辻ノ瀬学園中等部3年4組 三橋優輝(3)
ここに来るときの優輝のルールは、飼い猫のスパイクを同行させることだった。同行と言っても、連れ立って街を闊歩するのではなく、スパイクは鞄の中で丸くなっているだけだった。でも、そんな猫入り鞄が優輝は気に入っていたし、スパイク自身も時折バッグの口から顔を出しては機嫌良さそうに喉を鳴らしている。バッグからスパイクを取り出したら取り出したで、相変わらず上機嫌だった。優輝の足にじゃれついてきては、身体を撫でろと言わんばかりに、スパイクはその場で落ち着き払う。望み通りに喉元を掻いてやると、スパイクは、より一層喉を鳴らすのだった。
道行く人々の視線を集めていることを自覚しながら、優輝はスパイクと軽く戯れていた。こんな路上で毎日毎日猫と遊んでいては、注目を浴びることは当然だった。わかっていながらも、優輝はいつもスパイクを連れ出していた。さすがにひとりでは寂しいし、小さな子供なら、普通に立っている人間よりもこうして小動物と触れ合っている人間のほうが目に留まりやすいだろうと判断した結果だった。わざわざそんなことをしなくても、あの少女なら自分を見つけた時点で駆け寄ってくる確信があったが、念は押しておくべきだ。優輝がスパイクと佇んでいるのは、最初に真桜と対面した場所だった。
優輝がこの場所に通い続けて、今日で一週間目を迎えていた。やろうと決心を固めたときも、この場所で彼女ひとりを待ち続けるのはさすがに無謀だ、と考えなかったわけではなかった。考えはしたが、やれることが少なかった。真桜に心当たりがあるとは言え、あまり込み入ったことはできない。優輝にできるのは、せいぜい彼女と偶然再会するのを期待して待つことくらいだった。
真桜にとってここが見慣れた街並みならば、話は別だった。しかし、そうだと断言できる情報も、逆にそうではないと言い切る情報も優輝にはなかった。つまりこの道沿いは、たまたま真桜が迷い込んだだけの見知らぬ場所の可能性もあった。そのパターンを想定すると、優輝のモチベーションは一挙に低落する。仮に本当にそうだったとしたら、この場所を真桜が訪れるのを待ち続けるのは、途方もない行為だった。自分が毎日ここに来ているのは、既に惰性となっているのだろうか。スパイクの毛並みを片手で撫でながら、優輝は、自分の感性を問うてみた。優輝の眼前に、突如として円筒の缶が現われた。缶ジュースだ。誰が自分に缶ジュースを差し出すのか、その人物を確認しようと顔を上げた。優輝の視界に飛び込んできたのは、今どきの若者風にきっちりとセットされた髪型と、その色合いだった。派手な金髪が、残暑の日差しと濃い青空に映えて目に染みる。思わず顔を顰めた優輝などまるで無視して、七瀬はジュースを持った右手を振って見せた。
「お勤めご苦労さん。このくそ暑いのに、よくやってるな」
優輝は、いつものポーカーフェイスで七瀬の手に提げられたそれを一瞥した。近場のCDショップのロゴが入った紙袋の口から、いくつかのCDパッケージが覗いている。七瀬が好む音楽のジャンルを、優輝は不意に頭の中で描き出した。あまりに派手だ、優輝の口がそう動いたのは無意識のことだった。喋りかけられたと思ったのか、七瀬は首を傾げて瞬いた。優輝は、なんでもないよと言う代わりに首を横に振っておいた。そんな優輝の反応には僅かにも動きを見せず、七瀬は、瞳に嬉しげな色を浮かべて手に持った缶ジュースを強調する。
「飲めよ。炭酸効いてて、暑い日には持って来いだぞ」
「わざわざ僕のために買って来たの?」
「自意識過剰はよくないな。なんで俺が、お前なんかに」
そう言いながらも七瀬は、どういう経緯で優輝にジュースを手渡すことになったのかを明かさない。詮索する必要もないし、せっかくだからと優輝は七瀬から缶ジュースを受け取った。ちょうど水分が欲しくなっていたところだった。早速優輝は缶のタブに指をかけた。人差し指を引くところで、自分にストップをかけた。
「さっき、振ったよね」
