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辻ノ瀬学園中等部3年4組 三橋優輝

 校門を抜けて何分も経たないうちに、雫が頬を叩いた。優輝は空を見上げて足を止めた。いよいよ本降りになろうかというところで、自分の意識を取り戻した。鞄の中に常備されている折り畳み式の傘を取り出し、頭上に広げる。それと同時に、本格的な土砂降りになった。慌てて走り始める通行人の靴音と、雨粒が傘を打つ鈍い音が耳朶を打つ。優輝は少しだけ息を吐いて、再び歩き始めた。大降りの雨の中で、屋根の下にも入らずに屈んでいる少女を見つけたのは、そんな矢先だった。

 少女の年齢は、おおよそ幼稚園児程度に見える。こんな雨の中で、しかもひとりきりで、一体なにをしているのだろう。優輝は首を捻り、再度足を止めた。

 少女は雨に濡れながら、じっとアスファルトの地面を見つめていた。優輝もその場から動かず、少女に視線を集中させた。ポニーテールの根元には、大きなカボチャのマスコットがふたつ並んでくっついている。せいぜい4歳か5歳くらいの幼女だ。母親か、それに準ずる保護者に結ってもらったのだと優輝は予測する。

 ――母親、か。

 優輝の頭に、その単語が響いた。幼い子供には母親が必要だ。彼女に母親がいることは、ごく自然のことなのだろう。

 少女は道の中心で佇んでいる。小さな身体は既にずぶ濡れだった。優輝は軽く辺りを見渡すが、母親と思しき女性の姿も、その他保護者と判断できるような人間の姿もなかった。こんなところに小さな子供を置き去りにするなんて、どういう神経をしているのか。これでは彼女が誘拐されても文句など言えない。呆れたが、自分が目を離した隙によくないことが起こっても癪だ。優輝は少女から一時も焦点をずらさなかった。

 道行く人々の中には、少女に声をかける人間もいた。高校生であったり、スーツを着た男性であったり、買い物袋を手に提げた女性であったりと年齢層は様々だった。まったく少女を見ない人間もたくさんいた。雨足が次第に強くなる。少女は誰かに話しかけられる度に首を横に振っている。近付いた人間は心配そうな顔をして少女にしつこく食い下がっているが、少女もまた、しつこく食い下がっていた。

「じゃあ、せめて濡れないように傘を持ってきてあげる。それならいいでしょ?」

 ロゴ入りの赤いエプロンを身に着けた若い女性が、少女にそう声をかけた。女性は自分が持った傘に少女を入れている。少女と目線が同じになっているはずの女性だが、少女は相も変わらず頷くことをしなかった。親子のような構図を、優輝は少し離れた場所で見物していた。

 少女はさして人見知りした様子もなく、舌足らずな高い声で地面を見つめたまま答える。

「傘はいらないの。両手で傘を持ってたら、カタツムリを持って帰れないの」

「カタツムリはここにはいないよ。葉っぱの裏を探さないと」

「カタツムリを捕まえるの。左巻きのカタツムリを見つけたら、しあわせになれるんだって。だからあたし、左巻きのカタツムリを探してるの。ごはんを食べるときと反対の手が左なの」

「でも、ここにはカタツムリはいないのよ」

 困った、と言わんばかりに女性は眉を下げた。助けを求めるように周囲に視線を巡らせているが、誰も他人のそんな信号は受け取らない。わざとらしく目を合わせないようにして、素通りする人間ばかりだ。関係のない面倒ごとに自ら関係しようと思わないのは、優輝にもよく理解できる心理だった。

 女性の視線が優輝の視線とぶつかった。貴方は助けてくれるでしょう、そんな無責任な願望を含んだ目だった。優輝は一瞬戸惑ったが、殊更無視はできなかった。半ば諦念混じりで、優輝は二人に近付いた。

「すみません。僕の妹なんです」

 無意識の言葉だった。瞬時に耳を疑った。今、自分はなにを言った。優輝は困惑したが、女性は一挙に安心した顔になった。今のは違う。再度口を開いた頃は、もう遅かった。仕方なく、優輝は少女に「行こう」と声をかけた。傘に入れてやると、少女は驚いた顔をして優輝を見上げたが、何故か笑顔になった。意味がわからなかったが、とりあえずそれっぽく見せるために女性にお礼を述べる必要がある。ついさっきの安心しきった顔とは違い、女性は頬を赤らめて優輝に見惚れていた。あまりに見慣れている反応にうんざりしながらも、形式の感謝の言葉を告げる。女性は大袈裟なくらい両手を振って、勤務先と思われる店に駆け込んだ。そんなにこの顔は整っているのか。憤慨すれば厭味なのでしないが、こうも異性の反応が同じだと疲れてくる。自然と溜息が口をついた。

