夕陽と公園、倉林咲華(3)
長いこと放置してたけど、どこかの誰かがお気に入りに登録してくれてました。
ありがとう! まとめて続き更新します。
黒基調の色彩に、ピンク色の柄が縞模様に入っていて、確かにそれは可愛らしかった。カップの部分にフリルまでついていて、女の子が魅力的に感じるには申し分ないデザインだ。それはわたしも思った。でも、紙袋を覗いて驚愕したのは、それとはまた違う話だった。ああ、なんてこと。わたしの視界は一瞬ブレた。眩暈がした。何故か相当自信ありきという顔で、鈴菜は言うのだった。
「そのお店、結構高いのよ。咲華のために私が特別にプレゼントしてあげるわ」
しかもなんだか上から目線だった。呆然として、わたしは紙袋の中のそれを眺めていた。そのうちに、その場にいる全員の視線を集めているような気がしてきた。はっとしたわたしは、慌てて紙袋の口を小さく丸める。鈴菜はわざとらしいブーイングを飛ばしてきた。
「その紙袋、可愛いでしょ。大事に保管しといたら、なにかに使えるかもしれないのに」
「なんなのよこれ、一体なにに使えって言うのよ!」
「22にもなって、とことんピュアな女ね。それ使うとしたらあれしかないじゃない」
頬がみるみるうちに紅潮していくのがわかった。とんでもないことを、鈴菜は、しれっと言いのけた。信じられないこの現実に、わたしの意識は飛んでいきそうだった。しかもこれを、こんなものを、鈴菜は、わざわざ会社の食堂で渡してくる。せめて更衣室とか。大胆な鈴菜が、わたしはときどき理解できない。
恐る恐る、紙袋の中身をもう一度確認してみる。可愛くないよりは可愛いほうがいい。でもそれは、あまりに派手な下着のセットだった。以前に鈴菜が言っていた「作戦を大幅に変更したほうがよさそう」というのは、こういうことだったのか。今更気付いた自分の鈍さが心底情けなくなった。
「あんた年上なんだし、そのくらいのことしたっていいわよ。男っていうのはね、年上の女の色っぽさに惑わされるもんなのよ、咲華」
別に惑わさなくもいいわよ。当たり前のように言い切る鈴菜に、わたしは内心で突っ込みを入れる。でも、まさか本当に、その派手な下着を身に着ける日が来ようとは。そのときのわたしは、夢にも思わなかった。
ここか。目的地に到着したことを確認して、わたしは足を止める。目の前に聳え立つ白い建物は、一目見ただけなら、普通の大きな病院だった。でも、ここは身体的な病気の治療をする病院ではなかった。身体的ではない病気。つまり、精神的な病気。まさかこんな場所が本当に存在していて、しかもそこに、わたしが足を運ぶことになるなんて。病院の存在自体は知っていたけれど、今までのわたしの世界では完全に蚊帳の外の空間だった。蚊帳の外。自分で浮かべた言葉なのに、嫌な気持ちになった。わたしこそ蚊帳の外かもしれなかった。本当に来てよかったのか、ここに来るまでの間も、わたしはずっと考えていた。
鈴菜から貰った下着を身に着けているのは、変な気があったからではなかった。と言うより、変な気があって病院に来る人なんていないと思う。意味は特になかったけれど、今日はこれを選んでみた。なんだかしっくり来ないものの、そうとしか説明できなかった。
ここに泰ちゃんがいる。初めて知ったときは冗談だと思った。冗談じゃなかったから、今わたしはここに来ていた。泰ちゃんは、相当不安定な状態のようだった。思い込みと錯乱が酷くて、お見舞いに来た両親ふたりにさえも、暴言をぶつけてしまうくらい。なんと言われたのかまでは聞かなかった。でも、説明してくれた泰ちゃんのお母さんの憔悴から判断すると、余程辛い言葉を浴びせられたのだと思う。わたしが最後に泰ちゃんと会話したのは、一緒にハイスペースランドに出かけた日だった。そのときの泰ちゃんからは、こんな現状はまったく想像できなかった。
