夕陽と公園、大宝寺泰雅(2)
上野君は、淡々と説明してくれた。泰ちゃんに目隠しが施されたのは、視界に入るものすべてのなにかで、滅茶苦茶に自分を傷つけようとするかららしい。本当に手当たり次第だから、先生がボールペンを持っていれば、それを奪って自分の身体を刺そうとする。何故か泰ちゃんは、頑なに自分の左腕を攻撃しようとしているらしい。泰ちゃんの自傷行為は、どんどんエスカレートする。壁が目に入れば、そこに頭を思い切り打ちつけようとする。窓を開けて飛ぼうともした。なにも目に映らなければ落ち着くのではないか、という病院側の発想により、黒い布で泰ちゃんの目が覆われた。ほとんど賭けのような処置だったけれど、泰ちゃんは、それでぱったりと大人しくなった。
聞けば聞くだけ、胸に鉛を重ねられるようだった。上野君の口調は事務的だった。飽くまで平常を装った顔つきをしているけれど、上野君も、泰ちゃんの状況に相当なショックを受けていることは間違いなさそうだった。
「そしたら、今度は、全身を掻き毟るようになったみたいです。結局自分を傷つけちゃうから、やむなく、手首をベッドに縛りつけて動けないようにしてるんだって言ってました。今は、トイレに行きたいときとか、そういう最低限の僅かな時間にしか自由にしてあげられないって」
上野君の声が、何度となくわたしの耳の奥で反響していた。公園から病院までの距離は遠くないのに、一歩歩く度に、上野君の言葉がわたしの脳裏を掠めていく。憶測だからと断りはしたものの、上野君の話は、どれもかなり説得力があった。泰ちゃんは二度に亘って殺人を犯そうとした。その言い分は、さすがにわたしも滅茶苦茶だと思った。でも、わたしが滅茶苦茶だと感じたその結論を、現実として捉えさせるだけの理論が、上野君にはあった。あれだけの考察を巡らせることができる上野君が、そんな悪趣味な嘘を吐くとは思えなかった。ということは、泰ちゃんの目隠しも、縛りつけられた手首も、すべて本当のことだった。なにもかも嘘だと信じたかったけれど、それができるだけの根拠なんて、わたしにはなにもなかった。
横滑りの扉に手をかけて、わたしは足を止めた。静かな病棟の空気に包まれて、わたしの胸の音は張り裂けそうなほど荒ぶっている。このドアを一枚挟んだ向こうに、泰ちゃんがいる。だから早く開けなくちゃ。確かにそう思うのに、手がなかなか動かなかった。
手が動かないその理由を、脳が懸命に探っている。カットフルーツは上野君にあげてしまったし、結局手ぶらで来てしまったから、出直したほうがいいに決まっている。ふと思い当たったその考えを、わたしは即座に否定する。上野君の話によれば、今の泰ちゃんはなにも食べられない。目で見ることもできない。それに、精神状態が安定していない以上、なにか手で触れられるものを傍に置いておくのは、危険な事態に発展する可能性がある。視力を封じられても自分を傷つけようとするくらいだから、泰ちゃんの五感を変に刺激するようなものは、なるべくないほうがいいと思う。最終的にそういう結論に辿り着いたのだから、出直すのは無駄だった。 意を決した。軽いノックをした後、思い切って扉を開ける。真っ白な病室、壁際に寄せて配置された白いベッドの上に、泰ちゃんはいた。
目隠しのことも手首のことも、それなりの覚悟を決めていた。その上で、ここに来たつもりだった。だけど、頭でイメージして理解することと、実際に目で見ることは違っていた。頭の天辺から爪先まで、一瞬で、雷にでも射抜かれたみたいだった。目の前にいる彼の姿が、あまりにも衝撃的だった。わたしは、声を発することすらできなかった。
「誰?」
