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日鐘第二高等学校3年D組 七瀬嘉仁

 家に飛び込んでドアを閉めて、施錠をしてチェーンをかけても、まだ心臓の音は収まらなかった。いつになく全力疾走したし、それに真夏のこの気温だ。黙っていても汗は滝のように流れる。無事に家に辿り着けたこともあって、一気に疲れてきた。俺は鞄をその場に落とし、床に直接座り込んだ。汗で背中にシャツが貼りついて気持ちが悪い。着替えたいけど、そんな気力もない。蒸し風呂に放置したゼリーの中のように生温い、閉め切られた家の中ではそんな空気が充満していた。

 とりあえず靴と靴下だけを脱いで、身体を引きずるようにしてキッチンに向かった。冷蔵庫を開けて、目についたペットボトルを手に取って水分を補給する。テーブルにペットボトルを置いて、リビングに出た。昼前から冷房、というのも贅沢だけれど、とにかく今日は暑すぎる。空調の電源を入れて、ソファーに腰を下ろした。全身から力が抜けていくような気がした。学校でほんの少し補習を受けただけなのに、すごく疲れていた。

 冷たい風で身体が冷えていくのが心地よく、俺は目を閉じた。このまま寝たら風邪引くかな。そう思ったけど、今はどうだってよかった。ソファーの上で身体を楽に伸ばす。その一瞬は、とてつもなく爽快だった。爽快だったのは一瞬だけだった。頭の中では、ついさっき起こった学校での出来事が再生された。あまりに鮮明だった。思わず飛び起きると、勢い余ってソファーから腰が滑り落ちた。

 ――なあ、嘉仁。

 耳元で囁かれたせいか、大宝寺の声は、余すところなく俺の中に残っていた。瞬間的に鳥肌が立った。大宝寺がなにをしようとしていたか、わからないわけがなかった。それこそ、今まさに俺の隣に大宝寺がいて、さっきと同じことを再現しているような空気さえ感じる。ただの錯覚だ。俺は何度も首を振った。しっかりしろ。俺は帰ってきた。ここは学校じゃない。ここに大宝寺はいない。さっきのようなことには、絶対にならない。

 ソファーに座り直して、俺は考える。普段の生活の中で、自分の下の名前で呼ばれることがほぼなかった。詩仁には嘉兄と呼ばれているし、学校では、まあ呼ばれることなんてほとんどないけど、七瀬と指し示されている。俺を嘉仁と呼ぶのは、本当に数少ない人間だけだった。その中には、昔から付き合いがある友達、今は芸能人の立川景も含まれている。

 ――お前を嘉仁って呼んで、その上でこういうことをやれば、俺は間違いなく立川景以上の存在になれるよな。

 大宝寺の声は、冗談を言っているふうではなかった。だいたい冗談であんなことをする奴なんていないだろうし、大宝寺はふざけるようなキャラでもなかった。付き合いが長いわけでもないけど、それくらいは俺にもわかる。大宝寺は本気だった。本気で俺を、本気で俺と、しようとしていた。でも、強引だったけど、力ずくではなかった。泣き出しそうな顔をしていた。鬼の形相をして、人が変わったように迫ってきたら、俺だってすぐに大宝寺を突き飛ばしていた。そうじゃなかったから、俺はあの場に居続けた。抵抗すんなよ、と言った瞬間の大宝寺の表情が、なんだかよくわからないけど、可哀想だと思えた。今は言うこと聞いてやったほうがいいんじゃないか、とも思った。

 大宝寺は、すごく思い詰めた表情をしていた。俺にはそう見えた。ちょっとだけ覚悟した。経験なんて全然ないけど、そういう本も映像も画像もなんにも、ろくに見たことなんてないけど、雰囲気だけはわかっていた。今はこうしなくちゃいけないんだ、という意味不明な義務感すらも沸いてきていた。

「なんなんだよ、一体」

 溜息と一緒に、言葉も出てきた。本当に、一体なんなのか。大宝寺はやたらと景のことを口にしていた。俺が景と一緒に遊びに行っていたのを目撃していたらしいけれど、だからなんだと言うのだろう。それに、俺は景とふたりで出かけていたわけじゃなかった。俺と一緒にいる誰かに大宝寺が腹を立てるなら、対象は俺だけではないはずだった。詩仁のことはとりあえず置いておくとしても、その原理なら、大宝寺は優輝君に対しても景の分と同じだけ憤らなければならない。それなのに、大宝寺が固執していたのは景だけだった。立川景以上の存在になりたい、大宝寺はそう繰り返していた。

