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日鐘第二高等学校3年A組 大宝寺泰雅(2)

 授業中、ずっと七瀬弟を殺す方法を考えていた。

 ただでさえ頭に入らない授業は、今日はまた一段と耳をすり抜けていった。脳には保存の「保」の字もないし、記憶の「記」の字もない。ノートを開けば、どういうわけなのか、現代社会と数学の授業内容が同じページに書いてあった。社会の先生は黒板にあれだけ文字を書くのに、たった1ページでまとめられるはずがない。教室の後ろの席で、イヤホンを両耳に刺している女子や机の陰に隠れてゲームに勤しんでいる男子と同じレベルだ。バカが集うこの学校で、自分だけは授業中くらい真面目でいようというプライドがあっただけに、自分自身に少し嫌気が差した。

 午前の中休みに、七瀬のクラスに行ってみた。七瀬の姿は見当たらなかった。あいつはよく教室を抜け出すから、たまたまいないだけなのかもしれない。教室入り口の近く、ちょうどいい具合に立っていた女子生徒グループのひとりに、七瀬は今日学校に来てるの、と訊いてみた。女子は何故か顔を赤らめながら首を振った。否定の意。俺は軽く礼を述べると、自分の教室に戻った。背中側で、女子が「大宝寺君に声をかけられた」なんて言ってはしゃいでいた。俺には興味がなかった。中学時代から柔道で全国制覇だの、テレビで取材を受けただの、それは確かに事実だけど周りは美化しすぎている。だから俺は、周囲と関わりを持ちたくない。それに、決められた制服を改造して超ミニスカートにしたり、ブラウスの胸元を必要以上に開けていたり、極めつけにけばけばしくメイクしているような女。俺は大嫌いだ。声をかけた女子生徒はすべて当て嵌まる。

 ひとりで帰り道を歩きながら、ずっと考えていた。七瀬が学校を欠席していなければ、思い留まっていたかもしれない。中休みに七瀬に会って、自分の考えをすべて打ち明けるつもりだった。もちろん七瀬が同意するわけがないと思っていたし、その確信もあった。七瀬は絶対に俺を止めてくれる。正直なところ、それが狙い目だったのかもしれない。俺はこの計画を阻止して欲しいのだ。自分で考え出して、自分で遂行しようと決めておきながら、なんともおかしな話だと思う。でも止めて欲しかった。今日俺がなにをしようとしていて、その結果、誰がどうなってしまうのか。はっきりと自分以外の口から聞かせて欲しかった。俺を含めた周りの人間が得意とする作り笑顔ではなく、邪気のない笑顔を浮かべられる七瀬なら、本気で俺を殴ってくれるはずだと思った。今も昔も、誰も俺を殴ったりしない。そして願望の結果、それは叶わなかった。もうダメだ。俺は決行してしまう。味気のないアスファルトの上を歩きながら、鞄を担ぎ直してぐるりぐるりと思考廻す。

 一度だけ遊びに行ったことがある、七瀬の豪邸のような家。そこを目指して足を進めながら、まだ俺は考え続けていた。七瀬弟をどうやって殺せばいいのか。七瀬弟は、どうやったら殺すことができるのか。これにはいろいろ条件がある。まず、七瀬本人に、七瀬弟が死にゆくシーンを目撃されてはならないことがひとつ。いじめっ子と弟のどちらかを殺せるとしたら迷わず弟を殺す、と七瀬は言っていた。そこにはなんの感情もないだろうから、とも言った。でも、実際に弟がまさに死に絶えようとしていたら、七瀬は発狂するに違いない。発狂して、弟を殺そうとしている俺を殺すかもしれない。そういう奴だ。一応親は生きてはいるけど、事実上、七瀬の家族は七瀬弟だけのようなものだ。兄弟ふたりきりの家族。七瀬が唯一友達だと思っている、俺こと大宝寺泰雅がそこを引き裂く。発狂しそうなくらいドラマチックだ。

 ふたつめの条件。七瀬弟の死を、七瀬本人が納得しなければならない。つまり、段階を踏んで犯罪少年Aとなった俺を、七瀬が警察に通報しないこと。救急車を呼ばないこと。大きな声を出して、近所に殺人現場を悟られないこと。七瀬が犯罪少年Bとなること。七瀬が俺と共犯になること。七瀬を仲間に引き込みさえできれば、もうなにも怖いものなんてない。後々警察に捕まったとしても、犯人である俺はもちろん、被害者の兄である加害者、七瀬が納得した殺人なのだ。世間的には最悪の肩書を被ることになるけど、俺と七瀬の名誉は護られる。俺と七瀬の世界の平和は保たれる。それでいい。高望みはしない。

