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七瀬恭也、立川景

「魔でも差したのか?」

 頭の天辺から、僕の髪を指で摘んで恭也さんは言う。正面の鏡には、もの珍しそうに瞬きを繰り返す恭也さんが映っていた。僕の後ろに立っていて、そしてこれから僕の髪をいじろうという美容師なのだから、恭也さんがそこにいるのは当たり前の話だった。

「髪を黒く染めたいと言ったら、どうして魔が差したことになるの?」

「いや、だって景君、若手の芸能人だろ。黒染めなんてそんな、中高生じゃないんだから」

 冷静に突っ込んだ僕に対して、恭也さんは、冷静に突っ込み返してきた。まあ確かに僕は中高生ではないし、お洒落には職業柄とっても気を使わなくてはならない。恭也さんが僕の黒染めに疑問を抱くのも、特に不思議なことではなかった。そもそも、今の僕の茶髪だって恭也さんが染めたものだった。黒髪だとやっぱり重い印象になってしまうし、いろいろなファッションをするなら軽めの茶髪がいいと助言した恭也さんを、僕はなんの疑いもなく受け入れた。それから数年、ちょくちょくカラーしてもらってはいるけれど、基盤となっている茶色っ毛だけは変えることなく現在に至っている。そういう背景があるから、恭也さんは僕の黒染めがちょっぴり珍しいのだろう。

「まぁそうだな、たまには黒もいいかもな。密度があって男らしいかも」

「じゃ、恭也さんも黒染めしたら、チキンな性格治るかもよ」

「知った顔の黒染めなんて、4月の始業式の後に1回詩仁が頼みに来て以来なしだな。またすぐに染め直したけど」

 過去というほど過去でもないことを、恭也さんは、遥か遠い昔の出来事のような目をして語る。年寄りか、この人は。内心で突っ込みを入れながら話の続きを促した。恭也さんは、思い出したように僕の髪を染める準備を始める。

「最初に俺が詩仁の髪を染めたとき、ま、あれは詩仁が市販のカラーを買ってきたんだけどさ。俺、まじで焦ったぜ。あれだけ濃い黒髪してるくせに、いきなり金色にして欲しいなんて言うんだから」

「でも恭也さん、結局やってあげたんだろ。新学期早々、そんなことするから先生にも上級生にも目つけられちゃって」

「進級する以前から目はつけられてたみたいだから、俺のせいじゃない。V系好きだろ、あいつ。中学生であれだけ髪型キメこんでたら、そりゃ目もつけられるって」

 ちょっと雑誌見せてみただけなのに、まさかあんなに嵌まるなんて思わなかったな。V系バンド。しみじみ思い出に浸るかの如く、恭也さんは目を細めた。僕にとっては、別に全然微笑ましい思い出などではないのだけれど、恭也さんは変な人だ。真っ黒なつんつんヘアーから、派手な金色のつんつんヘアーに激変した詩仁君を最初に目撃したとき、僕は純粋に夢かと思った。そうだと言うのに、嘉仁は、何事も起こっていないかのように詩仁君と普通に笑っていた。詩仁君の髪は最初から金色だったっけ、と、真剣に自分の記憶を掘り起こしてしまったほどだ。

「怒らなかったの、嘉仁は」

「怒るに決まってるだろ。あの温厚な嘉仁とは別人かと思うくらい。正直、異常な感じだった。頭も洗い終わって、いい具合に染髪完了ってときに、嘉仁が学校から帰ってきたんだけど。最初は絶句して、その後だよ」

 染髪の準備の手を止めて、恭也さんは、ひとりで喋った後に勝手に何度も頷いている。

「洗いたての詩仁の髪を思いっ切り引っ張ってさ。で、蹴っ飛ばしたんだよ。割りと本気で。無言で、それだけなんだけど、嘉仁の周囲のオーラが異様だった。なんていうか、殺意篭ってたというか」

