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辻ノ瀬学園中等部3年4組 七瀬詩仁(3)

 鍵を開けて玄関に入ると、そこにある靴の数が目に留まった。1、2、3、と俺は無意識にそれを数えた。1足は、普段、詩仁が履いている靴紐の派手なスニーカーだった。もう1足は、なんとなく見覚えがあった。最後の1足は、3足ある中で一番小さかった。とは言っても、後の2足とそう変わったサイズでもなかった。これもどこかで見た記憶があった。ズボンのポケットの中の携帯電話で、俺は時間を確認した。午後12時10分、ちょうど昼時だった。こんな時間から、詩仁は友達を呼んだのか。また苛つきそうになるのを抑えて、俺も靴を脱いだ。

 リビングが騒がしかった。俺は、入り口のドアに耳を近付けた。詩仁の声が交ざった、3人分の声が聞こえてくる。俺が帰ってくることはわかっているんだから、来客はリビングじゃなくて、自分の部屋に通して欲しい。そこまで考えた自分に、ふと嫌気が差した。次から次へと、不満が胃の底で湧き出している。なんでこんなに苛々してるんだ、俺は。そう思うと、その思考がまた不満に変わった。完全に悪循環だった。重い頭を右手で支えて、俺は1歩後ろへ引いた。

 感情の渦に取り込まれそうな俺を嘲笑うかの如く、ドアの内側からは、楽しそうな声が響いてくる。もう嫌だ。漠然とそう思った俺は、踵を返した。自分の部屋にひとりっきりで閉じ篭っていれば、少しは気分が楽になる。どうしても苛々するときは、誰にも会わずに、ドアの内側で静かに過ごす。それが俺の最善策だった。

 1歩前に出たところで、俺は振り返った。そう言えば、あの声はそうだ。あの靴も。気付いてしまうと、俺は更に憂鬱になった。極端に苛々すると、普段わかることさえもわからなくなる。知らなかったふりをして、自分の部屋に引っ込んでしまおうか。そうだ、それがいい。なるべく足音はたてないように、俺は早歩きがちに階段に向かった。そこで、起こって欲しくないことが起こった。

「嘉兄、おかえり」

 いつも俺に見せるような、邪気のない笑顔だった。詩仁は、帰宅した俺に気付いて、わざわざリビングから顔を出してきた。こうなると俺も、無視できるはずがなかった。振り向いて、笑ってみせた。

「ただいま」

「三橋と景兄来てるよ。ハンバーガーもあるし」

 そのごみの片付けは、どうせ俺にやらせるんだろ。吐き捨てそうになった台詞を吞みくだし、俺は笑顔を保つ。俺は普通の表情をしている。俺は、平気で嘘を吐ける。なんでもない普段の調子で、俺は詩仁に訊ねた。

「随分早い時間から来てたんだな」

「あまりに暇だったから呼んだ。そしたら景兄、ハンバーガー買ってきてくれたんだ。昼時だからって」

 詩仁の発する些細な単語が、俺の神経を刺激する。大宝寺のことも含めて、俺がこれだけの不快な感情に煽られている間も、詩仁は暇だった。詩仁のことで頭がいかれそうになっているときも、当の詩仁は、さしてやることもなく退屈を持て余していた。鬱陶しい。鬱陶しくて、仕方ない。俺は、やり場なく奥歯を噛む。直後に、思い出したように良心が自我を持つ。なにを考えているんだ、俺は。なにを。家族が鬱陶しいなんて、そんなこと考えちゃいけない。でも、周囲に吐けても、自分自身に嘘は吐けない。目まぐるしく体内を飛び回る思考に、俺の状況に、詩仁が気付くわけがなかった。意識が飛びそうだ。頭を抱えて倒れ込みたかった。でも、そんなことはできなかった。俺はひたすら、いつもの自分を演じた。