「景以上の存在ってなんなんだよ」

 問いかけても、誰もいない部屋では答えなんて返ってこない。俺はひたすら考え込んだ。以上だの以下だの、そういうランク付けは専門外だ。景は昔からの友達だし、大宝寺だって、過ごした時間は景よりも浅いけど、それでも話すようになって三年目だ。ふたりとも大事な存在には変わりなかった。だけど、大宝寺にとっては、景は完全にイレギュラーだった。俺と景が個人的な関係にあることを知らなかった。俺は別に隠していたつもりではなかった。でも大宝寺は、自分の意図しないところで隠しごとをされていて、そのことに自分で気付いたような感覚になった。七瀬嘉仁の友人は大宝寺泰雅、そのただひとりだけと思っていた。でもそうじゃなかった。裏切られたようで不快だった。大宝寺の気持ちの大筋は、概ねそんなところだろうか。だからと言ってあんなことをするのか。自分の首筋に触れてみる。汗が乾いて、ひんやりと冷たかった。ここに大宝寺の手が触れていた。指の間に、大宝寺の指が入り込んでいた。シャツの隙間から、大宝寺の手が滑り込んできた。身体を押しつけてきた。顔が近かった。すごく近かった。それなのに、まだ近付いてきていた。俺の頭の中は真っ白だった。

 一度は覚悟したものの、決心はあっさり揺らいだ。大宝寺に下の名前を呼ばれた瞬間、全身から力が抜けた。普段は呼ばれない名前を呼ばれただけなのに、頭の天辺から足の指先まで、大宝寺に支配されたような気がした。もう逃げられないと思った。大宝寺とはよき友人という上手な距離間を保っていたのに、その大宝寺に下の名前を呼ばれたことで、唐突に急接近されたような気がした。俺が許す範囲を完全に無視しきって、世界に無理矢理入り込んできた気がした。頭の中から、すべての思考は消え失せていた。もうやられる。それしかなかった。

 だから、理科室にちょうど誰かが来てくれたことは幸運だった。勢いよく扉が開く音で、俺の中でなにかが弾けた。その瞬間に大宝寺を突き飛ばして、鞄を引っ掴んで逃げることができた。幸いなことに、大宝寺は追ってこなかった。

 脳内で小気味よくフィードバックが繰り返されている。密着した感覚が、思い出すだけでもすごくリアルだ。あんな形で人とくっついたことなんてなかった。そうだと言うのに、まさか大宝寺と接近するとは思わなかった。あのまま大宝寺を突き飛ばさなかったら、と考えると寒気が止まらなかった。自分がどうなると考えるのも怖いし、大宝寺のあの張り裂けそうな表情が近くにあり続けるというのも怖い。でも、やっぱり言うことを聞いてやるのが得策だったんじゃないだろうか。大宝寺のあの瞳の色は、あまりにも辛そうだったじゃないか。俺は淡く、そう考えた。泣きそうな大宝寺の顔が、目の裏側に刷り込まれている。しかし俺は、同情じみた感情を振り払う。そういう問題じゃないし、やっぱりそれは間違っている。

 なんでこういうことになったんだ。脳の奥をそんな疑問がよぎっていった。俺はただ、夏休みの補習に行っていただけだ。なにが悪かったのか、それは当然補習を受けずに理科室でさぼりをかましていたところだと思うけど、それだってここまでの大ごとの引き金になったわけじゃない。予想外だし、意表を突き過ぎている。

