヒイイッ!」


 秀作は涙目になり、全力でハンドルを切っていく。開いた窓から爆風が吹き込んでくるが、閉めると外の様子が分からず攻撃を避けられないので仕方がない。


 バイクの主は道路の上を滑るように走っていく。不意に爆風でヘルメットが取れ、赤の長髪がこぼれた。

 皮のロッカージャケットが火の粉に照らされ怪しく黒光る。にやりと笑う白い歯に、クロードと同じ狂気を感じ、秀作の身体に震えが走る。

 ライダーはワゴン車にヨーロピアンを横付けると、ぎろっと蠢く赤眼でウインクをしてきた。


「どうも、アタック側の天使、キティです」

「うう、どっかいけ!」

「あら、そんなに怯えなくてもいいのに。あたしの狙いは、ちょこまか飛び回るクロードちゃん。あなたの相手は、あたしのかわいい教え子がしてくれるわ」


 そう言うとバイクの主は後方へ戻っていった。


「この女狐が!」


 クロードは上空からの砲火が当たらずいきり立ち、ワゴン車のすぐ上まで下りてきた。フロントガラスの上側に黒翼で飛び続けるクロードの姿があった。


「ここで仕留めてやる!」


 叫び声ともにクロードは反転する。直後巨大な火球を口から放った。まるで、小さな太陽を口から生んだように見える。

 網膜を焼く眩しさに秀作は思わず目を覆った。火球が車の屋根の上すれすれを飛んでいき、表面の金属がじゅっと溶け出す音が聞こえてくる。

 刹那、バイクに火球が直撃するのがバッグミラー越しに見えた。すさまじい爆発音と爆風にワゴン車は激しく揺さぶられる。


――くそうっ、クロードのやつ、俺のことも考えろ。


「ははは至近距離からの大技はさすがに避けられませんでしたか……なっ!」


 前方で翻ったクロードが顔を歪める。次の瞬間、ワゴン車の上から、どすん、と重量感のある着地音が響いた。秀作は胸を締め付けられるような圧迫感を感じる。

 何者かがワゴン車の上で高笑いを上げていた。


「ようやく手の届くところまで来てくれたわね。クロードちゃん!」


 バンッと鉄板を蹴って飛ぶ音が聞こえた。視界の端で飛んでいたクロードに、赤髪のライダーが飛びついて空から引きずり落としにかかっている。


「うわあああっ離せっ!」


 もみくちゃになった天使たちは、道脇のガードレールではねた後、道路から逸れ、深く険しい谷に転がり落ちていった。

 秀作は茫然としてハンドルを握っていた。不死で最強のクロードは視界から消え、もはや自分を補佐してくれる者はいない。

 気づけば耳につけた通信機に向かって噛み付くように叫んでいた。


「おい、クロード生きてんだろ、返事しろ。誘拐事件はきちんと揉み消せるんだろうな、おいクロード!」


 もしもこのままクロードに万一のことがあれば、自分が未成年を誘拐したことは、厳然たる事実として残ってしまう。そうすれば実刑で五年は確定だろう。今後の人生を棒に振ることは間違いない。


――叶をこのまま家に帰すか? いや、叶は俺に襲われたことを知っている。このまま逃がせばチクられる。じゃあ、いっそのこと殺し――

――できるのか? 叶は俺の中の天使なんだぞ。


 そう問いかける最後の良心。それを赤く塗りつぶすように思い出す、ひき殺した少年の血まみれた姿。


「そういやとっくに人殺しか……一人も二人もこうなっちまえば一緒かもな」

 

 悪魔が囁くように口の端から声が漏れたその時だった。


 バックミラーに映る、はるか彼方の青いポルシェ。クロードの人払いのチカラは彼がいなくなった時点で失われており、早晩の高速道路を車が走ってきても不思議はなかった。


 しかし、秀作は本能的に察知する。絶対的な身の危険。

 

 ポルシェは信じられないような爆音を鳴らしつつ、時速三百キロはあろうかという速度で追いかけてくる。丘陵沿いの曲がりくねった道を通過する神的なハンドルさばきはレーサーも顔負けだった。

