さらば幸せの日々
20XX年4月3日。
俺は見事、就職に成功した。
これからの数十年間が安泰だと思うと、顔が緩んでしまう。
朝9時に出社し、5時に帰る。
その単調な作業の繰り返しによって、安定した給与を会社から貰うことが出来る。資本主義が生み出した錬金術の一端に、組み込まれることが出来たのだ。
「ふふ・・・・・・」
入社式の会場、自然笑みがこぼれる。隣の同期が僕のことを不審な目で見るが、気にしない。
これを、この瞬間を喜びに満ちて過ごせない人間に未来などあるものか!
僕が入社した○○社は、知名度も無く、規模も大きくないが、それなりの給料をもらえるとネットで評判の会社だった。説明会の雰囲気も良かったし、面接のときの人事の人たちも、終始にこやかで気持ちが良かった。
入社した理由を聞かれれば、「人に惹かれたから」と、ありがちな答えを言っても良い様な気分にしてくた。
とはいえ、そんな下らない理由で入社を決めたわけではない。
僕にとっての最重要事項。それはノー残業。NO残業だ。アフターファイブを充実した遊びで満たすために、充実していなかったこれまでの20数年間を取り戻すために、僕には残業をする暇など無い。
お金さえあれば、お金と時間さえあれば、と悔やむようなことは、これまでたくさんあった。お金さえあれば、女子高生とも遊べると、どこかで聞いたような気もする。そして、今の僕には、時間もお金も約束されているのだ。
これからの数十年間。せいぜい楽しんで生きることにしよう。
僕は固く心に誓うのだった・・・・・・。
「あー・・・・・・それでは、次に社長の挨拶を・・・・・・」
自分の世界に浸っていた僕の耳に、入社式の司会を務めている冴えない中年の声が聞こえてくる。そういえば、これだけ充実しているはずの環境で、どうしてあんなに冴えない男が生まれてしまうのだろう。
僕は、不思議になる。
「新入社員の諸君。入社、おめでとう。今日から君たちはこの会社の社員となったわけだ」
何を当たり前のことを言っているのかと、鼻で笑いたくなるような挨拶だ。言われなくても、そんなことはわかっている。今、この瞬間にも僕の時間が良く分からない行事に消費されているのだと思うと、段々イライラしてきてしまった。
とはいえ、こんな時間も含めて給与の計算は行われるのだ。座って、意識を無にしているだけでお金が貰えるのだ。文句を言う必要はない。
「・・・・・・・・・・・・残業・・・・・・・・・あり・・・・・・・・・・・・・からして・・・・・・」
? 違和感を覚える。何かがおかしい。あってはいけない単語が、この冗長な挨拶の中に含まれていた。わずかに聞こえた、社長の言葉の断片を脳内で必死に反芻する。
残・・・・・・業・・・・・・?
馬鹿な! 残業などという言葉が、この空間に存在していいはずが無い。僕は、僕は残業がないと聞いたからこそ、この会社を選んだのだ。ここにきて「残業はあります(キリッ」なんていわれら、もはや入社の理由がどこにもないことになってしまう。
落ち着け。
落ち着いて考えれば「残業がこの近年でなくなったのであり・・・・・・」みたいな、言わなくてもいいようなことをしゃべる無能な奴が社長になっているだけかもしれない。
僕は、心配になってあたりを見渡す。
すると、僕と同じような焦ったような顔をして、辺りを見渡している人間が一人、二人・・・・・・。
黒だ。
完全なる黒だ。
僕らは騙されたのだ。残業が無いなどという甘言にのせられて、ブラック企業というアリ地獄の中に誘い込まれたのだ。
確かに隣に座って、さっきから役員やら社長やらの毒にも薬にもならないような話にうなずき続けている同期からは、ブラックな匂いがしなくもない。
じっと、そいつを観察していたら、目が合った。
「この職場、やりがいがありそうだね!」と、彼は言う。
これは、聞くしかないのかもしれない。まだ、残業があるとは決まっていないのだ。まだ僕は残業という事実を自分では認識していない。残業はあるのかも知れないし、無いのかもしれない。
「シュレディンガーの残業・・・・・・といったところか・・・・・・」
「ああ、残業ね。 良いじゃないか。残業しなくては終わらないような、大きな仕事を任してもらえるんだよ?」
馬鹿か!?
こいつは・・・・・・何だ?