 脳内シミュレーションは続く。七瀬弟を殺すには、なにを使うのがいいか。とりあえず、柔道技を使うのは嫌だった。一瞬の作業というわけにもいかないし、あまりスマートな方法とも思えない。音がたてば近所も異変に気付くし、七瀬もきっと異変を察する。七瀬弟を殺すと決めた最初の段階で、自分で却下している方法だった。

 次に、オーソドックスに刃物で首を一突きすればいいと思い当たった。でも自分に返り血が降り注ぐのは回避したいし、人を裂いた感触を手に残しておくのも気味が悪い。銃で撃てば簡単だと思いついたものの、そもそも銃なんて持っていなかった。今から闇サイトで購入するのには時間がかかるし、ネットならすぐにアシがつきそうだ。まったくもって話にならない。俺はもうすぐ七瀬弟を殺さなければならないのに、これと言った方法は思い浮かばなかった。それなのに、景色だけは七瀬の家へと距離を縮めていく。俺がそうしているんだから、当然の話だった。

 七瀬弟を、今日、殺さなくてはならない。方法は決定しないまま、七瀬の家に到着した。家の小洒落たドアの前に立って、俺は逡巡していた。七瀬弟を殺さなくてはならない、という認識は、最早俺の中では確定事項だった。ベストな術が頭に入っていなかったとしても、七瀬弟を殺さないという選択はもうあり得なかった。なにがどうあっても、俺は七瀬弟を殺さなくてはならないのだ。それも今日でなければならない。絶対に今日じゃないとダメなのだ。自分でそう決めた。今こうしている間にも、七瀬は弟に追い詰められている。七瀬弟は、無自覚に確実に、じわじわと七瀬を傷つけている。七瀬弟はそのことに気付く気配がない。今すぐではないにしても、精神的にいずれ七瀬は死に絶える。七瀬の死は、俺にとっては間違っても存在してはいけない事実だった。

 もういい。唐突に吹っ切れた。チャイムを押そうと指手を上げた。その瞬間にドアが開いた。

 予想外で、声が喉に引っかかった。目に入ったのは、故意に染めた金髪だった。次に、両耳に埋め込まれた銀色のピアスだった。そして、顔だった。以前にも俺が抱いた感想が、そのまま現在に引き継がれた。くっきりした二重瞼は七瀬にそっくりだから、七瀬もこいつと同じでハイレベルな容姿をしていることになる。それなのに七瀬が陰湿ないじめの対象となり、クラスに馴染めないのは一体どうしてなんだろう。

「嘉兄の友達?」

 中学3年生にしては、ちょっと背が低いらしい。174センチの俺を上目がちに見ながら、七瀬弟は首を傾げる。

「学校、おんなじだ」

 俺のことを覚えていないみたいだ。こっちははっきりと覚えているのに。七瀬弟は、如何にも不審そうに俺の全身に目線を走らせる。とりあえず制服で兄貴と同じ学校であることを認識したけど、七瀬弟は、たぶん、だからこそ訝しげな目をする。警戒の色を孕んだその瞳は、俺と七瀬弟が最初に会ったときとまったく同じものだった。「本当に、お前は兄貴の敵じゃないのか」。七瀬弟の目は、俺に真っ直ぐそう質していた。

「今日ちょっと気分が悪いみたいなんだ。学校にも行ってないし、ずっとパジャマのままでいるよ」

 七瀬弟は、ドアを半開きにして、体の半分を外に出していただけだった。窓越しかなにかで、ドアの外に俺が立っていることに気付いて、じっと様子を窺っていたのだろうか。     

 俺はそんなに長い間、ドアの前で突っ立っていたのか。それは不審だ。でも、七瀬弟はなんでもすぐに不審に思っていそうな気もする。そういう思考癖。それも必要以上に七瀬を追い詰めている要因となっている、かもしれない。だから無意識、だから無自覚。七瀬を庇って支えて助けるつもりで、実は真逆。庇ってないし、支えてないし、助けてない。こいつの存在自体が、既に悪。七瀬の重荷。七瀬の鎖。七瀬詩仁。

