日鐘第二高等学校3年D組 七瀬嘉仁(5)
「なんかあったの? 今日の嘉仁、ちょっと変だよ」
そう言って、景は俺の胸元から手を離す。俺は黙って2歩さがった。部屋に充満するハンバーガーとポテトの臭いは、相変わらず不快だった。
「黙ってちゃわかんないだろ。嘉仁ったら」
こいつには、景には、俺の気持ちがわかるはずがなかった。頭痛が遠のいていくのがわかる。俺の視界に詩仁がいないことは、今の俺にとっては、なによりもすっきりと片付いているように感じられた。その感覚には、最低限、嘘はなかった。詩仁さえいなくなれば、俺は、生活のうちのあらゆる嫌な現象から解放される。俺がずっと昔からそう考えていたことも真実だった。嘘みたいだったのは、ついさっきの爽快な気分だった。
景が、言い難い表情をする。心のどこかでこうなることを夢想していて、それが本当に現実になった。そう考えているような、複雑な顔だった。喜怒哀楽のどれを取っても、雑誌に掲載すれば、景は多くの人を魅了する。故意に作ったものではないその表情なら、今の景はものすごくレアだった。
「みんなが俺を、アテにするから」
「助けて、七瀬」。大宝寺の声が、俺の耳の奥でリピートした。「お前だけは信頼してるっぽい」。続けて、真新しい上野の声が耳朶で再生される。どれがというものではなく、詩仁の声が、無限に鼓膜に蘇る。詩仁のものではない、ほかのいろいろな声が、混ざり合って俺の聴覚を滅茶苦茶に叩いている。どの言葉を誰が発したのか、記憶の中の区切りさえも、上手につけることができなかった。
「我慢できなくなることだってあるぜ。俺、オシャカサマじゃないんだから」
景に殴られた左の頬が、やたらと熱かった。あの温厚な景が、まさか拳を飛ばすとは。俺の本音暴露が、相当頭にきたらしい。
景は突然、やりきれない様子で俺から目線を動かした。そのまま俯きがちに、景は言葉を搾り出す。
「殴ったりして、悪かったよ」
いくらかの合間を置いて、俺は、無言で首を横に振った。
「でも、アテにするってどういうことなんだよ。そりゃ嘉仁は家のことも全部やってるみたいだし、大変だとは思うけどさ。別に、みんながキミに面倒なことを押しつけてるってわけじゃないだろ」
「同じことだぜ。俺が自分で、押しつけられてるって感じるんだから」
そうと言われては返す言葉が見当たらないのか、景は、一度俺に戻した視線を再びずらした。
「なあ、景」
呼ぶと、景は重たそうに視線位置を高くする。今度は俺が、景を視界の中心から逸らす。
「俺、そんなに頼りになりそうかな。そこまでしっかりして見えるかな。家事が得意なのは、言ってみれば条件反射なんだぜ。好きで得意になったわけじゃない」
「結果オーライじゃないか。料理でもなんでも、できないよりはできたほうがいいし」
「俺に友達がいるのが、そんなに悪いことだと思うかよ。学校で孤立してたら、学校じゃないところでもひとりでいなきゃダメなのかよ。別に芸能人の友達がいたっていいじゃないか」
芸能人。そのワードに、予想通り景は反応した。景には、柔道日本一の友達が学校にいるという話をしたことがある。言うまでもなく大宝寺のことだ。
景は、大宝寺が俺になにをしようとしていたかなんて知らない。でも、聡い景なら、記憶の渦からすぐに大宝寺のことを引っ張り出せると思う。俺が景に話した友達の話題と言えば、未だかつて、大宝寺のこと以外にはひとつとしてなかった。
「学校でなんかあったんだろ、嘉仁。話してごらんよ」
「お前に話したら、どうなるっていうんだよ」
「どうにもならないかもしれないけど、誰にも言わないで溜め込むのは嘉仁の悪い癖だよ。相談したり、愚痴ったりするくらい構わないじゃないか。僕、一緒に悪口言えるよ」
