妨害と誘拐
秀作は叶を前にして、ポケットの中のスタンガンとクロロホルムの染みた綿布を交互に撫でた。
――やっぱりやるしかねえな。
早朝のアパートでの出来事を思い出し、彼は誘拐への決意を固める。
「いやあ、ありがとうございます。自分は蔵人と言います。クロードと呼んでくだされば結構ですよ」
スーツを着た少年はのんびり話しながらアパートの中に入ってきた。
「お前、なんだってうちの前に半日も立ってたんだよ」
入れたてのお茶を湯呑に注ぎつつ、秀作はクロードに座布団を勧めた。彼が、クロードを自宅の中に引き入れた理由はただ一つ。心理学的に絶対に有り得ない行動をとる彼に一抹の恐怖を覚えたからだ。このまま外に立たせておいたら何をし出すか分からなかったので渋々内に招き入れたのだった。
そのせいで、今朝の挨拶は中止である。
「で、用事は、なんだよ」
「そうそうそれ、用事は幼児のことですー」
クロードは自分で作ったダジャレがおもしろかったのか「ぐふふ」と笑って続けた。
「あなたが盗撮をしている羽賀 叶さんについてです」
秀作は驚き、思わず急須を手から滑り落とした。熱湯がひざに降り注ぐ。
「あっ、熱っ、熱っ――な、なんのことだよ!」
――おかしい、鑑賞していたDVDは全て押入れに隠したはずなのに!
秀作がクロードを睨みつけると、彼は口の端を歪めてにやにやと笑いを浮かべていた。
――刺すか、コイツ。
一瞬、台所でほこりをかぶっている包丁が秀作の脳裏を掠める。馬鹿にしていた人間に馬鹿にされることほど人間腹の立つことはない。
「心配ご無用ぉ。私はゆすりじゃありません。警察に突き出してどうこうなど思考の蚊帳の外」
たったこれだけのことを言うのに、クロードは三十秒もの時間をかけた。この人物としゃべるには気を長くしなければいけないと秀作は知る。
「むしろ、あなたのお味方さんです。とりあえず自己紹介から。こういう仕事に所属しています」
クロードの差し出す名刺を秀作は珍しそうに受け取った。
~天界キューピッドコーポレーション 妨害部門~
「はぁ? 天界?」
「疑問を抱かれるのもごもっとも。まずは実演」
クロードは冬眠から起きた熊のようにのっそりと立ち上がり、台所の方へ消えていった。がたがたと何かを探しているようだが、秀作はジーンズに零れたお茶を拭くことに忙しくて構っていられない。
しばらくしてクロードが台所から戻ってくる。右手にはほこりで汚れた包丁を携えていた。
「お、おい、お前何する気だよ」
「凶刃を持つ狂人って言っちゃったりしましょうか、うふふ」
クロードは包丁を高々と掲げると、次の瞬間、自分の首を斜めに突き刺した。肉がえぐれ、きれいなピンクが顔をのぞかせる。秀作は目を見開き思わず顔をそむけた。
「死にません。以上!」
クロードは一滴の血もつかない包丁を首から引き抜くと、台所に戻り丁寧に洗って元の場所にしまった。手を拭きつつ戻ってくると再び席に着く。この間約三十分。
秀作は電話を掛けようとするが繋がらず、玄関や窓から逃げようとしたが鍵が開かなかった。まるで部屋だけ異次元に行ってしまったかのように、外部に干渉ができないのだ。
八方詰まりの秀作はがたがた震えつつ毛布にくるまっていた。
「そんなに怯えないでください。私は天使です。恋の天使、キューピッドなんです」
歯の根が合わない秀作を無視し、クロードはゆっくり話を進めていく。
「キューピッドの世界では、不定期に『アタック』という試合が開催されます。試合はアタック側とブロック側で人間と天使が一人ずつの四名と、ジャッジの人間一名、の計五名で行われます。今回あなたには、その試合でブロック側になっていただきたいのです」
クロードはお茶をおいしそうにすすると顔を緩ませた。
「アタック側の人間がジャッジに告白し、了承を得れば、アタック側の天使の勝利。制限時間内に告白できない、もしくは告白しても振られてしまった場合、ブロック側の天使の勝利となります。制限時間内、天使の能力は大きく制限されるため、人間同士の抗争をメインとするのが特徴です」
ここまでの説明に一時間が費やされた。さすがにそれだけ長く震えていれば、くそ度胸も付き、秀作もしゃべれるようになる。
「つまり、どういうことなんだ?」
「あなたの天使ちゃん、羽賀叶さんがジャッジに選ばれました。彼女、ここ半日のうちに必ず告白されますよ」
秀作の頭にかっと血が上る。とっさに身を乗り出した。
「おい、どこの誰が相手だよ!」
「自分は知りません、がもう選任はされていますね。天使の能力が著しく落ちていますから」