「お前って面白くない奴だな。勘だけは鋭いときた。缶ジュースだけに」
「キミって面白くない奴だね」
優輝に手を振ったのは、完全に七瀬のシナリオだったようだ。七瀬は口を尖らせ、つまらなそうに眉を下げる。振った炭酸飲料を開けたらどうなるか、わからないほど優輝も無知ではなかった。優輝は、缶ジュースを七瀬に押し返した。すると七瀬は、誤魔化すようにはにかみながら、優輝の手の缶ジュースを更に押し戻す。
「そんなに強く振ってないだろ。意外と大丈夫だから、開けてみろよ」
「直前に相当激しく振ってた、とかじゃないの」
「そこまで疑るかよ。一緒にそいつ見つけた仲じゃん」
「そいつじゃなくてスパイク。見つけたのは僕で、飼ってるのも僕のところで、キミは傘を差してただけ」
七瀬が差し示した人差し指の先を、優輝は辿る。宝石のようなエメラルド色をした瞳の照準を、スパイクは興味深そうに七瀬に合わせている。掴みどころなく笑うその姿は、優輝が学校で見る七瀬そのものだった。権力者に揉み消された事件とは言え、こいつが先日、高校生に殺されかけた中学生だとは。些か冗談が過ぎる事実を、優輝は酷く滑稽に思う。
「で、キミはなにしてるの」
「お前こそこんなところで毎日なにやってんだ。と言いたいところだけど、今は俺の話を聞いてくれ」
七瀬はまるで隠れたお楽しみを披露するかのように、CDショップの紙袋を優輝の顔の前に持ち上げた。優輝はいつもの無表情を保ち、にやついた七瀬の説明を待つ。
いくらかもったいぶった後、七瀬はようやく優輝に話し始める。
「近くの店でCDを買ってきたんだよ」
「そんなことは見ればわかるよ」
「いや、わからないね。お前から見れば、俺は確かにCDを買ったひとりの客に過ぎないけど」
「過ぎないけど」。七瀬は、一体どういうわけなのか、ここで会話を区切って優輝を焦らす。特に苛々することもなく、優輝は、スパイクの顎をいじりながら七瀬の動きを待機した。
やがて七瀬は、紙袋の中身を指で引っ張り出し、CDのパッケージを優輝に強調する。
「最近、人気出てきたV系なんだよ。三橋は知ってる?」
「いや、知らない」
「音、全然煩くないんだ。いろんなジャンルの曲を持ってる。嘉兄が自分からV系聴きたいなんて言ったの、初めてだぜ」
話が見えた。要するに七瀬は、自分が好きなV系ジャンルの音楽に兄が自ら興味を抱いてくれたので、嬉しくなってそのV系バンドのCDを購入した。実に簡単な話だった。優輝は、そう、と相槌を打つ。
兄の一声が余程心を潤してくれたのか、七瀬は、喜びを隠せない、と言った具合に笑みを零している。こうして見ると、七瀬は少し外見が派手なだけの普通の中学生だった。同い年の優輝がそう感じるのだから、年長者が見れば当然そうだ。金髪とピアスの七瀬を世の大人たちが偏見のない目で判断してくれるか、と言うと、答えは当然「ノー」であろうが。髪を派手に染めた経緯がどうであれ、世の中の大人の世界では、七瀬は等しく不良問題児だった。
七瀬は紙袋を引っ込めると、今度は照れたように微笑んだ。七瀬の表情は、意外にも素直で豊かだ。七瀬と自分の差を一つ垣間見たようで、優輝は、七瀬を少し視界の中央からずらす。そうとは気が付くはずもなく、七瀬は高いトーンで続けた。
「俺も前々から気にはなってたバンドなんだ。ここまで人気が出るとは思ってなかったけど、たまたま興味を持ったのが嘉兄と一緒だったって言うのが嬉しくてさ。嘉兄がV系聴くのは、全部俺に付き合ってのことだと思ってたし」
優輝がスパイクから手を離すと、スパイクは、何故触るのをやめるのかと言わんばかりに、鼻先で優輝の指先を突いた。優輝は、再度スパイクの毛並みを撫でた。スパイクは、満足そうに丸くなった。
七瀬は微かに目を伏せた。思いの外の表情に、優輝は少し驚いた。言うか言うまいか惑っているのか、七瀬の唇は、不安定に結ばれている。間を置いて、俯いたままで、七瀬は結んだ唇を解いた。