 俺の思考を余所に、七瀬弟はひとりで喋っている。

「わざわざ来てもらって悪いんだけど、会えないと思う。なんか用事があるなら俺が」

「七瀬」

 俺が口を開くと、七瀬弟は押し黙った。俺が余程怖い顔をしていたのか、それとも覇気のない顔をしていたのか、七瀬弟の澄んだ双眸が不確定に揺らいだ。七瀬弟は、俺を見上げながら少しだけドアノブを引いた。体が僅かに家の中へと引っ込んだ。

「七瀬嘉仁のほうに、用があって来たんじゃないんだ」

 七瀬弟は、意外そうに瞬きをした。同時に、俺を更に警戒したのか、顎を引いて俺を睨んだ。

「あんた、嘉兄の友達なんだろ」

 語調を強めて、七瀬弟は言う。なんだろ、と確認形で使うということは、俺のことを覚えているじゃないか。それとも今思い出したのか。別にどっちでもよかった。

「部屋から全然出てこない。飯も食ってない。俺がなにを言ってもダメなんだ。学校でなんかあったんだよ」

「へえ」

 わざと澄まして語尾を伸ばす。いつものことだよな、そんな意思を含んだつもりだった。俺の意向はしっかりと伝わったようで、七瀬弟は歯軋りする。まさに怒り心頭だ。ワックスで固めた七瀬弟の髪の毛が、いやに尖っているように思える。こんな頭で、本当にあの辻ノ瀬学園の生徒なのだろうか。名のある学校の生徒なんて、クイズ番組くらいでしか見たことがなかった俺にとっては、七瀬弟の存在は想像を根底から覆す異例の存在だ。俺や七瀬が通っている学校にも、この弟のようなあからさまな態度の問題児はいなかった。

 七瀬弟は一瞬、視線を地面に落とした。それからすぐに俺を見上げて、追い払うように声を荒げた。

「友達なら察したらどうなんだよ。今日は誰にも会いたくないんだ。わかんないのかよ。嘉兄の友達なんだろ。友達ならそれくらいわかってやったらどうなんだよ!」

 身勝手だ。まず俺はそう思った。かなり苛立った声と表情から察すると、おそらく嘘は吐いていない。「友達」という単語にいやに固執している。兄貴の友達らしい友達なんて、最初から学校などにはいないことを知っている口調だった。本気で兄貴を慕っているから、だから余計に「友達」に執着する。七瀬弟には、いつだって悪気なんてない。本当に、心の底から兄貴のことを大切に思っている。バカな俺にもよくわかった。でも七瀬弟は、バカな俺でもわかることをひとつだけ理解していなかった。兄貴のことを想うあまり、盲目になっている七瀬弟。見落としてはいけないものを見落としていて、尚且つ、その一点の存在にすら気付くことができない子供。子供だからと言って大目に見ることなんてできないし、思春期の子供だからこそ、敏感な発想で辿り着いて欲しいところなのに。それができない七瀬弟は、俺にとってはやっぱり悪以外の何者でもなかった。

「用があるのは嘉仁のほうじゃないって言ったよな」

 思い出したような顔をして、七瀬弟は俺に鋭く眼光を飛ばす。すぐにでもドアの内側に引っ込もうとするような体勢だった。

 ドアを閉められたら困る。七瀬の顔の横で、ドアに手をかけた。

「俺、考えてたんだ。どうすれば、七瀬は救われるのか。なにが七瀬の邪魔をするのか」

 七瀬弟は両手でドアノブを掴んでいた。懸命に扉を閉めようとしている。でも、悲しいことに、七瀬弟はただの中学生でしかない。持っている力は俺のほうが断然強かった。

 片手でドアをこじ開けながら、俺は視線を足元に落とす。

「七瀬の邪魔をするのは、学校の奴らだよな。なんにも悪いことをしてない七瀬に対して、意味なく嫌がらせする。教科書破ったり集団シカトしたり、最低だよな。人間のクズだよな。それも高校3年生にもなってさ」

「……わかりきったこと言うなよ……」

 絞り出すように、七瀬弟が言う。小さな声だった。泣きそう、とまではいかないけれど、容赦なく全身を突き刺す痛みに耐えているような擦れた声だった。見れば見るほど、こいつはいい弟なんだと思ってしまう。俺が怖くて声を震わせているわけじゃないことは、誰が見ても一目瞭然だ。