「嘉仁、久しぶり」

 詩仁についてリビングに入った俺に、景は片手を上げた。俺もつられて、少し右手を上げた。景に会ったのは、夏休み前、詩仁と優輝君と俺との4人でハイスペースランドに遊びに行った日以来だった。モデル、タレントとして大人気の景に会うとなると、いつも「久しぶり」になっている。

「今日は、仕事は休み?」

「久しぶりにね。ここんとこは、まさに鬼のようだったよ。営業用スマイルも充電切れ」

「せっかくの休日に、詩仁の我儘に付き合わせちゃったんだな。悪いな」

 詩仁の我儘。なんの気なく言ったようで、なんの気なく言ったんじゃない。詩仁たちが囲んでいるテーブルの傍に、俺も腰を下ろした。詩仁の隣だった。ほんのりと、詩仁の髪のワックスの匂いが漂っていた。

 別に全然気にしないで、と言おうとしたのかどうかはわからないけれど、たぶんそう言おうとした景を押し切って、優輝君が口を開いた。

「景君、どうせ七瀬のとこに用事があったんだよ。だから大丈夫」

「あ、そうなんだよね。ちょっと待ってね」

 今思い出したのか、景は、ぱん、と両手を打った。服のポケットから財布を取り出すと、景はさっさとそれを開ける。一体なにが出てくるのかと思えば、景が財布から取り出したのは、どうやらチケットのようだった。これもまた、俺はどこかで見た気がする。すぐに、それをどこで見たのかを思い出した。今ここでそれを出すということは、景が言いたいのであろう事柄も想像がついた。自分のあまりの運の悪さが、まるで本当に他人事のようで、鼻で笑ってやりたくなった。

「ハイスペースランドのフリーパス、2人分。気前の良い共演者さんが、彼女と行って来いってくれたんだよね」

 俺の気など知らず、景は勝手に説明し始める。その紙切れは、以前、俺がたまたま手に入れたそれとまったく同じものだった。

「でも僕、そういうのって柄じゃないしさ。夏休み限定のパスだし、僕も休めそうにないし。兄弟で行ってきなよ」

「全然休めないわけじゃないだろ? 優輝君連れて行ってくればいいのに」

「でも、休みだと休みで、その前日に無茶振りなスケジュール詰め込まれちゃうんだよね。体力保たないや」

 無理だ。率直に、俺はそう思った。パスを断る言い回しは思いつかないし、これ以上なにか言うのも不自然だった。俺と景が付き合いもなにもない、その場限りの真っ赤な他人だったら話は違う。でも、そうではないのが事実だった。受け取るしかなかった。景が持っているパスに、俺は指先を伸ばした。その矢先に、景の手からパスが消えた。勢いよく景からパスをもぎ取ったのは、言うまでもなく、詩仁だった。

「ラッキー! 俺、もう1回くらい遊びに行きたかったんだよな!」

 詩仁は、無邪気にパスを天井に透かした。はっきりと浮かび上がるパスの文字が、余程嬉しいらしい。詩仁の純真な感情は、今は俺を無条件に苛立たせるだけだ。やめてくれ。心の中で俺は必死に訴えるけれど、いくら内心で声を荒げても、詩仁に届くはずがなかった。笑顔を上手に保てない、かもしれなかった。それはまずいことだった。俺は、自分で片頬に触れてみた。笑顔の感触ではなかった。俺は今、笑えていないのだろうか。鏡で確認することさえも、今の俺にはできなかった。 

 詩仁が嬉しそうに、景にお礼を述べている。景は、それをなんでもないことのように振舞っている。優輝君は、どういうわけか、じっと俺を見つめていた。俺から目を逸らしてくれなかった。俺は、やっぱり変な表情をしているのだ。そうでもなかったら、優輝君が俺ばかり見ている理由がなかった。どうやって表情を繕えばいいのか、いや、そもそもそれは、どうすれば上手くいくことだったか。急に俺は、わからなくなってきた。惨めな気持ちが膨れあがった。みんなが楽しそうにしているのだから、俺も同じで、楽しそうなふりをすればいいだけなのに、そんな簡単なことができない自分が嫌だった。今まで普通にできていたことが、できない。俺の中で燻っている苛々のボルテージが、急激に上昇していく。やばい、やばい。俺は必死に、胸の奥の警鐘を叩く。俺から離れてくれ。俺から離れさせてくれ。口に出せない願望が、口をついて出そうになった。決死の覚悟で、俺はその願望を沈める。

