表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/23

日鐘第二高等学校3年A組 大宝寺泰雅

 七瀬は屋上で佇んでいた。後ろ姿は酷くぼんやりとしていて、意思などまるでない置物のようにも見えた。ズボンのポケットに手を突っ込んで、携帯電話を取り出してみる。液晶画面のデジタル時計は、午後2時ぴったりを示していた。5時間目が始まって、既に10分経過している。昼休みが終わるまでに間に合わなかった。別にいいけど。携帯電話をポケットにしまい、七瀬に歩み寄った。

「なにしてるんだよ」

 声をかけると、七瀬はすぐに振り向いてくれた。こんなところで、いつから七瀬は黄昏じみているのか。それとも単にさぼっているのか。七瀬の行動基準は、どっちの方向でもあり得る。

「大宝寺」

 俺を見た七瀬は、へらっと力なく笑う。七瀬はフェンスの向こうに視線を戻して、どことなくわざとらしい仕草で空を見上げた。「今日、すごくいい天気だぜ」

 空を見上げて、俺は頷く。真っ青の中に、雲ひとつ見当たらなかった。夏の近付くこの季節によく似合う、憎いくらいの快晴だった。

「もう授業始まってるぞ」

「ああ、うん。知ってる」

 ん、と俺は首を捻る。七瀬は上の空だった。嫌な予感が脳裏をよぎった。たった今のわざとらしい会話が、耳の中でリピートした。七瀬は単に授業をさぼっているだけ、とは思えなかった。

「俺、昼休みの間ずっと探してたんだけどさ」

「うん? 誰? なに?」

「俺がお前を。英語の教科書、忘れちゃったから借りようと思って」

「ああ、うん」

「でも、もういいや。授業始まってるし、今更教室に行くのもだるいし」

「うん」

 七瀬はやっぱり上の空だった。嫌な予感が再び胸を通り抜けていく。俺は七瀬の隣で胡坐をかいた。何秒間か沈黙が流れた後、ぐう、と音がした。腹の虫。俺ではなかった。飯食ってないのかよ、と言おうとした俺を、七瀬は阻んだ。

「俺もずっと探してたんだ」

 意味ありげな一言だった。俺は訊ねる。

「なにを」

「英語の教科書」

 英語の教科書。俺には意味がわからなかった。

「今日の三時間目、英語だって言ってたよな」

「そのときはあったんだ」

「なんだよ、そのときって。そのときあったら今もあるだろ」

「今日はラストも英語だから、ないと困るんだけどさ」

 移動教室のときにでも隠されちゃったのかな。七瀬はそう言って、困ったように笑ってみせる。喉から言葉が出てこなかった。笑ってはいるけれど、七瀬の横顔はこの上なく寂しげだった。

 教科書を隠された。高校三年生、飽くまで受験生なのに。冗談きつい。俺は、一発目にそう思った。でも、この学校はそういう場所だった。状況だとか年齢だとか、そんなものは関係ない。やりたいからやるし、思いついたら実行する。ここにはそういう人間が集まっている。そんなことは俺にもわかっていた。それに七瀬がそんなタチの悪い冗談を言わないことも知っていた。

「それで、飯も食わずにずっと教科書探してたってのかよ」

 こんな状況で冷静になれるはずもなかった。俺は早口でまくし立てる。

「目星はついてるんだろ。一緒に行くから問い詰めに行こう」

「授業中だぜ、今」

「関係ない。教科書がなかったら困るだろ」

 弱々しく七瀬は笑う。言い返しもせず、やり返しもせず、七瀬はいつも笑っている。だからいつも標的にされる。小学校の通知表に「いつも笑顔で――」と書かれる典型だ。七瀬は昔、本当にそう書かれていたに違いない。ふと俺は目を凝らす。フェンスの向こうに、住み慣れた街並みが見える。高層ビルとマンション、味気のないアスファルト詰めの地面。色彩に乏しくて、なんだかごつごつしている。人がたくさん歩いている様子はわかるし、建造物の窓からは、大人の姿も数多く見える。派手な茶髪や金髪、着飾った人間はたくさんいるのに、全体の色彩は均一に纏まって見える。手の甲で両目を擦った。瞬きして改めてフェンスの向こうを見下ろしても、そこにあるのは鮮やかさに欠ける灰色の世界だった。