上体だけを起こしている泰ちゃんは、憂鬱そうに身体を捻る。目隠しの布で顔の半分は隠れているけれど、泰ちゃんの肌は、恐ろしいくらいに青ざめていた。首筋も蒼白で、相当の重病患者のようなオーラを周囲に漂わせている。わたしが知っている泰ちゃんの面影は、ほとんどなかった。
「先生?」
「あ、の、わたし」
声が上手く出ない。2、3度息を飲み下して、わたしは、もう一度口を開く。
「わたし。咲華」
返事は、すぐには返ってこなかった。泰ちゃんの口が、小さく動いた。なにを言っているのかはわからなかったけれど、少なくとも、いつものようにわたしを「姉ちゃん」と呼んではいない。泰ちゃんはだんまりで、その間に、わたしの心は締めつけられるように痛む。なんとも反応してくれない泰ちゃんを見ていると、どうにかなってしまいそうだった。これは本当に現実で、目の前にいるのは本当に泰ちゃんだろうか。この期に及んで、わたしはまだ現実から逃避する術を模索している。
泰ちゃんの口が、再び動いた。姉ちゃん、と言ったように見えた。見えただけかもしれなかった。わたしは後ろ手で病室のドアを閉めて、ベッドに何歩か歩み寄った。
「姉ちゃん、来てくれたんだ」
はっきりとした泰ちゃんの声が、今度は、ちゃんとわたしの耳に届いた。つい溜めた息を吐いてしまう。泰ちゃんは、わたしをわかってくれた、そんな安堵からくる溜息だった。病室に充満している、ぎりぎりまで張り詰めた緊張感も少し和らいだ。目隠しと両手の不自由こそあるけれど、泰ちゃんは、わたしが想像するよりもずっと落ち着いていた。いい意味で裏切られた。わたしは胸に手を当てて、再度、自分の安堵を認識する。
今まで心配していた。様子がずっと気になっていた。その旨を泰ちゃんに伝えながら、ベッドとの距離を縮める。どんな調子で言えばいいのかわからなかったから、とりあえず、普段と変わらない口調を意識した。泰ちゃんは、最初は少しだけ笑ってくれた。心配かけたね、と言ってくれた。でもその笑顔は、気を遣ったお愛想笑いだとすぐにわかった。気付かないふりをして、わたしは勝手に喋った。なにを言っていいのかもわからなくて、とにかくわたしは、会話を続けようと奮闘していた。途中から、泰ちゃんは相槌を打たなくなった。
間が保たない。わたしがそう思ったとき、泰ちゃんは、予兆なく口火を切った。
「姉ちゃん、なにしに来たの」
わたしの心臓が跳ねたことは、間違いなかった。なにしに来たのかと問われても、わたしは、泰ちゃんの様子がどうしても気になったからここに来た。泰ちゃんのお母さん、それから上野君の話を聞いて、ちょっとだけでも泰ちゃんの支えになってあげられれば、と望んだ結果、動かずにはいられなかった。強く脈打ち始める左胸の上に片手を置いた。やっぱり、わたしなんかが泰ちゃんのお見舞いに来るのは、出しゃばり以外の何者でもなかったのだろうか。今更どうしようもない疑問が、沸々とわたしの胸の内で気泡を飛ばす。
「俺を笑いにきたんだろ。隠さなくてもいいよ」
泰ちゃんの声は静かだった。静かだけれど、声の内側に篭った念波は濃密で、ぎりぎりのぎりぎりまで迫られた極限の情を訴えている。今泰ちゃんが大人しいのは、精神状態が安定しているからじゃない。精神的に追いやられ続けて、極度の疲労で弱りきっているからだ。気付いてわたしは、一度でも泰ちゃんが落ち着いていると感じてしまった自分を恥じた。
わたしは首を横に振った。横に振っても、泰ちゃんには見えているはずがなかった。咄嗟にわたしは言葉で否定した。
「なにも隠してない。わたし、泰ちゃんのこと笑おうと思ってここに来たんじゃない」
「いいよ、そんな嘘」
「嘘じゃない!」
「嘘だよ!」