決心がつかず、わたしは病院の前で突っ立っていた。9月に入ってそろそろ一週間経つというのに、日差しは真夏のようにきつかった。お気に入りのサンダルはまだまだ活躍してくれそうだ。
病院の敷地から、高校生くらいの男の子が出てきた。一瞬泰ちゃんかと思ったけれど、泰ちゃんとほかの人を見間違えない自信があったし、なにより泰ちゃんがひとりで病院から出てくるわけがなかった。目が合うのはなんとなく気が引けて、わたしは顔を下に向ける。男の子も俯きがちだったけれど、わたしとすれ違ったときだけは、こんにちわ、差し障りのない挨拶をしてくれた。わたしも同じ挨拶を返す。男の子は振り返りもせず、さっさと歩き去っていった。あの男の子も、知っている誰かがここに入院しているのだろう。彼の心境は察することができる。
「あの」
背後から声をかけられて振り返った。歩き去っていったはずの男の子が立っている。話しかけられる覚えのないわたしは戸惑うだけだった。
男の子は、いきなりすみません、と口にする。わたしはとりあえず首の手を振り、害意を感じていないことを伝える。右の手首にかけた小さなビニールバッグが揺れた。中身は家で用意したカットフルーツだった。手ぶらでお見舞いというのも妙だし、無難な選択だと思う。
男の子は、悩ましげで繊細そうな瞳を伏せる。そしてわたしの目を見たかと思うと、なんの前触れもなく切り出した。
「来るの、初めてなんですか」
「え?」
「中からずっと見えてたんです。長いこと突っ立ってるから、初めて入るから抵抗があるんじゃないかと思って」
そこで男の子は、悪戯っぽく笑った。わたしはちょっとどきっとして、慌てて否定の意を示した。不意な笑顔に、不覚にもはっとしてしまった自分に対しての否定でもあるし、初めて入るから抵抗がある、という男の子の推理に対しての否定でもあった。わたしが病院に入るのを躊躇っていたのは、まあ確かに、場所が場所であることも多少は含まれてはいたけれど、大部分は違っている。わたしは今、本当に泰ちゃんに会っていいのか、それを考えていた。
軽い笑顔を崩さずに、男の子は言う。
「俺、正直、結構抵抗ありました。だってここ、精神科でしょう。今思うと偏見だったんだろうけど、俺には、一生関わりのない場所だと思ってました。今日は2回目だから、ちょっと慣れたけど」
自然に放たれた単語が、わたしの胸にちくりと刺さった。精神科。わかっていたことなのに、改めて耳にするとなんとも言えない気持ちになった。自分で意識して「精神病院」と言わないようにしていただけに、その響きは強烈だった。
まあ、関わりがあるのは俺じゃなくて、俺の友達のほうなんだけど。男の子は、少し寂しげにそう言った。男の子の表情は、なんだかわたしの気持ちにシンクロしているような気がする。わたしはなんだか切なくなってきて、小さく笑ってみた。余計に切なさが込みあげてきた。やり場なく、男の子から目を逸らす。今のわたしは、雰囲気よくお見舞いなんできないかもしれない。今日はもう諦めて、家に帰ろうか。わたしの中で、泰ちゃんのお見舞いをする選択と、お見舞いを取りやめて帰宅する選択が揉み合っていた。後者が発する圧倒感に、前者は敗北寸前だった。帰ったほうがいいかも。わたしがそう思って踵を返しかけた矢先に、男の子がぼやいた。そのぼやきに、わたしは耳を疑った。
今なんて、と、わたしは男の子に詰め寄った。男の子は少し驚いた顔をして、同じ言葉を繰り返してくれた。目鼻整った彼の顔立ちも、今は全然目に留まらなかった。
「泰雅の奴、まさかあんなことになってるなんて、って」
「その子、泰雅って言うの? あんなことって?」