死なない身体に、完全密室を作る術。これらを駆使してなお落ちていると言えるほど、天使の能力とは高いものなのか。
秀作は頭を振って思考を切り替える。今はそんなことに拘泥している場合ではない。
「受けていただけませんか――」
「考えるまでもない。俺が必ず妨害してやる!」
その後、秀作はゆっくりしゃべるクロードをせかし、「アタック」にまつわる詳細を聞いていった。
アタック側、ブロック側の人間は、それぞれアタッカー、ブロッカーと呼ばれる。
天使はそれぞれ、アタッカーとブロッカーを選任できる。
制限時間はアタッカーと天使が遭遇してから二十四時間。
天使は小道具を使えるものの、直接介入は極力避ける。
戦況は天界放送局が空から実況ライブ中継。
「ちなみに、キューピッドコーポレーションとは、恋の天使の元締め的会社です」
秀作は情報を一つ一つ頭の中に刻み付けていった。束京大学を出ている彼は、決して物覚えが悪いわけではない。
「制限時間終了は今日の早晩か。敵も急ぐだろうし、こりゃぐずぐずしてられねえな」
爪を噛んで焦る秀作をクロードは悠々となだめる。
「うふふ、実はこのゲーム、ブロック側には必勝法があるんですよ」
濁った目をぐるぐると回し、クロードは楽しそうにポケットをまさぐった。
「それはいったい――」
卓上に並べられたスタンガンと小瓶、さるぐつわ、荒縄を見て、秀作は絶句する。
「奪われるなら奪えばよろしい。アタッカーの手の届かないところまで」
クロードは真っ白い歯の隙間から忍び笑いを漏らした。
スタンガンで彼女を気絶させるのは気が引けた。火傷の跡でも残ったら一大事である。だから、麻酔剤を嗅がせようと秀作は決めていた。
叶は今まさに誘拐されようとしていることも知らず、人懐っこい笑みを浮かべていた。そんな邪気のない子をさらう卑劣な自分。罪悪感に胸が締め付けられるとともに、背徳的な状況に昂ぶっているのも事実だった。
「そうだ、叶ちゃん、ちょっとした心理学のテストをしようか。後ろを向いて目をつむってごらん?」
叶は素直に言葉に従って身体を動かし、仰々しく気をつけをした。
秀作はクロードに事前に渡されていた精神安定剤を飲むと、彼女に近づいていく。彼女の両肩に手を乗せて、鼻を膨らませる。
――ううっ、やっぱり叶ちゃんはかわいい!
鼻腔には、少女特有の甘い微香が満ちてくる。華奢な肩はにぎりしめると折れてしまいそうな儚さをまとっていた。汗をかいているのか、触れる布地がじんわりと湿って、指に吸い付いてくるかのようである。少女の身体の感触をもっと味わいたくて、思わず手の平に力が入った。
「あっ、お兄さん、ちょっと痛いです」
鼻から抜け気味のロリボイスは、秀作の理性のタガを外させるには十分だった。
次の瞬間、片手で叶の身体の自由を奪い、もう片方の手でクロロホルムの綿布を口に当てる。
叶は一瞬、何が起きたか分からないとばかりに身体を硬直させる。だが、本能的に危険を感じたのか手足を勢いよくばたつかせ始めた。
「ヴー、ヴーッ!」
「静かにしようね、叶ちゃん。これは略取される子どもの心理実験なんだよ」
力に任せて彼女の身体を羽交い絞めにする。少女が暴れるたびに園児服の隙間から甘い香気が立ち上り、それがますます秀作を興奮させた。所詮、幼女と青年の体格差では逃げ出すことなど不可能だった。
十秒ほど経過しただろうか、叶は抵抗を止め身体をぐったりとさせる。道のわきに止めておいた車へ叶の身体を運びながら、彼はクロードの言を思い出していた。
『お望みなら、制限時間内にあった事件は大抵揉み消せますよ。関係者の記憶も抹消できます。ブロック側が勝てば、の話ですが』
つまり、叶に、今までずっと手の届かない天使だと思っていた叶の身体にノーリスクで好きなことができるのだ。嬉しさで口の端から垂れる涎を拭おうともせず、秀作は下卑た忍び笑いを漏らしていた。
とその時だった。
彼の瞳は、公園の入り口に人影を認知する。人払いにはクロードのチカラが働いている。公園の敷地内には、動物一匹入れないはずなのに。
秀作の頭は一気に冷水を注がれたように凍りついた。背中から冷たい汗がじわりと染み出す。
クロードが重ね重ね自分に注意していたことが嫌でも思い出される。
『天使の能力は対戦側の人間だけには効きませんから、そのつもりで』
犬歯を剥きだした少年は、次の瞬間、野獣のごとく接敵してきた。
見覚えはある。今日、盗撮をしている間、何度もカメラの端に割り込んできた子供。そして、クロード曰くアタッカー。すなわち、自分の恋敵だった。
「ヒッ」