 秀作もとっさにアクセルを踏み込み直し、一気に加速する。が、ワゴン車とスポーツカーでは、性能に絶望的なまでの差があった。両車の距離は目に見えて縮まっていく。


 いったい誰が乗っているのかとバックミラー越しに確認した秀作は絶句した。吐き気さえ覚える。

運転席でハンドルを握っていたのは、殺したはずの少年らしき化け物。全身を剛毛に包み、鼻はいびつにとがっている。背丈の足りない分は半立ちになり、身体を逸らして必死にアクセルを踏んでいるようだった。少年だった時の面影は、化け物が着ている血濡れた園児服のみである。


「ふざけて……やがる」


 少年の見るもおぞましい外見は、地獄の底から舞い戻ってきたかのようだった。

 追いつかれたら、殺されかねない。


「畜生! あんないい車、俺だって乗ったことねえぞ」


 腕をガクガク震わせながら、歯の根の合わない口で秀作は呟いた。アクセルを限界一杯に踏み切って必死の逃走を図る。

 宵も更けはじめ、二台の車の逃走劇を見守るように月が天上に輝いていた。

 ワゴン車のカーナビが突然鳴り出し、前方五キロにおける交通規制の勧告を告げる。


――待てよ、あいつはどこでポルシェを手に入れた?


 眉を寄せた秀作は片手でハンドルを繰りつつ、ラジオのスイッチを付けた。音楽番組が続く中、臨時ニュースが挟まっていた。


『たった今入りました情報によりますと、車を強奪した犯人は高速に入って逃走を続けている模様。道路沿いのインターチェンジには、厳重な警戒網が敷かれているとのことです。幸い被害者の男性にけがはありません。男性は、犯人を小柄な人狼だったと証言しており、警察は落ち着きを待ち更なる情報を聞こうと……』

「やってくれるぜ。盗んだポルシェで走り出す年頃ってか?」


 少年の乗るポルシェはどうやら彼が強奪したもののようだ。秀作はにやりと笑うと、自分に対する有利な風を感じた。前方の検問所まで逃げ切れば、後は警察が少年をなんとかしてくれる。助手席で眠る少女は娘だと押し通そう。

 その時、彼ははっと気づく。


――いや、そういや無理だ……。


 ワゴン車の頭部には、先ほど少年をひき殺した際付いた赤い血がはっきり残ってしまっている。ボンネットがひしゃげ、フロントガラスが同心円状にひび割れている様子を警察が黙って見過ごすはずがない。

 秀作は思考に囚われていて、ポルシェが背後に迫っているのに気が付かない。ポルシェは反対車線に乗り出すと、衝突ギリギリまで車を横付ける。速度を落として併進を始めた。


「くそっ、もう来やがった」


 慌てて車を離そうと、秀作はハンドルを切りかける。その直前、運転席の窓枠を毛むくじゃらの手が掴んだ。


「叶ちゃんを離せ」


 猛獣のようなうなりが混ざる低い声。


「あああ、左運転席か!」


 秀作は憎々しげに声を漏らした。

 片手で危なっかしくハンドルを操作しつつ、秀作を睨んでくるのは、夜目にもおぞましい人狼だった。口は耳まで裂け、真っ白な歯が口の端からこぼれている。


「先生から聞いた……お前も叶ちゃんのことが好きだったんだろ! じゃあなんで叶ちゃんが悲しむようなことするんだよ。どうして影でこそこそしているだけで、叶ちゃんに好きだって言ってあげなかったんだよ!」


 秀作はのどの奥でなめくじが蠢くような不愉快さを感じる。年端もいかない子どもに説教されていることも気に入らないが、それ以上に我慢できないことは、秀作と叶の恋愛可能性を少年が示唆していることだった。


「てめえはアホか! 二十歳も年の差があって、『好き』とか言ったら、馬鹿正直すぎるロリコンじゃねえか。叶ちゃんに嫌われて、近所から村八分にされる未来が目に見えてるじゃねえか」