「嘉兄、気分悪い?」

 詩仁の一言だった。怒涛の如く荒れ狂っていた俺の心が、一瞬、静寂を取り戻した。嵐の前の静けさ。直感で、俺はそう思った。

「気分悪いの? 真っ青だぞ」

 続けて詩仁は言う。収まっていた感情が、底から沸き上がるように脳天へと直行している。指の先に至るまで、その波が浸透するのは早かった。急に頭が重くなってきて、俺は思わず、片手を額に添えた。2枚のパスを、詩仁がテーブルの上に置く微かな音がした。

「嘉仁、頭痛いの? 夏風邪かな」

「嘉兄、頭痛持ちなんだ。景兄も知ってるだろ」

 違う。俺が頭痛を持っているのは、体質の問題じゃない。いや、違う。ダメだ。額の上あたりに、自分の爪が食い込んだ。いっそ血が出ればいいのに、痒い程度の些細な痛みしか感じることができなかった。どうしようもない苛々を、俺は必死に制御する。詩仁は俺の弟だ。詩仁は、俺の大切な弟なんだ。懸命に俺は、そのことで頭をいっぱいにしようした。しようとした分だけ、余計に頭痛が酷くなった。それでも俺は、耐えなければならなかった。歯を食い縛って、銅鑼を叩くような頭痛に耐える必要があった。今までずっとそうしてきたし、そうすることができていた。

「俺、薬取ってくる。心配だけど嘉兄にはよくあることだから、大丈夫だよ」

 でも、もうこれ以上は、耐えることなんて不可能だ。心のどこかで、俺は、そんなことを考えていたのかもしれなかった。「よくあること」だとか「大丈夫だ」とか、詩仁の些細な一言が、着実に俺から行き場を奪う。俺を怒らせる。俺をどん底に突き落とす。最上級の落下。最高級の転落。まだ、いける。いつもはそう思い直すのに、今日は思い直す自分がどこにもいなかった。無理だ。頭にぽつんとその単語が浮かびあがった瞬間、俺の頭痛は、嘘のように遠ざかった。

「お前のことじゃなくて俺のことなのに、よく大丈夫だとか言えるよな」

 言ってしまった。喪失感じみた感情が、俺の全身に染み亘る。場の空気が、一気に強張った。優輝君も、景も、詩仁も、みんなが呆然と俺を見ていた。いっそ息苦しいような感覚を押しのけて、俺の内側に、なにかが大きく拓けた。狭く閉ざされた世界を、俺を閉じ込める巨大な四方の壁を、ついに力で打ち破った。そんな気分だった。とんでもない解放感だった。俺は自由だ。ようやく自由だ。自由になれた。とても気持ちがよかった。気持ちがいいのに、胃の奥がざわついていて、無性に気分が悪かった。矛盾は苛々を生み出すだけだった。

 頭痛の再来に、俺はくぐもった声を漏らした。叩きつけられるような激痛に、俺は頭を両手で抱えずにはいられなかった。もう、自分で頭を割ってしまいたいくらいだった。どうにもできないその痛みに、俺はひたすら、耐えるしかなかった。

 嘉兄、大丈夫。詩仁がおそらくそう言いかけたところで、頭の奥で糸が切れた。一瞬、視界が真っ白になった。正常に戻った視界に、筆舌に尽くしがたい憤怒の情が、唐突に俺の中で沸きあがった。落ち着つかせていた腰を引き上げて、俺は思い切りテーブルを蹴った。ちょうどそこにいた詩仁を巻き込んで、派手にそれは吹っ飛んだ。頭から壁に突っ込んだ詩仁が、正直、小気味良かった。