「なんか、腹減ったな」

 とりあえず腹は空いていた。朝は食欲がなくてあんまり食べられないし、まだお昼にするような時間にはなってないけど、今日は特別な例にする。なんか食べよう。立ち上がり、冷蔵庫を開ける。悲しいくらいになにも入っていなかった。そう言えば昨日は買出しに行かずに、夜は適当に済ませて終わりにしたんだったっけ。ついでにパンの買い置きもなかった。こんなときに。ついてない自分に悪態をつきたくなりながら、ソファーに戻る。腹の虫が鳴いた。お腹は減ったけど、買いに行くのも気乗りしなかった。 詩仁はどうしているんだろう。俺が帰ってきても反応なしということは、もしかしたら、まだ寝ているのかもしれない。あり得る。つまり洗濯ができないというわけで、それを考えると、また無駄に疲れてきた。どんどんどん、とドアを激しくノックする音が聞こえたのは、そのときだった。

 外から叩くとしたら、玄関のドアしかなかった。心臓が大袈裟なくらい波打ち始めた。冷房は十分効いてきているはずなのに、なんだか身体の奥底が熱かった。額に汗が滲んでいる。腕には鳥肌が立っていた。まさか大宝寺か。そう思うと、全身が嘘のように強張った。大宝寺はこの家を知っている。俺を追ってきたのかもしれない。ドアの向こうに立っているのが大宝寺でも大宝寺ではなくても、とにかく今は居留守で勘弁してもらいたかった。

 いや、大宝寺なら、尚更出なくちゃ。俺の中に、唐突に使命感めいたものが生まれた。ドアを叩いているのが大宝寺なら、俺は開けてやらなくちゃならないじゃないか。大宝寺は相当思い詰めていた。それなら、大宝寺の友人である俺が、あいつを家に入れて話を聞いてやらなくちゃ。腰を持ち上げ、リビングのドアに手をかけた。いや、待て。開けるな。頭の奥で、もうひとつの声が響く。開けるな。絶対に開けるな。もし本当に大宝寺だったらどうする。どうしようもない。家の中では逃げ場もない。それこそ、どうなるかわからない。ドアの取っ手に置いた手から、少しだけ力が抜けた。どうなるかわからないのだ。取っ手から手をどけた。そのまま、何歩か後退した。開けちゃいけない。開けてはならない。いや、開けたほうがいい。開けて、話に耳を傾けてやらなくちゃならない。いや、ダメだ。開けるな。無視しろ。思考が延々とリピートしていた。聞き慣れた声が耳に入ってきたのは、そんなときだった。

「嘉兄ー、開けろよ、嘉兄ー」

 気の抜けた声で、肩から力が抜けた。無駄に緊張しすぎた。緊迫感を返してくれ。そう思いながらも、胸に押し寄せた安心感は桁違いだった。安心しすぎて足を至るところに引っかけそうになりながら玄関に向かう。チェーンのかかったドアの隙間から、しっかりと髪型をセットした詩仁が覗いていた。手には、近場のハンバーガーショップの紙袋を抱えている。

 チェーンを外してドアを開けてやると、詩仁は、当たり前のように紙袋を押しつけてきた。成り行きでそれを受け取り、俺は詩仁を見つめていた。やれやれ、帰った帰ったと言いながらドアを閉めて、靴を脱いで家に上がった詩仁の視線が、俺の視線と衝突した。俺はそのまま立ち尽くしていて、詩仁も少しの間俺を見つめた。そしていきなり、にやっとほくそ笑んだ。詩仁は中指で眼鏡を上げた。詩仁の眼鏡姿を見たのは、かなり久しぶりだった。

「眼科に行ってきたんだ。またちょっと視力低下したみたいだから、眼鏡作り直さなきゃいけないって言われた」

 それ以上視力下できるのか、お前は。そう突っ込みそうになるのを我慢しながら、詩仁のハイテンションな声を聞き続ける。

「あそこの眼科はいいよな。隣の店ではバーガー売ってるし、ふたつ隣には古本屋があるし。順番待ちしなきゃいけない眼科に行くとしては最適だよな」

 詩仁はにやにやと笑いながら俺の横を通り過ぎた。リビングのドアを開けようとしたそのとき、急に思い出したように俺を見た。眼鏡の奥の瞳が、不可思議そうに瞬いていた。

「なんで昼前からチェーンかけてんの」

 率直に訊かれると困った。なんと答えることもできず、詩仁から目を逸らした。ハンバーガーが入った紙袋は、まだほんのりと温かかった。

 詩仁は、追い討ちをかけるように言葉を投げかけてくる。

「嘉兄、今日は午前中補習だって言ってなかったっけ。まだ十一時過ぎたばっかだよ」

「別に大した理由があるわけじゃない」

「ケータイはどうしたんだよ。いくら電話してもシカトじゃん。チェーンかかってるから開けてくれって言いたかっただけなのに」

 嘘吐くな、ケータイの音なんて聞いてないぞ。言い返そうとしたところで思い出した。俺は携帯電話の音を聞いていないのだ。でも詩仁は鳴らしたと言っていて、俺はそれを知らないわけで、つまり俺の携帯電話は、一体どうした。行方はすぐに判明した。

