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日鐘第二高等学校3年D組 七瀬嘉仁(6)

これで終わり。お気に入りに登録してくれた誰かさん、本当にありがとうございました。

 『手軽にお洒落に自分を変える』。堂々とデザインされたその文字は、滑らかな流れで頭の中に入り込んだ。目に映ったそのパッケージを手に取って、いろいろな側面から眺めてみた。使用上の注意点、使い方、成分、仕上がりの色など、イメージイラストを含めて文字が敷き詰められていた。今まさに俺が見ているこの箱の中身は、ちょっと明るめの茶髪になる染色液が入っているようだった。写真の色から判断する限り、生まれつきの俺の髪と、ほぼ同じ色素だった。使うとしてもこれは無意味だ。手の中の箱を元の陳列棚に戻しておいた。タマネギやニンジン、リンゴ、ジャガイモなどが入った青いカゴを片手に、俺は再び歩き始めた。そう言えば、お茶の葉が切れてたっけ。思い出してよかった。俺の目的地は会計レジからお茶の葉コーナーに変更された。

 頭の中で、パッケージで見たそのワードがフィードバックする。『自分を変える』。お洒落染めの売り出しとしては、ありがちな商売文句だと思う。髪の色を変えるくらいで、自分に変化を見出せるものか。正直な感想はそんなところだった。愛飲のお茶の葉をカゴに追加しながら、俺はなんとなく思い返す。

 お洒落染めといえば、つい何日か前に会った景の髪の色が、見慣れた明るい茶色から真っ黒へと変貌していた。どんな心境の変化があったのかは知らないけれど、とりあえず似合っていた。やったのはたぶん恭兄ちゃんだろうし、それに見合った髪型も恭兄ちゃんが設定するのだから、似合うのは当然の話だった。髪については、恭兄ちゃんに任せればまず間違いはない。あれだけ濃い黒髪だった詩仁が違和感なく金髪になったのも、恭兄ちゃんだからできた芸当だろう。

 福神漬けは、まだ冷蔵庫にあったかな。記憶がはっきりしないので、今度は漬物コーナーに足を運んだ。どの福神漬けにしようか迷う。同じなようで違うのを見極めるのは、ショッピングの基本だ。

 詩仁本人からも恭兄ちゃんからも、直接話を聞いたことはなかった。でも、詩仁が派手に髪を染めたのは、自分を変えたい一心から下した決断だということはわかっていた。いちいち言及しなくても、それくらい簡単に察しがついた。その事実と、帰宅した俺が詩仁の金髪を目にした瞬間ひたすら不快だった、というのは別の話だ。どうして自分がこんな現実に直面しなければいけないのか、俺にはまったくもって理由がわからなかった。毎日己を殺して生きているのに、しかもそれは弟のためなのに、その弟が黒髪から金髪に変わっている。その変化だけで、俺はもういっぱいいっぱいだった。そのときは、それ以上を考えることなんて到底不可能だった。だから俺は、苛ついたままに詩仁の腹を蹴り飛ばした。冷静に考える前にそうしたわけだから、俺の行為は、八つ当たりと呼んで支障なかったはずだ。その直後、俺と詩仁は、いつも通りの一日を過ごした。詩仁と俺が普通に接していたのは、俺が金髪の弟を受け入れただのなんだのという理由があったからではなかった。詩仁が俺と普通に対話しようとしていたからだ。俺が優しいのではなく、詩仁が優しかった。ぎくしゃくしてしまった空気を少しでも和らげようと、詩仁は、努めて平常に振舞っていた。詩仁の金髪は気に入らなかったけど、家の空気がずっと張り詰めているのも嫌だったし、俺もその方針に従った。結果として、俺と詩仁の関係は、人が見れば不可解なくらいスピーディに修復された。実際、恭兄ちゃんがその様を目撃していた。

 適当に選んだ福神漬けを視野に含め、俺は、カゴの中の品目を確認する。ルーもあるし、豚肉もある。詩仁が好きなカレーを作るには、ばっちりの品揃えだった。その他諸々、おやつも込みで、買わなくてはいけないものはすべてチョイスした。今日の買出しもばっちりだ。鼻を鳴らしたくなったけれど、誰に対して威張っているかまったく不明なので、余計なことは省いてさっさと会計レジに向かった。