 焦ったように名前を呼んで、景は詩仁に駆け寄った。詩仁の腹を圧迫するテーブルをどけて、景は詩仁を揺り起こす。詩仁は脇腹あたりを両手で押さえて、僅かに身体を震わせていた。俺は詩仁を凝視した。辛そうではあるけれど、詩仁は、さしてダメージを食らっているようには見えなかった。平気なのかよ。面白くなくて、俺は思わず舌打ちした。

 それに反応したのか、景が俺を睨んだ。睨み返すでもなく、俺も景に視線を当てていた。

「なんのつもりなんだよ、嘉仁」

 声音が、信じられないくらい低かった。テレビや雑誌で見る無邪気な景からは、とても想像ができないような、凄みのある重い声だった。俺は、意図して普通の声で答えた。

「別に」

「別に、じゃないだろ」

 寸分の間も挟まず、景は問い返してくる。俺は、短く息を吐き出した。床には、ハンバーガーもジュースもポテトも、テーブルに上に置いてあったなにもかもが飛散していた。これといってなにを感じることもなく、俺は、視界の中心を景に戻した。

 詩仁が、目を大きく開いて俺を見ている。やっぱり、テーブルごと蹴り飛ばして壁にぶち当てたのは、大した攻撃にはならなかったようだ。突発的な発想力に著しく欠ける自分が、猛烈に残念だった。

 なんとなく視線を動かしていると、景の足元で2枚連なった、例のフリーパスが俺の目に留まった。3歩進んで、俺はそれを拾い上げた。景の目も、詩仁の目も、詩仁の横の優輝君の目も、吸いつけられるようにパスに集中していた。俺も幾らかそれを見つめた後、躊躇いなく引き裂いた。あ、と詩仁が間の抜けた声が聞こえた。2分割、4分割、8分割と、できるところまで細かく俺はパスを破き続けた。

「お前なんかと誰が行くかよ、こんなの」

 指に纏わりつく残骸を振り払って、俺は小さく呟いた。小さく呟いても、無音のこの部屋では大きく響く。俺の声をしっかりと聞き分けた詩仁は、抉ってやりたいくらいに黒く透き通った眼球を震わせた。

「お前、なんか……って、いくらなんでもそれはないだろ、嘉仁!」

 疑いようのない怒気が、相当に盛り込まれた景の声だった。目を横側に逸らし、俺は人差し指で頬を掻く。ものすごく面倒臭い。俺はただ、単純にそう感じた。

「俺のことならなんでもわかる、みたいに言いやがって。むかつくんだよ、そいつ」

 俺が顎でしゃくってやると、詩仁の瞳は、更に不安定に見開かれた。眼球に俺が映っているのがわかりそうだった。俺は今、どんな表情をしているのか。わかりそうとは言え、詩仁の瞳は鏡ではなかった。自分の顔なんて、この場でわかるわけもなかった。

 そいつってなに。ふたりっきりの兄弟じゃないか。たったひとりの弟じゃないか。景は、今にもそう叫び出しそうだった。さすがは役者、次から次へと台詞が頭に浮かんでくるようだ。どれを選ぶにしても、俺に言いたいことは同じなのだろう。見越した俺は突然うんざりしてきて、うんざりしたのに、口の端が吊り上った。感覚の上では間違いなく、俺は笑顔だった。

「ああ、そうだぜ。詩仁は俺の、たったひとりの弟だぜ」

 下唇を噛む景に、俺は言ってやる。

「でも俺は、好きで兄貴をやってるわけじゃない」

 そうだ。俺は、好きで長男としてこの世に生まれたわけではなかった。自ら進んで、詩仁という弟を持ったんじゃない。苛々が募る。募っていく。どうするアテもない俺は、髪を掻き毟る。