「殺意?」

「染めてたのは年長者の俺なのに、俺のことまったく見なかった。自分の身内ながら、ちょっと怖かったな」

 殺意。僕は、その意味を考えてみた。日数で言えば、詩仁君の髪の毛が金色になったのは、ほんの5ヶ月程度前のことだ。学生の嘉仁と詩仁君は、環境的な意味でも年齢的な意味でも、精神的不安定な時期であったことに間違いはないと思う。ついでに今も。まあ、とにかくその頃も、嘉仁は詩仁君のことを鬱陶しく感じていたのか。何度も嘉仁に会っていたし、会話することも多かったけれど、僕は、嘉仁の気分が沈んでいる日に立ち会っても気にしなかった。放っておけばそのうち機嫌はよくなると思っていたし、嘉仁の家庭の複雑な事情も知っていたから、変に口出ししたり、慰めの言葉をかけるのは、嘉仁の神経を逆撫でするような気もしていた。言いわけがましいけれど、触れないことが一番良心的だと思っていた。

 込み入ったことは、わざと口にしなかった。口にできなかった、という部分もなくはなかった。嘉仁が話してくれたら相談に乗ろう、僕は、そういう考えだった。その受け身な姿勢が、結局嘉仁を爆発まで追い込んだ。

 僕は、最も大事なことをスルーしていた。嘉仁は自分から誰かに助けを求めたりするような人間ではなかった。声に出して救援を呼び込む人間ならわかりやすいけれど、思い詰めれば思い詰めるほど、そんな人間は少なくなる。平常の心理だ。少し考えれば、簡単に至れる結論だった。

 それに、助けを求められていたとして、僕は嘉仁が望む通りのことができたのだろうか。冷静に中立の立場を保てる今なら、ステップを踏んで、器用に対応する自分を思い描くことはできる。だけどそれは飽くまでイメージだ。イメージ通りに物事が運ぶなら、苦労する人間なんてひとりもいない。

 結局、僕にはなにもできなかったのだろう。結果を導き出すと、自分が如何に空虚なコマであるかということを、強引に思い知らされたような気分になってくる。理屈主義の僕には悪くない心地だけれど、いいとも言えない。そう、僕には、なにもできなかったに違いない。暴走する嘉仁を、満足に止めることさえ不可能だった。

 それに引き替え、上野君と言っただろうか。あの子は突然現われたけれど、力ずくで嘉仁を引っ張った。詩仁君を襲ったあの彼、大宝寺君だって上野君が救ったようなものだ。あの場に上野君がいなければ、大宝寺君は、なにもかも吐き尽くして死んでいたかもしれないのだ。上野君は偉大だった。

「景君、詩仁がなんで髪染めたか知ってる?」

「いや」

「弱い自分を変えたかったんだと」

 言い切った恭也さんを、僕は、鏡の上でじっと見据える。僕とばっちり視線がぶつかった恭也さんは、突然激しく首を振った。

「違うぞ。髪染めて、チンピラに仲間入りしてケンカ上等になるとか、そういう感じの意味合いじゃないからな」

「まあ、最初からあの子はケンカ上等なタイプだと思うしね」

「詩仁は、ずっと自分の世界を変えようとしてた。変える気持ちは、随分前からあったんだろうな」

 恭也さんは、少し困ったように笑った。

「言っちゃ悪いけど、詩仁の親はあんなんだし。詩仁自身、人の好き嫌いが激しいからな。相談する相手と言ったら、俺くらいしかいなかったんだ」

「僕のことは、信頼してなかったのかな」

「いや、気を遣ってた。景兄は嘉兄とほとんど同い年だから相談してみたいけど、忙しそうだからって」

 僕は一度、沈黙する。妙なところで遠慮する兄弟。ふたりが兄弟たる由縁を、僕は少し考えてみる。

 嘉仁の髪は、元々薄く茶色がかっている。対して、詩仁君は、濃密な黒髪だった。あまりに色素が違うために、ぱっと見れば兄弟には見えないふたり。でも少し観察すれば、二重瞼がよく似ていることに気付く。兄弟だよな、と思う。

「内緒にしてって言うから内緒にしてたけど、詩仁は結構頻繁に嘉仁のことを相談に来てたんだ。ああいう家庭だから、詩仁は、自然と嘉仁に依存するようになってたんだよな。そのことを自覚して、自分の意識というか、見解を持ち始めてきたのが、中学生になった頃らしいんだけどさ」

 黒って言ってもいろんな系統があるんだけど、真っ黒でいいの。恭也さんは、中途半端に話を区切って僕に訊ねた。もともと真っ黒な髪を望んでいた僕はさっさと頷き、話の続きを恭也さんに求める。僕にはよくわからない準備を進めながら、恭也さんは、再び口を動かし始めた。