「嘉兄がメイクの専門学校に行こうとしてるのも、俺が思いつきでV系やりたいなんて言ってるからじゃないかなって。だって嘉兄、いつも俺とV系聴いてるけど、自分でどれが好きだとか言ったことなかった。将来バンドを組んだ俺のメイクをしてやるって言う夢は、嘉兄が、鬱陶しい弟の俺と上手くやるための手段だったんじゃないかと」
「キミのお兄さん、嘘吐くもんね」
七瀬は下げた目線を勢いよく元に戻す。七瀬の双眸は、震えるような危うい揺らぎを繰り返している。やっぱり七瀬は、僕が思うよりもずっと純真で、表情豊かで、とんでもないブラコンだ。優輝はそう思ったが、最後の一項目に呆れることはなかった。七瀬が兄に向ける真っ直ぐな愛情と、それを受け止める兄、そして受けた分以上の愛情を弟に注ぐ兄の姿。優輝の頭の中の展開としては、あまりに非現実的な構図だった。非現実的で、羨ましかった。優輝が求める理想を、七瀬は現時点で持っていた。
僕も七瀬兄弟のような関係性が欲しい。優輝の胸に、じわりとそんな願望が滲んできた。殻を左に巻いた、不恰好なカタツムリのイラストが優輝の心内を刺激する。
でも、と、七瀬は続ける。優輝は、なにも言わずに七瀬の声に意識を向けた。
「今度は嘉兄、嘘じゃない。ちゃんと確かめた。俺のことを気にしてそんなことを言ってるなら、そんなのやめてくれって、俺、はっきり言ったんだ。そしたら嘉兄、今度は嘘じゃないって笑ってくれた。いつもみたいに、頭を撫でてくれたんだよ」
「それでも、嘘じゃないっていう証明はできないでしょ」
「それでも嘉兄は俺の兄貴で、俺は嘉兄の弟だ!」
七瀬が声を張ったことは、予想外の出来事だった。怒鳴ってはいないが、七瀬の声は、周囲数メートルの範囲には、確実に通っている。通行人たちは、わざとらしく平然と歩き去っていく。まるでなにも起こっていない、優輝と七瀬の周りには、そんな空気が溢れていた。以前のような人死にまがいの事件が起こったわけでもないし、そんなものだと優輝は思う。軽く深呼吸をして、優輝は七瀬を視界の中心に置いた。七瀬は、優輝が見てもわかる通り、あからさまに大きく息を吞み込んだ。そのまま優輝を直線上に捉え、怒っているような、疎んでいるような、それでいてどこか離れたくない愛おしさを含んだ、なんとも形容できない表情で七瀬は言葉を次ぐ。
「これだけは正真正銘、嘘なんかじゃない」
直前の七瀬の台詞が、優輝の脳内を駆け抜けた。確かに、七瀬兄弟が兄弟であることは、今更嘘になるはずがなかった。七瀬詩仁と七瀬嘉仁は、生まれたときからずっと同じ空間で過ごしてきた、たったふたりの兄弟なのだ。顔のつくりがよく似ていて、名前だって漢字にすれば、違いはたったの一文字しかない。いくら兄が嘘吐き上手でも、血の繋がった兄弟の関係性までは、嘘にできるはずがない。七瀬の発言は妥当で、真を突いていた。
七瀬は、気持ちにはっきりとした核を持っている。見せつけられたようで、優輝は、七瀬を見続けるという行為が不意に苦しくなった。七瀬から照準をずらし、自分を誤魔化すような思いで、優輝はスパイクとのスキンシップに逃避する。七瀬詩仁と七瀬嘉仁は兄弟である、それは正真正銘、嘘ではない。優輝の胸の内側で、ずっと前から知っていたその事実が刺すように振動している。七瀬兄弟は、七瀬詩仁は、果たして、自分にとってこれほどまでに痛みを伴う存在だっただろうか。突発的に、優輝の内心で疑問符が渦巻いた。
僅かな時間が流れた。少し気を抜けば雑踏に揉み消されそうな声で、七瀬は、思い出したかのように切り込んでくる。
「三橋は、ここで毎日なにしてるんだよ」
優輝は答えなかった。ただ、スパイクの毛並みに沿って手を動かしているだけだった。決して心地いいとは言えない優輝とは裏腹に、スパイクは気持ちよさそうな鳴き声を転がしている。返事をしない優輝に、七瀬は、更に押して問いかける。
「例の事件があってから以降、いつも猫連れて飽きもせずにさ。まるで誰かを待ってるみたいに」
「本当に待ってるから」
「え」
七瀬は短く反応した。七瀬の顔を見ることなく、優輝は再度言葉を発した。