「俺の独り言ですよ」
「その泰雅って子、名字は漢字3文字で『寺』って入ってない?」
男の子は、ぱちぱちと目を瞬かせた。まったくもってびっくりした、という反応だった。そこでわたしは我に返った。
男の子の友達の名前が、たまたま「泰雅」だっただけ。男の子が言う「泰雅」と、わたしが示す「泰雅」は別人に決まっている。自分にそう言い聞かせた。わたしは、泰ちゃんに対して敏感になりすぎている。ただでさえそうだったんだから、今なんてもっとそうだ。泰ちゃんが精神病棟に入院したと知らされても、泰ちゃんに向かって募り続けるわたしの気持ちに、歯止めがかかることはなかった。だから、ここに来てしまった。そんな状況で、目の前の男の子の友達とわたしが求めている人の名前が被っている。嫌な偶然だった。まるで意地悪な神サマに弄ばれているような心地だった。
「泰雅を知ってるんですか」
思考の渦に絡め取られていたわたしを、男の子の声が現実へと引き戻す。ついさっきの寂しそうな面影は微塵もなく、真剣な眼差しでわたしの目を見つめていた。
「大宝寺、でしょう。俺、クラスメートなんです。上野って言います」
「クラスメート?」
「泰雅が倒れたとき、俺、そこにいました。誰がなにをしても全然反応しなくて、もう本当に死んだのかと思った」
背中から冷水をかけられたみたいだった。横たわったまま、まったく動かない泰ちゃんの姿を、わたしは想像してしまう。わたしとハイスペースランドに出かけたときの泰ちゃんは、普通だった。ちょっとなにかで悩んでいるような、いつもと様子が違う部分はあったけれど、それは受験生である泰ちゃんの立場と年齢、言葉から察するに、泰ちゃんの優しい性格からきているものだと思った。でも本当は、そうじゃなかった。今頃わたしは気が付いた。
上野というこの男の子は、泰ちゃんに異変が起こったとき、近くにいた。彼の言う「泰雅」とわたしが示す「泰雅」は同一人物だった。この子に訊けば、泰ちゃんが急に精神病院に入ることになった理由がわかるかもしれない。家で過ごして、学校に行って、家族と会話する泰ちゃんの日常。それが失われて、現在に至る過程。知りたい。知らなきゃ。わたしは、上野君を問い質さずにはいられなかった。
「教えて。泰ちゃんになにがあったの」
「失礼ですけど、俺からはとても」
「お願い、教えて。心配なの。泰ちゃんになにがあって、今はどうなってるのか教えて。お願い」
わたしの剣幕に押されたのか、なにかを言おうとしていた上野君の口が閉ざされた。上野君は、少し考え込むようにして周囲を見渡した。
「ここじゃちょっと、病院の前だし。泰雅の先生が見てるかもしれないから」
ついて来て、と言うように、上野君はわたしに合図した。自分から言い出しておいて、わたしは少し躊躇った。泰ちゃんが日常生活を失った理由を知ることが、本当は怖かった。だけど、今ここでこの子からしか、わたしは情報を得られない。胸の奥で未だに膨れあがり続ける躊躇を振り払い、わたしは上野君の背中を追った。
「泰雅が入院することになった理由は、聞かれてないんですか」
近くの公園のベンチで、わたしと上野君は、少しの距離を取って肩を並べていた。ハイスペースランドに行ったとき、わたしと泰ちゃんが待ち合わせた場所だった。大して昔の話でもないのに、あのときのことが何年も前のように思えた。
泰ちゃんが入院することになった理由は知らない。泰ちゃんのお母さんは、そこは話してくれなかった。気にはなったけど、泣き腫らした真っ赤な目をして、辛そうに俯く泰ちゃんのお母さんを言及することはできなかった。「聞いてない」
わたしはそれだけ言った。上野君はなにも言わず、正面を見ていた。夏休み明けの土曜日の白昼、人口密度は、一ヶ月前とそう変わらなかった。