それもそうで、どうなんだろうか。会ったこともない人間の悪口を言える、なんて。俺は、ちょっと面白くなった。テレビに出たり、雑誌に載ったりしていても、景も普通の人間だ。そのギャップも、景の魅力なんだろうか。
詩仁と優輝君が戻ってくる気配は、まだ全然なかった。失せろとは言ってやったものの、詩仁は、この家以外に帰る場所なんてない。ここに帰ってくることは、最初からわかりきっていた。もちろん、俺が帰る場所もこの家ひとつだけだった。だからこそ俺と詩仁は上手くやらなくちゃいけなくて、なにより俺たちは、血の繋がったふたりきりの兄弟だ。だから余計に鬱陶しくなることがある。俺が兄だから、などと言う義務感だけでは、どうしようもないときがあるのだ。自分で意図して、そんな言いようのない状態になるわけじゃなかった。それができるなら、その論理を逆に使って、俺は、言いようのない状態にならないようにする。その芸当さえ実現できれば、俺も詩仁も、こんな嫌な思いは一切しなくて済む。まさしく、俺の理想だった。
詩仁も嫌な思いをしている。自分で思い返して、息苦しくなった。酷い言葉を投げつけたのは俺の意思だったのに、詩仁がそれで自分を責めていると思うと、胸の奥がざわついてくる。気分が悪い、という感覚とは違っていた。もやもやと波立つ気持ちを押し込めるように、胸を両手で強く押さえ込む。弟を想う兄としての愛情が、まだここに、残っているというのだろうか。微かなその気持ちが疎ましいような気もするし、ほんのちょっぴり、愛しいような気もする。怒りたいのか喜びたいのか、俺の中で、感情が複雑に絡み合っていた。俺は今どうしたいのか、自分でもよくわからなかった。
「兄としての愛情、か」
口に出して、俺は、その音を確認してみる。声にすれば、陳腐な響きだった。その割りには、なんだか妙な安堵をもたらしてくれる。
夏休み前の出来事の記憶が蘇ってきた。家の玄関で、詩仁が大宝寺に首を絞められていた、あの衝撃的な光景だ。必死に抵抗するも確実に弱っていく詩仁と、真っ赤に充血した、俺が知っている本人とは思えない、鬼のような形相の大宝寺。手加減なく、容赦することなく、大宝寺は、床に組み敷いた詩仁の細い首を両手で圧迫していた。
「夏休みに入る前、詩仁、殺されそうになったんだけど。俺の友達に」
目の前で事件が起こっていたのに、あのとき俺は、どうして警察を呼ばなかったのか。被害に遭った詩仁も、あの日以降、大宝寺とのその一件をまったく口にしていない。大宝寺本人も、何事もなかったかのように俺に接してくる。俺が大宝寺にそうしていたんだから、大宝寺もそうするのは当たり前だった。俺が警察に通報しなかった理由は、結局誰にも明かされることはなかった。
え、と冷静に驚く景に構わず、俺は続ける。
「俺、通報しなかった」
「友達って嘉仁がずっと前に言ってた子? 柔道が強いっていう、大宝寺君、だっけ」
「うん」
景は一度、躊躇うように目を伏せた。その後、やっぱり躊躇うように、景は俺に問う。
「なんで」
「恩人だ、って思ったから」
「恩人?」
疑問符をつけて、景は、俺と同じ台詞を繰り返した。俺の答えは、景には、まったく予想できないもののようだった。そりゃそうだよな、と、俺は厭味ではなく思う。
あの日、玄関で妙なことが起こっているとはすぐに気が付いた。玄関で詩仁がなにか声を荒げているのは俺の部屋まで聞こえていたし、それに呼応して、聞き覚えのある声も反響していた。大宝寺のものだと、すぐにわかった。ふたりの言葉を完璧に聞き取るには至らなかったけれど、大宝寺が詩仁に殺意を向けていることは、はっきりとわかった。その場限りの脅しではなく、大宝寺は、本当に詩仁を殺そうとしていた。そうと理解しても、俺はまだ、部屋に篭ったままだった。詩仁を殺してくれるのか。そんな安心感さえ覚えていた。