「待ってる。キミとお兄さんのことがあって、僕も少し、見方が変わった」
スパイクの顎を指で掻いてやりながら、優輝は続ける。
「家族っていうのは、僕にとって、必ずしも否定すべきものじゃないんだ。悪いことはもちろんあるけど、それが通過点のことだってある」
「三橋、話が見えない」
「僕の場合は、家族の悪いことのほとんどが通過点じゃなくて、終着点だったけど」
七瀬は、なんとも応じなかった。僕が言っていることが理解できていないのかもしれない、優輝はそう察した。別に、それでよかった。優輝自身としても、いまひとつ頭の中で収拾をつけることができていないのだ。それを不器用に言葉に変換し、人に伝えようとしても、思うような結果には至らない。承知の上で、優輝は七瀬を相手取って話を進めていた。自分が発する言葉の意味を正しく理解することはできなくても、家族、もとい兄弟に敏感な七瀬なら、心境くらいは感じ取ってくれるのではないか。らしくもなく期待している自分に気付き、優輝は僅かに戸惑った。
自分が変だ。そう思いながらも、優輝は次の言葉を口にする。
「今度は、もしかしたら通過点だったのかもしれない。もし本当にそうなら、僕も通過してみたい。キミとキミのお兄さんにとって、あの一件は通過点だったんでしょ?」
数秒間、七瀬が動いた気配はなかった。優輝は、半ば意地を張って、七瀬を見なかった。時間が過ぎ去るのがやたらと遅く感じながら、優輝は頑なにスパイクを弄っていた。
幾ばくかの秒数が経過した後、七瀬が口を開いた。
「三橋の家族、ここに来るのか」
お前は、それを待ってるのか。次いで、七瀬はそう言った。優輝は、頷かなかった。頷かなくても、意思は勝手に七瀬に通じた。すると七瀬は、なにを思ったか、小さく笑ったオーラを醸す。優輝が振り向くと、七瀬は半分困ったような顔をしながらも、確かに口元を綻ばせていた。
「あのとき、公園では適当なこと言ってたけどさ。やっぱ、三橋にも家族がいるんだな」
「適当じゃない。本当に、どこにいるのかわかんない」
「だけど、ここで待ち続けてる。誰だよ。父親か、母親か、兄弟か。それとも、全員かよ」
優輝は口を閉ざす。七瀬は少し優輝を見つめた後、微かに首を傾げた。
「俺、邪魔かな」
「いや」
「俺にはよくわからないけど、三橋には、なにか複雑な事情があるんだよな。そうじゃなかったら、景兄のところで暮らすことだってないだろうし」
答える気にならないのは、七瀬との会話が面倒だからではなかった。理由を問われれば、それこそ優輝は口篭るしかないが、大した理由があるのではないことも事実だった。そもそも、七瀬との会話を成立させるとしても、優輝には、至極曖昧な返事を打ち出す以外の術はなかった。一にも十にも、結局、優輝が何故家族と離れて暮らしているのか、という七瀬の根本的な疑問は解決しないことは明らかだった。
「あのさ、三橋。俺がこんなこと言うのも、おかしいかもしれないんだけど」
誤魔化しがちに、七瀬は目を伏せる。優輝は黙って七瀬の言葉を待った。七瀬の金髪が、不意に優輝の視界を支配した。
「理由や経緯はどうあれ、三橋は、ここで家族を待ってる。向き合おうとしてるんだよな」
「そんな大層なことじゃないよ」
「すごいことだと思う。家族って、わかってるようでわからないことがいっぱいあるんだ。ただでさえそうなのに、まして三橋は、明らかに一般的な家族構成じゃない」
それを言うなら、七瀬もそうだ。優輝が指摘する前に、七瀬は、身を乗り出すようにして続ける。
「会えるといいよな。俺、祈ることくらいしかできないけど、上手くいくことを信じてるぜ」
この金髪で、七瀬は、邪気なく人の背中を押す。七瀬は、不良問題児などではない。七瀬の純真な一面を目の当たりにする度に、優輝はそう思う。兄想いの、優しい弟。それでいて、こんな自分に構う。ちょっと素直すぎる部分があるかもしれないが、そんなところも含めて、やはり七瀬は、優輝の羨望の対象だった。自分以外の人間を、ここまで確定的に羨ましいと感じるのは、優輝の人生において初めての現象だった。
