無欲な男
他愛もない話をいくつか重ねながら夕飯を食べた。まもるは苗よりもずっと料理が上手で、苗よりも俺の事を知らない。俺をずっと、子供のままだと思っているのかもしれない。俺の好き嫌いが減ったこと、食べ盛りなこと、数えだせばきりがなくて、そのぶん、まもるとの距離を感じる。
「まもる、眠いの?」
不意に聞かれてはと顔をあげる。「寝てたでしょ」
「あー、まぁ、ちょっと」ばつが悪そうに目を背けて、くっと伸びをする。居眠りがばれてしまった時にもこんな顔をするなぁと頭のはじで考えながら、またまぶたを重たそうに動かす彼女を眺める。
見もしないテレビを消さないでいるのは、要らない言葉を掻き消せるように。マナーモードにしない携帯は、お互いの立場を知らしめるために。それでも別れようとしないのは、くだらない恋のせい。なし崩しになることが怖いくせに、きっちりとした結末を望まない、子供のわがままだ。目は画面を向く。体は並べる。表面だけで語らう。気持ちは隠さない。想いに目をそらす。
幸せなのは、知ってるよ。だってひたむきで一途な女の子がそばにいて、明るく笑う友人がいて、そんな友人とお似合いの、強気で、わがままで、世話焼きの、幼馴染みがいる。手放すにはあんまりにも馴染んでしまったよ。汚い、浅ましい俺にもそのきらきらした世界を分けてくれたから。
「俺は、まもるに嫉妬してほしくてきみに、苗に近付いた」そういってやったらきっと苗は泣いてしまうね。それでも俺を責めないで我慢してしまうね。ねえでも苗、俺はね、ずうっと深いところでひしゃげてしまったよ。お前の泣き顔で、まもるをえらべるなら、俺はおまえなんて、迷いなく捨ててしまえる。泣いているおまえに笑顔を向けて、ああやっとまもるに後ろめたいことがなくなったと宣える。
何て醜いのだ、と自分でもあきれてしまう。しかしこれは俺の性格みたいなものだった。まもるのために他人を捨てるのは、当たり前のことだった。恋人になりたいとか、彼女の処女は自分でありたかったとか、俺が彼女を幸せにしようだとか、そういったことに執着はしないけれども、彼女の心の拠り所が、彼女の一番が俺でないことは、彼女の心を誰かが占めてしまうことは、ひたすらに不愉快だ。矛盾なんてしていない。彼女の心の一番奥にさえいられれば、今はそれだけでいいのだから。ほかにはなんだってしていい。セックスもしたらいい、夫だって誰でもいい、俺の子供じゃなくていい。キスだけ俺にくれたらいい。ほら、謙虚なものじゃないか。
「とーきわー」
ごろん、まもるが仰向けになって俺を呼ぶ。目をぎゅっとつむってしかめっつら、はだけた服のはしにある下着の紐。呆れて溜め息が漏れる。「もっと女の子っぽくしないと」それでも正したがらないのは、信頼なのか、油断なのか、どちらでも嬉しくて、悔しい。
セーラー服の彼女はいつだって少しだけ機嫌が悪そうだった。俺の前でだけ、つまらなさそうに眉をひそめて、笑うことなんて滅多になかった。それでも俺はまもるが恋しくて、まもるのためならなんだってしていた。表面だけ見たら仲はとっても悪いのに、俺たちはお互いにお互いが離れてしまわないように必死でいたのだとおもう。言葉が使えるようになったその瞬間に、口に出してしまえばよかった。
「まもるちゃんと常磐くんって、付き合ってるの?」
茶化すように話題を出したクラスメイトの醜女に、悪意はなかったのかもしれない。ただの学生同士の、ひとつの話題にすぎなかったに違いない。ただ俺たちにとっては、誰にも触れられたくなかったことだった。もうすこしおとなになってから、そうやって大事に大事にしてきた、秘密基地のようなものだった。それは俺だけかもしれない。彼女は俺とそういう関係であることをどうしても否定したかったのだろう。座っていた椅子が後ろに倒れる。盛大な音をたてて立ち上がり、ふるえた声で、押し付けるように強くいった。
「あんなのとそんな噂になるなんて、ごめんだわ。不愉快よ」
どうして聞いてしまったのか、と強い後悔をした。たまたま聞こえてしまったから、と立ち聞きなんて悪趣味なことをするからバチが当たったのだ。彼女の顔は見ていないから、どんな気持ちでそう言ったのかはわからない。もしかしたら羞恥でそういったのかもわからない、けれど、腹の底から嫌そうにいっているのかもわからないのだ。
幸せにするのは自分以外あり得ないと思っていた。彼女の全てが俺のものであるべきだと思っていた。
俺のなかの自信は崩れて、残ったのは、彼女に対するよりいっそう濃い執着心だけだった。
手を伸ばせば届くのに、どうしてか届かないんだと諦めたくなる。でも、子供は手を伸ばす。どうしてもそれがほしいから、卑怯なことをしてででも触れてやると意固地になった。
例えば化粧っ気のないその頬をつまんでみたり、透明感のない瞳をえぐったり、瞳イチゴ味の唇を噛んでみたり、細い首に手をかけたり、まるまった背中を踏んだり、張った胸にキスをしたり、くびれた腰をなぜたり、きゅっとした尻に噛みついたり、ちいさな陰部に舌を這わせたり、太股に爪を立てたり、しろいふくらはぎに針を指したり、かさついた足首に枷をつけたり、そうやって君を愛してみたい。
「常磐、聞いてる? かたもみ!」耳に押し込まれる声で、我に返る。全く聞いてなかったわけだが、まもるの不満げな顔を見るに、時間がいくらかたっていたのだろう。まもるの言葉を聞き逃すだなんて俺らしくない、そう自分で思う。
「ん? あぁ、わかった。背中、しゃんとしてくれるかな」
彼女の後ろまで膝であるき、あぐらをかく。彼女は背筋をぴんとのばし、催促するみたいに体を揺すった。俺の手に余る細い肩、強気で勝ち気な姿勢にしては貧弱な体だなぁと思う。まあもっとも、力の入れ方が器用であるから、腕っぷしは強い。
「うはぁぁ、きもちー」
「こってるなぁ、まもちゃん」
とすんとすんとたたいてみたり、ぐいぐいと揉んでみたり、かたいしこりをとりほぐす。くすぐったそうに笑うまもるが、堪らなくいとおしい。胸の奥がつんと苦しくなって、目頭があつくなった。
「ね、ときわ」
まもるが不意に、顔をこちらに向けてくる。
「ずっと、このままでいられるかしら」
だめ、だめ。そんなかお、しないで。
キスをした。
現場を見てしまった。「あ」
あってなんだよ、そんな申し訳なさそうにするなよ。なあ、付き合ってるんだからおかしくないだろ、ふつうだろ。だからどうかどうか、ごめんだなんて言葉は取り消して。
「結婚しても、は無理よね。きっと。ときわはまなかさんのものになっちゃう」
目を伏せる俺を、まもるはどんなかおをして、見ているのか。俺はどんな顔色でいるのか。
「嫌、だなぁ」
いい加減にしてほしい。俺を選ばなかった君が悪いのだ。そうやって彼女に責任転嫁した。くるくると踊り出す視界。家電のうなり声とテレビのわめき声が低く、響く。肩に触れたままの指が温度を落とす。そのぶん、心臓の辺りがぎゅうぎゅうに、あつい。
理性。「すき。」我慢。「まもるが、」「すき。」
「だから、俺のものになって」
捨ててしまえるものは捨てた。たったひとつ彼女を捕まえるために、逃がさないために。