廃屋の記憶
当作品はサイトからの転載です。
残業が遅くなり、翌日が土曜日ということもあって、遠藤は何とはなしに飲み屋街をうろついていた。今まで入ったことのない路地に入り、気がつくと小さなバーの前に立っていた。小奇麗な店の木の看板にはか細い字体で「ぷらな」と書かれている。変わった店の名前だが、何故かその響きに心の底を掻き乱された。入ったことのない店に入るのは少し勇気がいるが、その時は何の躊躇いもなくドアを押していた。カラン、と軽いドアベルの音が響く。カウンターの奥にマスターと思しき若い女性が立ち、興味深そうな顔でこちらを見ている。客はいなかった。
「あ、あの、いいですか?」
「ええ。こちらへどうぞ」
遠藤は促されるままにカウンター席に座った。殺風景と言ってもいいほど何の飾りもない店だ。往年のスイングジャズが微かに聞こえる程度の音量で流れている。マスターは真っ白なシャツに黒いベスト。きりっとしたボブカットが似合う実に美しい女性だ。
「ご注文は?」
「ジャックダニエルをストレートで」
ウイスキーを飲みながら、何となくカウンターの端を眺める。遠藤は大きなガラス瓶が置いてあるのに気がついた。中には色とりどりのセロファンで包まれた飴のようなものが見える。それを見た途端、背中にぞわりと悪寒が走った。嫌なことを思い出したのだ。
「お客様、恐い話はお好きですか?」
「え? ああ、好きなほうかな」
「そうですか。私は大好きなんです。だからもし恐い話を聞かせていただけたら今日の飲み代はタダにしますよ」
「それ、本当?」
いつの間にかサラミやナッツがたっぷり乗った皿が目の前に置かれていた。
「ええ。もう今日は閉めようと思っていたところですし。ただし、有名な怪談は大体知ってますから。2ちゃんねる系の怖い話も知ってます。出来ればオリジナルでお願いします」
遠藤は躊躇った。どうしようか。先ほど記憶の底から這い上がってきたあの話を人に聞かせてもいいのだろうか。まあ、いいだろう。どうせ誰も信じやしないさ。
「それならちょっと話してみるか。これは俺が子供の頃の話なんだが」
俺がまだ小学四年生の頃、仲良しだった友達がいた。孝司と美奈。俺たちは幼稚園の頃からの幼馴染で、毎日のように一緒に遊んでいた。孝司はいわゆる悪友という奴で、美奈は、彼女は俺にとって特別な存在だった。愛くるしい目をした彼女は明るくて好奇心旺盛で、とても優しい子だった。
あれは夏休みに入ったばかりのことだ。その頃、両親が働いていたので、遊ぶ時はだいたい俺の家で遊んでいた。テレビを見て、くだらないことを喋っているうち恐い話に話題が移った。町の外れにある廃屋の話を始めたのは孝司だったと思う。
「あそこって、本当に幽霊が出るんだってさ。行ってみようぜ」
「面白そう! 行こう行こう!」
美奈は凄く乗り気だった。
それこそ、動物園に珍しい動物を観に行くような感覚で話はまとまった。夜は両親の目があるので、翌日の昼間に行くことにした。俺は何となく気が進まなかったが明るいうちなら恐くないだろうと思った。
油蝉の声がじっとりと響き渡っていた。炎天下、舗装のない田舎道を歩き続けて辿り着いた洋館は鉄の門扉がすっかり錆付いて半開きになっている。草が鬱蒼と茂った庭を抜け、扉の前に立つと孝司がドアノブに手を伸ばした。
「なんだ。鍵がかかってる」
がちゃがちゃと回し続けていると、奥の庭のほうで美奈の声が聞こえた。行ってみると彼女は割れた窓ガラスに手を突っ込んで鍵を外していた。
「お前、何やってるんだよ」
「言っとくけど、このガラス、割れてたのよ」
俺たちは開いた窓から中へ入った。応接間だろうか。薄暗い部屋の中には古ぼけた家具が放置され、厚く埃を被っている。美奈が持ってきた懐中電灯を点けると、丸い光の輪がそれ自体が霊魂のように部屋の中を彷徨った。