「なんの前兆もなく、突然嘉仁が塞ぎ込んだり、暗くなったりすることは、しょっちゅうだったんだって。詩仁は、嘉仁が学校で上手くやれてないことを知ってたから、最初はそれが原因だと思ってた。だから詩仁は、学校にいるのはバカだからほっとけ、気にすることじゃないって励ましてたんだけど」

「励ませば励ますほど、逆効果だった、とか」

「さすがに話が早いな。で、詩仁は、うっかり考えちゃったんだよ。自分が嘉兄のお荷物だったら、って。それを認める気持ちと、認めたくない気持ちが相俟って、あのときの詩仁は、かなり追い詰められてた。と、俺は思う」

 そんな精神脆弱な部分も全部、ひっくるめて、詩仁は、弱い自分を自覚した。そこまで思い至った頃には、最初に詩仁が強迫観念じみた状態に陥ったときから数えて、2年が経っていた。ちょうど、詩仁は中学3年生への進級を控えた春休みを過ごしていた。恭也さんは懐かしそうに話してくれる。その頃、僕と詩仁君は疾うに知り合いだった。それなりに仲良くやっていたけれど、僕の知らないことばかりだった。

「俺だってふたつ返事で染めてやったわけじゃない。単に、ただのお洒落や憧れで金髪にしたかっただけなら、中学生がふざけるなって言って詩仁を投げ飛ばしてた」

「そんなことできるの?」

「できる。俺、怖がりだけど、高校のときは柔道でインハイ制覇してるからな。まあ、俺の高校時代は1年もなかったけど」

「そんなすごい経歴があるのに、なんで怖がりなわけ」

「俺のことはいいの。とにかく、そういう経緯で、詩仁は髪を染めた。純粋に変わりたかったのを、ハラ決めて、見た目から入ったんだ。ピアスもその延長だろうな」

「でも、それじゃ周囲の目には不良少年としか映らない。あの辻ノ瀬学園の生徒なんだし、余計に手厳しく評価されちゃうと思う。そしたら余計に嘉仁が」

「ストレス溜めて塞ぎ込む、ってか。それでも、詩仁がようやく覚悟を決めて行動したことだからな」

 恭也さんは、僕の後ろでなにやらがさがさと美容道具を漁りながら言う。

「黒髪だった頃には起こらなかった問題が、いっぱい起こることは承知だったはずだ。だけど、人の目にどう映ろうと、詩仁は成長しようとしてた。詩仁なりに、兄貴を頼ってばかりの弱い自分をやめようとしてたんだよ」

 あれ、真っ黒のカラーリングがない。恭也さんは、能天気な口調でぼやいた。いきなり緊張感が緩んだようで、僕は、思わず小さく小さく笑う。僕のことなんて気にも留めず、恭也さんは続けた。

「ということになれば、あいつが信頼してる数少ない面子として、俺が力にならないわけにはいかないだろ」

「でも、嘉仁は怒った」

「それはそうだけど、とにもかくにもふたりっきりの兄弟だからな。最低限、その金髪に染めた以降くらいは、詩仁が自分なりに変わろうとしてることには気付いてたんじゃないかな」

 とは言え、いきなり弟が金髪になるのは、少しばかりインパクトが強かったかもしれないよな。懐かしそうに目を細め、そんなことを言う恭也さんに、僕は内心で呆れたくなる。特に和むような場面でもないのに、何故そんな、ほのぼのとしたオーラ全開の表情をしているのか。いや、それ以前に、何度も言うけど詩仁君が金髪に染めたのは大して過去のことではないのだ。とは言っても、詩仁君の黒髪が大昔のことのように思えるのは、僕も認める。髪を染める前の詩仁君と、髪を染めた後の詩仁君のステータスには、既になにかしらの差が生じているということか。それがなんなのか、具体的に説明することは僕にはできないけれど、詩仁君が髪の色を変えた意味は確かにあった。そういうことだ。

「ま、あれだな。なかなか行動に移せないなら、見た目から入るのもありってことだよな。景君は、どんな心境の変化で黒染めするんだ?」

「飽きたら茶色に戻す」

「まったくもって、それもありだな」

 その返答は想定内、と言わんばかりに、恭也さんは激しく頷く。恭也さんとも数年来の付き合いになるけれど、この人も大分変わった人だと僕は思う。だいたい、高校柔道で王者になるほどのの実力者が、何故自分は怖がりだと自覚するほどに控えめな性格なのだろうか。このギャップが、失礼ながら僕のツボである。同じ高校柔道の覇者と言えども、恭也さんは大宝寺君とは大違いだった。自他認める怖がりな恭也さんと、嘉仁の話を聞く限りでは、かなり度胸が据わった大宝寺君では、比べるのも可哀想なのではと危惧してしまうほどの開きがあった。