歯を見せて笑う七瀬を横目に流し、優輝は、スパイクに目をやった。ちょこんと丸くなり、じっと優輝を見上げるスパイクの丸い双眸が、そこにはあった。
「もう何日も、僕はここに来てるけど」
思い出したように、優輝の肌が残暑の陽射しを認識し始めた。未だ尋常ではない暑さが続いているが、夏は直に息を潜める。日を追うごとの自然の変化が、自分に節目を迫っているような気がする。待ちくたびれて空を仰ぐ都度、優輝は、その色が淡く変わってきていることを意識してしまう。つい先月まで今日以上に真っ青だった空が、まるで嘘のようだった。
「正直、ここくらいが潮時なのかなって思う」
「潮時?」
怪訝そうに七瀬は繰り返した。間を置いて優輝は首肯した。意味不明だ、と言わんばかりにその場で停止していた七瀬は、急に優輝の肩を掴んだ。七瀬の手首に提がった紙袋が揺れて、小さく音をたてた。
「引かなくていいじゃねえか。決心つけて、ここに立ってるんじゃないのかよ」
「それは確かにそうだよ。でも、どうせ現われない。それに、僕、その先のことは考えてない」
「その先ってなんだよ」
「僕の妹が、本当にここに現われたとき」
七瀬のふたつの瞳が、一瞬揺らいだ。目を見開いて優輝を凝視した後、やがて七瀬は優輝の肩から手を離した。一歩さがり、七瀬はなんの脈絡もなく空を仰いだ。七瀬につられて、優輝も微かに目線を持ち上げた。
「そういうことかよ。それで、あんな質問したのか」
空から優輝に視線を戻し、降参だと七瀬は両手を挙げる。ああ、こいつは一本取られた。七瀬は、そう言って遠慮がちに笑う。スパイクを見つめ、優輝を見据えて、七瀬は再度口元を歪ませた。
「その猫を拾ったときには、既に妹のことを意識してた。自分が兄貴だったらどうかっていうのは、突拍子もない思いつきじゃなくて、お前にとっては事実だったんだな」
「そんなこと、よく覚えてたね」
「覚えてる。なにせ、あんなに爽やかじゃない長期休暇前は初めてだった。夏場の土砂降り、すごく蒸し暑くて不快だよな」
――優輝おにいちゃんが、あたしのことわからない!
耳を劈くような甲高い叫び声が、優輝の耳の奥で響いた。あのときの少女、大林真桜の泣き方は、明らかに普通ではなかった。真桜は、なにか言うごとに優輝のことを兄だと主張し、頑として譲らなかった。終いには大声を上げて泣き出してしまった。優輝が真桜と関わったのはそれっきりだが、小さな子供とは言え、真桜の優輝に対する執着心は異常だった。真っ赤な他人の子供と決めつけるのは容易だったが、それ以前に、優輝は無意識に真桜を「妹だ」と言ってしまっている。自分がそんな発言をするはずがないのは、自分でよくわかっていた。そうだというのに、優輝はそれを言ってしまった。不自然だったし、あれだけの雑踏の中で真桜が素直に聞き分けたのは、優輝の声だけだったという事実もある。どうして自分の言うことだけには耳を傾けてくれたのか、そのときの優輝には、到底わからなかった。ただ、諸々の疑問点とは別個として、真桜の「大林」という姓は、優輝の中で引っかかっていた。
「大林真桜っていう、3歳くらいの女の子。僕は知らなかった。自分に妹がいるなんて、考えたこともなかった」
「兄妹なのに?」
「家庭環境、複雑だから」
優輝が言うと、七瀬はその場で押し黙った。
大林。優輝にとって、馴染み深い名字だった。真桜がその名字だっただけなら、単なる偶然として片付けることも難しくなかった。そうではなかったから、優輝なりに彼女のことを調査した。優輝だけを選抜した行動を取る真桜のことが、どうしても気になった。打ち出された結果、真桜は結局優輝の妹であることが判明した。
「大林っていうのは、僕の旧姓だから」
「え」
「僕はもともと母さんの連れ子。母さんは結婚して、離婚して、自分だけが最初の名字に戻った。その状態で子供を産めば、その子供も大林でしょ。僕の親権は、一応義父さんのほうにある。数としては妥当なんだよ」