 いや、と不意に七瀬は呟いた。「嫌」のイントネーションではなかった。

「あったんだ。教科書」

「どこに」

 すかさず訊ねる。間を開けずに七瀬は答える。

「俺の机の中。最初なかったのに」

 鞄に入っているはずの英語の教科書の紛失に気付いた後、七瀬はまず机の中を覗いた。理科室、音楽室、トイレのごみ箱、校舎裏のごみ置き場と、ものを隠せそうな学校中のポジションを探し回った。持ち物を隠されること自体は、七瀬は小さな頃から慣れているらしい。そんなことに慣れたなんて、七瀬にも誰にも、俺は言って欲しくない。

 教科書はクラスメートが持っていて、七瀬本人が教室を出て行った隙に、元の机の中に戻したということか。悪質なことしやがって。思わず拳を握りしめたものの、それを向ける対象はなく、やるせなく力を緩めた。

 胡座をかいて俯く七瀬の影に目をやった。本らしき物体が見えた。突発的に閃くものがあった。思いついたままに手を伸ばして、七瀬の横にある本を掴む。予想通り、英語の教科書だった。使い込んではいるけれど、裏表共に表紙の異常はなかった。俺が無許可で教科書を奪っているのに、七瀬は見向きもしてこない。そんな七瀬の様子も、明らかにアブノーマルだった。焦っても仕方がないのに、焦って教科書のページを繰った。そして俺は、一瞬、完全に息が止まった。

「なあ、大宝寺」

 感なく、七瀬がぼやいた。勢いで、俺は次々とページを捲る。

 七瀬は振り向くことをせず、フェンスの外側に視線を投げたままだった。

「俺さ、なんか悪いことしたかな」

 見開き単位でページが破りとられている七瀬の教科書から、目を離すことができなかった。それも破り方が乱雑で、どう見ても悪意が篭っている。当事者ではない俺が見てもショックだった。手早く指でページを繰ると、その分だけ心臓は跳ね上がった。

 年齢なんて関係なく、やりたいからやるし思いついたら実行する。ここはそういう連中の掃き溜めだ。承知の上で、俺はこの学校を選んだ。七瀬が日常的に酷い受け身であることも知っていた。七瀬は少しも俺に目をくれなかった。

「俺、これでも結構頑張ってんだぜ。毎日晩飯作ってるし、掃除も洗濯も一応やってる。必要なときは詩仁の弁当だって作ってる。カレーだって頻繁にするし」

 詩仁というのは、七瀬のたったひとりの弟だ。よく話題に挙がるし、珍しい名前だったからすぐに覚えた。七瀬と七瀬弟が歩いているところに、偶然出くわしたことがある。まず目に入ったのは、派手な金髪だった。その時点で、七瀬弟は七瀬と正反対に思えた。同時に、こんな不良が私立の名門に通っているのか。いや、通えるものかと疑った。七瀬弟に対して、俺が抱いた素直な感想だった。

 俺に気付いた七瀬は、笑顔で俺に弟に紹介した。「弟の詩仁。すっごく数字に強いんだぜ。あと、歌もすっげー上手い」

 無愛想に俺を睨みつける弟に、七瀬はいつもの笑顔で言う。「友達の大宝寺泰雅。すごいんだぜ。日本で一番強い高校生なんだ」

「一番?」

 訊き返した弟の前で、七瀬は楽しそうに肯定した。「大宝寺は柔道でインハイ優勝してるんだ。ほら、この前テレビに出てた。教えただろ」

 尚も七瀬弟は、俺を睨んでいた。お前は本当に兄貴の敵じゃないのか、とでも言いたげだった。よく見ると、七瀬弟はアイドル以上に端正な顔立ちをしていた。「美少年」と呼ぶ類ではなく、所謂「イケメン」。だから俺に刺すその視線は、余計にドスが効いていたのかもしれない。

 横から聞こえた深い溜息で、フィードバック現象は終わった。相も変わらず、七瀬は俯いていた。なんと声をかけたらいいのかわからないながらも、名前を呼んでみた。七瀬は答えず、ひとりで喋り続けていた。

「俺さ、こう見えても一生懸命なのに。昔から一生懸命やってるつもりなのに。なんでだろ。神サマは、そんなに俺のこと嫌いなのかな」

「神サマなんているわけない」

 だからお前は嫌われてない。俺が否定すると、七瀬はまた控えめに喉を震わせた。なんだか自虐的だった。俺の心がじくりと鈍く痛んだ。

「親がいないから」

 七瀬は続けた。

「親が家にいないから、詩仁のことは全部俺が見るんだ。学校が違ってたから運動会だって見に行ったし、俺が中学生になってからは、家庭訪問も個別懇談も、俺が親の代わりだった。正直、本当は俺も嫌だったけど」