 小さな両手で右手を掴まれて、優輝はそちらに目をやった。少女が嬉しそうに笑っている。雨に濡れたせいで、手は冷えていた。ということは、身体も相当冷えているのだろう。わかった上で風邪をひかせるのも気が引ける。優輝は少女を道の脇の通路に連れ込み、ひとまず雨粒を凌ぐ。傘を畳んで壁に立てかけると、鞄からスポーツタオルを取り出して少女の全身を拭いた。小さな身体を拭く程度なら、スポーツタオルでも十分間に合った。

 髪を重点的に拭いてやり、スポーツタオルを鞄にしまいながら、優輝は率直に少女に問う。

「ママはどこにいるの?」

「あたしのママはね、おうちにいるのよ」

「おうち?」

 少女は機嫌よく頷いた。ほんの数分前、頑なに他人を拒んでいたのが嘘のようだった。

 まさか、こんな小さな子供がひとりで外出などはあり得ないだろう。訊かれたことを素直に答えただけだ。優輝は質問を変える。

「キミは、誰とお出かけしてたのかな」

「ママはおうち。パパはお仕事」

「はぐれちゃったんだよね」

「あたし、おにいちゃんと一緒にいるよ」

「最初に家を出たとき、一緒にいたのは誰なの」

「あたしはひとり。でも、ここでおにいちゃんと会えたからいいの」

 優輝は予期せず口を噤んだ。この少女はまるで、ずっと前から自分と会うことがわかっていたかのような口ぶりで話している。それに、道端で少女が佇んでいるときも、自分とほかの人間とでは明らかに態度が違っていた。なにかの絵本にでも感化されているのだろうか。小さな子供なら可能性はある。そんなことよりも、警察にこのことを届け出なければならない。早く家に帰りたい願望と、妙なことに関わってしまった後悔が相俟って優輝の気持ちは急いていた。

「あたし、真桜っていうの。大林真桜」

 少女の手を引いて歩き出そうとした優輝の中で、引っかかるものがあった。反射的に反応してしまう音だった。余計な思惑を振り払い、真桜の顔を見る。なにがそんなに楽しいのか、満面の笑顔だった。なんとなく優輝は視線を逸らす。

「おにいちゃんはなんていうの?」

「僕、は」

 真桜は無邪気に問うてくる。大林。頭を離れなくなった。少女の手を引く優輝の右手に、自然と力が篭る。その力を真桜は楽しむように、ぎゅっと手を握り返してくる。優輝が握力を弱めても、それは同じことだった。

「僕は、三橋優輝」

「優輝おにいちゃん」

 一度繰り返した後、真桜は前兆なく瞳を輝かせた。

「優輝おにいちゃん!」

 意味が掴めない優輝をそっちのけにして、真桜は思い出したようにポケットに手を突っ込んだ。

「優輝おにいちゃん、あたしね、左巻きのカタツムリ持ってるの」

 そう言って真桜が取り出したのは、不揃いに四つ折にした白い紙切れだった。真桜は優輝の手を放して紙を開ける。そこには、淡い黄色と茶色のクレヨンで大きくカタツムリが描かれていた。不自然に角が伸びていて、左に巻いた殻が異様が巨大化している。雨で滲んではいたが、形はしっかりと残っていた。