「ねえ、ここって何があったんだっけ?」
「一家惨殺じゃなかった?」
「それだったらニュースになってるよ」
本当のことを言えば、その廃屋は俺が生まれる前からあった。両親や先生にその家のことを聞いてみたことはあったが、不思議なことに誰が住んでいたのかとか、どうして廃屋になったのかということを誰も知らなかった。いや、それを言うことは禁忌になっていたのかもしれないが。そして誰もが口を揃えて、あの家に近付いてはいけないと言っていたのを覚えている。しかしながら子供という理不尽な生き物はそういうことを言われるほど、行ってみたくなるものなのだ。
俺たちは恐る恐る部屋の中を調べて回った。床や壁に血の跡はないか、暗がりの奥に何かが見えはしないかと。そうやって部屋から部屋へと移動しながら、自分たちも気が付かないうちに邪悪なものを掘り起こしていたのかもしれない。
階段を上り、二階の南側の部屋。そこは子供部屋だったのだろう。ベッドの上にはボロボロになり、綿のはみ出たぬいぐるみがいくつも置かれている。不気味なのはどのぬいぐるみも首がなかったことだ。
「ねえ、見て。写真があるよ」
美奈が指差す方向に机があり、木枠の写真立てが置かれていた。椅子に腰掛けた色の白い十二歳くらいの着物を着た少女のそれはセピア色で、もう数十年は経っているように思われた。美奈は写真立てを手に取るとそっと埃を掃った。
「この家の子かな。若いうちに亡くなったのかも」
「なあ、何か……聞こえねえか」
言い出したのは孝司だ。ほんの微かに囁くような掠れた声、男のものとも女のものともつかない声が確かに聞こえている。
「え? あたしは聞こえないけど」
お……をく……ろ お……をく……ろ
よく聞き取れないが、少しずつ声は大きくなってきている。
「うわ! 出た! 早く逃げようよ!」
恐くて恐くて堪らなかった。
孝司は平静を装っていたが、全身が細かく震えているのがわかった。
「そうだな。もう帰ろう、美奈」
美奈の様子が何かおかしかった。さっきまで興味津々だったはずの彼女は無表情で俺たちを見返し、何も答えようとせずに一人で部屋を出て行った。後を追って廊下へ出ると声はぴたりと止んだが、既に彼女の姿はなかった。
二階の全ての部屋を覗いてみたが美奈はいなかった。一番奥の部屋は書斎のようだった。正面にはびっしりと本が詰まった本棚がある。奇妙なのは左右の壁一面に隙間なく蛇の写真が飾られていたことだ。今にも部屋の隅からずるずると蛇の顔をした女が這いずり出てくるような気がする。俺たちは急いで部屋を出て階下に降りた。
一階の部屋を探しているとキッチンの方角から微かに美奈の声が聞こえた気がした。行ってみるとそこはしんと静まり返っていて、誰ひとりいなかった。だが、変色した白いテーブルクロスの上には前に見たときはなかったガラスの瓶が置かれていた。その中には赤いセロファンに包まれた飴がぎっしりと詰まっている。
「そう、ちょうどそれとよく似てるんだ」
カウンターの上に置かれた瓶を指差すと、マスターはふっと笑みを浮かべた。
「これはただの飴ですよ」
「血だ!」
孝司がリノリウムの床を指差して叫び声をあげた。確かに床に赤いものが落ちている。だが、よく見るとそれは赤いセロファンだった。
「美奈が食べたのかな」
「そうみたいだな。でも、これって何十年も前の飴じゃねえの?」
「だよな」
俺はガラス瓶を開けて、飴を取り出してみた。中の飴はピンクがかった肌色で何の匂いもしなかった。はっきり言って気味が悪い。美奈は食べ物に関しては用心深くて、一日賞味期限が過ぎていても絶対に食べない。この飴を食べるなんてことがありうるのだろうか。