「数としては、ってどういう意味だよ」
「母さんも義父さんも、子供をひとりずつ持ったってこと」
優輝は、淡々と続ける。
「だから、血の繋がりは半分。義父さんも知らなかったみたいだけど、その子の年齢と時期を考えれば、自分の娘に間違いないって言ってた。仮にそうじゃなかったとしても、僕の妹なら間違いなく自分の娘だって」
唖然としているわけでもなく、呆然としているわけでもなく、七瀬はなにも言わずに突っ立っていた。構うことなく、優輝は過去を思い返す。優輝のことを兄だと主張していた真桜は、寸分として間違えてはいなかったのだ。今になってそんなことが解明された。真桜がどうして自分を兄だと知っていたのか。未だ不明のままだったのだが、それは追求する気にならなかった。
「景君が言ってたんだ。小さい子には、不思議な第六感があるって。あの女の子は、最初から僕がお兄ちゃんだってわかってた。それは、もうそういう感覚が本当にあるってことでもいいかなって思う。問題はね」
優輝は一度口を閉じ、再び開く。
「問題は、そういうことを全部知った僕が、どうすればいいかってこと」
取り残されたような静寂が、優輝と七瀬の周囲を取り巻いている。道行く人々は、確かに自分の視界に入っているのに、ただ目に見えるだけの別次元の住人のようだ。その感覚なら、別次元の住人である妹を、今更自分がいる空間に抽出できるものか。真桜を待ち続ける反面、優輝はそんな感情も抱いていた。「潮時」だと自ら口にしたことで、辛うじて優輝を留めていたストッパーは、輪郭を失いつつある。
考えることはしなかった。考え込めば、すぐに気が付くと優輝は知っていた。だから、敢えてそれは避けていた。だが、七瀬がこうして目の前に現われれば、そして自分の素性を明かしてしまえば、もう思考を止めることなどできない。強く張った脳神経を、指で弾かれるような痛みが優輝を叩く。身体の内側から突風が吹いて、そのまま呑み込まれてしまいそうだった。いっそ、呑み込まれるのも悪くはない。自分でも信じられないほどに荒れた心を、優輝は初めて理解した。
真桜に会って、それからどうする。漠然としているが、優輝が意図して避けてきた核心的部分だった。真桜に向かって、自分は兄だと名乗り出たとする。その先の展開を、一切シミュレートしていない。それ以上のことは、どうしても想像できなかった。真桜を待つことに限界を感じるのは、結局、築き上げてきた自分の世界が揺らぐことを怖れているからだ。自分で思うよりずっと臆病な性格を自覚するのは、惨めではあるが、客観的に考えれば娯楽と同じだった。自分を他人事のように分析し、笑い飛ばせることが、今の優輝には変え難い救いだった。
真桜に会ったところで、理想が実現しないこともわかりきっていた。七瀬詩仁と七瀬嘉仁のような、絶対的な関係性とは、所詮は無縁だという諦念が優輝にはこびりついている。自我を消失するような極限の精神状態に追い込まれても、その対象を無理にでも自分に縛りつけ、それを受け入れ、生きていく世界。その世界を知った上で、更に生きていく世界。壊滅的に傷ついても、100パーセントの崩壊はしない。どこかで必ず形を残していて、そこから必ず再生する。強度を増して、世界は再建するのだ。そしてその法則は、他の家庭以上に強く結びついてきた七瀬兄弟だからこそ、成立している世界構造だった。
僕は七瀬の兄ほど強い精神力を持っていないし、七瀬ほど強く、家族とは言え、自分以外の人間を想うことなんてできない。優輝は、そう思わずにはいられなかった。七瀬兄弟が持っているものを、自分はひとつとして持っていないのだ。だから、優輝が抱く羨望はもっと大きく膨れあがる。七瀬という存在が、程度を飛び越えて優輝を痛めつける。自分で言っておいて、通過点などと笑えてしまう。通過できる見込みなど、どうせ初めからありはしなかった。通過できないことがわかっているから、せめて通過したいという願望だけは前面に押し出し、それに則った行動をしているのが優輝の真相だった。ここに留まること自体が、優輝の嘘そのものだった。その意味では、優輝と七瀬嘉仁は同列だった。却ってみっともなく思えて、優輝は勢いを増して陰鬱な気分に沈む。