 七瀬弟は、突然俺を睨みつける。

「あんたが嘉兄の友達で、しかも日本一強い高校生ならさ! 嘉兄をいじめる奴らを全員、めっちゃめちゃに叩きのめしてくれればいいんだ! そしたら嘉兄も、ちょっとは学校に行きやすく」

「学校の連中以上に、お前が邪魔なんだ」

 感情的になっていた、七瀬弟の声が詰まった。パンパンに膨らんでいた風船の空気が抜けていくみたいに、七瀬弟から覇気が流出していく。七瀬弟は、目を見開いて微動だにしなかった。

見つめていたわけでもなく睨んでいたわけでもなく、七瀬弟は単純に、俺を見ていただけだった。

「俺が、邪魔?」

 裏返る寸前の頼りない声調で、七瀬弟は訊ねてくる。

「俺が邪魔なの? なんで?」

 七瀬弟は、一方的だった。あんなに一生懸命ドアを引いていたのに、さっさと開け放って、俺の服に縋っている。

「なんでだよ。なんでなんだよ。嘉兄がそう言ったのかよ。嘉兄が俺を邪魔だって言ったのかよ。そんなこと言うはずない。ふたりっきりの兄弟なのに」

 七瀬弟に、さっきまでの威勢は欠片ほども残っていなかった。強がっているだけで、実は繊細で弱くて泣き虫の七瀬弟の本性を見たような気がした。でもそのギャップは、今の俺を余計に刺激するだけだ。奥歯を噛んで、七瀬弟を見下ろす。頭の中では、何度もシミュレーションした七瀬弟の殺害方法がループしていた。決心は一応したものの、殺人はやっぱりいけないことなのだ。その良心だけで、辛うじて思い留まっていた。身体が次第に震え始めた。やばい。止めてくれ。直感的にそう感じた。糸が切れる限界は、すぐそこだった。俺の状態など知るはずもなく、七瀬弟は大きく口を開く。

「嘉兄はそんなこと言わない! お前なんかに嘉兄のなにがわかるってんだよ!」

「お前がなにもわかってないんだよ!」

 反射的に言い返した俺に、七瀬弟は、一瞬だけ我に返った顔をした。もう遅かった。自分を止められなかった。思い切り突き飛ばすと、七瀬弟はあっさりと吹っ飛んだ。後ろ手でドアを閉めて、鍵をかける。声をあげる間すらもなく倒れ込んだ七瀬弟の頭に、鞄を何度も落とした。教科書がたくさん入った、重い通学鞄。何度も何度も七瀬弟を殴る。自分に歯止めが利かなかった。鈍い声を漏らしながら、七瀬弟は必死で頭を守っている。手が邪魔だ。これじゃこいつは死なない、そう思った。鞄を放り捨てて、七瀬弟の腹の上に載る。中学生のくせに硬い腹筋だった。詩仁の運動神経って、相当すごいんだぜ。そんなことを嬉しそうに語っていた七瀬を、出し抜けに俺は思い出す。

 わざわざ両手を使わなくても、片手で絞殺できそうだった。それでも、ことの確実性は優先させるべきだ。自分の両手を七瀬弟の首に持っていく。七瀬弟は、すぐに俺の両手首を掴んだ。俺の力に匹敵するはずもなかった。

 死ななければならない。死ななければならない。七瀬弟は、死ななければならないのだ。絶対に殺されなくてはならない、こいつはその類の人間なのだ。死ねばいい。今すぐに死ねばいい。頭の中で「死」という言葉が無限に鳴り響いている。七瀬弟の口から、細い息が漏れた。首にかかった手を引っ掻いていた爪も、次第に勢いを失くしていった。俺の手は少し擦り剥けただけで、残念ながら一滴の出血もしていなかった。七瀬弟が、ほんの少しだけ哀れに思えた。

 お前がいけないんだよ、七瀬弟。どんどん力が弱くなって、ぐったりとしていく七瀬弟の首を、尚も絞め続けながら俺は言う。

「お前がいけないんだ。お前が兄貴に頼りすぎなんだ。兄貴に甘えすぎなんだよ。お前が全部いけないんだよ。お前が、全部」

 気管を無理矢理開くように、七瀬弟は、窮屈そうに息を吐き出す。見ていて不憫に思えるほど、掠れ掠れの息だった。今更後戻りなんてできない俺は、苦しそうな七瀬弟から目を背けながらも、一心に七瀬弟の首を圧迫していた。そして俺は、七瀬弟が死にそうな呼吸でなにか言っていることに気付いた。でもその息は絶え絶えで、既に声にもなっていない。このままの状態では、さすがになにを言っているのかわからなかった。少しだけ首にかけていた手の絞めつけを弱めた。それでも、七瀬弟は体力を消耗しすぎているらしく、言葉が言葉として成り立っていなかった。ところどころ掠れて聞き取れない部分を理解しようと、七瀬弟の口元に耳を近付ける。七瀬弟の首からは、完全に手を離していた。

