迷いと勇気
全4話完結予定です。
日が落ちた住宅街の静かさの中、羽賀 叶は帰途についていた。ピンクのバックには大きめの名札ステッカー。青と白のストライプが入った園児服は叶が幼稚園児であることを告げている。逢魔が刻の風に煽られ、スカートがはためいた。
帰り道、彼女は決まってある場所に寄っている。黄昏に沈む公園、穴ぼこドームの遊具の裏に、彼女は五日前小さな子犬を発見していた。
「ようし、今日もミルクを持ってきてあげたよ」
彼女はミルク入りの哺乳瓶を、子犬の目の前でゆらゆら揺らした。子犬は黒っぽい雑種犬。性別は雄。歯は生えそろっているが、まだ体は小さく、彼女のバックと同じほどの大きさしかない。ダンボ―ル箱に入れられて、舌をへっへと突き出す様子は、叶の母性本能をくすぐるのだった。
犬は首を伸ばすと哺乳瓶にしゃぶりつき、おいしそうに喉を鳴らした。まだ乳離れしきっていない年齢なのだろう。
「早く、ママか飼い主が見つけてくれるといいね」
叶は手を伸ばし、子犬の頭を優しく撫でた。彼女はまだ捨て犬という概念を知らず、犬の世話も飼い主が現れるまでのことだと思っていた。犬がいなくなった時のことを思うと、胸がじくっと痛くなる。
「ああ、持って帰りたいくらいかわいいな。けど、きっとこの子にもママがいるだろうし、第一うちじゃペットを飼っちゃいけないし」
子犬が哺乳瓶の中を飲み干す頃には、辺りは夕闇に包まれていた。彼女は名残惜し気に子犬の喉をさすると、手を離し、別れを告げた。
「明日もまた来るよ、猫に食べられないでね」
くぅんと寂しげに鼻を鳴らす子犬がいじらしいが、ぐっと我慢する。叶は遅くなって親に心配をかけないよう、急いで公園から出ていった。
叶が帰った後、子犬はいつも虚しくなる。気を紛らわせるために、がじがじと段ボールのふちをしゃぶるのが日課だった。
――ああ、あの女の子はどうして僕を連れて行ってくれないんだろう。
鼻をひくつかせると、彼女の甘いにおいが鼻腔に満ちる。さすられた喉は心地よく痺れ、さらなる愛撫を求めているが、当の彼女はもういない。
――僕の身体が汚いから嫌なのかなぁ、明日もまた来てくれるかなぁ。
捨てられてから大分日が経ち、段ボールの底は当然の生理現象で汚れていた。しかし、アンモニア臭も気にせず毎日食べ物を持ってきてくれる叶に、子犬は感謝の念と好意を抱いていた。
――僕が人間だったら、あの女の子とおしゃべりしたり、遊んだり、あと……いろいろしたりできるのになぁ。
いろいろ。実態は不明瞭だが、とにかくいろいろしてみたかった。それが、親切にしてくれる女の子への淡い恋心だとは、幼い子犬にはまだ分からなかった。
段ボールが噛み潰されてひしゃげるころには、満腹だったお腹もこなれ、子犬は眠気に襲われる。底の比較的きれいな部分に身体を横たえると急速に意識が沈んでいった。今日はあの女の子が出てくる夢を見れるかな、と期待して子犬は目を閉じた。
彼の鼻が異質なにおいをかいだのは、ちょうどそのときだった。
「あーらボク、おねむの時間だったかしらん? ちょっとお姉さんとイイことし・な・い?」
キモチワルイねこなで声。刺すような麝香の匂いを鼻に感じ、子犬は飛び起きて大きくむせた。
「うふっ、あなたにはまだ早い大人の香りだったみたいね」
その人影は段ボールの側にかがみこみ、子犬の様子をうかがっているようだった。まどろんでいたとはいえ、まったく気配を感じさせない接近に子犬は恐怖を覚えた。息が落ち着くと、未熟な声帯を震わせて吠え立てる。
『だ、誰だよ、お前』
「あたしの名前はキティ。キャッツやジェシカって呼んでくれてもいいけど、大輔って呼んじゃダメよ。怒っちゃうわ」
子犬はその時、気が付いた。相手の言語を自分は理解できているし、相手も犬語を理解している。背筋の先から凍てつくような不気味さを感じた。
風が吹き、むら雲の隙間から月光が差し込むと、おぼろげながら不審者の輪郭が見えてくる。
女性にしては厚く男性にしては薄い肩。しゃがみ込んでいても長身と分かるほど、手足は長く、座高は高い。血のように赤い長髪がゆるいカーブを描き、地面すれすれまで伸びている。つやのある黒のロッカージャケットを着ていた。
『なんで犬語が話せるんだよ』
「天界言語は万能なの。話せば直接聞き手の脳に意図が響いてくれるワケ! ちなみにあなたの言葉は頭の中で完璧に訳しているから問題ナッシング。今時人間語しかリスニングできない天使なんてナンセンスだわ。だって取引相手は多い方がいいじゃない?」
不審者はそう言うと、唇の周りを舐め回し、じゅっと唾を呑みこんだ。唾に濡れ、口紅の赤がどぎつく光る。
「物は相談、あたし、こういうお仕事しているの」
長い爪先でつままれ、差し出された名刺。子犬は口でくわえて受け取った。天界言語なるもので書いてあるのか、犬にも読める。
~天界キューピッドコーポレーション 告白部門~
横文字が多いが、雰囲気は脳に直接響いてくるのでなんとなく分かった。
告白。異性に自分の好意を打ち明けること。
「ねえ、あなた、好きな女の子がいるでしょう? いつもあなたにミルクをくれるかわいい子!」
甘酸っぱい胸の内を言い当てられ、子犬は驚いてビクッと震えた。心臓の鼓動が急に増し、脳への血流が増えた気がする。呼吸が荒くなるのに、肺にちっとも酸素が入っていかなくなった。
――好き……? 僕はあの女の子が好きだったのか!