「ここで」
上野君は、低く声を発する。
「泰雅はここで、人を殺そうとしてました」
聞き間違えた。即刻、わたしはそう思った。
上野君は、これは事実であるとはっきり告げるかの如く、ゆっくりと喋る。
「泰雅の友達の弟です。馬乗りになって、首を絞めて、殺そうとしてたんです。殺意は明らかだったし、白昼堂々あんなことをしたんだから、たぶん、保身意識はなかったんだと思います」
「なんで、そんなこと」
「わかりません。でも、その弟に、泰雅は言ってました。結局一番悪いのはお前なんだって。お前さえいなければ、俺は普通の生活ができた、って」
なにそれ。意味がわからない。上野君に問うたところで、彼にも答えは用意できないだろう。絶句、その言葉ほど、今のわたしを形容するベストな表現はなかった。泰ちゃんが人を殺そうとしていた、それを知っただけで、わたしの意識は朦朧と霞む。
わたし、泰ちゃんのこと、なにも知らないんだ。ただ一方的に好きなだけで、泰ちゃんのことを知らない。バカな自分自身を、垣間見たような気がした。
「その弟の兄貴、つまり、泰雅の友達です。泰雅の友達が、弟を助けに来ました。まぁこの兄弟も、ごたごたあったみたいなんですけど。俺が無理矢理兄貴を連れてきて、そしたらちょうど、周りの大人に泰雅と弟が引き剥がされてたところでした。泰雅が起こした事件は、なんとか未遂で終わったわけなんですけど」
「事件?」
「警察沙汰になってますから。テレビでも新聞でも報道してないのは、泰雅の友達の父親が警察だからです。割りと権力のある人みたいで、泰雅のことを考慮したのか、それとも息子に配慮したのか、あっという間に事実を揉み消しちゃいました」
知らないでしょう、殺人未遂事件。上野君にそう振られたわたしは、おもむろに頷いた。そう言えばそんな事件のことは、ニュースではやっていなかった。
「今考えると、泰雅は夏休みに入る前から様子がおかしかった。俺、薄々気付いてはいたんです。いつからかはわからないけど、とにかく、いつもとは違ってました。夏休みに入ってからは特に、途中から補習にも出て来なくなったし。メールしても、なんの音沙汰もありませんでした」
様子がおかしかった、と言えば、思い当たる節がないわけではなかった。ファミレスでふたりしてパフェをつついていたら(もちろんそれぞれひとつ)、遠くの席にタレントの立川景らしき人物を発見したときだ。泰ちゃんの友達と立川景が友達である、と発覚した瞬間だった。その友達の名前を言っていたような気がするけれど、なんだったかは思い出せなかった。ともかく、泰ちゃんはあのとき、異様に「俺は知らない」と繰り返していた。でもあの後、泰ちゃんは、すぐにいつもの泰ちゃんに戻った。結局告白できなかった自分の情けなさも相俟って、わたしは、泰ちゃんの変化のことなんて、意識の外に追い出していた。
あれはもしかして、泰ちゃんがこうなってしまうことの前兆だったのだろうか。上野君の話から考えてみると、そうとしか思えなかった。じゃあやっぱり、わたしはバカだった。自分のことで頭がいっぱいで、泰ちゃんの出す信号になんて見向きもしていなかった。まず気付いていなかった。
「七瀬です。その友達の名前」
よく覚えてないけれど、あのとき泰ちゃんが口にしていた名前は、なんだかそんな響きだったような気がする。上野君が突然名前を出したことには驚いたけれど、これできっちり思い出した。泰ちゃんは、わたしが立川景を見つけるよりも前に、七瀬君と七瀬君の弟を発見した。
「俺の憶測だけど、泰雅はたぶん、なにかのときに七瀬が弟のことで苦労していることに気付いたんだと思います。いや、苦労なんてもんじゃなく、七瀬は、弟に対してある種の殺意じみたものまで覚えていることを知ったんでしょう。だから泰雅は、最終的には七瀬の弟を殺そうとしたんだと思います。自分が唯一の友達だと認めている、七瀬を救うために」