 親が家に帰って来ないのは、小さい頃の俺と詩仁にとっては当たり前のことだった。ごく稀に帰って来ることはあったけれど、それだって父さんと母さんが打ち合わせてやっていることではなかった。どちらかは帰って来ても、どちらかは帰って来ない。俺たちが学校に行っている間にどちらかが帰宅していて、溜まっている家の用事を少し片付けて、リビングのテーブルに決まった額のお金を置いて再び出て行く、ということもしょっちゅうだった。親がいない分、お小遣いだけはあり余っていた。いくらゲームを買っても漫画を買っても、コンビニで毎日ふたり分の晩御飯を調達するお金には困らなかった。

 カレーは、生まれて初めて自分で作った料理だった。俺が小学校4年生だったから、詩仁はまだ1年生になったばかりだった。なんだかニンジンの切り方も妙だし、芽を注視しすぎて不恰好に抉れたジャガイモがどっさり入ったカレーを、詩仁は、すごく嬉しそうに食べてくれた。これからはお惣菜じゃなくて、毎日嘉兄の作ったご飯が食べたい。詩仁はスプーンを右手に、ちょっと舌足らずがちな口調で、笑顔で俺にそう言った。俺が日常的にキッチンに立つようになったのは、そんなことがあってからだった。カレーは俺が料理するきっかけにもなったし、そういう思い入れもある。詩仁の大好物メニューでもあるわけで、カレーと言えば、俺にとっては万能の一品だった。ついでに言うと、夕飯に困ったときはカレーに限る。

 料理が得意になったのは条件反射だ。景に対してそう言い放ったことを、ふと思い出した。確かにそれは嘘ではなかった。小学生の俺が炊事に励むのは、元はと言えば、俺以外にそれをする人間がいなかったからだ。弟とふたりきりで取り残されていることもあって、俺には義務感があった。詩仁が頼れるのは俺だけだから、兄貴の俺がしっかりしなくちゃいけない。大本のその感覚から、掃除、洗濯、炊事、諸々の生活必須事項を俺がやっつけるようになった。そのうちに、母さんも父さんも、ただでさえ少なかった帰宅頻度がもっと減少した。別に母さんたちの気を惹きたくて家事をしていたわけではないけれど、俺がどれだけいい子にしていても、親と過ごせない日常は改善されないことがわかった。人嫌いの詩仁の傍にいるのは、度を増して俺だけになった。

 家庭が家庭だったからこそ、俺は、小さい弟のために立派な兄貴でいたかった。立派な兄貴であり続けなければならない絶対的な必要性があると思っていた。俺はそう思い込んだまま、詩仁はいつも俺の傍にいたがるお兄ちゃんっ子のままで大きくなった。いつの頃からか、俺の世界を制限する詩仁のことが鬱陶しくなった。詩仁が自慢の弟であることを、俺は一生懸命自分に言い聞かせていた。その類の言葉をさも詩仁本人に言っているようなふりをしてきたのだから、我ながら悪質だと思う。本当にとんだ茶番だった。自嘲っぽい笑みが零れる。

 大宝寺の精神が平常に保たれていたら、あまり娯楽性に長けない俺の舞台は、まだ続いていたのだろうか。レジ打ちが終わるのを待つ俺の脳裏を、さらりと疑問が掠め去っていく。答えは考えるまでもなくイエスだった。言い方はよくないけれど、大宝寺の様子がおかしくなったことで、俺の精神的疲労が大きくなったことは確かだった。その時点では、大宝寺が友達だと認めているのは俺だけだった、ということも重要だ。俺にとっても大切な友達である大宝寺を放っておくわけにはいかず、そうかと言って、チキンで根性なしの自分になにができるわけでもなく、俺も追い込まれていた。そうこうしているうちに、俺の感情は詩仁の目の前で爆発した。少し時間をずらした頃、大宝寺も限界に達していた。景も上野も優輝君も詩仁も、いろいろなことがものすごいタイミングで連動した。このタイミングがなければ、俺はきっと、ずっと詩仁と決裂したままだった。そんな気がする。もしくは、最初から俺は、感情を爆発なんてさせていないはずだ。そのパターンなら、まだ俺は俺自身と詩仁に嘘を吐き続けていた。無論、飽くまで「まだ」爆発していないだけだっただろうけれど。