「いいよ、それでも」


 人狼は、獣にしてはあまりにまっすぐした瞳で秀作を見据えた。


「ロリコンって習わなかったから、なんだかよく分からない。だけど、もし、好きな人がいて、その好きって気持ちが口から溢れちゃいそうだったら、告白すればいい。相手の子がどれだけ幼くたって、その結果、死んじゃいそうなくらいつらい目にあったって、その子が大好きだったならもう仕方ないよ。キティ先生は言ってた。告白に理由や意味なんていらないって」


 真顔で少年は言い切った。一抹の迷いもなく、一瞬の躊躇もなく、純粋に思ったままのことを口にしていた。ゆえに力強い。

 秀作は気持ちで気圧される。


――それができりゃ、世の中に片思いはいねえんだよ。


 内気な秀作には、そう言い切れる少年が反吐が出るほどうらやましい。叶に告白しようなど、彼は考えたことさえなかったし、それが一般常識と言うものだろう。

 ただ、少年の言には胸を打つものがあった。

秀作は声を絞り上げ、ようやく少年に反論する。


「理想論だ」

「叶ちゃんはお前に恋してた」


 秀作は、一瞬、何を言われたのか分からず頭が真っ白になる。直後、


「ヒヒヒヒヒッ! なんだそりゃ、そんな嘘ついてまで俺に叶ちゃんを開放して欲しいか。狙いが見え見えなんだよ……」

「好きだったよ」


 いきなり背後から声をかけられて、秀作は硬直する。


「お兄さん、どうしてこんなことしたの」


 怯えつつ左を向く。薄目を開け、蚊の鳴くような声で、助手席の叶は絶え絶えに漏らしていた。


「私、お兄さんのこと、大好きだったのに。何があってもお兄さんは私のこと守ってくれると思ってたのに」


 秀作の瞳は動揺で揺れ始める。


「物知りで、いろいろ考えてて、ちょっと不器用だけど誰よりも優しい、そんなお兄さんはどこにいっちゃったの……」


 叶の言葉を信じていくにつれ、秀作のなかの後悔の念は急速に膨らんでいく。前後不覚に陥り、思わずハンドルにしがみついた。視界がぼんやりと滲み出す。

 鼻の奥に鈍痛が走る。


「お、おい……うそだろ。そんなこと、あるワケ……ねえだろ。もしそれが本当だっていうなら、俺のやってきたことは、全部単なる一人相撲じゃねえか」


 束京大学人間心理学科を出ていようが、間近な人間のことさえ自分は理解できていなかったのか。

「嘘だああああああああっ!」


 幻影を振り払うかのようにハンドルを右に切る。ワゴンの車体がポルシェの側部にこすれ、真っ赤な火花が飛び散った。黒板を爪でひっかくような凶音が闇に響く。少年は慌ててハンドルを切り、車の進路を整えた。

 秀作は、涙目でぼんやりと考える。


 ――叶ちゃんは俺のこと好いてくれてたんだな……。

 秀作は自分が社会不適合者だと気付いている。


 仕事もなく、人と関わることが苦手な自分を、肯定してくれる人間などいないと思っていた。

 だが、彼女は、叶は、秀作を無償の愛で認めてくれていたのだ。どれだけ嬉しいことだろうか。その叶に自分は卑劣なことをしてしまった。どれだけ悔やまれることだろうか。

 希望が仮定された上での、現実下の絶望。

取り返しのつかないことへの後悔が、心をどす黒く塗りつぶしていく。三半規管がうまく働いていないようで、吐き気とともに視界がぐるぐると回転していった。


 秀作の瞳はもはや輝きを失い、虚空を凝視するばかりだった。


「おい、きちんと前見ろ、崖が近いぞ!」


 並走する少年の声さえ届かずに彼は静かに壊れ始めていた。 


「……うひっ」


 秀作の瞳がぎょろっと動く。


「ベヒッ、ベヒッ、ベヒッ、ぎょぎょ、ぎょぎょぎょ!」


 彼は口の端から涎をだらだらと垂らしながら、濁った眼を蠢かせる。まぶたはチック症候群のように痙攣し、手足は微弱な震えを帯び始める。


「おにい……さん」


 豹変した秀作を見て、恐怖で目を見開く叶。薬で痺れる四肢を必死に這わせ、少しでも狂人から距離を置こうと身体をずらす。

 シートの掏れる音に反応し、ぐりっと動く眼球が叶の姿を捉えた。


「叶ちゃん……一緒にし、し、しねし、し、し、し、死のう、しにょう、屎尿――愛してるよ叶」


 秀作はバキンとアクセルを踏み込んだ。親の仇の頭蓋でも踏みつぶすかのように力任せに蹴りまくる。その光景は、注意を喚起する少年さえ黙らせるほど、狂気に満ち満ちていた。