 学校に落としてきた。最悪だ。あの学校には、携帯電話持ち込み禁止という古いルールがある。もちろんそんなルールは暗黙のうちに破り捨てられているけれど、少なくとも表面上は繕われている。俺はその学校に携帯電話を置き去りにしてきた。理科室だ。一番最後に携帯電話をいじった場所でもあるし、その拍子の出来事もはっきりしている。

「大宝寺だ」

「なに」

「いや」

 不安そうな顔をする詩仁に、俺は答える。

「なんでもないんだ。マナーモードにしてたから気付かなかっただけ」

 そこは嘘ではなかった。それでも詩仁は、怪訝そうな表情を引っ込めなかった。百二十パーセント、怪しんでいる顔だった。勘繰られても正直に話せるわけもないので、俺は笑って見せた。詩仁の唇が、ちょっと不機嫌に尖った。気付かないふりをして俺は詩仁の背中を押す。

「ここじゃ暑いし、あっちに行こうぜ。冷房つけてるからさ」

「嘉兄、なんか隠してるだろ」

「隠してない」

「じゃあ、嘘吐いてるんだ」

「吐いてないって」

 しつこく言及しながらも、詩仁は俺に背中を押されて前に進む。ドアノブに手を置いて捻った瞬間、部屋の中から冷たい空気が流れ込んできた。瞬間、詩仁は無言で駆け出し、すぐさまエアコンのリモコンを手に取った。そのままボタンを操作する。操作の音が四回続いたので、温度が四度上げられたということになる。そんなに寒かっただろうか。

 詩仁は俺を見ると、リモコンを刃先のように俺に向ける。

「嘉兄、設定温度低すぎ。寒い」

「そうかな」

「身体にもよくないし、地球にもよくない。テレビでやってるだろ、エアコンの温度は二十七度から二十八度って」

「二十七度にしたのか」

「いや。二十七度なんて暑いし」

 言ってることが滅茶苦茶だ。

 詩仁は、豪快な勢いをつけてソファーに腰を下ろした。俺は紙袋をソファーの前のテーブルに置いた。面倒だけど、着替えなきゃいけない。一言詩仁に「着替えてくる」と言って、リビングのドアを開けた。むわっと暑い空気が押し寄せた。詩仁が口を開いたのは、そのときだった。

「辛いなら、学校に行かなきゃいいんだ」

 その言葉は、瞬時に俺の胸を突き抜けた。詩仁の声は低く、押し殺したように重かった。俺は振り向かずに笑った。詩仁は続けた。

「だいたい、今は夏休みじゃないか。夏休みくらい家にいたらいいんだよ」

「言っただろ。成績がやばすぎて、このままじゃ卒業できないんだ。だから夏休みの補習に出て、単位を稼げって先生に言われて」

「いいじゃん、卒業なんかできなくたって」

「そういうこと言うもんじゃないぜ」

 ドアを閉めて、俺は振り返った。詩仁はソファーに座ったままの状態で、拗ねているような目をしていた。

 詩仁は息を吸い込んだ。そして、大きく吐き出した。決心したように、詩仁は口火を切った。

「その成績が悪いのだって、嘉兄がバカだったわけじゃないんだ。嘉兄、頻繁に学校を抜け出してたんだろ。行ったふりして、行ってない日もたくさんあったんだろ。授業受けてないんだから、テストだけやったって成績最悪なのは、目に見えてることじゃないか」

「俺がバカだったんだよ。辛くても毎日学校に行ってる奴なんて大勢いるし、俺は俺で授業にも出てないし、自分でろくに勉強しようともしなかったんだぜ。今までさぼってきたツケが廻ってきたんだ」