ここは病院だ、という事実が、わたしを我に引き戻す。自分でもびっくりしてしまうくらいの大きな声が出てしまった。それ以上に、泰ちゃんの声が大きかった。白い病室の壁が、過ぎた声の音量で振動しているような気がした。
言葉が出ないわたしを尻目に、泰ちゃんは頭を下げて、拘束された手首を震わせている。頭痛でもしているのだろうか。泰ちゃんは、呻くように唇を噛んだ。今の泰ちゃんは、どこかが痛くてもそこに手を置いて匿うことさえもできないのだ。もしわたしが、今の泰ちゃんと同じ状況だったらどうだろう。考えれば考えるだけ、なにを言っていいのかわからなかった。
「笑いにきたんじゃないなら、なにしにきたって言うんだよ。変な同情ならいらない。笑ってよ。笑ってくれたほうが気持ちが楽なんだ」
懸命に絞り出すような泰ちゃんの声が、わたしの胸を突く。やめて、とも言えず、わたしは、立ち尽くしているだけだった。
強く握りしめられた泰ちゃんの拳が、不意に緩む。鼻を啜る音が響いた。泰ちゃんから目を逸らすことができなかった。目隠しの布で、涙が頬を伝うことはなかった。でも、泰ちゃんは確かに泣いていた。泰ちゃんが泣いている姿なんて、今まで見たことがなかった。情けないことに、ますますわたしにはなにもできなかった。
「自業自得なんだ。笑ってよ。お願いだから、笑ってくれよ。俺、なにひとつとして上手くできなかったんだ。上野もきっと、心配したようなこと言って内心で俺を嘲ってるんだ」
「泰ちゃん、そんなことない」
「なんでだよ。変な思い込みで七瀬の弟を殺そうとして、上手くいかなくて、次は別の変な感情で七瀬をどうにかしようとした俺を、なんで笑わないんだよ。あてつけがましくもう一度七瀬の弟を殺そうとした俺を、また失敗した俺を、頭おかしくて両親にも捨てられて、こんなところに押しつけられた俺を、なんで笑ってくれないんだよ!」
わたしが制しようとしても、泰ちゃんは続ける。泰ちゃんは泣いていた。次から次へと、痛烈な泰ちゃんの叫び声が紡ぎ出される。放り出されているわたしの視界も、泰ちゃんの声に合わせて歪む。鼻の奥がつんと痛くて、泰ちゃんの輪郭もベッドの形も、捩れて見える。両親に捨てられたなんて、それは本気で言っているのだろうか。もし本気だとしたら、わたしは、どうしよう。わからない。行き場のない焦りが、泰ちゃんに篭る痛みが、わたしから足場を奪う。やめて、それ以上言わないで、わたしは小さく繰り返すけれど、泰ちゃんには届かなかった。声が震えて、それ以上の主張をできないわたし自身が、どうしようもなく歯痒かった。
「自業自得なんだ」
泰ちゃんの声が、一度沈む。嗚咽が漏れそうなわたしは、手で口を押さえて無理矢理黙った。
「今どき目隠しと、両手のこの様。見てくれよ。ざまあねえよな。一番最初に、俺が七瀬の弟に殺意を抱いたのが間違いだった。それが全部のミスだった」
「泰ちゃん、もうやめて」
「姉ちゃん、俺」
泰ちゃんの言葉が纏う、オーラが変わった。風向きが変化した泰ちゃんの声は柔らかくて、ついさっきまでの取り乱した様子が嘘みたいだった。涙が零れ落ちるのを必死に堪えて、わたしは、泰ちゃんに焦点を定める。
「俺、姉ちゃんのこと好きだよ」
「え」
「姉ちゃん、可愛いもん。けばくないし、なんかいい匂いするし。それに、こんな俺にだって声をかけてくれる。優しい姉ちゃんが、俺、小さい頃からずっと好きだった」
あまりにも、想定外な展開だった。泰ちゃんの言葉は、わたしの耳を突き抜けて、ぐわんぐわんと身体中に響いてくる。好きって、なに。思考回路が上手に機能していない。ただ、泰ちゃんが言う「好き」にあたる意味を、ひたすら脳内で探し回っている。