 まあ、余程度胸が据わっていなければ、白昼堂々人を殺そうとしたりするはずもなかった。それだけ彼が追い詰められていた、ということもあるんだろうけれど、やっぱり大宝寺君は、元来割りと大胆な行動をする気質なのだろう。聞くところによると、それさえも彼の不安定な精神が大きく作用した、不安定な理論に基づく行為らしいけれど。繊細ではっきりと区分することが難しい精神論である以上、僕は、嘉仁の話を鵜呑みにするつもりはなかった。嘉仁自身、大宝寺君が入院した病院で、彼の担当になっている医師からそういった話を聞いただけのようだった。

 たったひとりの弟が、実に二度に亘って殺されかけた。嘉仁にとって、大宝寺君は、重罪を犯した犯罪者のはずだった。それにも関わらず、嘉仁は、大宝寺君が入院している病院を訪れている。が、事情を把握している病院側の人に引き止められて、結局あれから一度も彼とは会ってないらしい。でも、連れ添っていた友人、あのとき倒れた大宝寺君に一番に駆け寄った上野君だけは別のようだ。大宝寺君の精神に異常を来した原因と直接的に結びつかない、という病院側の判断から、上野君に限っては大宝寺君の病室に入ることが許されているらしい。上野君は、差し障りのない部分を嘉仁に教えてくれるらしく、それをまた、嘉仁が僕に伝えてくれる。大宝寺君の精神が酷く不安定になっているのは、どうやら嘉仁や詩仁君だけが起因していることではないらしく、家庭環境やその他の人間関係、様々なストレスが複雑に絡み合った結果、という分析が成されているようだった。要するに、大宝寺君は僕が考える以上にいろいろなものを、限界を超える相当割合のものを抱えていたということだろう。

「嘉仁って、なんであんなに人間できてるんだろうね」

「ん?」

 探していた真っ黒のカラーを見つけたのか、恭也さんは、満足げに頬を綻ばせていた。手には確かに、真っ黒の液体が入ったボトルが握られていた。

「だって、自分の弟を殺そうとした相手のお見舞いに行くんだよ。すごいよ、それ」

「人間できてるというか、お人好しなんだよな。ひたすらいい奴。いるだろ、そういうの」

 お人好し。今この状況で、どういった意味で恭也さんがその表現を使うのか、僕にはよくわからなかった。

「わかりやすく言うと」

 僕の頭上で、恭也さんが、ボトルを傾けた。ひんやりと冷たい感触が、頭の天辺から首筋まで伝ってきた。

「人のこと悪く言わない、嘉仁の性格なんだろうな。上手く言えないけど、優しいんだよ」

「詩仁君のこと、滅茶苦茶悪く言ってたけど」

「嘉仁にだって、限界くらいあるだろ。でも、結果的にはよかった。嘉仁がいくら詩仁のことで精神的に参ってても、結局は弟想いの兄貴だってことがわかった。詩仁が兄貴想いなのは昔からわかってたことだし、重畳の極みじゃないか」

 重畳、つまり、この上なく満足すること。自分の従兄弟がとんでもない事件の当事者だというのに、恭也さんは、随分と落ち着き払っている。事件と言えども、大宝寺君が起こした殺人未遂、もとい詩仁君絞殺未遂は警察権力者が揉み消しているので、現実には存在しない事実ということになっている。とは言ったものの、びびりのくせに図太い恭也さんを、僕自身がこういうときに尊敬してしまうことは否めなかった。

 考えてみれば、確かに、人間ができていると言うより、お人好しと言ったほうが嘉仁にはフィットしていた。事件揉み消しの首謀者は嘉仁兄弟の父親で、それはつまり、詩仁君の意思も含めて、嘉仁が自分で大宝寺君を庇っていると言い換えても不自然ではないのだ。大宝寺君は加害者なのに、あのふたりの懐の深さには感服する。無論、単に嘉仁がお人好しであるということだけが理由で大宝寺君を庇っているとは、僕も思っていないけれど。