「死ねばいいと思ったんだ。詩仁がいなくなってもいいって。むしろいないほうがいいんだから、詩仁を殺してくれる人が現われて、ラッキーだと思った。後のことなんて、なにもかもどうでもよくて」
そもそも、俺が部屋に閉じ篭ってしまう理由は、いつだって学校とは無関係のところにある。厳密には無関係ではないけれど、学校のことなんて、せいぜい大本の原因の上乗せ程度のものだ。俺がそういう結論に至るのも、仕方のない話だった。俺が学校で孤立するのは、小さな頃からいつでも俺にくっついていた詩仁に起因する現象なのだ。みんながまだ遊んでいる夕方には、俺は詩仁のご飯を用意しなければならなかったし、普通に遊べる昼間の時間帯でも、近付いてくる人間を阻む詩仁の傍にいなければならなかった。俺と詩仁は学校が違っていたから、尚更そうだった。ブラコンと言われようが、行き過ぎと言われようが、ガードが固いくせに寂しがり屋の詩仁を、俺は、どうしても放っておくことができなかった。一般的な家庭の子供が認識する兄弟の意味と、俺や詩仁が認識する兄弟の意味は、たぶんまったく異なっていた。今でもきっとそうだ。
部屋を飛び出し、階段を駆け下りて詩仁を助けに入ったことは、俺にとっても想定外の出来事だった。詩仁を助け起こしながら、俺は、自分で自分に問いかけていた。意味がわからなかった。あのままずっと、見て見ぬふりを続けていれば、詩仁は確実に死んでいた。詩仁の消失は、俺の望みでもあるはずだった。黙っていれば気持ちが楽になることは明白だったのに、わざわざ俺は、自分の手で、願いを叶えてくれようとしていた大宝寺を妨害した。あのとき大宝寺に向けた言葉は、大宝寺に向けたふりをして、俺が俺自身にかけた言葉だった。「人は、人を理解できない」。俺は俺を理解できない、率直なその感想を、外に吐き出しても違和感がないように加工した台詞だった。
「でも俺、結局、自分で詩仁を助けたんだぜ。詩仁が死ねばいいと思ったのは本当なんだけど、無意識のうちに助けたことも本当なんだ。だから大宝寺は、俺にまだ、兄としての気持ちが残ってることに気付かせてくれた恩人なんじゃないかって思って」
でも、それだと俺は、大宝寺の決死の覚悟を蔑ろにして、自分勝手に騙したような気もしてくる。その意味では、俺が勝手に大宝寺を恩人だと認識していることも、頭を冷やして考えれば荒唐無稽だ。大宝寺は、あと一歩で人殺しになる状況だった。それも言えば、たぶん、俺のためだと判断してやったことだと思う。大宝寺はそれだけ思い詰めていたのに、俺は、そんなことにはお構いなしで思考を進めている。結局、俺は最低だった。今考えてみれば、そんな罪悪感も、通報しないという俺の意思を強調させていたと思って差し支えはない。
俺が口を噤んでいると、景はやがて、そう、とだけ言った。
「そのとき残ってた、兄としての気持ちは」
何秒かの間を置いて、再び開かれた景の口から発せられる声は、相当重量の鉛を担ぐように重かった。俺は、胸の奥を乱雑に鷲掴みされたような気分になった。息を吸って吐く、当たり前の行為が、なんだか酷くやり辛かった。
景が、ふたつの拳を握りしめている。らしくもなく感情的な景が、俺には、とても珍しく感じられた。
「今はもう、さっぱり消えちゃったってこと?」
俺は、唇を結び直した。質問の答えを、今すぐここで出すことなんてできなかった。それでも景は、俺を急かすように重ねて言う。
「黙ってちゃわかんない」
「黙りたくて黙ってるんじゃない」
「じゃあ僕、なに言っていいのかわかんないよ。僕に兄弟はいないし、嘉仁の気持ちだって想像するしかない。想像したところで、僕には結局、嘉仁の本当の気持ちなんてわからない」