好きってなに。誰が誰を。泰ちゃんがわたしを? 本当に? 胸の蓋が勝手に開いて、心臓が飛び出しそうだった。
泰ちゃんは、少し顎を引いた。それだけの動作なのに、泰ちゃんの様子が変わった。耳に煩く胸の鼓動音を焼きつけながら、泰ちゃんを見据えた。そうするしかなかったし、そうすることしかわたしにはできなかった。
いくらかの間を置いた後、泰ちゃんは、口を開く。
「でも姉ちゃんは、それとは違う意味で、俺のことが好きだったんだよな。あの日、最後に観覧車に乗るまでわからなかったけど」
どきり、とはした。でもわたしは、茶化してしまおうとは思わなかった。泰ちゃんは、わたしの気持ちに気付いていた。ただそれだけ、本当にそれだけの話だった。泰ちゃんが、自分からわたしの気持ちを知ってくれることは、ずっと前からわたしの理想だった。それは、実は叶っていた。叶っていたとわかったのに、不思議と虚しかった。
憎いほど鈍い泰ちゃんも、女の子とふたりきりで出かければ、ひとりで勝手に察することもできるというわけか。泰ちゃんを侮っていたことを、わたしはちょっぴり反省した。幼馴染で、しかもわたしが年上でも、泰ちゃんは、きちんとわたしが女であることを認識してくれていた。それならそれで、余計にやりきれなかった。あの日履いていたのと同じ、大きな向日葵をあしらったサンダルが、否応なくわたしの視界に飛び込んでくる。
「なんで、俺なの」
低く抑えた泰ちゃんの声が、わたしの耳をついた。
泰ちゃんは、目隠しの布越し、悔しげに頬を引き攣らせる。わたしは思わず手を伸ばしそうになったけれど、すぐに引っ込めた。
「俺を選ぶ理由を教えて。俺じゃなきゃダメな理由が知りたい」
「理由なんて、わたしは」
「姉ちゃんのこと好きだから、余計に思うんだよ。なんで俺なんだよ。俺なんか好きになったところで、姉ちゃんにいいことあるわけないだろ。今の俺を見てみろよ、これでもまだ俺に恋するっていうのかよ!」
「泰ちゃん、声が」
大きすぎる。でも、わたしが宥める前に、泰ちゃんは次の言葉を絞り出す。拘束された手首に許容されている、その僅かな範囲の内で、泰ちゃんの手は暴れていた。連動して、ベッドが軋む。壮絶な光景だった。わたしの視野に、強烈に焼きついた。
「なんだよ。なんだっていうんだよ。理解できない。俺には、なんにも理解できない!」
掠れた泰ちゃんの声が、病室の壁に当たって弾ける。その破片が、すべてわたしに突き刺さる。奇妙で、痛々しい錯覚だった。錯覚とわかっていながらも、わたしの肌は、架空の痛みをしっかりと刻み込んでいた。痛くないけど痛い、妙な第六感がわたしを取り巻く。左胸のほうは相変わらず激しく高鳴っている。どうにもこうにもできなかった。
身動きの取れない身体で、泰ちゃんは暴れ続けていた。ひたすら泰ちゃんは、理解できない、理解できないと繰り返した。なにがそんなに理解できないのかは、わたしには上手く聞き取れなかった。最低限、泰ちゃんにとってそれはすごく大事なことだということはわかる。だからここまで苦しんでしまう。そんな誰でも察しがつくようなこと程度しか、わたしにはわからなかった。
泰ちゃんの悲痛の訴えが、わたしを蝕んでいく。理解できない、泰ちゃんが何度もそう唱えるのは、単純に、泰ちゃんにはそうするしかできないからだった。理解できない。それが、泰ちゃんにとってのなにより絶対的な真実だった。
名前を呼ぶことさえ、わたしにはできなかった。ぴたり、と、泰ちゃんの動きが予兆なく停止した。一度上を向いた後、泰ちゃんは、背中を丸めて顔を伏せる。わたしには、できる限りで身体を小さくしようとしているように見えた。泰ちゃんは両手を持ち上げようと足掻いている。相当力を込めてはいるけれど、ベッドの淵に、きつく結びつけられている手首が自由になるはずもなかった。