その後、いくら探しても美奈は見つからず、仕方なく俺たちは庭へ出た。既に日は西へ傾いていた。
「美奈はもう帰ったのかもしれない。電話してみるか?」
孝司は狐につままれたような顔をした。
「美奈って誰のことだよ」
「え、だって俺たち三人で来たじゃないか」
「二人だろ! 俺とお前! だいたい美奈なんて女、俺は知らねえし。気持ち悪いこというなよ!」
俺は頭が混乱していつの間にか走り出していた。孝司がおかしい。途中で美奈のことが気になって、公衆電話から彼女の家に電話をかけた。
『おかけになった電話番号は現在使われておりません』
「嘘だろ……」
受話器を放り出して彼女の家に向かった。だが家があったはずの場所はまっさらな空き地になっていた。
しばらくは自分に起こったことが信じられなかった。美奈という存在そのものが消滅してしまったのだ。自分の気が狂ったのではないか。恐怖に押しつぶされそうな日々が続いた。
もう一度、廃屋に行ってみようと思った翌日、あの家は何者かに放火されて跡形もなく燃え落ちてしまった。
「孝司は高校を卒業した後に東京へ引っ越してそれ以来一度も会っていない。変な話だろう? 美奈なんていなかったのに、俺の頭の中には幼稚園からの記憶がしっかり刻み込まれているんだ」
女性マスターはしばらく黙っていたが、やがて柔らかい笑みを浮かべた。
「あなたは彼女が好きですか?」
「ああ、好きだよ。大好きだった。彼女のことは俺だけが見た幻覚かもしれないけれど、それでも忘れることができないんだ」
彼女は遠藤の前にそっとカクテルグラスを置いた。
「これを飲んでみてください。これは幸運のカクテルなんです。きっといいことがありますよ」
遠藤はグラスを受け取って、口をつけた。青く澄んだ空の色をしたカクテルの味は吹き抜ける風のようにすっきりと甘かった。
「ありがとう。何だか、吹っ切れた気がするよ。変な話を聞かせちゃって悪かったね」
「いいえ。とても面白かったですよ」
遠藤が出て行くと、この店のマスターである里亜はふっと溜息をついた。
――あの廃屋を浄化し、燃やしたのは私だ。あの家には強烈な怨念が集合し、渦巻いていて、その念が食べた者の存在そのものを消し去ってしまう飴を具現化していたのだ。でもまさか実際に食べた人間がいたなんて――
そして、彼に作ったカクテルの名は『再生』。
『どうだった、今日の話は。腹がいっぱいになったか?』
「なんだ、そこにいたの、プラナ。そうねえ、カクテルを渡さなければ、ね」
『お前は本当にお人よしだな』
「いいの。本当に心の底から人を思っていれば、存在が消えても覚えていられるんだって判っただけでも収穫といえるわ」
プラナと呼ばれたペンギンがテーブル席の椅子の上で羽をぱたぱたさせた。
『ああ、それから、あの男が言ってたあの言葉はいったい何だったんだ?』
「お……をく……ろってやつ? たぶん、お前を食わせろ、だわね。なんの捻りもないわ」
携帯が鳴った。遠藤は何気なく画面を見た。そこには懐かしい名前があった。もう消滅したはずの名前だった。信じられない。彼は震える手で携帯を耳に当てた。
「こんばんは~。お久しぶり。元気してる?」
「あ……ああ。ええと」
「ああ、ごめん。あたし、美奈よ。何だか急に会いたくなっちゃった。明日、休みでしょ? 一緒に飲まない? 孝司もこっちへ出て来るって言ってるし」
美奈が戻ってきた。彼女の存在が戻ってきた。ひょっとしてこれは夢じゃないだろうかと頬を抓ってみた。涙が溢れてきたのは痛みのせいじゃない。
「いいよ、何処にする?」
明るく活発な口調で美奈が答える。遠藤はあの日以来、感じたことのなかった心の安らぎを取り戻していた。
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