 七瀬がなんの話を始めたのかわからず、俺は少し首を傾げた。ページを破りとられた英語の教科書は、まだ俺の手の中に残っていた。

「小さい頃から、詩仁の奴、よく俺に懐いてくれたぜ。いつでも俺の後をついてきて、なんでも真似したがって。服も靴も一緒じゃないと駄々捏ねてた。自分の弟ながら、結構可愛いんだよ」

「そう、なんだ」

 なんの話だ。掴めないけれど、相槌を打つしかなかった。七瀬はほとんど息もつかずに喋る。

「だから俺、いい兄貴でいたかった。詩仁も友達は多くなかったし。今はあんな派手な頭でピアスまでやってるけど、昔から本当に繊細なんだ」

「お前さ、もしかして」

 七瀬がなにを言おうとしているのか、わかったような気がする。それを七瀬本人が直接口にすることはあり得ないかもしれない。本当にそうだとすれば、七瀬がこの場でいきなり弟の話を始めたことも不可解なことではなかった。

「俺、結構一生懸命なんだぜ」

 笑いを含んだ調子で七瀬は言うけど、その調子が逆に重い。俺の心を内側から叩きつけてくる。やめろよ、七瀬。そう言いたいけど、そんな言葉は口から出てこない。

「ブラコンだよな、俺。詩仁も。わかってるぜ。でも、詩仁には俺しかいなかった。俺にはその自覚があった」

「七瀬、もうわかった」

「こんな日って、ほんとに胸が張り裂けそうだぜ。今日もいい兄貴を続けなくちゃなんないんだ。飯作って、笑いながら会話して、一緒にテレビ観て」

「わかったよ。わかったから」

「大好きなV系バンドの話するんだ。あいつは本気でそういうバンド組んで、デビューしたいと思ってる。だから俺は勉強して、あいつのメイクをしてやれるようになりたいんだ。その気持ちに嘘はないんだけど」

「わかったって」

 わかったから、もうやめろ。そう思うのに、そう言いたいのに、その一言をどうしても発することができない。やめろと言っても、今の七瀬は喋ることをやめないだろうし、仮にやめたとして、七瀬は次にどの場面で自分の心境を語るのか。そんな日は、もしかしたらもう二度と訪れないかもしれない。そうだとしたら、あまりに酷だ。もう喋るな、なんて言えるわけがなかった。

 七瀬は急に押し黙った。俯いたまま、ぴくりとも動かなかった。なんだかすごく痛々しかった。七瀬の中で、認めたくない葛藤が荒れ狂っている。認めることを躊躇している。下唇を何度も噛み直す横顔から、七瀬の無言の押し問答が俺に流れ込んでくる。七瀬本人が認めることを許せないなら、友達である俺が代行すればいい。七瀬に代わって、俺は言った。

「弟が重荷なんだな」

 突然七瀬は立ち上がり、大きく息を吐き出した。俺は言葉を続けた。

「お前、いい兄貴だよ。そういう面では、七瀬の弟ってすごく幸せ者だと思う。でも、お前も弟と同じ人間だぞ。自分をそんなに慕ってくれる弟がいるなら、ちょっとくらい頼ったって」

 瞬間の出来事だった。七瀬は、いきなり俺の手から教科書を奪い取った。暴力的で荒々しくて、普段の七瀬からは到底考えられない行為だった。

 呆然とする俺の目の前で、教科書が引き裂かれた。びり、びり、びり、と乾いた音だけが耳に響く。無表情で教科書を細切れにする七瀬は異様で、俺は目を逸らすことができなかった。

 表紙も含めて教科書を破り終えると、七瀬はポケットからライターを取り出した。こいつ、煙草とかやってたっけ。場違いにそんなことを思う俺を他所に、七瀬は屈んで、ライターを紙くずの山に近付ける。

 呪文のように、同じ音程で、七瀬は複数の言葉を囁く。七瀬の敵の名前だ。俺が知らない名前も紛れていた。どれも間違いなく、七瀬が恨みを抱いているクラスメートたちの名字だった。