「三橋」
七瀬に呼ばれて、優輝は振り向いた。スパイクが微かに喉を鳴らした。足に擦り寄ってくるスパイクを宥め、優輝は、七瀬を視野の中心に定めた。
「飽くまで俺が思うことなんだけど」
なんとなく、歯切れが悪い。感情、表情、本当に七瀬は豊かなものだ。ここまで来ると、いっそ感心してしまう。
「事情がどうあったとしても、家族と向き合うっていうのは、やっぱり悪いことじゃない」
「そんなの、僕だってわかってる」
「なあ、三橋。占いとか、ジンクスとか、そういうのは興味ない?」
突然どうしたというのだろうか。七瀬の真意を汲み取れないまま、優輝は、とりあえず否定を避けた言葉を返した。そうか、と言って七瀬は俯き、やがてすぐに顔を上げる。七瀬は、照れるのを隠すようにして頬を緩めた。優輝が瞬くと、七瀬は、はにかんた口元を保って言う。
「幼稚園児の頃、俺、変な癖があってさ。その当時の俺が感じる上では、楽しいことなんて全然なかったし、幸せでもなかったんだよな。当然だけど、幼稚園に嘉兄はいないし」
七瀬がなにを言い出したのか、優輝にはまったくわからなかった。それでも七瀬は、お構いなしに話を続ける。
「四つ葉のクローバーを見つけるとラッキー、っていうのがあるだろ。友達もいなくて暇だったし、俺、ずっと四つ葉を探してたんだ。でも、見つからなかった。なんかの拍子に、左巻きのカタツムリを見つければ幸せになれるっていうのを知った」
「カタツムリ?」
思わず訊き返した。左巻きのカタツムリが、こんなところで登場するとは、さすがに優輝も予想していなかった。優輝が驚いているのを知るはずもなく、七瀬は頷き、一方的に話を進めている。
「だからそれも探した。雨の時期しかいないカタツムリだから、尚更見つからなかった。そのうち飽きてきて、いくら探しても、自分が幸せになれるものなんてないんだって思った。そのときに閃いたのが、変な癖のきっかけ」
七瀬は左手を開くと、そこに右手の人差し指を置いた。そのまま、七瀬は大雑把に指を動かした。
「自分の掌に、クレヨンで四つ葉とカタツムリを描くこと。もちろん左巻きの。探して見つからないなら、自分で作ればいいって思って」
軽い笑い声を、七瀬は転がす。優輝は、七瀬の口から左巻きのカタツムリという言葉が出てきたことに、未だ驚きを隠せなかった。呆然とする優輝を尻目に、七瀬は言った。
「気付けば、俺、毎日それやってた。いつも左手ばっかり汚れてて、よく先生に洗われてた。そのときの俺は、その四つ葉とカタツムリが幸せにしてくれるって本気で思ってた。嘉兄のいない外の世界は、俺にとっては、それくらい面白くなかった。四つ葉とカタツムリも、結局俺を幸せな気持ちにはしてくれなかったし」
でも、拠り所だったことは確かだった。七瀬はそう呟くと、不意に優輝の右手を取った。優輝の掌に、七瀬は、自分の人差し指を滑らせる。その動きが象るのは、優輝には、四つ葉のクローバーと、殻を左に巻いたカタツムリのように見えた。
「こんなふうに描いてた。そのときの俺の拠り所、しかとお前に貸してやったぜ」
右の掌に、優輝はじっと視線を落とした。そこにはなにも描かれていないが、不思議と空白とは思わなかった。何故、急にそんな過去を思い出したのか。優輝は、そのままの視界で七瀬に問う。すると七瀬は、腕を組んで首を捻った。
「なんでだろうな」
「なにそれ」
「まあ、別にいいじゃん。もうちょっとだけ、粘ってみろよ。決心つけてここにいるなら、潮時なんて言わずにさ」
七瀬の口調は明るく、軽やかだ。無邪気で無意識の、自然体の七瀬の声だった。七瀬に背中を押されている、優輝は、確かにそう感じた。他意を抱かない七瀬を、優輝はやはり羨望の目で捉えてしまう。自分がいかに惨めな存在かを思い知らされるようで、耐え切れず七瀬を視線の先から外した。