「でも、それじゃおかしくない? 泰ちゃんはその弟に対して、お前がいなければ俺は普通の生活ができてた、って言ってたんでしょ」
「今俺が言ったのが、1回目の殺人未遂です。この公園で起こしたのが、2回目かな」
「なんでそんなことがわかるの!?」
思わず声が大きくなった。でも、仕方ないことだった。上野君が言っていることは、確かに最初は筋が通っているように聞こえた。最後の一言で、一気に信憑性がなくなった。事実は事実として、わたしも受け止める。現に泰ちゃんは、今、精神科に入院している。だけど、この公園で起こすよりも前に、泰ちゃんは人を殺そうとしている。上野君の口ぶりから察すると、標的は同じく七瀬君の弟だ。あまりに突拍子がなくて、わたしにはとても信じられなかった。上野君が泰ちゃんの友達を騙って、わたしをからかっているだけのような気さえした。
公園にいた子供たちの目が、わたしに集中していた。わたしの反応は予測できていた、とでも言うように、上野君は冷静に言う。
「憶測です。本当のことは、本人に聞かないとわかりません」
泰ちゃんのクラスメートなら、上野君は、わたしより4歳年下のはずなのに。わたしと違って取り乱すこともなく、大人じみたこの余裕が憎らしかった。
「でも、俺はそう思ってます。泰雅は、七瀬の弟を2回殺そうとした。この1回目と2回目の間で、泰雅の精神が酷く攻撃されるような、そんななにかが起こり続けてた。日常的に精神が圧迫され続けることで、泰雅の神経は、相当過敏になってたんでしょう。些細なことでも許せなくて、それを必要以上に限られた原因に結びつけてしまう、と言うか。まあ、それがつまり七瀬の弟ですね」
なにやら難しい話で、わたしの頭に膨大な量のクエスチョンが渦巻いた。上野君は一方的に話を続けるので、わたしはとりあえず口を閉じる。
「1回目の未遂は、俺が話した通り、七瀬を護ることが最優先された選択だったんだと思います。問題は2回目で、お前がいなければ俺は普通の生活ができた、っていう言葉から察するに、1回目の未遂を軸に起こった泰雅の精神世界の異常を正す目的が無意識のうちにあったんでしょう。端的に言えば、ここで起こった2回目は、泰雅の中ですべての異常の原因と思われる七瀬の弟の抹消を兼ねて、既にぼろぼろの精神だった泰雅なりのSOSだった」
ここで上野君は、屈託なく、人差し指をたてた。
「と、俺は考えます」
「それ、病院の先生から聞いたんじゃないの」
「まさか。俺なんかに話してくれないですよ。精神的分野は、いろいろ判断が難しい部分もあるだろうし。全部俺の想像です。でも、暴露すると8割くらいは当たってる自信があります」
ちょっとだけ得意そうに、上野君は笑った。なんだか込み入った内容だったけれど、上野君の話は確かにそれっぽく、説得力はあった。説得力があるとなると、わたしも出てくる言葉がなかった。そんなに分析できてすごいね、とわたしが言うと、上野君は、特に嬉しそうな様子もなく軽く笑う。なんとなく自嘲的で、寂しげな笑顔だとわたしは感じた。
「人間観察、趣味なんです。今回は、俺のもの好きが幸いしました。泰雅の様子もおかしかったけど、七瀬の様子もちょっと変だった。あのときは、七瀬のほうを尾けて正解だったな」
「つけるってなに?」
「いや、お気になさらず」
上野君は、ひらりと片手を振った。そして、上野君は流すように言った。
「泰雅のこと、好きなんでしょう」
なにを飲んでいるわけでもないのに、一気に噎せ返りそうになった。無駄に咳が出そうになるのを懸命に堪えているわたしを尻目に、上野君は、容赦なく言葉を続ける。