 となれば、やっぱり俺は大宝寺に感謝すべきか。いや、正直なところを打ち明けると、俺は既に大宝寺に感謝している。なにを言っても、大宝寺のことがあったから嘘まみれの俺の内部から素直な自分を取り出せた。そのことは変わらない事実だし、それに、大宝寺は俺の中に少しだけ残っていた兄としての気持ちを押し出してくれた。甚だ勝手な言い分だとは思うけれど、俺にとっては、大宝寺はやっぱり紛れもなく恩人だった。大宝寺が入院してしまった以上、こんなことを思うのは最低だ、と自分でもわかっている。それでも、大宝寺がいてくれてよかった、と安心している自分がいる。あの日、胃にあるすべてを吐き尽して病院に運ばれた大宝寺の様子は、確かに気になる。でも、たとえ大宝寺に会ったとしても、そこで俺は一体なにを話したらいいのかもわからない。どうせ中途半端な気持ちを引きずっているし、大宝寺との面会を病院側に拒否されたのは、案外好都合だったのかもしれない。どの道、今の俺が大宝寺のためにしてやれることなんて、たったひとつとしてありはしないのだ。

 買出しの荷物を片手に、ひとりで路地を歩く。散歩で気晴らしついでに、スーパーに寄って必要なものを買う。俺の中の基本的な行動スタンスで、ものを考えるには持って来いの時間だった。だから俺は、次から次へと思考を張り巡らせていく。

 大宝寺がいる病室へは、頃合を見計らって足を運びたいと思う。現段階で大宝寺を訪ねることができるのは上野だけらしいので、一応、上野を伝って本人の了承を得てからお見舞いに行く予定だ。判断がよくなければ、きっと病院側がストップをかけてくれる。大宝寺の担当者になっている精神科医は、ど素人の上野が見ても、相当できる人らしい。上野の洞察力は伊達ではない。根拠なんて全然なくても、上野の言うことは無条件で的を射ていると表現しても過言ではないと思う。

 大宝寺が逮捕されなかったことに関しては、俺はまったくのノータッチだった。景は大宝寺の処遇を俺、もしくは俺と詩仁の意図だと思っているみたいだけれど、残念ながらハズレだ。なにもかも父さんが裏で操作したことだった。景の憶測を否定しないのは、大宝寺に前科がつかない――大宝寺は未成年だから、厳密には前科がつくことはないのだが――とにかくそんな展開は願ってもない俺の理想系だからであって、まさにそれが実現されているからだった。大宝寺は悪い人間ではない。追い詰められて、自分でも対処のしようがなかっただけだ。殺されかけた張本人である詩仁自身がそう言っているのだから、事件がひとつ揉み消されている事実はともかく、大宝寺が逮捕されなかったことは悪い結果ではないはずだった。

 それに、既に被害者という立場で関わっていた事件そのものが消されたことで、俺と詩仁の日常は守られた。どんな考えがあったのかは置いておくとして、父さんは俺たちを救ってくれた。詩仁は相変わらず疑心暗鬼の目で大人を睨むけれど、俺がその話をすると、少し口を尖らせた後に小さく頷いた。直後に瞳の奥で、それでも俺はまだ親が嫌いだから、と訴えてきた。詩仁の素直な性格も相変わらずだ。