だって僕には、兄弟がいない。景は、同じ言葉を紡ぐ。俺の耳の内側で、突然、何年も前の景の言葉が呼び覚まされた。「僕もお兄ちゃんになってみたい」。俺と景が出会って間もない頃、なんとはなしに、景がぼやいた一言だった。
「ずっと詩仁君のことで自分を制限してきて、嘉仁は、疲れちゃったんだね。それはわかったよ」
素直に頷くのも嫌で、俺は、なんのリアクションも起こさなかった。今の景の目を、真っ直ぐに見る度胸もなかった。俺はただ、視界のどこにも焦点を定めず、ぼんやりと視線を投げているだけだった。
それはわかった。景は、再びそう言った。わかんないけどわかった、そうも言った。怒っているのも嘆いているとも取れる、複雑に歪む景の頬に、俺の視線は引きつけられた。奥歯を噛んで、爪が白くなるほど拳を握りしめている景の姿に、俺は呆然と立ち尽くす。景の声はまだ続いた。
「僕なんかじゃ頼りにならないかもしれないけど、こんなふうに爆発する前に教えて欲しかった。確かに僕には、嘉仁の気持ちなんて理解できない。理解できないけど」
でも、と言った後、景は、小さく息を吸い込んだ。俺は黙って、その後の言葉を待った。
景は、一度閉ざした口を再び開く。
「友達じゃないか。こういうときは、友達に頼ったっていいんだよ」
「友達?」
「そう。友達」
景は、当たり前のようにその単語を並べる。友達。俺も、その音を真似してみた。デジャヴだ。前にも確か、こんな場面に出くわしたような気がする。ピントのぼやけた脳で、俺は、過去の記憶を蒸し返してみる。デジャヴの正体はすぐにわかった。気のせいじゃなくて、本当にあったことだった。俺と大宝寺。夏休みの補習をさぼったあの日、理科室で起こった出来事だった。詩仁を手にかけていたこと以外で、大宝寺の様子がおかしくなった、一番最初のことだった。
友達。俺はもう一度、口に出してみた。友達だから、どうなる。友達だから、なにが起こせる。虫唾が走る。俺は言う。
「友達に言ったら、どうなるっていうんだよ」
瞬間、景の表情が凍りついた。まだ、そんなことを言うのか。そう言わんばかりに見開かれた瞳が、景のリアルな感情の変化を裏付けていた。自分の意思とは無関係に、俺の口角は吊り上がってしまう。笑うところじゃないだろ、俺。そう思うのに、そう思えば思うほど、ますます自分をコントロールできなかった。
「お前に相談してたら、なにが変わってたって言うんだよ。今のこの状況は回避できたって言うのかよ。お前に言ってさえいれば、俺はまだまだ心に余裕が持てて、いっぱい我慢できたはずだから結果オーライとでも言うのかよ」
「違う、嘉仁。僕は、そういうことが言いたいんじゃない」
「じゃあ言えよ。部外者のお前になにができるのか、言ってみればいいぜ。少なくとも、俺にはなにもできなかった」
なにもできなかった。いや、なにもしなかった。違う、できなかった。いや、どっちだったっけ。どっちにしても、結局、俺がそこにいる効果でプラスになることなんてなかった。あれだけはっきりと助けを求められたのに、俺は、大宝寺を助けなかった。なにかしようという気持ちがあろうとなかろうと、結論が変わらないなら、話は一直線しか辿らない。
なにか言いたそうに身を乗り出した景の動きが、突如、俺の目の前で静止した。一歩後ろに引いた景は、言い難い顔をして、じっと俺の目を見つめてくる。複雑に揺れ動く景の眼差しを、俺もずっと見続けていた。
「弟が殺されそうになったことを聞いた上で、僕がキミにこんなことを訊くのは、変なことだと思うんだけど」
少しだけ、景は目線を横にやる。景は、なんだか落ち着かない様子だった。なにか察することでもあるのか、景は中途半端に眉を顰める。
相変わらず難しい顔をして、景は俺に言う。
「嘉仁はその、友達と――大宝寺君と、うまくやれてるの?」
