夕陽と公園、倉林咲華
公園のベンチに、学校の制服を着た男の子が俯いているのが見えた。わたしがよく知っている横顔だった。だから問題はなかった。肩に提げていたバッグで、男の子の頭を軽く叩いた。彼は驚いたような声と共に顔をあげる。
「久しぶりじゃない。元気にしてた?」
にっこり微笑んでみせると、彼は怪訝そうに眉を顰めた。直後にすぐに警戒の表所を解き、「咲華の姉ちゃん」と笑い返してくれた。その一瞬、胸が大きく波打った。そんな反応には敢えて気づかないふりで、私は再度笑ってみせた。泰ちゃんの表情が曇ったのは、そのすぐ後のことだった。
泰ちゃんはあからさまに横を向くと、無愛想に言い放つ。「別に元気」。
ぞんざいで、あまり気分に浮き沈みのない泰ちゃんらしからぬ態度だった。特に怒るでもなく、わたしは泰ちゃんに注目する。
公園の時計は、午後6時を10分を示していた。私がこの公園を通るくらいなので、まあ、そのくらいの時間なのはわかっていた。季節はほとんど夏場である。空ちょっと霞んだ青色程度で、綺麗なオレンジ色なんてしていなかった。
学生さんは、もうすぐ夏休みか。そんなことを思い、泰ちゃんの横に腰を下ろす。
「なにしてんの」
そっぽを向いたまま、泰ちゃんはそう呟く。
「仕事で疲れてるだろ。早く帰れば」
「泰ちゃんこそ学校で疲れてるでしょ。早く帰れば」
「いいんだよ、俺は」
泰ちゃんには、一向にこっちを見る気配はなかった。高校生という多感な時期故の葛藤でもしているのだろうか。だとしたらひとりにしてあげたほうがいいな、と思いつつも、久々に泰ちゃんに会えたことは嬉しかった。ついついハイトーンで声をかけてしまう。
「らしくないじゃない。なんか悩みごと?」
「なんでもいいじゃん」
「なんでもいいけど気になるでしょ。お互い一人っ子、姉弟みたいに育ってきてるんだから」
「なんでもいいじゃん」
「なによ、昔はよく相談してきたじゃない。花瓶割っちゃってどうしよう、ママのお饅頭食べちゃってどうしよう、おねしょしちゃってどうしよう」
目線だけ、泰ちゃんはわたしに投げる。わたしよりも長身の泰ちゃんは、自然とわたしを見下ろす形になる。とてもじゃないけれど、穏やかな目つきとは言えなかった。おねしょは禁句だったかも。口が滑ったことに焦り、思わずわたしは泰ちゃんから照準をずらした。
頭の中で泰ちゃんへの謝罪をシミュレートしていると、含んだ小さな笑い声が聞こえた。恐る恐る、泰ちゃんを見た。困ったように眉を下げ、泰ちゃんは笑っていた。
「変わんないよね、咲華の姉ちゃんって」
よくわからないけれど怒っていない。わたしは胸を撫で下ろす。なんとなく公園全体を見渡してみると、広場に残っていた小学生たちが出口へ向かっているところだった。夏、夕暮れ、わたしは今、泰ちゃんとふたりきりだった。
「泰ちゃんは変わっちゃったの?」
「俺は変わっちゃったよ」
「変わるのって当たり前じゃない」
「それでも咲華の姉ちゃんは変わってない」
変わってないわけ、ないじゃない。言いたい台詞を吞み込んで沈黙する。昔と今とでわたしは全然違う。性格もそうだし、大人にもなったし、ほかの部分も変化した。
思考を払いのけた。わたしはわざと明るい口調で泰ちゃんの背中を叩く。
「なあに? 相談なら乗ってあげるから、お姉さんに話してみなさいよ」
「俺のことじゃないよ」
「泰ちゃんが悩んでるなら泰ちゃんのことでしょ。いいから、まずは話してみなさいって」
ハイテンションに喋るわたしとは裏腹に、泰ちゃんは口を閉ざした。わたし、もしかして軽いのかもしれない。不安が脳を駆け巡った。当然泰ちゃんは、わたしのそんな不安に気付かない。