「好きな人が話題になったり、近くにいたりする人の反応ってわかりやすいですからね。わからないと思いました?」
顔が真っ赤になっていくのが、嫌というほど自分でわかった。確かに、今のわたしはちょっとわかりやすすぎた。泰ちゃんの話題に飛びついていたし、飛びつくというよりむしろ、知っていることがあるなら教えてと上野君にお願いしたのはわたし自身だった。
ばれてない、と思うほうが無理な話だった。上野君と目が合うのが恥ずかしくて、わたしは少し俯いた。それを見て面白がるような気配もなく、上野君は言う。
「好きなら尚更です。今の泰雅を見ると、相当ショックだと思います」
それに、その差し入れはタブーですね。上野君はそう言いながら、わたしの手首にかかったビニールバッグを指し示した。
「今の泰雅は、水すらまともに飲めません。病院に運ばれたのも、ここで何度も何度も吐いて最終的に倒れたからです。なにを食べても、全部戻しちゃうみたいで」
「泰ちゃんは、そんなに悪いの?」
「悪い、と言うか。まあ、それもそうなんですけど。一番は、その、見た目で」
「どういう意味?」
明らかに言いにくそうに口篭る上野君に、わたしは重ねて問い質す。上野君は、横目でわたしを見た。すぐにわたしと目が合った。
「そうですよね。お見舞いに行くなら、どうせわかることだし」
折れたような溜息を吐くと、上野君は再びわたしから視線を逸らした。空を見上げがちな姿勢を取る上野君に、なんとなく先導されて、わたしも空を見上げてみた。真夏の空より、少し色素の薄れた青空がいっぱいに広がっていた。泰ちゃんが入院してしまったのに、空はあまりに爽やかだ。正直、疎ましかった。
じゃあ、覚悟して聞いてください。そう前置きした後、上野君は再度言葉を紡ぎだした。覚悟、という響きが重くて、わたしはすぐには頷けなかった。それでも覚悟するしかなかった。泰ちゃんのことなら、知ることにどれだけの決意が伴うとしても、わたしは知りたい。両手を強く握り締めて腹を決める。小さく頷いてみせると、頭を傾けた拍子にカットフルーツの香りがわたしの鼻をくすぐった。今の泰ちゃんは、この甘い匂いでさえも吐き気を催すのだろうか。
わたしの目蓋の裏側には、ひたすら泰ちゃんの姿が映る。大会で優勝しても嬉しくなさそうな複雑な表情、意表を突かれたように目を丸くした表情、絶叫マシーンに乗りすぎて脱力している表情。飾りっけなく、はにかんだその姿。一ヶ月と少し前、待ち合わせの時間にかなり遅れたわたしを、ずっと待ってくれていたその横顔。素のままの泰ちゃんの笑顔が、容赦なくわたしの頭の中で無限に再生される。
「泰雅の奴、羨ましいよなぁ」
長い話を終えた後に、上野君は一言ぼやいた。厳密には、ぼやいたような気がした。わたしが首を傾げると、上野君は少し苦笑いがちに言う。「完全に、こっちの話ですから」
軽く伸びをしながら、上野君は座りっぱなしだったベンチから腰を上げる。なにを言う間もなく彼を見つめていると、上野君はわたしのほうを振り向いた。その表情はどういうわけなのか悪戯っぽく、わたしを観察するような視線を投げかけてくる。悪気のある雰囲気は全然ないけれど、わたしには、それが上野君のどういう意図なのか掴むことはできなかった。
「それじゃ、俺はここで」
「帰るの?」
「まぁ、用事も済んだことですし」
別れの挨拶を一方的に告げ、歩き去っていく上野君を、わたしはぼんやりと見つめていた。そうか、もう帰るんだ。能天気に、そんなことを考えていた。それと同時に、自分の手に持ったカットフルーツが、突然奇妙な存在感を放ち始めた。思い至って、上野君を呼び止めた。なんの抵抗もなく振り返ってくれた上野君に、わたしは小走りで近付いた。