 これはこれでよかった。大宝寺君は、最終的には、嘉仁の中の詩仁君を繋ごうとする気持ちを覚醒させた。嘉仁自身が一度切り離したけれど、彼が起こした事件のおかげで、再び嘉仁は、詩仁君を自分に結びつけることができた。それを確認することも、たぶん、できた。普通に生活しているならまだしも、彼が精神病院に入っていることを考えれば、酷い話だと思う。でも僕は、大宝寺君には感謝している。大宝寺君がいて、あの出来事が起こらなければ、嘉仁と詩仁君は、決裂したままだったのかもしれない。通常よりも濃い兄弟関係だっただけに、その可能性は十分あった。もしそんなことが起こっていたら――少なくとも楽しい気分にはならなかった。

「嘉仁と詩仁も気になるけど、別のキョウダイはどうなってるんだ」

「え」

「梅雨くらいに言ってただろ。左巻きのカタツムリがどうとかこうとか」

 『左巻きのカタツムリ』で、ぴんときた。頭にアンテナでもついていたら、垂直に立っていたところだ。自分の髪の毛が真っ黒に染まっていく肯定を鏡で見つめながら、僕は、常に無表情な三橋君の姿を脳内で思い描く。

「あれからは、なんにも起こってないみたい。三橋君のことをお兄ちゃんだと言い張った女の子が結局誰だったのか、わからずじまいだよ」

「くれたんだろ、左巻きのカタツムリ。三橋君は、それで幸せになれなかったのか」

「そんなもので幸せになれるくらいなら」

 三橋君が女の子から貰ったのは、左巻きのカタツムリのイラストだ。本物の左巻きのカタツムリなんて、一匹足りとも三橋君は捕まえていない。それに三橋君は、あろうことか、イラストをぐしゃぐしゃに丸めて捨ててしまった。思い返すだけで、なんとなく重い気分になる。僕は、一度息を吐き出してから、再び口を開く。

「あの子は、僕なんかの家に来るわけないだろ」

「そろそろ教えて欲しいんだけど、三橋君って、景君の遠縁の親戚なんかじゃないよな。あの子の家族は?」

 複雑な事情があって、遠縁の親戚の子を暫く僕の家で預かることになった。三橋君が僕の部屋に居座っている理由は、表向きにはそういうことになっていた。恭也さんも例に漏れず、僕は三橋君をそう紹介している。

 最初から恭也さんは、三橋君と僕はなんの関係もない真っ赤な他人であることを見抜いていたようだ。三橋君と恭也さんが実際に顔を合わせることは何度かあったけれど、恭也さんが言われた以上のことを言及しないのがその証拠だった。なんだかんだ言っても、恭也さんは、24歳の大人である。僕もそこまで子供のつもりはないけれど、恭也さんにはまだまだ敵わない。

「理想的な家庭じゃないことだけは、確かだね」

 僕がそう答えると、恭也さんは、手の動きを止めた。鏡に映った像で、僕と恭也さんの視線がぶつかった。やがて恭也さんは、感慨深そうに睫毛を伏せた。それは、ほんの一瞬のことだった。恭也さんは、すぐに一拍前の表情に戻った。

 僕の髪を染める動作を続けながら、恭也さんは言う。

「俺の周りには、どうにも家族で苦労してる奴が多いみたいだな。まだ若いのに、大変なことだ」

「あの女の子、僕も見たわけじゃないんだけどさ」

 恭也さんは、鏡越しに僕を見つめる。僕は、脳裏に近頃の三橋君を思い浮かべる。ここ数日間、三橋君の様子は、普段とは少し異なっていた。9月になり、三橋君が通っている辻ノ瀬学園も当然新学期が始まった。それは別に普通のことで、問題はなかった。問題は、学校から帰って来る度に、三橋君が再び家を出て行くということだった。しかも着替えすらせずに制服なんだぜ、と、詩仁君から聞いた。アクティブな詩仁君ならともかくとして、ついこの間まで、学校以外では家に篭り気味だった三橋君のことだ。僕だって、少しは気になってしまう。