「嘉兄……、嘉兄、嘉兄……」

 聞いて頭が真っ白になった。思わず俺は、立ち上がって後ずさった。数秒、事態を把握できなかった。俺が呆然としている間に、七瀬弟は仰向けにしていた体を横に倒す。喉を手で押さえて、酷く咳き込みながら、七瀬弟は蹲るようにして丸くなった。嘉兄、嘉兄、と弱々しく連呼する七瀬弟の声には、泣き声が混ざっている。聞き取りにくい声は、余計に聞き取りにくい響きを持って、俺の耳に入り込む。

 血を吐くんじゃないかと思うくらい、七瀬弟は、派手に咳を繰り返す。必死に呼吸を整えている様子だった。

「嘉兄、嘉兄……。よし、にい……」

 四肢を引きずり、立ち上がろうとしていた。その一瞬で、頭の中で切れる音を聞いた。ぷち、というあっけない音だった。その音で、俺は瞬時に崩壊した。自覚できた。どうすることもできなかった。

「この期に及んで、まだ兄貴を頼るってのかよ!」

 七瀬弟の胸倉を片手で捻りあげ、力いっぱい壁に叩きつける。七瀬弟は、また鈍い呻き声をあげた。そのことが異様に腹立たしかった。七瀬弟の頭を壁に打ちつけて、もう一度打ちつけて、更に叩きつけて、出鱈目に七瀬弟を投げ飛ばす。頭を掴むと、根元の黒い金色の髪が何本か抜けた。もう七瀬弟は、呻き声を漏らさなかった。涙が入り混じった声で、呪文のように「嘉兄、嘉兄」と唱えている。七瀬弟は、絶対に許せない存在に決定した。許せない存在を生かしておくわけにはいかなかった。舌を噛み、爪が食い込むほど拳を握り、じっと七瀬弟を見据える。このまま殴り続ければ、七瀬弟は絶対に死ぬ。簡単に思い至れる結果だ。腹でも思い切り踏んでやればいいかもしれない。今までに自分が兄貴に与え続けてきた精神的な痛みを、ここですべて肉体の痛みに変換して体感すればいい。俺がそれを手伝ってやる。だから死ねばいい。だから死んでくれ。今すぐに。俺のために。兄貴のために。いい弟のはずの七瀬詩仁は、兄貴である七瀬嘉仁のために、躊躇いなく死ねるはずなのだ。死ねばいい、死ねばいい、死ねばいい。七瀬に寄生する害虫など、死んでしまえばいい。今すぐに。今すぐだ。失せろ、失せろ、失せてしまえ。死んでしまえ。「早く死ねよ、この疫病神!」

 俺がそう叫んだのは、頭の中だけだった。実際に叫んでいたのは、俺じゃなかった。七瀬弟でもなかった。台詞も違った。じゃあ誰がなにを叫んだのかと言ったら、その答えはひとつしかあり得なかった。

「詩仁!」

 同じ叫び声が、もう一度響いた。目の前には、いつの間にか緩いジャージ姿の七瀬の背中が現れていた。七瀬は弟を助け起こして、必死に声をかけている。「詩仁、詩仁、大丈夫か、詩仁」。ふと俺は、視界の隅に階段を見つけた。2階の部屋から出てきたのか。全然気が付かなかった。

 七瀬は必死に弟に呼びかけていた。そのうち、七瀬弟の死にそうな声が返ってきた。もちろん、内容は「嘉兄」だ。それしか言えないのかと虫唾が走ったけど、七瀬はそうではないらしかった。弟の反応があったことに安心した七瀬は、小さく息をついた。そして思い出したかのように、俺のほうを振り向いた。泣くのも怒るのも我慢しているような表情で、俺に向かって言う。