 そうして、ふっと思考世界から現実世界に戻ってみると、俺の足は、もう家のドアの前で停止している。今日も同じパターンだった。板を一枚挟んだところに、俺の世界が広がっている。なんというわけでもなく、息を吐き出した。溜息。途端に、いろいろな事象が俺の脳内映像で映し出された。親が家に帰らないことを初めて不審に思ったときのこと、俺は辻ノ瀬学園入学試験に受からなかったこと、でも詩仁は受かったこと、高い場所に立つ度に落ちたくなっていた俺自身のこと。なんでも俺の真似をしたがった詩仁、いつでも俺の後ろをついてきた詩仁、ほかの人間が言えば反発するけど、俺が言えば聞き入れる詩仁。金髪になった詩仁。俺のことが好きな詩仁。俺が好きで、俺が嫌いで、俺の弟としての詩仁。俺は家の前に立っているんだから、家族全体のことを思い出してもいいのに、ほとんど詩仁のことしか出て来ない。記憶の一コマは、すべて一瞬で流れ去った。頭の中が嘘みたいに静かになった。腕に、詩仁を抱きしめた感触が蘇ってきた。あの細い身体で、詩仁は自分を変えようとずっと苦心してきた。わかっていながら、敢えてそのことを無視してきた俺は、この先問題なく詩仁の兄貴を続けることができるだろうか。周囲の人間をフルモードで巻き込むような、酷い嘘を吐くことなく、俺は詩仁の兄貴でいられるのか。ここまできて、まだ躊躇してしまう。家のドアを開けたその奥に、あんなことがあっても無垢に俺を慕う詩仁がいる。今まで俺が詩仁の気持ちを無視してきたのは、詩仁が変わろうとしていることがわかれば、わかった分だけ軽蔑してしまう自分がいたからだ。どうせお前は兄貴から離れられない子供のままだ、俺には、詩仁をそう見下す癖がついていた。再び俺が詩仁を低脳と見做さない保障はなかった。以前と同じように詩仁を扱ってしまうことが、俺は、すごく怖かった。

 ドアノブに右手をかけて、大きく息を吸い込んで吐き出した。溜息とは違う、深呼吸だ。もう一度、俺は深呼吸をした。『自分を変える』。スーパーで発見したヘアカラーの商売文句が、目の裏側で浮いてくる。瞬間とも言わない僅かな時間、立ち眩んだ。意識を奪うような眩暈は急速に遠のいた。ドアノブに置いた手に、少しだけ力を入れた。大丈夫。身も蓋もなく「大丈夫」と言い張る声が、頭の中で振動している。なんて無責任なんだとなじる反面、口の中で繰り返した。「大丈夫」。そう、きっと大丈夫。具体的になにがどう大丈夫なのか、そんなことはどこまでも曖昧だけれど、大丈夫だ。胸の内に改めてそう言い聞かせた。

 髪の色を変えたくらいで、人が変われるとは思えない。でも詩仁は、今の俺と同じだったのかもれない。自分に大丈夫だと言い聞かせて、その決意の下で、髪を染める。次に鏡を見る頃には、自分の姿は、以前とは変わっている。そういう考え方をすれば、馴染んだ髪の色を放棄することは、自分を変えるきっかけくらいにはなるかもしれない。詩仁は実際そうだった。多少のリスクは背負うことになっても、見た目から入ることだってひとつの術だ。誰の目から見ても明らかなら、むしろそれは、考える角度によっては有効な手段とも判断できる。かもしれない。

 上空に視線を押し上げた。陽はまだまだ長いけれど、空の彼方は薄くオレンジに色づいている。早くカレーの支度に取りかからないと、いつもの夕飯の時間に間に合わない。そう思った瞬間、くう、と低い音が響いた。緊張感のない自分の胃袋が妙にツボで、ほんのちょっぴりだけ面白くなった。

 大丈夫。だって俺は詩仁の兄貴で、詩仁は俺の弟だ。だから大丈夫、なにがあってもきっと最後は上手くいく。未だ惑う自分を振り切って、ゆっくりドアノブを回した。施錠されていないのは、俺の帰宅を見計らった詩仁が鍵を外しておいてくれるからだ。ただいま」。一言そう告げて、いつも出迎えてくれる詩仁に向けて屈託なく笑ってみせた。







『兄貴は平気で嘘を吐く』これにてとりあえず完結です。ここまで読んでくれた方、ありがとうございました。




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