「左巻きのカタツムリは、しあわせを呼ぶの。でも本物はあんまり見つけられないから、あたし、紙に描いてるの。おにいちゃんにあげるね」

「僕に?」

 うん、と真桜は大きく頷く。優輝は真桜からおもむろに紙を受け取った。酷く降り続いてる雨の音が、優輝の鼓膜を叩いた。

 真桜が一生懸命描いたらしい下手くそなカタツムリの絵を眺めながら、優輝は言う。

「左巻きのカタツムリは、幸せを呼ぶんだよね。じゃあママにあげなよ。僕みたいな知らない人にあげるよりもいいと思う」

「優輝おにいちゃんは知らない人じゃないもん」

「どうして」

「優輝おにいちゃんは、あたしのおにいちゃんだから」

「僕はキミのお兄ちゃんじゃないよ」

 言うと真桜は、きょとんとした丸い瞳で、不思議そうに優輝を見上げてくる。優輝には真桜のそんな反応の意味もわからなかった。

 真桜は言う。

「優輝おにいちゃんは、あたしのおにいちゃんでしょ」

「僕はひとりっ子」

「違うよ。おにいちゃんはあたしのおにいちゃん。あたしにはわかる」

「もしかして、誰かと間違ってるんじゃ」

「おにいちゃんはあたしのおにいちゃんなの!」

 真桜は大きな声を張り上げた。突然のことに優輝は驚き、思わず肩を震わせる。

 真桜は叫んだ。

「優輝おにいちゃんはあたしのおにいちゃん! 優輝おにいちゃんはあたしのおにいちゃん!」

 真桜は何度も同じことを大声で繰り返す。しまいには地団駄を踏み、喉がはち切れるような高い声で泣き始めた。

「優輝おにいちゃんはあたしのおにいちゃんなのに、優輝おにいちゃんがわかってくれない! あたしのことわかってくれない!」

「ちょっと」

「優輝おにいちゃんがわかってくれない! 優輝おにいちゃんが、あたしのことわからない!」

 幼いからか、真桜の声はよく通った。大粒の雨の音を掻き消して、真桜の泣き声が街中に響いている。真桜の泣き方は、小さな子供の面倒など見たことのない優輝が判断しても、明らかに異常なものに思えた。とにかく酷いショックを受けているようで、真桜はほとんど悲鳴のように泣き叫んでいる。優輝には意味がわからなかった。それでも、真桜にとっての自分は確かに「おにいちゃん」で、それが否定されたことが世界の崩壊にも繋がるような禁忌だったことは、優輝にも推察できた。ただ、何故そうなってしまうのかが理解できなかった。自分という存在は、もうこれ以上真桜に関わってはいけないような気もした。

 騒ぎを聞きつけて、年恰好も様々な相当数の人が集まっていた。この土砂降りだというのに暇なものだ。一瞬優輝は毒づいたが、すぐに打ち消した。これだけの人数がいるのならば、ひとりくらい交番の巡回がいるのではないか。優輝は手早く視線で人垣をかき分ける。目当ての人間は、すぐに見つかった。

 脇道を抜け出ると、優輝は警察官の制服を着た若い男性の腕を掴む。男性は驚いていたが、構わずに口を開いた。

「迷子の女の子です。保護してください」

「え?」 

 警察官だというくせに、なんと鈍感そうな顔をするのか。優輝は苛立ちながら、大泣きしている真桜を指差した。

「早く助けてあげてください。親とはぐれた上にこんな雨の中で、しかも大勢の人に見られて可哀想です」

 警察官は、詰まったような声を出した。一応「了解した」の意味ではあるが、あまりにも頼りない返事だ。優輝は下唇を嚙み、警察官の腕を放す。真桜の泣き声は、相変わらずよく響いていた。耐え切れず優輝は吐き捨てる。

「いい大人のくせして、小さい子供のひとりだって守れないんだね」

 呆けた顔をして警察官が優輝を呼び止めるが、優輝は無視する。荷物を持って傘も差さずに歩き始めた優輝に、自然と人垣が分離した。全身が雨に打たれるのも構わず、優輝は無言で歩き続けた。

「あの子、相当綺麗な顔してない?」

「遊びに誘っちゃおうか?」

 耳障りな黄色い声が、どこからか優輝の耳に届いた。またこの顔の話か。歩くスピードを速めて人ごみを突っ切る。どうしようもなく醒めた気持ちが込み上げた。

「優輝おにいちゃんがあたしのことわからない!」

 響く真桜の声が遠くなって、雨の音が近く耳に入る。優輝は懸命に足を運んだ。ほとんど走っていたかもしれない。自宅マンションのエレベーターに乗り込んだ頃には、優輝は既に疲れ果てていた。息を切らしながら、エレベーターの壁に凭れかかった。

 無機質なエレベーターの作動音は、頭の中の真桜の声を掻き消してはくれなかった。頭痛を感じ、手を額に当てる。その手に白い紙が握りしめられていることに、優輝は初めて気がついた。

「結局、もらって帰ってきちゃったんだ」

 優輝はぼやく。最初に見たときよりも、さらに雨に滲んでいるような気がする。真桜の泣き声が、一層強く頭に響いた。どうしてあの少女を最初に「妹だ」などと言ってしまったのか、優輝は酷く後悔した。だから、真桜はやたらと「優輝おにいちゃんはあたしのおにいちゃん」と言い続けていたのかもしれない。あんな小さな子供だし、きっとそうだ。考えれば考えるだけ疲れてきて、溜息が漏れた。早く部屋に戻って、ベッドで一眠りしたかった。エレベーターが七階に辿り着く瞬間を、優輝は待ち遠しく感じた。






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