 スピードメーターが時速百五十キロを差した時点で、アクセルの根元が折れた。

 秀作は前方を視認する。ぼやけ、黄色く濁る世界の先で、真っ暗な虚空が口を開けて待っている。死への入り口を実感した彼は、口角を持ち上げて笑う。

 頭を砕いて自殺するかのように目の前のハンドルを頭突く。血がついたハンドルは、ボキンッと大腿骨が折れるような音を立てて破壊された。


「むひゅひゆひゆひひひゅょゆょゆひゆゆひよゆひよゆカナエ、アイシテイイカイ??」


 根元からとれたハンドルを両手に抱え、秀作は奇妙なにやけ顔を叶に見せた。


「死にょうよ、一緒に」

「やだ……やだやだやだっ! やめてよお兄さん、元に戻って!」


 叶は髪を振り乱し、半泣きになって身体を震わせる。薬の作用で未だに身体はうまく動かないが、皮肉にも意識は明瞭になりつつあった。

 じりじり近づく秀作から身体を引き、叶は声を恐怖で震わせる。


「まだ死にたくない!」


 秀作はおびえる叶を不思議そうにのぞきこむ。直後、ぎゅるっと眼球を回転させてうなずいた。


「ああ、あああああっ! そ、そうだ、そうだよ。叶ちゃんごめん俺気が付かにゃかったよー大人の男の味くらい知らなきゃ死んでも死にきれないもんにぇー!」


 秀作はそう言うと鼻息を荒くしつつ、ベルトのバックルをガチャガチャといじり始めた。本能に突き動かされる秀作は、もはや叶のことさえ認識できているかどうか疑わしい。




 叶が起きてから今までで認識できたことは二つ。秀作に誘拐されて車の中にいることと、車は制御を失っていることだった。


――私、このまま死ぬのかな?


 涙でかすむ視界の中、叶は恐怖で働かない頭でぼんやりと考える。脊髄には液体窒素でも流し込まれたかのような寒気が走り、痺れる四肢が恐怖でわななく。

 崖が近い。落ちたら間違いなく死ぬだろう。大脳皮質の唯一冷静な部分は残酷な推測を打ち出していた。

 叶の脳裏に、家族、先生、友達が順繰りに浮かび上がっていく。これが世にいう走馬燈だと彼女はまだ知らなかった。

 賢の顔が脳裏に浮かぶ。その瞬間、彼女の心を後悔が締め付けた。


――やっぱり、賢君にきちんとお別れしておけば良かった……。


 叶は思う。自分はおそらく考え得る限り最悪の形で賢と別れたのだ。

 彼の誠意と向き合わず、彼の気持ちを察しながら、彼の純情を踏みにじった。一枚、『他に好きな人がいます』という趣旨の手紙を突き付けただけで。

 だから、叶は自分がずうずうしいことを知っている。この期に及び、もう二度と賢に会えないかと思うと、彼のことを余計懐かしく、愛おしく、恋しく思うこの気持ちは分不相応だと知っている。

彼にもう会えない。その感傷に浸り流れ出る涙は、偽りだと信じている。

 人を好きになることに筋を通したいばかりに賢を突き離し、裏切られた今更、賢を求めるなどとは、誠意も信義もあったものではないと考える。

 

 それでも叶は賢に会いたかった。

 涙がこらえきれないほどに会いたかった。

 強いて自己弁護をすれば、これが恋だと言い切るしかなかった。

 