「俺は、好きでそいつの兄貴をやってるんじゃないんだよ!」

 空気に亀裂が走った。景の綺麗な顔が、眉を引き攣らせて歪む。無表情の優輝君の片頬が、少しだけ動いた。詩仁が俺を見ている。ハンバーガーとポテトとジュースが混ざり合った臭いが、不快に俺の鼻をついた。

「なあ、景。お前にはわかんないよな。俺の気持ちなんて、わかんないだろ。毎日毎日、小さい頃から、弟の面倒ばっかり見てさ。親に代わって家事してたら、そりゃ友達と遊ぶ時間なんてないよな。誰にも誘われなくなるし、遊べないなら友達なんてできないし、なにより親が家に帰ってこないんだ。いじめにだって発展するぜ」

 足を前に出して、俺は、景の肩を掴んだ。景は、驚いたように大きく目を開いて、真っ直ぐに俺を見据えている。構わず、俺は景の肩を揺らした。

「わかるわけないよな、景。俺の気持ちなんか。俺の嘘に、景も気付いてないんだろ」

「なに、嘘って。嘉仁、いつも言ってたじゃないか。詩仁は、なんでもよく手伝ってくれるって。歌が上手でスポーツ万能で数学が得意で、俺の自慢の弟なんだって。僕、それで何度兄弟に憧れたことか」

「だから、それが嘘だって言ってんだよ!」

 俺の大声で、部屋全体が振動した。ような、感覚だった。それこそ嘘のような、鉛のように重い沈黙が空間に広がっていく。ずっしりと降り積もる、重たい空気だった。完全に意表を突かれたらしく、景は、口を開けることすらしなかった。ただ、ひたすら俺を、なにを言うこともなく、俺の双眸を見ていた。俺から目を逸らそうとしなかった。いや、衝撃的な俺の告白に、目を逸らすことができないだけなのかもしれない。俺は、一体いつ、こんな悠長な思考癖を習得したのだろうか。自分を客観する別の自分を、不思議に感じた。

 景の肩から手を離すと、俺は、詩仁に向き直った。詩仁の視線と、俺の視線がぶつかった。詩仁の瞳は、まるで怯えたウサギだった。自分勝手に怖がる詩仁。そういうところも、また俺の気に障る。苛々を、どうにもできない。鬱陶しい、鬱陶しい。とにかく鬱陶しい。自分自身の感情に呑まれそうだった。自分を完全に見失いそうだった。いや、もしかしたら、疾うに見失っているのかもしれなかった。そんなことは、今更どうでもよかった。なにがスポーツ万能だ。なにが歌が得意だ。なにが自慢の弟だ。なにもかもが、俺の神経を突き刺している。

 仕向けていたのは、確かに俺自身だった。でも、ここまで来て、どうして誰ひとりとして気付いてくれないのだろう。髪をいくら乱しても、気分の悪さは、超越的なスピードで増していくだけだった。割れるような頭痛も戻ってきた。苛々と頭痛とその影響の吐き気で、俺は、本当にどうにかなりそうだった。

 嘉兄。か細く、そんな声が聞こえた。鈍く痛む額を片手で支えて、俺は静止する。声は再度、俺の耳に入ってきた。小さいことに間違いはないけれど、さっきよりも音量は大きく、はっきりと聞き取れる。誰の声かなんて、考えるまでもなかった。額に添えた手の、髪の毛が通る指の隙間に、俺はそっと力を込めた。ほんの何本か、髪が抜ける音がした。

「嘉兄、大丈夫?」

 詩仁が、駆け寄ってくる。来るな。俺は、首を激しく横に振る。頭が痛い。痛みが増す。どうしようもないし、どうにもできない。俺は、奥歯を思い切り噛みしだく。

「たぶん疲れてるんだ。部屋で休めばいいよ。掃除は俺がしとくから」

 なんで、心配してくる。これだけ俺が、嫌っているのに。罵倒しているのに。歯と歯が摩れる不愉快な音が、直接頭の奥に響いてきた。もう、本当に無理だった。視界に入り込む詩仁のすべてが、俺にとっては、疎ましさ以外の何者でもなかった。詩仁が、俺に向けて手を伸ばしてきた。細い指先だった。俺の中で、滝の水が真上に逆流するような感覚が巻き起こった。触るな。気付けば俺は、自分でも驚くくらい掠れた声で、そう叫んでいた。