「尽くしてくれた女の子に恋しちゃう、だけど、相手は異種族……なんてドラマチックで悲劇的な恋! そんなあなたの恋路をあたしが応援してアゲルわ! さあ、この契約書にサインして。そうすれば、あなたも一日だけ、人間の男の子になれちゃいます! 女の子とおしゃべりしたり、遊んだり、その他むちむちいろいろできちゃうわよん」
不審者が続いて差し出したのは、一枚の真っ白な羊皮紙。しわ一つなく丁寧になめされた表面に、金色の文字で天界言語が綴られていた。
「そう言えばサインはできないわね、肉球も可ってことで」
『あ、あの……ちょっと待って』
子犬は突然の展開に困惑し、怯えた声を上げた。
――この人絶対怪しい人だよ……サインなんかしたら何されるか分かったもんじゃないよ。天界とか名乗ってて頭狂ってるよ。
子犬なりに、信用できない人のにおいくらい嗅ぎ分けられる。人間になり、女の子と話せるようになるのは嬉しいが、その後の不安が嬉しさに勝る。
――第一、告白なんかして、断られたら……怖いよ。
背筋を走る甘いうずきの切なさに、子犬の四肢は耐え切れず震え出した。
子犬の心中を察し、不審者はそっと囁いた。
「怯えているの? このチャンスを逃すつもり? あの子に異性として近づける一生で一度きりの大チャンスよ」
『僕は何も持ってないんだ。かっこいい見た目も、良い頭も、家も、飼い主も、家族も、服も、名前も、明日の食事さえも! 告白したって意味ないよ。彼女が僕を好きになってくれる理由がないんだ』
「あら、告白に意味や理由なんて求めてたの? もっと無鉄砲な子かと思ってたのに残念」
鼻でため息をつき、不審者は小指で子犬の顎をすっと持ち上げた。
「こんなにかわいい子なら女の子がほっとかないわ。少なくとも見た目だけは大丈夫って保障してあげる」
『でも、もし……もし、振られたりでもしたら、怖いんだ。あの女の子は僕のこと、犬として好きなんであって、人間の男の子として好きなわけじゃないし、だから、嫌われたら、怖いよ……』
「もう、意気地がない子ねぇ。大丈夫、勇気を出して。世の中にはたくさんの恋人さんたちがいるんだけどね、みんな、あなたみたいな不安を抱えつつ、どっちかが告白して、カップルになったのよ。要は気持ちの問題よ」
子犬の頭の中がぐちゃぐちゃにかき乱されていく。貧血にも似ためまいを彼は実感していた。告白に対する恐怖と、女の子への淡い恋心がせめぎ合う。
――がんばってみようかな? けど、嫌われたらどうしよう、だけどもしかしたら、好きになってくれるってこともあるんじゃ、彼女優しそうだし……。
心の中の天秤は何度も何度も傾いて、自分の本心を計る。うんうんうなって考え込んでいる間、不審者はずっとしゃがんで待ってくれていた。
「じっくり考えてね。きっとあなたなら後悔しない選択ができるわよ」
ゆっくり時間が流れていくようだった。公園の木々は風に揺れ、ざわざわと静かに音を立てる。蛍光灯が時折瞬いて、夜の暗さを浮き出していた。
小一時間ほど時がたち、子犬は顔を上げ、不審者に向けた。
「やっぱり僕、人間になって女の子に告白したいです」
それが、子犬が出した最終的な結論だった。
「だめかもしれませんが、やれるだけやってみます」
不審者はそれを聞くと、口の端を耳まで裂けさせて笑った。
「決まりね。それじゃあ肉球で印をちょうだいっ!」
子犬は手を出し、不審者の差し出すインクを浸すと、契約書の上に押し付ける。
次の瞬間、ポンッとポップコーンのはじけるような軽い音が鳴り、子犬の身体は白い煙に包まれた。臭いはなく、息苦しくもなかったが、鼻の感覚が麻痺していくような感じがした。代わりに視界が鮮明になり、今までおぼろげに見えていた不審者が、だんだんはっきり見えてくるようになった。
耳まで裂けた口の端。濃い紅色の唇の下では鋭い歯が顔をのぞかせている。耳は三角形に突き出ていて、人間のそれとは、作りから異なっていた。
銀縁の片眼鏡の奥では、にごった赤眼が蠢いている。
「人間になったら嗅覚は鈍くなるけど、視覚は鋭くなるでしょう? どうあたしの顔、美しいかしら?」