「詩仁君と嘉仁の一件で、三橋君も、自分なりの見解を見出そうとしてるみたいで」

 意味がわからないぞ、という表情をするでもなく、恭也さんは、瞬きを繰り返した。僕は、一定の口調で続けた。

「三橋君はクールだけど、家族には敏感なんだよ。口ではなにも言わないけど、あの女の子のことは気になってるみたい」

「それってつまり、どういうことなんだ」

「詩仁君の話によれば、三橋君はいつも同じ場所に突っ立ってるらしいから、たぶん彼女を待ってるのかと」

 大林真桜。三橋君から聞いたその名前を、僕もよく覚えていた。三橋君の内の事情を知る人間としては、その名前は、インパクトには申し分なかった。世間は、意外と狭いものだ。この女の子が本当に三橋君の妹だとしても、僕には、そこまで想定外のことではないように感じられた。

 という僕なりの考えを知る由もない恭也さんは、大袈裟に素っ頓狂な声を上げた。さすがに僕も、いくら恭也さんと言えども、三橋君の生態データを打ち明けるわけにはいかなかった。いくらなんでもそれは無謀ってもんだぜ、一度出会ってそれっきりなんだろ、と率直な感想を述べた恭也さんを、僕はさらっとスルーする。あまりにあからさまだと無視しているようで印象が悪いので、とりあえず僕は曖昧に笑っておいた。三橋君はミステリアスな子だからなんでもありなんだよ、という一言も添えておいた。この文章一つだけで、三橋君に関しては、一挙に信憑性が増すから不思議だ。

 ここで僕は、少し前から恭也さんに言いたかったことを思い出した。一つ話題が終了した頃合だし、切り出す頃合としても悪くはないだろう。自分で失念していただけのくせに、やっと言えることにどうしてか気持ちを弾ませながら、僕は言った。

「恭也さんが貸してくれた、最近人気のV系バンドのCDを聴いたんだけど」

 おっ、と恭也さんが高い声を喉から滑らせた。カラー途中の僕の髪のことなんてそっちのけで、恭也さんは、僕の隣に身を乗り出してきた。話の種にV系が挙がっただけなのに、恭也さんは、すこぶる嬉しそうに頬を緩めている。

「どうだった? あのバンドなら音煩くないし、景君でも聴きやすいと思ったんだけど」

 テンションは多分に高潮気味らしく、恭也さんは、舌を噛みそうな勢いでまくし立てる。僕がV系バンドという存在に興味を示し始めたのが、余程望ましかったようだ。恭也さんからも詩仁君からも、散々僕は、V系バンドの話は聞かされてきた。なんだかんだで、V系の披露する、いろいろな歌も聴いてきた。けれど、元来あまり音楽を聴かない僕にとっては、興味がないとは言わないまでも、自ら進んでその世界に浸ることはなかった。その僕の感覚が、今回、少し変わった。恭也さんが貸してくれたそのアルバムには、思いの外、僕が自分でも知らなかったような好みで溢れていた。僕はこういう曲が、こういう感性の歌詞が好きだったのかと、自分の世界の未知の部分が、そこで拓けた。自分の視野が一挙に広くなった気分だった。

「よかったよ」

 一言僕が述べると、恭也さんは、思いっ切りガッツポーズを決めた。今まではいくら音楽を紹介しても、僕から素っ気ない感想しか得ることができなかった恭也さんとしては、今回の僕の反応は、相当価値のあるものなのかもしれない。恭也さんは大人なのに、ときどき、こうして少年心で素直な一面を見せる。大人と子供の両方の側面を併せ持っている恭也さんは、僕の理想だった。これで、びびりでさえなければ。恭也さんが理想の年長者だと考える度に、僕はその結論に辿り着いてしまう。

 僕の残念極まりない思考に気付くはずもなく、恭也さんははしゃいでいる。

「だろ。よかっただろ。歌も上手いし。独特の世界観持ってるし」

「歌詞好きだな。今時のありがちじゃない感じ」

「そうだろ。よかった、わかってくれて。正直、このバンドでいい感想聞けなかったら、もう景君にV系の話するのやめようと思ってた」

 誤魔化すように、僕は軽く笑う。過去に触れた音楽がどうだったとしても、とりあえず、今回勧められたバンドの曲は僕にもクリーンヒットした。

 なにか妄想でもスタートさせたのか、まるで悦に入ったかのような顔をして、恭也さんは言う。

「どうせなら、詩仁には、あんなV系やって欲しいよな。髪型は俺が整えてやるし、メイクもちょっとくらいなら」

「メイクは嘉仁の仕事だよ」

「あ、そっか。そうだったな」

 僕が忠告すると、恭也さんは、瞬間的に我に返った顔をした。そうかと思ったら、その口元は、再びくにゃりと歪む。自分の勝手な夢物語を、恭也さんは、再開させたようだった。