泰ちゃんが口を開いた。唸るような、地の底から湧き出したような声が漏れ出した。頭の天辺から爪先まで一挙に冷え切ったような、わたしはそんな感覚を覚えた。
泰ちゃんは、なにか言っていた。ほとんど声にもなっていないけれど、わたしを呼んでいることだけはなんとか聞き取れた。恐怖という感情がなかったと言えば嘘になる。むしろそれは、広範囲に亘ってわたしの心を支配していた。今目の前にいる人が泰ちゃんだなんて、信じたくなかった。でも、これが現実だった。わたしは泰ちゃんを受け入れる。わたしが自分でそう決めたことも、紛れもなく現実だった。
覚悟を決めて、わたしは、泰ちゃんの口元に耳を近づけた。泰ちゃんがなにを言っているのか、思いの外、すぐに知ることができた。
「姉ちゃん、耳、塞いで」
泣き出しそうに震えた声だった。理由を訊ねるよりも、わたしは、言われるままに泰ちゃんの耳を両手で塞ぐ。今まで経験したことがないくらい、わたしと泰ちゃんの距離は近かった。こんな明らかに異質な状況なのに、わたしの胸の鼓動は、勢いを増して強くなる一方だった。
「もっと、お願い。強く押さえて。姉ちゃん、お願い。お願い」
あまりに脆いその声音に、わたしが砕けてしまいそうになる。だけど、こうしてわたしが泰ちゃんの耳を塞いでいれば、この音が泰ちゃんに聞こえることはない。わたしが泰ちゃんのことを好きなのは、疾うにばれてしまっているのに、安堵している自分がおかしかった。
そのままの姿勢を保って、十秒くらい経過した頃だった。わたしは、彼の左右の耳から手を離す。少し落ち着いたのか、泰ちゃんは肩で呼吸を整えている。近くで見れば見るだけ、青白い泰ちゃんの頬は寒々しかった。わたしは無意識に泰ちゃんの右頬に触れてしまう。病室は冷房が効いているとは言え、泰ちゃんの肌は、あまりに冷たかった。一体いつから、泰ちゃんの温度はこんなに冷えていたのだろうか。泰ちゃんの変化を知ってすらいなかったわたしが思い返しても、その答えなんて出てこない。
「姉ちゃん」
わたしは、なあに、と応じる。一拍置いて、泰ちゃんは、再度わたしのことを呼んだ。遠慮がちに何度もわたしを呼ぶ泰ちゃんの姿は、不意に、わたしの記憶と重なった。泰ちゃんは幼稚園児で、わたしは小学生だった。泰ちゃんが懐いていたのは、ごく限られた面子だった。その限られた面子に、わたしも入っていた。その頃も、泰ちゃんは何度もわたしを呼んで、小さな歩幅でわたしの後ろを歩いていた。
表現できない気持ちが、わたしの胸の内を彩る。泰ちゃんよりもわたしのほうが身体が大きかった時代が、確かにあった。家も近かったし、親同士の付き合いもあって、わたしと泰ちゃんはなにかと関わることが多かった。その頃はまだ、泰ちゃんは年下の親しい男の子でしかなかった。
「俺のこと、いつから好きだったの」
泰ちゃんの質問は、単刀直入だった。今更恥ずかしがる理由も、照れて困惑する理由もないわたしは、冷静に記憶の糸を手繰る。泰ちゃんに向ける気持ちは、少なくとも、意識したものではなかった。友達として泰ちゃんが好きだった頃と、男の子として泰ちゃんが好きになった頃の境界が、自分でもいまいちわからなかった。これといったきっかけがあるわけでもない、本当に、わたしは自然な恋をしていたのだと思う。
「強いて答えるとしたら」
それでも敢えて時期を特定するなら、これしかなかった。わたしは、泰ちゃんの頬を少し撫でる。
「泰ちゃんの背が、わたしより高くなったときかな」
「なにそれ」