詩仁君を殺そうとしていたその彼とは、今も付き合いがあって、あるなら、うまくやれているのか。まさかそんな質問が飛んでくるとは予想してなくて、俺は、なんとも反応することができなかった。
「もっと変なこと訊くよ。キミには、わからないことなのかもしれないけど」
硬直する俺に畳みかけるようにして、景は更に仕かけてくる。
そこで景は、両手を体側に戻す。品のある綺麗な茶色の景の髪を、その旋毛の部分を、俺は、じっと見つめていた。
「大宝寺君とまだ交流があるなら、ちょっと考えてみて。彼の、今現在の状態」
幾秒の間を挟んだ後、景は、やがて切り出した。「大宝寺君は、正気でいるの?」
頭の中で、暴風が吹き荒んでいるようだった。真を突かれた。俺は、そう思った。だって大宝寺が、正気でいるわけがなかった。理科室で意味のわからないことを言って俺に迫ってきたあの大宝寺は、確かに、十分おかしかった。でも、あのときはまだ、はっきりとした自分の意思があったのだ。俺がそう思うのは、そのとき以上に、大宝寺が異様な行動を取ったからだ。家まで携帯電話を届けに来てくれたあの日、大宝寺は、俺ではない誰かを見つめていた。その虚空に、俺はなにも見受けることができなかった。なにか声がするようなこともなかった。大宝寺にだけ見えていて、声が聞こえていて、俺の五感は、一切無反応。普通は認識できる存在なのに、俺にだけ認識できていない、というパターンは、考えるだけ無駄だった。仮にそうだとするなら、今ここで、景にもそれがわかるはずだ。大宝寺だけが理解していたそのなにかは、この家にいたのだから。
大宝寺は、正気じゃない。大宝寺の意識がすべてまるごと剥ぎ取られて、正気ではなくなったということはないと思う。やろうと思えばできたのに、俺をどうにもしなかったのがその証拠だった。一度目は、俺が勝手に逃げた。二度目は、大宝寺が自分でやめた。ぞっとするような謝罪の連発と、助けて、という一言と、極めつけは、あの左腕だ。すべて含めて、自分はもう正気を失っていることを示す、大宝寺の暗示だったのだ。そんなことは、俺もずっとわかっていた。大宝寺がおかしくなったことくらい、気付いていた。ただ俺は、とてつもないチキンで、焦燥やら恐怖やら怒りやら、自分のことばかりで頭がいっぱいだった。だから結局、俺はなにもできなかった。そのくせ苛々だけは募りに募って、自分勝手に爆発させて、詩仁を傷つけた。詩仁のことも、俺を頼ってばかりの子供から逸脱しようとしていることはわかっているつもりなのに、その気持ちも俺は踏み躙った。言いたいことは言った。でも、それは八つ当たりだ。最低だ。俺は拳を握りしめて、下唇を強く噛む。
沸き立つ感情がピークに達した後、俺は一度、拳を緩めた。大きく息を吐き出し、俺は言葉を選ぶ。「だから、お前に言ったらどうなるんだ」。家のチャイムが猛烈に連打され、ほとんど叩きつけるような激しいノックの音が聞こえてきたのは、俺がそう言いかけたときだった。
チャイムが続き、ノックも続く。あまりに騒々しいその荒技に、俺は、玄関のほうを振り向いて立ち尽くしていた。事態が掴めていないらしく、景も唖然としたきりだった。そのうちに、どこかで聞いた覚えのある声も聞こえてきた。切羽詰ったその声は大きく、七瀬、七瀬と頻りに繰り返している。景に名前を呼ばれて、俺はふと、我に返った。
玄関に出て、俺は、際限もなくチャイムとノックと声とが交錯するそのドアを開けた。制服を着て、通学鞄を肩に提げたままの上野が、そこには立っていた。全力疾走してここまで来たのか、上野は汗びっしょりで、酷く息切れしていた。どうして上野が俺の家を知っているのかは謎だったけれど、とりあえず、水を持って来なくちゃ。使命的にそう感じた俺が踵を返した瞬間、上野の右手が、がっちりと俺の右腕を掴んだ。込められた力は、思いの外強かった。