 美容師本人がとっても頼りないわけだけれど、果たして僕の髪の毛は、男らしく美麗な黒一色に染まるのだろうか。僕のお洒落センスがかかってくる、重要なポイントなんだぞ、頭は。今の恭也さんの様子から察するに、僕は、ちょっとした不安を抱かずにはいられなかった。

 溜息を吐く代わりに、僕は思い返してみる。さぼりがちだった学校には、9月からは頑張って通う。嘉仁はそう言っていた。本気で専門学校に進学して、V系メイクをマスターするつもりらしい。メイクアップアーティスト。僕如きとはほど遠い、お洒落な夢だ。いずれ、憧れのV系バンドを自分で組んで活動したいという詩仁君と、連動した道筋でもある。まだ中学生の詩仁君には、この先で心変わりする可能性なんていくらでもあるけれど、そうなったらそうなったで、嘉仁が詩仁君のことを認めるのは間違いなかった。そして、ぽん、と背中を押すのだ。七瀬嘉仁と七瀬詩仁。どこまでも羨ましい限りの、僕の理想の兄と弟だ。僕の周りには、理想そのものがたくさんいる。

 それはそれとして、だ。ひとつだけ、恭也さんに言ってみたいことが僕にはあった。頬を弛緩させたままの恭也さんに、僕は、鏡の中でしっかりとピントを合わせる。この人、いい年齢の大人とは思えないな。ちらりと、僕の頭の片隅でそんな思考が渦巻いた。

「ねえ、恭也さん」

「ん?」

「あのCD、返さなくてもいい?」

「嫌だ、返せ。限定版だぞ。今じゃもう、どこに行ったって手に入らないんだから」

 僕が言葉を発した瞬間、恭也さんは真顔に戻った。冗談だよ、と僕が笑っても、恭也さんは疑わしそうに僕の目を覗き込んでいる。鏡の上の出来事だとしても、あまり凝視されてしまうと、僕だって視線をずらさずにはいられなくなる。本当にただの冗談だったのに。今更そんな主張もできず、僕は、浅く俯いた状態で、恭也さんが作業に戻るのを待つことにした。そこで、恭也さんが軽快な笑い声を転がした。驚いて目線を上げると、楽しそうな笑顔の恭也さんが、鏡の像にきっちりと映っていた。

「拗ねるなよ、冗談だって。景君だって冗談だろ」

 いや、でも、ちょっぴりだけ本気だったけれども。などといちいち明かさず、僕も笑顔を返した。実は苦笑いだということは、恭也さんには、内緒にしておくことにした。

「んじゃ、ま、無駄話はここまでってことで」

 恭也さんは、一歩後ろに引いた。そこで腕を組んだ後、じっくりと展開をシミュレートしているかのように、恭也さんは右手で顎を撫でる。何年も前からここに行きつけている僕にとっては、恭也さんの見慣れた仕草ではあった。

「ここからは、完全に美容師モード・オンで行かせてもらうからな」

 そうとわかっていても、恭也さんのその動作は、いかにもプロっぽくて絵になっている。

 これで、びびりでさえなければ。美容師モードに切り替わった恭也さんを見ても、僕は、しつこくそんな願望を抱いてしまう。随分前から決定している、僕のお約束だった。さすがは七瀬兄弟の血筋と言ったところか、恭也さんの顔立ちは、非常に整っている。このギャップは、いつ考えても強烈だ。七瀬恭也、僕の記憶に刻み込まれるには、いつだって十分だった。

 初めまして、黒髪の僕。茶髪とどっちが似合うだろうか。もうすぐ現われるであろう黒髪の僕に、胸の内から、僕はそう問いかけてみた。茶髪より自分に合っていればなによりだ、と、想像上の黒髪の僕は答えた。ただの自問自答。それはそうだ。僕は、自分だけがわかるように笑った。ともあれ、黒髪の僕の仕上がりが楽しみだった。髪が真っ黒に染まった待ち遠しい瞬間、早く立ち会えますように。僕は、密かにそう祈った。









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