即刻、泰ちゃんは突っ込んでくる。可笑しそうに、3割分くらいは呆れたような声音で言う。
「その論法じゃ、姉ちゃん、今まで何人に恋してきたかわかんなくなるじゃないか。身長なんてクラスの男子はみんな追い抜いていっただろ」
「でもわたしは、泰ちゃんしか好きにならなかった。これでもわたし、男の子に結構人気あったんだから」
泰ちゃんが初めてわたしの身長を抜いたのは、ほんの4年前だった。四という数字は、わたしと泰ちゃんが生まれた年数の差とちょうど重なっていた。ちょっとした偶然のように思えて、わたしは少し和んだ気分になった。
「じゃあ、誰かと付き合ったことないの?」
妙な空白を挟んだ後、泰ちゃんは首を傾げる。なにかの意味合いを含んでいるような空気は感じ取ったけれど、それ以上のことは、ベッドに座っているだけの泰ちゃんから汲むことはできなかった。わたしは隠すことなく、そうよ、告げた。泰ちゃんは、間を置いてから「へえ」と微かに語尾を伸ばした。それきり、泰ちゃんは口を閉じた。
「姉ちゃんは、俺のこと知らないから」
やたらとゆっくり、泰ちゃんは喋る。声そのものも色の悪い唇も、わたしには乾ききっているように思えた。上野君の言葉が、頭に浮かびあがる。「2度目の殺人未遂は、泰雅なりのSOSだった」。ほとんど憶測らしい上野君の読みは、根拠がないのにも関わらず現実味を帯びている。そして、それは的中していた。不健康にかさついた泰ちゃんの唇からは、そうとしか判断できない。
繰り返し紡がれる泰ちゃんの言葉に、わたしの目蓋の痛覚が鈍く感応する。視界に変化が起こるわけじゃないけれど、瞬間的に走ったその痛みを素通りすることはできなかった。口の中が乾く。続く泰ちゃんの言葉なら、わたしには、簡単に予想できた。当たっているか、当たっていないか。自分でもおかしいと思うけれど、わたしにとっては、小さな博打だった。
泰ちゃんの口が、再び動く。運命の一言。わたしは静止して次のターンを待つ。
「俺のこと知らないから、俺を好きだなんて言える」
「予想通り」
「え?」
わたしは、浅く笑い声を響かせる。「なんでもないの」
今の泰ちゃんに、わたしの顔が見えていないことは救いだった。今、口では笑っているけれど、実際のところはどうなっているのかわからない。自分で笑った気になっている分、想像以上に酷い表情をしていることも考えられる。そんな醜い顔なんて泰ちゃんには、泰ちゃんにだけは、絶対に見られたくなかった。
一息、泰ちゃんは吐き出した。こんな状況で不謹慎、だとはわたしも思うけれど、白いベッドの上で黒い目隠し、両手の動きを封じられた泰ちゃんは、絵画的だった。芸術家が絵筆を片手に丹精込めて、入念に時間をかけて描き上げたような、そんなタッチが見受けられる。見れば見るだけ、見惚れてしまいそうだった。わたしは慌てて視線を泰ちゃんから逸らす。
「姉ちゃんが、俺のこと好きになってくれて嬉しい」
驚いて、わたしは顔を上げる。相変わらず、泰ちゃんの頬は青白いままだった。
泰ちゃんは続けて言う。
「それは本当。でも、俺、やっぱりダメなんだ。最低なんだ。姉ちゃん、俺なんか好きになっても幸せにはなれない」
「どうして」
「姉ちゃんが嘘吐きだとは思わない。でも、根本的に俺に根付いてることなんだよ。俺のことが好きな姉ちゃんを、素直に受け入れられない」
「泰ちゃんを好きだと思うわたしの気持ちを、信じられないってこと?」
わたしが問うと、泰ちゃんは口を閉じた。一言だけ、小さく「ごめん」と呟いた。ここで謝罪ということは、泰ちゃんの示した答えはイエスだった。なにを言ったらいいのか、思いつかなかった。言葉では表現できない、どうしようもない気持ちが胸の奥に募る。