『は、はい』
有無を言わさぬ気迫に圧され、子犬は思わずうなずいた。「ぐふっ」と嬉しげに笑い、不審者は照れる。
「きちんと見えてるわね。そうだ、あなたに名前をあげましょうか。もとは犬だったから、音読みでケンにしましょう。あたしのことはキティって呼んでくれればいいから」
『はい、キティ先生』
「まあ、かわいい!」
子犬は身体の先が痺れてくるような感覚に陥った。全身の毛が根元から抜けていく。鼻の頭がむず痒いと思ったら、鼻先が低くなり始めていた。背骨がみしみしときしみ、全長が大きくなっていく。それにつれ、座っていた段ボールが裂けて壊れ、ドーム状の遊具の天井がどんどん迫ってきた。
変態にはものの十秒もかからなかった。人間の男の子になった彼は、茫然として段ボールの残骸の上へ座り込んでいる。
「気分はどうかしら、ケン君?」
――なんだか身体がふわふわしています。
そうしゃべったつもりだったが、口からは意味のない「うー、あー」という音しか出てこなかった。
「あっそうそう、まだ、人間語の発音の仕方が分かってなかったのよね。これから人間の常識も含めてみっちりレッスンよ。ああ、身体も洗って服も着なきゃっ、時間がない! 何せ人間になれるのは一日だけだから。朝までには間に合わせないと」
「おー(はい、がんばります)」
こうして、子犬と不審者は明日の告白に向け、あわただしく動き始めたのだった。
ほぼ同時刻の真夜中、公園に近いアパートの一室。一人の青年が回転座椅子の上で膝を抱えて丸まっていた。頭はフケが張り付いてうっすら白くなっている。貧乏ゆすりをしながらパソコンの画面を凝視する。
「やっぱ晩御飯のおかずは天使ちゃんですな!」
画面の中央に映るのは、幼稚園児の女の子。青と白のストライプが入った園児服は、近所の私立幼稚園特有のものだ。
その女の子は、他の子どもたちと一緒に鬼ごっこをしていた。額にかいた汗が、日光を跳ね返し眩しく輝く。胸の名札ステッカーには、『はが かなえ』と記されていた。
撮影された場所は幼稚園の中。警備施設の整った園内の映像は、彼の盗撮技術の高さを物語っていた。
風にはためくスカートに食欲をかき立てられた青年は、手に持っていたカップ麺を勢いよくすすりこんだ。心なしか舌の上に女の子の汗の甘い香りが広がるような気がして、青年はにやりと顔を緩ませる。
「萌え萌えきゅんきゅんハートだにゃん!」
思わず口から飛び出す深夜アニメの決め台詞。
と、彼がナイトライフを満喫していた時、不意に机上の携帯電話が鳴り出した。
彼はチッと舌打ちして電話を取り通話ボタンを押す。
「誰ですか……ああ、ババア! いつまでもちゃん付けで呼ぶなよ。仕事しろ? うっせえな、なんか、負けっつうか、仕事したら汚い大人社会にまじっちゃうっていうかさ、いい大学出の俺には才能生かしたクリエイティブな仕事が……ああっ、もうほっといてくれ、仕送りよろしく」
会話もそこそこに電話を途中で切ると青年は天井を仰ぎため息をついた。
「ったく世の中わずらわしいわ。二次元行きたい」
彼の名は、八島 秀作。最高学府の束京大学を出たものの、持ち前の内気さが災いし、就職浪人。その後ずるずると二十六歳の誕生日を迎えるに到る。
彼の普段のライフスタイルは宵っ張りの朝寝坊。昼は古本屋でぶらぶらし、夜はネットで暇をつぶすのが定型だった。
が、一ヵ月前からそれに盗撮が加わった。転機は、朝早くたまたま目が覚めてしまい、その辺を散歩していた時に出会った小さな女の子であった。
「おはようございます!」
礼儀正しく腰を直角に曲げ、少女は深々とおじぎをした。パジャマにジャンバーをひっかけただけの、どこからどうみても不審な秀作に、彼女は先生に向かうような礼を尽くしてくれたのだ。
秀作は知らない、幼稚園であいさつ指導なるものがされていたことを。
ゆえに思った。この子は自分にだけこんなに丁寧にしてくれたのだと。
秀作はその時胸に感じた甘酸っぱさを今でも覚えている。現実なんて二次元の劣悪母体でしかないと考えていた彼には、前例のないことだった。
――やばい、好きになってしまったかも!