少年の、悪魔のような殺気、鬼のような形相、獣のような身のこなしに気圧され、秀作はのどを震わせる。足を急がせるが、人ひとり抱えては満足なスピードが出せなかった。
四足を自在に使って加速した少年は、後ろから飛びかかると秀作のすねに噛みついた。深々と鋭い犬歯が刺さり秀作は悲鳴を上げる。無我夢中で足を振り回すが、万力のようなあごは肉をがっちり噛みしめて離さない。動くたび、余計に深く牙が突き刺さっていく。
「ギィイイッ! 痛い、いでぇよぉ」
あまりの激痛に身をよじっていると、ふと固い感触が腕に当たった。
――そうだ、ジャンバーの中のスタンガン!
苦痛に顔をしかめつつ、電撃銃を取り出し電源を入れると、秀作はそれで少年の後頭部を殴りつけた。バチッと火花が飛び散り、肉の焦げる異臭が鼻をつく。少年の身体が不規則に痙攣した。
咬む力が急速に弱まっていく。秀作は噛まれた苛立ちを拭うかのように、執拗に少年を殴りつけていった。
電流による神経断裂か、殴打による脳内損傷か、少年は四肢をこきざみに震わせて口を離し、その場に倒れ伏した。まだ安心できない秀作はさらに二十回ばかり、石でクルミを割るようにスタンガンを打ち付けた後、少年の腹部を蹴り飛ばした。彼の身体は無機物のようにごろごろと転がっていく。
「ガキがっ!」
唾を吐きつけ、びっこをひきながら車へと向かう。
――車で逃げれば、あいつに打つ手はない。俺の勝ちだ。
だが、秀作の脳裏には、いまだ少年の残像がちらついてた。体格でも力でも劣っておらず、立ち上がりようもなくぼろぼろにしたはずなのに、なぜか彼の形相が頭にこびりついて離れない。
負ける要素は何一つない。それなのに秀作は底知れない不安に苛まれていた。
自動車に叶を押し込めると、秀作は運転席に飛び乗ってエンジンをかける。微振動がシートを通して伝わってきて、彼はようやく安堵を感じた。
次の瞬間、ボンネットの上に肉塊が飛び乗ってくるまでは。
頭からだらだらと血を流しつつ、少年はなおも牙を剥くことを止めてはいなかった。全身は泥にまみれ、服はあちこち破れている。
少年が蹴りつけたボンネットに、蜘蛛の巣のような亀裂が走る。
「うわぁあああああっ!」
秀作は命の危険を感じ、とっさにアクセルを勢いよく踏みしめた。急発進した車はガードレールにぶつかって止まる。衝撃で少年の身体はボンネットの上から転がり落ちた。
逃げようとバックしてハンドルを切りかけた秀作は、前方で立ち上がる少年を見た。その目はまだ怒りに輝き、闘志を失っていなかった。
頭に黒い考えがさっと浮かぶ。
――どうせ、犯罪はすべて揉み消せる。こいつはここで始末するべきだ。
恐怖に震える身体を押さえつけ、秀作は再び車を走らせ、少年ごとガードレールに激突した。骨の折れる音が鈍く聞こえた気がしたが、視覚的に広がる鮮血に感覚を持っていかれる。
エンジンをふかしつつ、ハンドルを回し、車の先端で少年をガードレールにこすりつける。少年はさらに吐血した。真っ赤な血がフロントガラスの下方に広がる。
バックすると、少年の身体はずり落ちていった。
「ひひっ」
秀作の口から笑いが漏れる。
「ふふっ、へへっ、いひひっ、ひゃひゃひゃひゅひゅひゅ、やった殺した。とうとう殺してやったぞ!」
憎き恋敵を抹殺した爽快感と、手にした少女との遊戯の想像で、秀作の頭にドーパミンが流れ込んできた。
秀作はアクセルを踏み込み、勢いよく車を走らせていった。急がないとお楽しみの時間が減ってしまうことを彼は恐れていた。辺りはもう暗闇が支配しており、制限時間は幾何も残されていないのだから。
地面のコンクリートは冷たく、賢の体温を奪っていく。身体はびりびり痺れており、満足に動かせそうになかった。腹はもう、どこから痛みが生まれているのか分からないほど、ぐちゃぐちゃにつぶれていた。
しかし、賢はなお、車が消えていった方向に身体を這わせている。激痛に身体をきしませつつ、まだ叶の姿を追っていた。
叶の手紙には、賢との別れがつらいこと、叶が賢のことを気にかけていること、しかし本当に好きな人がいるので叶は賢とは恋仲になれないことが、たどたどしい平仮名で懸命に書かれていた。
『わたしはきんじょのおにいさんがすきなんです』
この一文を見たとき、全身の血液が逆流したかのような激痛が賢の身体を貫いた。まだあったこともない「おにいさん」とやらを食い殺してやりたいと思った。こんな胸の切なさは初めてであった。賢は嫉妬という感情を生々しく味わった。
――どうして、どうして、どうして僕を好きになってくれないの?