 七瀬の中でライターが火を噴いた。「詩仁」。一拍置いて、その名前が口にされた。             

 火が紙くずに燃え移る手前で、ライターの火が消えた。ポケットにライターを引っ込めて、七瀬は再び大きく息を吐き出した。

 ここで俺は気が付いた。あの無表情は、殺意の具現化だったのだ。炎はそのための手段の形。たくさんの名前は報復の行き先。立場逆転の願望。思い至ると同時に、俺は違和感を覚えた。

「報復ってなんだよ」

 濁流の如く、俺の体内で疑問が押し寄せる。どう考えてもおかしい。俺の不自然な心境を感じ取ったかのように、七瀬は言う。

「察しがいいよな、大宝寺」

「さっきの名前って」

「教室にいる奴らを殺すか、詩仁を殺すか、どっちかを選べるとしたらさ」

 俺はたぶん、迷わず詩仁を殺すと思う。温度のない七瀬の一言で、脳天から足先が一気に冷えた。無意識に俺は理由を問うた。

 七瀬は口を閉じている。俺は言う。

「いつも言ってるじゃないか。自慢の弟だって」

 七瀬は浅く頷いた。その反応を受けた上で、俺は重ねて質す。

「じゃ、なんでなんだよ。いじめっ子を殺すならともかく、なんで弟を殺すんだよ」

「詩仁がいなくなったら、俺、後はなにもかもどうでもよくなると思うから」

 七瀬は言う。詩仁以外の奴らを殺せば、自分は人を殺したという罪悪感に苛まれるかもしれない。そうじゃなくて、すっきりするかもしれない。なんらかの殺人隠蔽工作をしたり、保身意識が芽生えたりするかもしれない。とにかく、奴らを殺した場合、間違いなくなにかの感情が芽吹く。

「詩仁なら、きっとなにも残らない。詩仁が消えたっていう事実が、漠然とそこにあるだけだと思う」

「そこまで弟が邪魔なのかよ」

「そんなことない。なんだかんだ言っても、詩仁は大切な弟なんだし」

 喜んでいるような疎んでいるような、七瀬は判別の難しい表情ではにかんだ。クラスで阻害されている以上、七瀬がいつも本気で笑っているとは俺も思っていなかった。でも、甘かった。俺が考えていた以上に、七瀬は空白だった。傷つきすぎて、追いやられすぎて、その中で弟のために毎日を生きている七瀬は、既に穴だらけだった。最早、空白。空洞。いつも七瀬だけが傷ついている、なんて言わない。でも、いつも七瀬は傷つく役だ。そうして今日もずだぼろになりながら、七瀬はよい兄貴であり続ける。七瀬の弟。唯一、兄にだけ素顔を曝す存在。素顔を曝せる存在だと、認識される七瀬の存在。それは幸福な構図なのかもしれない。でもそれは、思い詰めた人間の前では、プレッシャーにしかならない。今の七瀬には、弟はあまりに重すぎる。俺に事態を打開する策はなかった。

「弟を本当に死に追いやれるとしたら実行するのか」

「まさか」

 七瀬はまた笑う。その笑顔は、俺には精神的なすべての痛みの裏返しとも取れる。

「殺すわけないぜ。それに、俺が弟を殺すような輩に見えるかよ」

 七瀬が弟を殺さないことは、ごくスムーズに受け入れることができる。自分のことはどうであれ、優しい七瀬は、間違っても人を傷つけたりしない。弟と向かい合うなら尚更そうだ。だからこそ、俺は思う。

「でも、弟がいる限りは辛い目を見る」

 七瀬は、なにも言わなかった。七瀬の口元の笑みは、嘘だ。

「弟がいなくならない限りは、お前は幸せになれない。幸せにならない」

「そういうこと言うのってよくないぜ。俺はすごく幸せだ。詩仁は俺の自慢の弟だ。大宝寺だって大事な友達だし」

 言葉の端から見抜くのも、感性で掴むのも簡単だった。七瀬は嘘を吐いている。七瀬は弟に縛られている。縛る鎖は切られるべきだ。七瀬は自由になるべきだ。誰にも縛られず、迫害されず、傷つけられずに。自分自身を生きるべきだ。そうしなくちゃいけない。

 今にも壊れそうな七瀬の横顔を、俺は黙って見つめていた。俺が視線をやった先には、破けた教科書が散乱していた。あの教科書は実はお守りで、そのお守りが壊れた代わりに七瀬が幸せになる、みたいな魔法があればいいのに。あるはずのない都合の良い妄想が、出し抜けに俺の脳裏をよぎった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