「でも、僕は」
七瀬は、飽くまで明るい表情を保っている。なにがどうあっても、純真な七瀬詩仁。優輝の瞳に、これでもかというほどに刷り込まれている。七瀬が今、僕の立場だったら。一瞬、優輝は夢想した。すぐに自分の想像を掻き消した。僕は、僕の理想などには、到底辿り着けない。何度でも優輝はその事実を身に刻みつける。
「僕は、本当にどうしたらいいのかわからない」
芯を持ってそこにある現実が、優輝の口から、自分でも驚くほどに弱気な言葉を誘い出す。
真桜のこともわかった。七瀬の洗礼も受け取った。だが、取るべき術がわからないことは相変わらずだった。右の掌に視線を落とし、七瀬がなぞった見えない線を、優輝も人差し指で追う。優輝の心境に、変化はなにひとつ起こらなかった。
突然、七瀬が大袈裟な溜息を吐き出した。反射的に優輝の目は七瀬を捉える。七瀬は横髪に軽く指を入れて、眉根を寄せていた。
「いちいち難しい奴だよな、お前って」
そして七瀬は、びし、と優輝に人差し指を向けた。その状態で、当たり前のように七瀬は言い放った。
「しっかりしろっての、お兄ちゃん」
「それ、僕のこと?」
当たり前だろ。七瀬は、呆れたようにそう答えた。優輝に向けた指を下ろし、七瀬は再度切り出した。
「ごちゃごちゃ考えるのも、悪くはないと思う。でも、やっと知り合えた兄妹なら、認めるだけでいいんじゃないかな」
「認めるってなに」
「その妹に、自分が兄貴だって言ってあげればいい」
「それだけなの」
「それだけだよ。少なくとも、俺は嘉兄がそう言ってくれたら嬉しい」
そんな単純なことで、と言いかけた優輝の肩を、七瀬は片手で軽く叩いた。タッチされた肩を優輝が眺めているうちに、七瀬は言う。
「それじゃ、俺はこのへんで」
優輝は七瀬に視線を戻した。CDショップの紙袋を揺らしながら、七瀬は数歩後退した。そこで足を止め、親指を立てて、にかっと笑った。七瀬の口が動いたのを、優輝は確かに見届けた。グッドラック。声を聞いてはいなかったが、七瀬がそう言ったように思えた。
七瀬は、優輝に背を向けた。雑踏にまみれて歩き去る七瀬の背中を、優輝はぼんやり見つめていた。七瀬の背中は、どんどん遠ざかっていく。
僕がキミのお兄ちゃんだと言ってあげればいいのか。七瀬の言葉を鵜呑みにした疑問が、優輝の頭の中を巡る。大きなカボチャのマスコットが付いたヘアゴムで、髪を結っていた真桜の姿が優輝の目に浮かび上がった。本当に、その程度のことで、僕は兄になれるのだろうか。尽きぬ疑問は、優輝の思考回路を埋め尽くしていく。だが、悪い心地はしなかった。心に無理矢理様々な要素を詰め込まれたような、慣れた不快感が自分の内に見当たらない。むしろ、気が晴れたとまでは言わないが、どことなく爽快でさえある。明らかに未経験の心の動きに、優輝は少し戸惑った。そんな迷子の気持ちもまた斬新で、悪くはなかった。悪くない。心の中で、優輝はそう繰り返した。
そう、悪くない。僕が兄でも、別に悪くないのだ。自分に言い聞かせているうちに、自然と緩んだ。妹である真桜本人が、僕のことを兄だと認めてくれるなら、僕もそれを素直に受け入れればいい。簡単なことじゃないか。張り詰めた優輝の心が、中心から柔く解れ始める。ゆっくりと目蓋を下ろした。安堵にも似た細い息が漏れ出した。
そっと瞳を開けた優輝の視界の下側、片隅に、見覚えのある小さなカボチャが見えた。小さく鳴いたスパイクの背を、優輝は手早く撫でてやる。おもむろに、優輝はその手を彼女に差し出した。今日は大人の女性に手を引かれた彼女が、泣きそうな目をして優輝に駆け寄ってきた。大人の女性のことも、優輝はよく知っていた。自分がこの女性とあまり上手く関われないことも、考えるまでもなくわかっていることだった。
でも今は、兄として妹に再会できた。それだけでも満足だった。伸ばされた小さな掌に、優輝はそっと応えてみせた。