通信機ごしのキティの声さえ耳に入ってこず、無我夢中で駆けてきたのだった。初めて秀作の姿を視認した時も、誘拐云々というよりは、彼が叶の身体に触れていることが気に入らなくて襲っていったのだった。
今ならはっきりと分かる。叶はあの男に誘拐され、今まさに卑劣なことをされようとしていることも。嫉妬の渦に心を奪われている場合ではないということも。
――叶ちゃんを助けたい。
今は告白も何もかもかなぐり捨て、賢はその一念のみで身体を動かしていた。
べふっと粘着質音を立てて血を嘔吐する。コンクリートに広がる朱色を見ると、自分の寿命が残り幾何もないことを賢は実感した。脳内が損傷しているのか、ぼーっとして、世界が薄暗く見えてくる。今にも意識が飛びそうだった。
「あああああっ、動け、動け、僕の身体!」
賢はコンクリートの地面にガンガンと頭を打ち付ける。大事な時に役に立たない自分の身体が恨めしい。
「僕は死んだっていい! どうせ叶ちゃんに助けてもらった命だ。だからせめて叶ちゃんを助けることに使いたいのに!」
絶叫は秋の夜空にこだました。賢の頬を一筋の涙が落ちていく。
キティがなぜ『最後まであきらめないで』と言っていたのか、賢はなんとなく意図を汲み取る。それは、『最後まで』であって、最後の最後には、誰もが結局あきらめることしかできないのだ。『最後まで』には、そんな残酷な優しさが込められている。
賢はふっと身体を脱力させ、表情を和らげた。
叶の笑顔が脳裏に浮かぶ。
次の瞬間、全身の筋肉をでたらめに収縮させ、賢は立ち上がっていった。無茶な動きにびきびきと身体中の筋肉繊維が痙攣を起こしていく。
「まだ、最後の時じゃない! まだ諦めてたまるか!」
人体の構造上、身体へのダメージから言ってもはや二足歩行は不可能なはずなのに、賢は身体を起こしていく。
それに呼応するかのように、賢の身体に異変が現れた。
ゴキンゴキンと身体中の骨がきしみ、変形していく。鼻が突き出し、全身の毛穴から、剛毛が顔をのぞかせてくる。視界がぼんやりと色を失う代わりに、周りのにおいが鮮明になってきた。
牙が鋭く尖り始めたとき、賢は自分の身体に何が起こっているかようやく分かった。制限時間が迫り、犬に戻り始めているのだ。
次第に身体の傷が癒えていく。犬に戻った部分だけは、血肉や骨が再編されているようだった。
野生の頃の筋肉を取り戻していく賢は、血がたぎり、思わず月を仰いで遠吠えをした。
――これなら、いける。
月の光を照り返す金眼は、虚空を泳ぐ鋭利な爪は、犠牲者を求めて鼓動を始める。
程よいころ、ブンッとハエが飛ぶような接続音が鳴り、キティとの無線がつながった。
「はあい、どうかしら、気分は?」
『最高にクールですよ。キティ先生、お願いがあります』
賢は早急に本題に入る。急がなければ、叶の身が危なかった。
『車を襲撃する方法と、運転の仕方をご教授ください』