思えば、近所のお兄ちゃん大好きものの軽小説を前に読んだことがある気がする。年齢差は二十歳以上あり、愛さえあれば関係ないよねとはなかなかいかないものなので、まずは相手のことを良く知ろうと盗撮していた。
だが、現在においてはもはや盗撮は彼の趣味になってしまった。束京大学人間心理学科を出ていた彼にとって、幼稚園の先生たちの隙をついて盗撮を行うことなど朝飯前である。膨大な量のフィルムがパソコン内に保存されている。
「ああ、ほんと天使だよな、叶ちゃん」
彼女が邪気なく微笑むたびに、胸がうずいて仕方なくなる秀作だった。
映像の中の叶が大きく跳躍し、他の生徒に抱き着いた。風のいたずらで彼女のスカートがめくれ、白いパンツがちらりと見える。
「おおおおっ! サービスカット!」
巻き戻そうとマウスに手をかけた途端、邪魔するかのように玄関のインターホンが鳴った。
顔を曇らして舌打ちする秀作。おっくうそうに立ち上がると、玄関まで歩いていった。
――こんな時間にくるのは、大家くらいしかいねえな。
内気な彼には、一緒に遊ぶ友達すらいない。
「待ってくださいね今開けますから」
安全のためにドアガードをかけた状態で、扉を開け外の様子をうかがう。
扉の前には、スーツ姿の少年が立っていた。小柄で童顔。痩せてもいないし、太ってもいない。秀作は彼にまったく見覚えがなかった。
大きな目に、整った顔立ち。青髪碧眼の相貌から外国人のような気もしたが、顔のつくりは日本人のそれだった。背丈からいって年の頃は十代後半に見える。
口を半開きにしており、どこを向いているか分からないような青い目はどんより濁っていた。のろまでどん臭そうな印象を秀作は受ける。
「あのー、すみませんがー」
「あっ、セールスならうち断ってますんで」
秀作はさっさと扉を閉めた。見目はいいが、男のセールスマンと話をしたいという欲求は彼にはない。
外から何も反応がなかったので、あきらめたのだろうと思い、秀作はビデオ鑑賞に戻った。
カップ麺をフォークで食べつつ、意中の少女の笑顔を見る。一日の中で二番目に楽しい時である。一番楽しいのは、もちろん、朝散歩して叶とあいさつを交わすときだ。
秋も深まってきたのか、外からかすかにコオロギの鳴き声が聞こえてくる。そろそろタンスから長袖を出して衣替えしなきゃな、と秀作はぼんやり考えながらだらだらと過ごす。
どのくらい時間が経ったろうか。五時間分の盗撮ビデオを彼が見終えた時、インターホンが再び鳴らされた。
「はい、なんでしょうか」
扉を開けると、さっきの少年が立っていた。片手を胸元で申し訳なさげに揺らしている。その仕草さえのんびりしていた。
「ああ、なにか忘れ物でも?」
「いえ……お話がありまして――」
「さきほども言ったんですけど、うちにはお金ないんですみません」
有無を言わさず扉を閉める。
――きっと他の家でも断られて、またうちに来たんだろうな。
若いのにセールスマンなんて大変だな、と秀作は考える。そういった姿を見せつけられると、働く気が余計に萎えてしまう。むろん、今のままニートでいてはいけないと秀作にも重々分かっているのだが。
「いけね、辛気くせえ。寝るか」
時計は午前二時を指していた。以前ならまだまだ起きている時間だが、近ごろ七時に起きる癖をつけた秀作は比較的早寝になっている。
目的はもちろん愛しの叶と朝の挨拶をすることだ。
万年床にごろりと横になると、つうんとほこり臭さが鼻をついた。汚さに慣れている秀作は気にせずにそのまま夢の世界へと沈んでいった。
七時。目覚まし時計が鳴り出した。億劫そうにそれを止め、秀作は身体を起こす。
と、その時、インターホンが鳴らされた。
「あぁあ。誰だこんな朝早く? 大家だって来ないぞ」
欠伸をしながら尻を掻き、秀作は扉を開けた。
「……あは、どうも」
扉の前にいた青髪少年はゆっくりした動作で小さく会釈をした。
その場から動いた形跡はまったくなかった。