 人間所詮、昔を忘れて今に生きることしかできないのかもしれない。有限の生物に永遠の恋は誓い得ないのだから。

 準備を終えた秀作の手が叶に伸ばされてくる。叶は震える声で神に祈るように呟いた。


「助けて、賢君」


 神はその祈りに応えない。


 人の祈りに応えるのはいつだって人だけだからだ。


 次の瞬間、ワゴン車前方から衝突音がして、叶の身体は前にのめり、シートの前の溝に滑り込んでいく。

 一瞬見えた視界の先、ポルシェがワゴン車の前に陣取り、ブレーキをかけていた。

 秀作はふらつき、ハンドルが折れた後のささくれで額を切った。


「クソッ!」


 彼は顔をしかめて額に手を当てる。その時、叶は開いた窓から声を聞いた。


「叶ちゃん、伏せて!」


 賢の声とは似つかない、まるで獣のような低く野太いドラ声。しかし、叶の脳裏になぜか賢の切羽詰まった顔が浮かんだ。

 目をつむり顔を伏せた瞬間、フロントガラスが破壊される音が響いた。粉々になったガラス片が、粉雪のように叶の頭に降り注ぐ。


「ああああっ目がぁああああ!」


 秀作の悲鳴が耳を突く。前から突風が吹きこんで、車の速度がさらに減衰されていく。

 叶が恐る恐る見上げた先、その人狼は月を背にしてボンネットの上に立っていた。


 全身を黒い剛毛が覆い、口と鼻はいびつに飛び出ている。纏う衣服は血にまみれ、腹のあたりが大きく破れていた。獣特有の生臭さが自動車内に吹き込んでくる。

 しかし、叶はおびえることなく彼を見つめる。その瞳にだけは見覚えがあったからだ。彼のまっすぐな瞳は、かくれんぼうの時、自分を抱きしめ見つめてくれた賢の瞳と非常に似ていた。

 小柄な人狼は厳かに右手のくぎ抜き付きハンマーを秀作に向ける。


「強化ガラスは一点集中の破壊に弱い。ガラスを圧縮して強度を生み出しているから、一度ガラスの一部が割れて飛び散れば、自身の圧縮力で全体が粉々に砕けるんだ。キティ先生に教わった車の弱点だよ」


 目を抑えてうめく秀作を尻目に、人狼は身体を翻して助手席に降り立った。ハンマーを捨てると、叶の身体を溝から抱き起す。

 抱き起すや否や、すぐさま叶を熱く抱き締めた。互いの心音が肌を介して伝わるほどにきつくきつく、呼吸さえままならない。

 叶の心臓が不規則に高鳴った。二人の身体が熔けて一つになるような酩酊感。それが感極まったとき、ふいに叶は耳元に熱い吐息を感じた。


「また会えたね」

 ――賢君……。


 推測が確信に変わる時、叶の知覚器官が急速に鈍化していった。雑音は蒼穹の彼方に遠ざかり、周りの景色は白銀の果てに消える。

 世界にはもう叶と彼の二人しかいなかった。


「……賢君、なの?」

「そうだよ、もう会えないかと思った」

「ごめんなさい、私、賢君と向き合うのが怖くて逃げ出したの」

「謝ることなんてないよ」

「もう一つごめんね、今は私、賢君のことが大好き」

「……本当に?」

「うん。嘘だって思うでしょ。好きな人がすぐに変わっちゃうなんて。自分でもおかしいなと思う」

「ううん、全然おかしくない。好きって気持ちに嘘はないよ」

「嬉しい、ありがとう。賢君は私のことどう思ってる?」

「もちろん大好き」


 叶は知っている。あと数秒で暴走車は崖から飛び出し、二人は永遠に引き裂かれることを。

 だから、おこがましいとは知りつつも、勇気を出して呟いた。


「もし良かったら最期に、キスしてみたい――」


 人差し指で唇をふさがれる。


「生きて帰るよ。キスはその後でね。今はこれだけ」


 賢はいたずらっぽくウインクすると、人差し指を戻し自分の口にも押し当てた。無邪気で無垢な子どものように。

 叶はくすりと笑い、思った。

 恋人にするにはちょっと幼いかな?

 天空遥か高く、天国の位置する場所から、二人を祝福する鐘が鳴り響いたような気がする。


 若い二人は車のフロントガラスから飛び立つと、虚空の闇に身を躍らせた。


最後まで読んでいただきありがとうございました。

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