得体の知れない人物を前にして、僕は背筋が凍るような気分だった。
「残業など、知らん」
「え?」
彼の張り付いたような笑みが強張った。
僕はそんな小物の反応に躊躇したりはしない。
「僕は・・・・・・残業なんてものは・・・・・・知らない!!」
僕は叫んでいた。
それは騙されたことへの怒りではない。
それは残業という事実を良いようにしか解釈できていない同期への苛立ちでもない。
それは、歓喜だった。
これから、自分がすべきことが見えたことへの喜びの咆哮だった。
「社長っ!!!!」
壇上の社長が、天の頂をめがけて伸ばされる僕の右手に目を注ぐ。そして、困惑したような目で、袖の方にいる司会の冴えない中年を見る。
「提案がありますっ!!!!!」
僕は、その目を無理やりにでもこちらに向けてやる。
「な・・・・・・なんだね」
社長は、おびえたような目で僕のことを見る。
「僕は・・・・・・僕は、残業なんてしないっ。そんなものは知らない。そんな概念は知らない。残業だかなんだか知らないが、知らないものは出来ない。だから、僕は定時に帰る! 何ものも・・・・・・僕を止められない!」
「なっ!?」
社長を含め、役員の数々や、同期が僕のことを見る。
「馬鹿なことを言うんじゃない!」
怒号のように、司会の中年が叫ぶ。だけど、それももう聞こえない。きっと、僕の発言はこの空間では受け入れられまい。なぜならば、ここは彼らの世界。今の僕には圧倒的に不利だ。たとえ、一万の僕がこの場にいようとも、この空気は変えられない。では、百万なら?千万なら? くだらない・・・・・・問題は数ではない。もっと根本的な何か、だ。
そして、僕は頭のスイッチを切り替える。そうだ、今、ここで必要なのは論理的な思考ではない。限りなく切り詰められた理性によって紡がれる、無限の想い。永遠の誓約。その代償をもって奇跡をおこす・・・・・・!!
「誰か、そいつを追い出せ!!」
役員の誰かが、そう叫ぶ。やってみろ、出るところに出ても良いんだぞ? そんな程度の言葉で、僕の集中が途切れるとでも・・・・・・? 僕は役員を眺めて不適に笑う。既に入社式の会場は異様な空気に包まれている。 今にも何かが生まれでそうな、不穏な空気が漂い始める。会場にいる人間も、それに気がつき始めた。しかし、それが分かったところで、何が出来るというわけでもない。
普通の人間がどれだけあがこうと、これから起こる出来事を捻じ曲げることは出来ない。僕は、言葉を紡ぎ続ける。聞こえるか、聞こえないかの声を出し続ける。その言霊が世界を侵食しつつある。
隣の同期が、驚愕の眼差しを僕に向けた。
・・・・・・気づいたか。これから起こる惨劇に。誰一人、ここから逃しはしない。この会社を受け入れた人間も、この会社の中にいる人間も、そして、間違っていると分かりながらも、沈黙を守り続けた臆病者も・・・・・・?
「何だ、何を言っているんだ!?」
社長が、壇上から降り、こちらに向かってくる。とうとう気がつかれてしまった。もう隠す必要も無い。
「もう、遅い・・・・・・何もかも。僕の詠唱は止まらない。全てを飲み込んで、この空間をめちゃくちゃにしてしまう・・・・・・気がつくのが遅かったね、社長さん」
「まて、何をするつもりだ!!」
やけに白髪の目立つ社長が、ものすごい形相で迫り来る。残業がたたって白髪だらけになったのだろうに、まだ会社を守るというのか・・・・・・どれだけおろかなんだ。と僕は思う。
だからこそ、僕は唱えよう。この馬鹿げた世界を壊すために。
僕自身を守るために。
「So...as I pray......」
詠唱はもう終わる。
会場の人間も、とうとう全員が異変に気がつく。明滅する蛍光灯。流れ込む冷気。ガタガタと揺れる椅子。そして、時計の針までが、時の流れを忘れたかのように動きを見せず・・・・・・。
そして、僕は詠唱を終える。この一言をもって、この空間を、破壊する!
「I want to go home!!!!!!!!!!!」
会場が凍った。
誰も言葉を発さず、誰も動かず、ただ、僕の紡いだ言霊の余韻だけが、会場の空気を震わせている。
ガタリ、と天井から音がする。
上を見れば、見事に天板が外れかけて、ぶらりぶらりと揺れている。
こんなボロボロなホールで入社式をするような会社を信用していいわけが無い。
サービス残業がもなしに、こんな会社が存続できるわけが無い。
だからなんだ?
僕は、この日から心に固く誓った。
僕は・・・・・・定時に帰る!!!! それが僕がすべきライフワークなのだ!! と。
その後、僕は始末書を書かされた。
まだ解雇はされていない。
<第一話>了