日鐘第二高等学校3年D組、七瀬嘉仁(3)
あ、と俺は思わず声をあげた。毎朝ちょっと早めに登校してきて、校舎の入り口で待ち伏せしている甲斐があった。夏休みも後半に入ったけれど、残暑と呼ぶにはまだまだ暑い。内臓から蒸していくような気温に、朝一番から耐え続けてきた努力が実ったのだ。そんな感じで、俺のこの「あ」には、今までの成果を目の当たりにした感動が込められていた。やっと来た。かなり久しぶりに、大宝寺が補習に出るために登校してきた。俺に気付いていないのか、それとも敢えて無視しているのか、大宝寺は顔を上げないまま校舎に入ってゆく。俺は校舎の陰から駆け出した。「おはよう、大宝寺」。努めて普通に、そう言おうとした。言おうとしただけだった。実際に俺が言えたのは、その半分にも満たなかった。大宝寺の表情を伺うより先に、その左腕が視界のど真ん中にきた。大宝寺の左腕には、手首辺りから肘下まで、白い包帯が何重にも巻かれていた。
「おはよう、七瀬」
大宝寺は俺の目を見て微笑んだ。声は明るいのに、家に携帯電話を届けに来てくれたときと同じ雰囲気だった。俺は生唾を呑み込んだ。大宝寺の顔色は、相変わらずよくなかった。寝不足も解消されていないのか、目の下のクマは依然として残っている。むしろ濃くなっているような気がする。どう見ても体調不良だ。
笑ってはいるけど、大宝寺は異様だった。足が勝手に後退しそうになる。なんとか自分を奮い立たせて、俺は大宝寺に向き直る。大宝寺の左腕に、俺は再び目をやった。
「その手、どうしたんだよ」
「大した怪我じゃないんだ。階段から落っこちちゃって」
階段から落ちたくらいで、そんな大ごとになるのか。質問したくなったけど、ここしばらく、俺が大宝寺に会っていないことも確かだった。家族でどこかに出かけて、そこで派手に転んだのかもしれない。きっとそうだ。そう思わなくちゃならない。適当に話題を変えよう。俺がそこまで考えた矢先、妙なことが脳裏をよぎった。大宝寺の全身には、柔道関連、染み込んでいるんじゃないのか。本当に階段で足を滑らせたとして、そんな怪我をするものなのか。いや、それ以前にもっと簡単な話がある。考えると急に恐ろしくなってきた。俺にはなんとなく思い当たる節があった。勘よく発想してしまう自分が、如何にも荒んでいるようで嫌だった。
「俺だって失敗くらいするよ」
計ったかのような大宝寺の一言で、俺は現実に引き戻された。俺は軽く笑って、そうだよなと受け流す。一度は大宝寺の顔を視界の中心に置いたものの、俺の目線の先は、白い包帯からスライドしない。意識しないとどうにもならなかった。包帯の下の左腕が、普通ではないオーラを醸し出している。大宝寺の左腕に巻かれた包帯は、自然に発生した傷を手当てしたものではなく、故意に作られた傷を隠しているのではないだろうか。そう考えると、余計に俺はその一点を見つめ続けてしまう。目を逸らそうとすれば逸らそうとするだけ、意識を引きずり込まれる。大宝寺の顔と左腕の包帯の間で、俺は、曖昧に視線を彷徨わせていた。
大宝寺は右利きだ。転んで、なんで利き腕じゃないほうを怪我するんだ。些細と言えば些細で、単純で純然たる疑問が俺の嫌な妄想を後押ししている。右手で構えた刃物で左手を刺す、未だかつて見たことのないグロテスクな光景が脳に浮かんだ。見たことがないはずなのに、フラッシュバックするみたいだった。自分で勝手に想像した画の中に、大宝寺が違和感なく当て嵌まった。ぞっとした。咄嗟に俺は妄想を振り払った。
「A組は、最初は英語なんだよな。D組はなんなの?」
「数学だけど」
「じゃ、俺は英語の後に数学をするんだな」