正面を向いて、泰ちゃんは静かに口を開いた。
「いじめってさ、どうやったら終わるかな」
いじめ、とは。頭の中に、疑問符が漂った。泰ちゃんがいじめに遭っているなんて話は聞いたことがないし、だいたい泰ちゃんがいじめられるなんて考えられなかった。どこの大馬鹿が、幼少時代から武道で心も体も鍛え上げられた人間を、いじめのターゲットに選ぶというのか。高校柔道で日本ナンバーワンの実力を誇る泰ちゃんをいじめの標的にするなんて、まさに自殺行為に等しいと思う。そうだと言うのに、まさかここで「いじめ」の単語を聞くなんて。わたしにとっては、ものすごい驚きだった。
「いじめっ子なんて、簡単に返り討ちにできるじゃない」
「俺じゃないんだ。友達のこと。たったひとりの友達なんだよ」
「だったら尚更よ。貴方がずっとその友達の傍にいて、妙なことしたらしょっぴくからなって脅しとけばいいのよ。泰ちゃんより強い子なんていないだろうし」
「それって解決になる?」
力のない泰ちゃんの声が返ってきた。日本で一番強いくせに、泰ちゃんはときどきこうして弱気になる。昔から周囲に泰ちゃんより強い子なんていなかったのに、いつでも泰ちゃんは控えめで、引っ込み思案だった。初めて柔道の大会で優勝したときだって、家族や親戚やわたしが大興奮して騒ぎ立てるのに、泰ちゃん本人はあまり嬉しそうな雰囲気ではなかった。一度だけ、泰ちゃんにとっては最も早い大会終了となった三回戦敗退時も、優勝したときとまったく同じ顔をしていた。あの頃の泰ちゃんが、そのまま大きくなって現代に至っている。
泰ちゃんこそ変わってないじゃないの。わたしは少し呆れ、少し安心しながら、大袈裟に頷いてみせた。
「十分解決になるわよ。どうして解決にならないわけがあるの」
「それじゃ、あいつの孤独は変わんないよ。いじめがなくなったってだけで、誰もあいつに寄りつかなくなる。いじめのひとつで、みんなにシカトされてるのと同じ状態だよ」
「人をいじめるような奴と仲良くしなくていいわよ」
「じゃあさ、そういういじめの要素がまったくなくなれば、あいつは家族を重荷だと思わなくて済むようになるかな。俺も、あいつの家族を」
突然、泰ちゃんの言葉が途切れた。首を傾げて話の続きを待ってみる。それでも、続く言葉は紡ぎ出されなかった。
泰ちゃんは下を向いて、膝の上でぎゅっと拳を固めている。わたしには少し震えているようにも見えた。怯えているようにも見えた。意味がわからなかった。それでも、泰ちゃんの心を揺るがすなにかが起こっていることだけはわかった。これ以上泰ちゃんの言葉を待つのは、あまりに野暮だ。小さい頃から気心知れた仲とは言え、わたしは泰ちゃんより4歳も年上のお姉さんなのだ。高卒で平凡に就職したわたしと、現在高校生で、柔道日本一の称号を持つ泰ちゃんとではスキルがまったく違う。それでもわたしのほうが大人なんだから、少しは場の空気を理解しなくちゃいけない。
わたしは少し上向きがちに、明るく言った。
「大丈夫。泰ちゃん、すごく強いんだもん」
「そりゃ物理的には強いかもしれないけどさ」
「そんなことわかりきってる。わたしが言いたいのは、物理的な意味じゃなくってこと」
「物理的な意味じゃないなら、俺なんて雑魚だよ。俺なんかよりも、あいつのほうがずっと強くて偉いんだ」
泰ちゃんは顔をあげなかった。これはまた、随分と弱気な日本一の高校生。わたしはなんとも頼りない泰ちゃんの横顔を見つめていた。泰ちゃんがここまで自信喪失している姿なんて、今までに見たことがなかった。そうかと言って、自信満々の姿も見たことはないけれど。