「なにやってんだよ、大宝寺。早く救急車呼んでくれよ。そこに電話あるだろ」

 言われて目をやると、そこには確かに白い洒落た電話があった。

「病院に行かなきゃ、詩仁、死んじゃうぜ。呼んでくれよ」

「俺が殺そうとした」

「そんなの、この状況からわかんない奴なんているかよ」

 殺そうとしたのは紛れもなく俺自身なのに、救急車なんて呼ぶはずがないじゃないか。驚いたのは、七瀬の冷静な態度だった。弟は俺に殺されかけたんだと冷静に判断して、冷静に救急車を呼べと言っている。七瀬はきっと取り乱すと思っていただけに、拍子抜けだった。

 俺が突っ立っている間に、七瀬は弟をそっと床に寝かせて、自分で受話器を手に取った。落ち着いて家の住所を伝え、弟の状態を説明している。十数秒としないうちに受話器を置いた七瀬は、弟の体を庇うようにしながら、複雑な表情をして俺に目を向けてくる。

「大宝寺」

「警察呼べよ」

 七瀬は、はっとしたように眉を動かした。か細い息を吐き出している七瀬弟を見やり、俺は言葉を続ける。

「事件だからな、これ。通報してもらって構わないよ。俺、保身意識もないし」

「そんなこと一言も言ってない」

「したい気持ちはあるだろ。大切な弟を殺そうとした犯人が、ここにいるんだから」

 七瀬の腕が、ぎゅっと弟の体を引き寄せている。そんなにそいつが大事なのか。俺には理解できない。複雑な七瀬の心境。弟のせいで追い詰められているのに、弟を殺すことだって簡単に口にしていたくせに、結局はその弟を護ろうとしている。ちぐはぐしていて、ぼろぼろで、理屈も通っていない。だけど、壊すわけにはいかない一線らしい。七瀬の気持ちを、俺も理解できたらいいのに。一人っ子の俺には、一生かかっても理解できそうにないことだった。

 七瀬は、震えている七瀬弟に視線を落とした。俯いたままで俺に言う。

「そういうことじゃないんだよ」

 なんに対してそう言ってるんだよ。俺の頭の中の問いかけには答えずに、七瀬は口調を変えずに続ける。

「人は人を理解できない」

「理解できない」

「警察の仕事は事件を解決することで、俺や大宝寺や詩仁の心を理解することじゃない」

「じゃあこれは事件なんだから、警察の力が必要だ」

「そういうことを言ってるんじゃないんだ」

 ここで七瀬は顔を上げた。俺を見た。泣きそうな目をして、ひたすら俺に訴えかける。「そんなことが言いたいんじゃないんだ」。俺にはまったく意味がわからなかった。それでも七瀬は、まだ話を続けようとする。こんなこと、俺の予定には全然なかった。いや、そもそも俺は、方法を明確にしないままに七瀬弟殺害を決行しようとしたのだ。七瀬と共犯で七瀬弟を殺すことができれば、という理想はあったにしろ、それは所詮理想止まりだ。俺が突発的に七瀬弟の首を絞めた時点で、既に計画はイレギュラー化していた。言っていることの意味がわからないのも、仕方のないことなのかもしれなかった。

 七瀬の腕の中で蹲っていた七瀬弟が、ゆっくりと体を起こし始めた。まだ小さな咳を継続させている。思わず「大丈夫か」と言いかけた自分に気付いて、咄嗟に口を噤んだ。そんな俺に七瀬が気付くわけもなく、慌てたように七瀬弟に「動かないほうがいいぜ」と窘めている。七瀬弟は、倒れそうになりながらも壁伝いに立ち上がった。

「救急車、呼んだ?」

 七瀬弟は声を絞り出す。七瀬は何故か口篭りながら「呼んだけど」と答えている。そう、と言った後に、七瀬弟は長い息を吐き出した。そして、ちらりと俺を見やった。俺を恨むような目つきでもなく、そうかと言って怖がるような目つきをしているわけもなく、七瀬弟は、なにか言いたそうだけど言わない、といった複雑な顔をしていた。

 体をふらつかせながら、七瀬弟は壁を頼りにしながら歩く。自分から離れていく弟を、七瀬は呼びつける。でも七瀬弟は振り向かなかった。救急車なんていらない、と呟いて階段に向かって足を進めていく。七瀬弟は、追いかけそうになった七瀬に対し、言い放った。