 びくりと肩を震わせた詩仁が半歩、後ろにさがった。俺の内側で、とんでもない速度で、立て続けになにかが割れ続けていた。弾けるなんていうものじゃない、爆発だった。自分にしか理解できない、精神的な部分で、明らかに異常を来していた。思考がその結果に辿り着いたところで、今更俺には、暴走すること以外の手段なんて見出せなかった。

「嘘なんだよ。嘘だって言ってるだろ。お前が俺の自慢の弟だなんて、笑わせんじゃねえよ!」

 どうする術も俺にないのは、当たり前のことだった。なにもかも、この感情も、すべて俺が仕向けたことだった。俺が、自分で招いたことだった。参謀は俺で、役者も俺で、すべてが俺自身に帰していることだった。俺にも、ちゃんとわかっていた。いつかこうなってしまうことくらい、予想できていた。でも俺には、俺自身を護るための嘘が必要だった。それだけの話だった。

「確かに、俺はいつも言ってきたぜ。俺の大事な弟だって。小学校から名門辻ノ瀬に通ってて、小さい頃から家のことやってた俺をよく手伝ってくれる、自慢の優しい弟だってさ。でも、それはお前に言ってたんじゃない!」

 詩仁が、また半歩後退した。俺の言葉は思考回路を通らず、直接声に変換される。詩仁が耳を塞ぎそうになったのを、しっかりと俺は目に留めた。詩仁の細い手首を掴み、俺はもう一度、歯と歯を噛み合わせた。

「聞けよ、詩仁。俺の本心。聞かせてやるから」

 もうやめなよ、嘉仁。景がそう声をあげた。聞こえはしたけれど、俺の耳には届かなかった。俺は、すう、と息を吸い込んだ。詩仁の揺れる双眸が、俺の視界にこびりつく。

「俺が俺に、言い聞かせてたことなんだよ! お前を大事な弟だと思い込んで、したくもないし、ストレスでしかないお前の世話を、少しでも楽な気持ちでやろうとしてただけなんだ!」

「嘉仁、やめろったら!」

 景の声は無視した。信じられないくらい、俺は爽快な気分だった。気分が悪くなったり頭痛がしたり治ったり、また痛くなったり、すっきりしたり。自分でもいまいち把握できない状況だったけれど、気分がいいのなら、悪くはなかった。口角を吊り上げて、俺は、詩仁を見やる。詩仁は、俺に手首を取られたままで、抵抗しているような素振りは一切なかった。

「生まれてくるな、とまでは言わないぜ。俺もそこまで鬼じゃないからな。でも、これだけは言わせてもらうぜ」

 詩仁は、俺から目線をずらさなかった。俺は構わず、本当にずっと突きつけてやりたかったその言葉を、吐き出した。これが言いたかった。本当に、これが。言う直前、俺は間違いなく満たされていた。

「よりによって、なんで俺の下に生まれてきたんだ。なんでお前は、俺の弟なんだよ」

 後悔した気持ちはなくて、むしろ、とんでもなく清々しい気分だった。俺はついに、言ってやった。俺がずっと小さな子供だった頃から、胸の奥で燻っていた思いを、ようやくここで暴露することができた。ぶちまけることができたのだ。驚愕した、と表現するよりは、真っ白になっている詩仁の表情が、この上なく痛快だった。言葉を失って立ち尽くしている景が、らしくなさすぎて愉快だった。ただひとり、さっきからずっと無表情で俺を見ている優輝君が、少し生意気に感じられた。それでも、俺が本心を曝したという事実は、やっぱり爽快だった。その感覚に、嘘はなかった。