おかしいことなどなにひとつとして起こっていない、今日もまた平凡な一日だ。大宝寺の明るい声調は、まるで本当にそう言っているようだった。俺はなんと言い出すこともできず、口だけを頼りなく動かす。俺が大宝寺を何日も待ち伏せしていたのは、世間話がしたかったからではなかった。でも、普通に話されれば普通に応じてしまう。夏休みに入ってから向こう、ずっと様子がおかしかった大宝寺が気がかりだった。俺も大宝寺もどうせ学校に行かなければならないし、そこで大宝寺を待ってみる方法を思いついた。校舎の前なら、学校にいる誰かの視界には必ず入る。自分でも臆病だとは思うけど、大宝寺とふたりだけにならない条件が絶対に必要だった。大宝寺のことが気になってはいても、家を訪ねるような勇気はなかった。
どうしよう。ひとりでなにか喋りながら、たぶん俺に話しかけながら、校舎の中へ入ろうとする大宝寺を横目に、俺は思考を廻す。いや、違う。考えるな。頭の中で、俺自身の声が響く。難しく考えるな、シンプルに訊いてみればいい話じゃないか。「最近、どう?」。その一言だけだ。すぐ終わる。言え。俺の脳の奥に、虚空を見つめてひたすら謝罪する、大宝寺の姿が蘇った。あのとき大宝寺は、俺に謝っていたというよりも、俺越しに透かした誰かに謝っているようだった。ただ、大宝寺の視線の先には誰もいなかった。
「あの、最近」
「おお、泰雅じゃないか!」
俺の言葉を掻き消して、爽やかに感動したような声が上乗せされた。目の前の大宝寺が、一瞬、露骨に片眉を引き攣らせた。それは本当に一瞬だけで、嘘のような一場面だった。痕跡がないとは言え、今の大宝寺の感情は、あまりにあからさますぎた。睨みつけるような鋭い目から急に柔らかい瞳に戻っても、瞬間の衝撃は、俺の身体からすぐには抜けてくれない。
「泰雅、久しぶりだな! 元気でやってたのかよ」
張りのある声と共に、校舎入り口の陰からは、ひとりの男子生徒が出てきた。背は俺よりも少し高くて、半袖の白いシャツから突き出た腕は、夏らしい色に日焼けしている。大宝寺のことを「大宝寺」ではなく「泰雅」と呼ぶ人間を見るのは初めてだった。そんな親しい間柄で、久々に顔を合わせたというなら、どうして大宝寺は不快感を剥き出しにしたのだろう。でも、大宝寺はすぐに笑顔に戻った。感情を隠した。感情を隠すという芸当なら、俺だってよく知っている。校舎から出てきた男子生徒を、俺はちらっと一瞥してみる。瞳と口元に浮かぶ笑みからは、害意なんて到底感じられなかった。大宝寺のクラスメイト、かどうかは定かではないが、少なくとも、こいつが大宝寺の友人であることに間違いはなかった。
「心配したんだぞ。ケータイに連絡しても音沙汰なしだしさ。先生もお前のこと気にして」
一方的に喋り倒し、歩み寄ってくるそいつを大宝寺は見ようとしなかった。無視そのものだった。代わりに大宝寺は、俺に焦点を合わせて微笑んだ。そいつの言葉を途中で遮ったのは、絶対にわざとだ。今のこの状況なら、誰でもわかりそうなことだった。
「教室に行く。じゃあ、またな」
呼び止めた俺を放って、大宝寺は、こっちもまた一方的に片手を上げて歩き去ってしまう。俺が入らなくちゃならない教室は、大宝寺のクラスのふたつ隣でしかない。いつもの大宝寺なら、わざわざ校舎の入り口で待っていた俺を置き去りにして、ひとりで目的地に直行してしまうことはないはずだ。大宝寺はそういう性格だし、それはなにも、俺だけに限った話ではなかった。人が苦手だなんて零しながらも、大宝寺は大宝寺なりに、上手く人間関係を構築している。たとえその人間が苦手な対象だったとしても、自分を待ってくれていたなら、無下にして背を向けたりはしない。そう思うのに、俺の分析が誤っているのだろうか。それとも、やっぱり大宝寺はなにか抱え込んでいて、その「荷物」が大宝寺をおかしくしているのか。最低限、大宝寺が今までになかったものを心に縛りつけていることは、今までの大宝寺の動向からも推測はできた。なによりあの左腕だ。あれは絶対に、転んで作ったものじゃなかった。大宝寺が、たぶん、自分でやった。