「どこ、行くんだよ」
どこって、と言いかけた俺の腕を、上野は、力任せに引き寄せた。予想以上の勢いで、俺は足を縺れさせそうになった。
「どこ行くんだって訊いてんだよ」
「どこってここ、俺の家だぜ」
「弟が殺されそうになってるのに、どこ行くんだって言ってんだよ!」
脳天を、内側から叩き割られるようだった。殺されそうになってるって、誰が。なにに。どうして。唐突すぎる事態に、俺は、はは、と頬を引く。
「寝てんのかよ、上野」
「心当たりがあるんじゃないのか。泰雅と、お前の弟だ!」
玄関の様子がおかしいことに気付いたのか、景が、リビングの入り口から半分頭を出してきた。らしい。俺の向こう側を見越して、上野は一瞬、小さく声を漏らす。このタイミングで驚いた反応をしたということは、つまり、景が出てきたということだった。
上野は、すぐに先刻の表情に戻った。上野は酷く焦っていて、ついさっき、学校で対話したときとは別人のようだった。それでも上野は同一人物で、その上野がここまで声を荒げるということは、それだけの事態が起こっていることの証明以外のなんでもなかった。
大宝寺が、また、詩仁を殺そうとしている。信じられないというよりは、実感が湧かなかった。俺の心に、変化は起こらなかった。上野が焦れば焦るだけ、俺の思考は、どんどん冷えていく。大宝寺が、詩仁を殺す。漠然とした情報だった。殺されればいいじゃないか。殺されれば。いなくなってしまえばいい。疾うの昔に頭に根付いているその思いは、気を抜けば、すぐにひょっこりと俺の精神に顔を出す。
なに、ぼさっとしてんだ。焦れた上野が、唐突に声を張る。同時に、上野に掴まれたままの俺の右腕が、一層強く引っ張られた。それでも力の入らない俺の身体に、上野は更に苛ついたようだった。強引に俺を外に連れ出し、上野は、いきなり俺の頬を殴る。景にやられた方の反対だった。今日はよく殴られる日だ。ことが起これば起こるほど、俺は冷静だった。
「しっかりしろ。兄貴だろうが」
右の頬が熱い。太陽の陽射しが熱い。そういえば、景にやられた左の頬も熱い。熱いところだらけだ。その流れに反して、上野の声は低くて静かだった。静かで、俺の耳には、よく響いた。
「好きでやろうと無理矢理だろうと、お前が兄貴なんだよ。弟を護ってやらないと」
「話、聞いてたのかよ」
「話ってなんだよ。そんなの知るか」
「盗み聞きなんて、趣味悪いぜ」
「知らねえって言ってんだろ!」
「いいから走れ、このバカ!」。一転して、上野は怒鳴る。上野は俺の片腕を引っ張ると、前触れなくいきなり走り出した。俺は靴も履かず、家の施錠もしていなかった。強引な奴。上野に連れられて走ることを余儀なくされながら、俺は、ぼんやりと考えていた。詩仁が死ぬ。俺はその願望と、一体いつから生きてきたのだろうか。思い出せないくらいに遠い昔から、俺は、詩仁が嫌いだったのだろうか。違う、そんなことはなかった。いつから、どこから、どの言葉から、俺が俺に吐いた嘘だったっけ。自分で自分に収拾をつけることができない。詩仁はいなくならなくていいから、いっそ俺が、いなくなればいい。もちろん、それが最善の方法であるわけがないことは、俺にもわかっていた。それはただの逃避だった。でも、逃避したい気持ちを、俺は消すことができない。詩仁が殺されているかもしれないこの瞬間にも、弱くて情けない自分の殻から抜け出すことができない。俺は、兄貴失格だ。詩仁の兄貴を続ける資格なんて、俺にはないのだ。もういいから、離してくれ。俺は上野にそう言いたかったけれど、言えなかった。その一言を口に出してしまえば、もう本当に、なにもかもが終わってしまうような気がした。