泰ちゃんは、わたしが泰ちゃんのことを好きだということは既に理解している。でも、それを信じて受け止めるかどうかは、泰ちゃんにとっては別次元の議題だった。泰ちゃんに悪気なんてなくて、わたしを拒んでいるわけでもないことは、わかっている。自分の気持ちを自分でどうしようもできなくなるときは、誰にだってあると思う。今の泰ちゃんは、まさにその状況なのだ。今の、と言うより、泰ちゃんはもう随分長い間、継続してその状況だったのかもしれない。そうでなければ、根本的に俺に根付いた、なんてきっと言わないだろう。
無理にでも受け止めて欲しい、とは思わなかった。気持ちは強要するものではないし、今の泰ちゃんは、心も身体も疲れきっている。とにかく、今は泰に元気になって欲しかった。わたしのことなんて、後でよかった。でも、今の泰ちゃんが人を上手に信じることができないのなら、わたしには、最低限伝えておきたいことがある。
泰ちゃんの頬に、もう一度触れてみた。氷みたいに冷たかった。目に映るなにからも孤立して、完全に冷え切ってしまった、泰ちゃんの心に触っているような気がした。わたしのその感性なら、尚更だった。
泰ちゃんの背中に、わたしはそっと手を回す。驚いたように、泰ちゃんが肩を上げた。構わずに、わたしは泰ちゃんを抱き込む両手に力を込める。泰ちゃんの頬はあんなに冷たかったのに、胸と背中は、ほんのりと熱を蓄えている。どうしようもなく愛しかった。少し高めのこの体温も、それとは不釣合いに冷えた頬も、指先まで包帯が巻かれた左腕も、全部が生身の泰ちゃんなのだ。なにもかもが、まとめて愛おしい。ただ、わたしは泰ちゃんのことが好き。それ以上の難しい言葉も、打ちのめすような酷い現実も、今は必要なかった。泰ちゃんを抱き寄せるわたしの手に、より一層の圧力がかかる。わたしは、泰ちゃんを離したくない。それだけのことだった。
「なんで?」
泰ちゃんはわたしに抱きすくめられたまま、抵抗することなく言う。
「それでもまだ、俺を選ぶの? 姉ちゃんが知らないだけで、俺、最低なことたくさんしてるんだ。姉ちゃんが俺を好きになった4年前には、俺、もう洗っても洗っても綺麗にならないくらい汚れてたんだよ」
「わたしは、泰ちゃんがいい」
「本当の俺を知ったら、姉ちゃん、俺のこと嫌いになるよ。俺、姉ちゃんが思うよりも、ずっとずっと酷いことしてる。俺が姉ちゃんの立場だったら、絶対大嫌いになるもん」
「さっきからそればっかり。それでもわたしは、貴方が好きだって言ってるじゃない」
なんだか、視界がぼやけてくる。わたしの目に映るすべての輪郭線が、はっきりとした形を保っていなかった。そこにあると確定した物質がブレるなんてことは、あり得るはずもなかった。目蓋の裏、眼球の表面が、鈍く傷みを訴えている。決してよくはない、わたしがずっと知っている感覚だった。となると、この後自分になにが起こるのか、予測するのは簡単だった。目を瞑ると予想通りで、雫が細く頬を伝った。薄く目を開いてみると、一番に視界に入り込んでくる泰ちゃんの背中が小さく揺れていた。揺れているように見えた。単純に、わたしの視界が潤んでいるだけだった。
どうして、わたしが泣かなければいけないのか。胸の内に沸々と疑問が込みあげてくるけれど、零れ落ちる涙を抑えることができない。泰ちゃんを強く抱きしめても、泰ちゃんはわたしを抱きしめ返してくれはしない。それは、当たり前のことだった。泰ちゃんは手の自由が利かないし、なによりわたしは、泰ちゃんにとっての恋愛対象ではなかった。そうとわかっているのに、その事実が、酷くわたしを追い詰めている。