 詩仁が、僅かに口を動かした。その形は繊細で微妙ながら、なんで、と言っているようだった。部屋の冷房の音が、突然、わざとらしいほどに大きくなった。この部屋のエアコンは、ときどきそういうことになる法則がある。

「なんでもっと、嘉兄、早く言ってくれれば」

 詩仁の声は、日本語としては不自然だった。不意に思い至ったかのように、景の目が、詩仁に移った。それをわざと避けるように、詩仁は下を向く。いつもの明快な声調とは打って変わって、詩仁の声は、酷くか細く、頼りなかった。

「嘉兄、早く言ってくれればよかったのに。俺、すごい勘違い野郎じゃん」

 はは、と、何故か詩仁は笑った。詩仁君、と言いかけた景の声を阻んで、詩仁は再度笑った。俺が詩仁の手首を解放すると、詩仁は両手で腹を押さえつけた。痛む部分、だろうか。詩仁は、目いっぱい指に力を込めているようだった。白くなった爪が、それを物語っている。

「俺、ずっと嘉兄の言うこと、真に受けてた。こんな俺でも、嘉兄は、俺のことが好きでいてくれてると思ってた。でも、そうじゃなかったんだ。俺、バカだよな」

 詩仁の両手の爪が、更に白さの面積を増した。詩仁の声は、途切れ途切れの呼吸に近かった。俺は、なにも言ってやらなかった。

「俺、さ。これからどうしたらいいかな、嘉兄」

「失せろよ」

 俺が即座に答えてやると、詩仁は、すごい勢いで顔を上げた。詩仁はバカじゃない、という趣旨の俺の言葉を、まだどこかで期待していたような瞳だった。丸見えの心理だったからこそ、俺は、一瞬で切り捨ててやった。正しい選択だと思う。

 詩仁は、再び顔を下に向けた。そのままの姿勢で、だよな、と呟いた。無理して明るく作った声だった。その演技は、下手くそすぎだ。

 詩仁が部屋を飛び出していったのは、ほんの一瞬のことだった。是にも非にも、とにかく詩仁は、足が速かった。瞬発力も相当なものだし、その一瞬の出来事には、俺も景も、虚を突かれていた。中学生のくせに、お洒落に整った優輝君の眉が、片方、弾かれたように微かに動いた。詩仁が駆け抜けていったドアの向こうを、俺は見る気もなく眺めていた。左の頬に硬い拳が飛んできたのは、まさにそういう、俺が完全に無防備になっている一瞬だった。

 衝撃でよろめいた俺の胸ぐらを、景は、容赦なく捻りあげた。いつになく険しく、思い切り眉間に皺を寄せた、凄んだ景の顔が俺の目に映った。左頬が、じんわりと熱を持ってきた。

「効いたぜ、今の」

「最低だよ。まさか、あんなこと言うなんてね。完全に予想外だった」

「俺も予想外だぜ。あいつ図々しいのに、本当に失せてくれるなんてな」

 景は再び、拳を振り上げた。それを俺は、特に回避しようとはしなかった。勢いをつけて、景の拳が振り下ろされたそのとき、優輝君が口を開いた。大人しい優輝君のイメージ通りの、物静かで透き通った声だった。

「行ってきます」

 浅く息を吐き出すと、優輝君は、俺か景か、どっちつかずに手を振った。そして優輝君は、欠伸が出そうなくらいゆっくりと、かなりスローなペースで歩き始めた。玄関で靴を履いた後、優輝君は、振り返りもせずにひとりで外へ出て行く。唐突な優輝君の行動に、俺は唖然と目を奪われていた。

「詩仁君を追いかけたんだね。本当、ミステリアスな子だよね」

 自嘲するような口調で、景が言った。どうして景がそんな寂しそうな目をするのか、今の俺には理解できなかった。理解はできなかったけれど、あれだけ爽快だった俺の胸の奥が、少し痛くなった気がした。




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