そう言えば、進路はどうするんだろう。ふとした疑問が、頭の奥に沸き上がった。柔道のこともあるし、進学するのだろうか。どこか遠くの大学にでも行くことになったらどうしよう。それが泰ちゃんの選択する未来なら仕方ないけれど、もし本当にそうなったら、わたしは素直に応援できるだろうか。
泰ちゃんの大きな溜息で、はっと我に返った。時計の針を確認すると、だいぶ移動していることに気づく。もうそろそろ帰る時間だ。わたしは泰ちゃんの背中を平手で押す。
「なに暗くなってんのよ、らしくない。ほら、帰ろう」
「いいよ、まだ」
「なにがいいのよ。お腹空いてるから余計にブルーなんじゃないの。一緒に帰りましょ」
わたしはベンチから腰を持ち上げて、泰ちゃんに右手を差し出した。泰ちゃんは、差し出された右手を見つめた後、恨めしそうにわたしの顔を上目遣いで覗き込んだ。そして、渋々と言った具合にひとりで立ち上がった。
可愛くない。わたしはちょっぴり頬を膨らませた。泰ちゃんはそのことにも気づかないのか、背を向けて黙って歩き始める。意外とデリカシーのない男、大宝寺泰雅。
閃いた。ぱちんと両手を打ち、わたしは泰ちゃんを呼び止めた。
「明日は土曜日だし、学校は休みでしょ」
振り返った泰ちゃんは、やる気なさげにわたしを見やる。
「そうだけどなに」
バッグを片手に泰ちゃんに駆け寄った。ベンチにふたりで並んで座っていたときよりも、身長の違いがはっきりとわかった。
「私も明日は休みだし、一緒に出かけない? 興味ある絶叫マシーンがあるのよね」
「俺なんかじゃなくてさ、彼氏と行けばいいじゃん。せっかくの週末なんだし」
こともなげに、堂々と、悪気なく、泰ちゃんは言う。言い放つ。なんだか癪に障って、ついわたしはむきになって主張する。
「貴方の気分転換にちょうどいいかもと思って、気を遣ってあげてんでしょ。それともなによ。そういうのは彼女と行くので間に合ってるから、わたしなんかとは行かなくていいってわけ? そうね、泰ちゃんはモテるものね。モテないわけないものね。女の子には困らないものね。余計なお世話でした」
「なに怒ってんだよ。それに、モテたとしてもも俺自身興味ないんだから、なんの意味もないし」
普通、そういうことを言わない。やっぱりデリカシーがない。わたしじゃなくても、泰ちゃんの発言は女の子を敵に回す。言ってやりたいことをひとまず置いて、わたしは本題に話を戻す。
「で、明日の予定は?」
「特にないけど」
「ならいいじゃないの。行きましょ。決定ね。10時にこの公園ね」
「でも俺、友達からPSPごと借りてて」
「そんなの夜だってできる。とにかく、そういうことで話はまとまったから。約束したから」
「別に約束してないだろ」
「今約束したの!」
私が強引に押し切れば、泰ちゃんは、如何にも「はぁ?」といった調子で顔を歪めた。予想通りの反応で面白かったけど、予想通りすぎて面白くなく、無意識に目蓋を伏せた。
諦めたような泰ちゃんの声が、頭の上に降ってくる。
「わかったよ。昼飯奢ってね」
行ってくれるんだ。顔を上げたわたしの眼前には、既に泰ちゃんの姿はなかった。視線を彷徨わせていると、遥か前方に、ひとりでさっさと歩き去っていく彼の後ろ姿が目に留まった。あまりに酷い。
「最悪」
小さくなる泰ちゃんの背中を見つめながら、微かな声で呟いた。本当に最悪。このシチュエーションで置いていくなんて。そんなことができる相手に、こんな気持ちを抱くなんて。忙しく脈打つ心臓が落ち着くまでは、もう少し時間がかかりそうだった。