「来んなよ、嘉兄」

 七瀬は、ぴたりと動きを止めた。七瀬弟は、階段に片足をかけて、俺のほうにも兄貴のほうにも目を向けようとせず言う。

「ちょっとひとりになりたいんだ。これからいろいろ考える。それから、嘉兄の友達」

 七瀬弟は、少しだけ俺のほうを見た。土色で死にそうだけど、根本的に顔のつくりが整っているから、やっぱりすごいイケメンだと思った。次の瞬間、俺は思わず両目を見開いた。驚かずにはいられなかった。七瀬弟は、すぐにでも崩壊しそうな不安定な笑顔を見せた。

「嘉兄の友達、ゆっくりしてってくれよ。まあ、ゲームと漫画くらいしかないけど」

 言葉が出なかった。七瀬弟がなにを考えているのか、全然わからなかった。俺はお前を殺そうとしたんだぞ。わかっているのか。問い詰めてやりたいのに、声にならなかった。七瀬を見ると、七瀬も俺と同様、呆然としていた。

 外から救急車のサイレンが聞こえてくると、七瀬弟は「やばい」と小さく声を漏らした。音は少しずつ大きくなる。一段一段、ゆっくりと階段を上がっていた七瀬弟は、いきなりスピードアップする。勢いで階段を上り終えた七瀬弟は、部屋に駆け込んでドアを閉めた。それと同時に、サイレンが止んだ。家のチャイムが鳴った。ドアを派手に叩く音もした。救急車到着しました、開けてください、と声がした。家の外の空気が、不謹慎にも、野次馬で盛り上がっている気配もした。

 俺も七瀬もどうすることもできず、その場に立ち尽くしていた。俺はずっと家の入り口を見つめていて、七瀬は、弟が引っ込んだ部屋のドアと玄関のドアを交互に眺めていた。ドアのノックは激しくなるばかりで、チャイムも留めどなく鳴り響いている。漫画の中にでも入った心地だった。俺自身が原因ながら、どうするんだよ、この状況。確認の意味を込めて、俺は七瀬に視線を移す。その瞬間、七瀬が大きく口を開けた。なにを思ったか、七瀬はそのまま声を沈めず笑い始める。ぽかんとする俺を差し置いて、ひとりで七瀬は笑っていた。笑いすぎて涙まで出てきたのか、人差し指で目元を拭いながら、七瀬は俺に向かって声を押し殺す。いや、押し殺したって意味ないし。あれだけ大声で笑っておきながら。それでも七瀬は、声を押し殺す。

「こんな状況って仕方ないよな」

「は」

「来いよ、大宝寺。郵便受けから覗かれたら一発だぜ。この家には誰もいないんだ」

「は?」

 なにを言ってるんだ、こいつは。救急車を相手に居留守を使う気かよ。しかも、自分で呼んでおいて。いや、原因は俺だけど。ていうか、お前今、大声で笑ってたし。七瀬は楽しそうに笑いを堪えている。ついて来い、と言うので、俺は七瀬について行く。辿り着いたリビングで、テレビを消してカーテンを閉めて、テーブルの下でじっと息を潜めておく。なんなんだ、この構図。これこそ、まったくの予想外の出来事だ。俺が思考する横で、七瀬は面白そうに呟いた。

「スリルだよな、これ」

 本当に。よくこんなことできるよな。そう言ってやりたかったけど、それは七瀬弟を殺そうとした俺自身にも言えることなので、とりあえず黙っておくことにした。でも、これって公務執行妨害になるんじゃないだろうか。俺はふと思いつき、七瀬に訊ねてみることにした。

「なあ、七瀬」

「ん?」

 「これって、公務執行妨害だよな。犯罪だよな」。そう言いたかったのに、俺の口からは、どういうわけなのか全然違う言葉が出てきた。

「スリルだな、これ」

「だろ」

 へへ、と七瀬は得意げに笑う。ついさっきまでの、形容し難く難しげな表情をしていた七瀬と、俺が七瀬弟を殺しかけていたという事実を忘れてしまいそうだった。「なかなか味わえないぜ、こんなの」。七瀬はそう言う。邪気なく、屈託なく言う。クラスでずっと浮いた存在になっているなんて、七瀬のこの笑顔からは想像もつかないことだった。

 チャイムとノックの音は、まだ続いている。スリルと言えばスリルだ。どうしようもないし、とりあえず、別にいいか。ひとまず俺は、事が落ち着くまでは、七瀬と一緒に静かに過ごすことにした。








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