「嘉兄はバカじゃない」

「バカだぜ」

「バカじゃない」

 詩仁は、ぴしゃりと言い切った。嘉兄はバカじゃない。詩仁は繰り返した。バカなのは、嘉兄をそんなふうにさせた学校の連中なんだ。嘉兄の話を聞かない奴ら全員だ。

 詩仁は一生懸命だった。いいことなのか悪いことなのか、俺は、詩仁の言っていることに反論できなかった。

「なあ、嘉兄。学校なんて卒業できなくてもいいじゃないか。学校が辛いなら、行かなきゃいいだけの話なんだよ」

 ソファーから腰を上げて、詩仁は俺の前に立った。レンズの奥のふたつの瞳は、懸命に俺に訴えかけている。

 学校なんて行かなくてもいい。別に卒業しなくてもいい。故意に自分を傷つける世界なんて、そんなものは閉じてしまえばいい。閉じるのなんて、簡単なことじゃないか。詩仁の瞳が必死に紡ぐ言葉に、俺は危うく同意しそうになった。それじゃダメだ。俺が納得できない。高校を卒業して専門学校に行かないと、夢が叶う可能性すらもゼロになってしまう。俺は無理矢理笑顔を作った。詩仁は、なんでそうやって笑うんだ、とでも言いたげだった。

 俺は笑って、詩仁に言う。

「詩仁がそう言ってくれるだけで、俺は大丈夫なんだ。ありがと」 

「そんなお礼なんて言って欲しくない。だって俺、なんにもできないんだ」

「どうしてそんなこと言うんだよ。なんにもできなくなんかない。こうやって俺に優しい言葉をかけてくれるだろ」

「優しい言葉をかけるだけじゃ、なんの意味もないんだよ!」

 詩仁は思い切り叫んだ。いきなりすぎて、俺は驚いた。今日は驚くことばっかりだ。他人事じみた自身の感想に、自分でちょっとツボにはまった。

「優しい言葉なんて、そんなの気休めじゃないか。俺、嘉兄が傷つく姿なんて見たくない。そりゃ傷つかない人間なんていないと思う。どんなに些細でなにげないことでも、傷つくときは傷つく。でも嘉兄は、ほかの人以上に傷ついてるんだ。だから、もうこれ以上傷つかなくてもいいんだよ!」

 詩仁は俺の腕を掴んだ。細い指だった。詩仁が俺以上に背が伸びた姿は、あまり想像できない。

「なあ、嘉兄。今まで頑張ってきたんだ。もう十分だよ。景兄だって中卒だ。恭兄ちゃんなんか、高校中退してるのに資格取って美容師やってるんだぜ」

「恭兄ちゃんは、親が両方美容師だから」

「じゃ、嘉兄は警察官になればいい」

「警察学校に行かないと無理だ。詩仁、この話は終わりにしようぜ」

 俺が言うと、詩仁は大人しく口を閉じた。同時に俺の腕を放した。詩仁は、まだなにか言いたそうに唇を噛んでいる。詩仁が俺のことを思ってくれている気持ちは、よくわかった。ずっと前からわかっていたけど、もっとよくわかった。それだけで、もうよかった。これ以上詩仁になにかを言わせるのも哀想だと思う。料理をしたり洗濯したりすることはできても、俺は兄としてはあまりに不甲斐なかった。

「来いよ、詩仁」

 泣き出しそうな詩仁に手を差し伸べると、詩仁は、ちょっと驚いたように二重目蓋を押し上げた。それでも詩仁は、俺の言うことは拒まなかった。傍に来た詩仁の髪を、片手でくしゃっと押さえる。

「心配してくれてありがとな。俺、お前みたいな弟が持てて幸せだぜ」

 詩仁はなにも言わなかった。なにも言わずに、じっと下を向いていた。

 着替えてくるから、それから一緒にバーガー食べような。俺はそう言って、詩仁に背を向けた。

「俺は幸せじゃないよ、嘉兄」

 小さな声が、はっきりと耳に届いた。聞こえないふりをして、そのまま歩いた。「ふり」をするのは、今日だけでもう何回目だろう。そう呟いた内側の自分の声にも、気付かないふりをしておいた。




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