「俺、理解できない」
動くこともなく、なにも言うこともなかった泰ちゃんが、感なくぼやく。わたしは、そのままの姿勢を保っていた。
「なにもかも理解できない。七瀬も、上野も、咲華の姉ちゃんも」
「無理に理解する必要なんてない」
「でも俺、理解したい。姉ちゃんのこと」
思い切り、わたしは泰ちゃんから身を引き剥がした。耳の奥で、今しがたの泰ちゃんの声がリピートしている。唐突だったその言葉に、よろめきそうになりながら1歩さがる。
「姉ちゃん、俺、頑張るから」
鼓動が大きすぎて、胸が裂けそうだった。信じられないくらいに強大な心臓の音が、わたしの耳朶を叩いている。そうとは知らず、泰ちゃんは淡々と言葉を紡ぐ。
「いっぱい時間かかるかもしれないけど、頑張ってなるべく早く普通の生活に戻れるようにするから。そしたら、もう1回さっきの言葉聴かせて」
「さっきの言葉ってなに」
「俺のこと、好きだって言って」
わたしを取り巻く時間という時間が、完全にストップした。大袈裟ではなく、本当にそんな感覚だった。まさか、泰ちゃんがそんなことを言うなんて夢にも思わなかった。わたしは、どうしたらいいのだろう。目の前の現実が突飛すぎて、なにを考えたらいいのかさえもわからない。それでも、自分が赤面していくことだけはわかった。泰ちゃんが自らその宣告を望むということは、つまり、わたしに可能性がないわけじゃない。むしろそれは、そういうことだ。ひたすらわたしは、信じられない思いでいっぱいだった。
「泰ちゃんが元気になっても、ならなくても」
自分の声量が、あまりに頼りなかった。わたしは懸命に声を捻り出す。
「いつだって、何度だって言えるの。わたしは、泰ちゃんが好き」
限界だった。言いようのない様々な感情が複雑に入り混じって、涙に姿を変えるループをどうにもできない。短いリズムで、わたしは何度もしゃくりあげた。姉ちゃん、と泰ちゃんが呟くように言う。その声で、何故か涙に拍車がかかった。両手で口を押さえても、嗚咽がしつこく喉を圧迫する。耐え切れず、わたしはその場で膝を折った。背中の力が抜けて、余計に涙が溢れてきた。止め方がわからない。どうしよう。わたしがそう考えている間にも、両目から止め処なくそれが零れ落ちる。メイクもそろそろ、全部剥がれた。なにもかも、どうしたらいいのかわからなかった。わたしは固く目を瞑り、とにかく涙が収まるのを待った。待っていたかった。泰ちゃんが声を出したのは、そのときだった。
「姉ちゃん、もっと近くに来て。俺の手が届くところに来て、それからしゃがんで」
歪む視界の中、俯いたままでわたしは少し移動した。泰ちゃんの指がわたしの目元を拭った。突然の出来事だった。咄嗟に泰ちゃんの顔を見上げる。目隠し越し、泰ちゃんは、じっとわたしを見つめていた。
「泣かないでよ」
ちょっと困ったような声音で、泰ちゃんは、一言だけ口にした。泰ちゃんのバカ、とわたしは思う。泣くなと言われたら、余計に泣くのがお約束じゃない。涙を拭ってくれた泰ちゃんの手を、わたしは、両手で包み込んでみる。指が長くて、爪が綺麗で、温度の通った泰ちゃんの手。わたしはその手を、今度は強く握りしめた。泰ちゃんの手が、わたしの手を小さく握り返してきた。わたしの目から、また大粒の涙が零れた。これが、泰ちゃんがわたしに示してくれた回答なのだ。泣かないでよ、なんて言っておきながら、泰ちゃん自身がわたしを泣かせる。まだもう少しだけ、わたしの涙は止まりそうになかった。でも、こうして泰ちゃんの手の温もりを感じていられるなら、それでもいい。あと少し、今のままがいい。泰ちゃんの優しい体温に、またひとつ雫が落ちた。