大宝寺に伸ばしかけた右手を、俺は力なく引っ込める。大宝寺に異変が起こっていることは、以前からわかりきっていた。俺にあんなこと――身体に触れようとしてきた分、大宝寺は俺に信号を発しているのだ。自分から言わないなら、怖い気持ちは否定できないけど、俺が訊ねてやらないと。わかっているのに踏み出せない。そもそもチキンな自分になにができるというのか、そこからして理解できていない俺は、最早論外だった。
「俺のなにをアテにしてんだよ」
無意識に、低く汚い言葉が口をついた。見るからに追い詰められている大宝寺を、助けたいとは思っている。動くつもりはある。でも、すべきことなんてわからないし、できることもわからない。わからないなら、ないのと同じだ。苛々する。俺のなにをアテにしてるんだ。俺はなにをアテにしてるんだ。俺にはなにもできない。所詮、なにもできやしない。俺のなにを期待している。俺のどこに願かけしている。大宝寺だけじゃない。ほかの人間もだ。今のこの状況に全然関係のないことまで、ぐいぐいと脳の奥に引っ張り出される。それに伴う感情は、いやにリアルだ。みんな俺に、どうして欲しいって言うんだ。やばい。苛つく。むかつく。腹が立つ。荒ぶる感情を堪え切れず、俺は、両手の拳を力いっぱい握りしめた。感情の波は鎮まらず、逃げ場はどこにもなかった。
「この俺を差し置いて、ひとりで行っちまうとは」
大宝寺の友人であるそいつは、呑気に頭を掻いている。特に困った様子もなく、そいつは呟いた。
「あいつ、相当参ってんのかもな」
言った後、そいつは俺に視線を投げた。俺と目が合った後、そいつの視線は再び大宝寺が消えた校舎の中へと向けられた。
「俺、A組の上野」
「あ、俺は」
「D組の七瀬だろ。弟があの名門、辻ノ瀬に通ってるとか」
つられて名乗りそうになった俺を、上野は制する。ここで詩仁の話が出てくるとは思わなかった。少し俯きがちになった俺の片頬に、上野は、ぴったりと冷たいなにかを押し当ててきた。蒸し暑い夏の気温とはあまりにも遠い、唐突なひんやり感だった。
俺がそれに手をやると、上野はさっさと自分の手をどけた。俺の目に映ったのは、鮮やかな緑色の円筒形をした缶だった。
サイダー。学校の自動販売機にあるやつだ。きつい炭酸が夏には大人気で、七月に入った頃には、ほぼ毎日昼休みは売り切れ状態だった。
どうしていいかわからずに俺が缶を見つめていると、上野が言う。
「やるよ。さっき、当たりでもう一本出てきたから」
上野は、入るべき校舎とは全然違う方向を向いた。黙って歩き始める上野を、呆然と俺は見つめた。なんとも言えないタイミングで、上野は振り返る。俺と目が合った。上野は、困ったような楽しんでいるような、複雑にはにかみながら俺に言う。
「普通、なんか声かけるところだろ。どこ行くんだよ、とか。補習出ないのか、とか」
なにを言っているのか、意味がわからなかった。というのは最初だけだった。確かに今は突っ込むところだ。上野が例に述べたそれを、俺はそのまま返してやる。
「補習、出ないのか」
「いや、遅いだろ」
上野は、びしっと右腕を動かす。漫才で見かけるイメージ通りの、ツッコミ役がボケ役にやるあれ、だった。
「夏休みも、もうすぐ終わりだな」
ぷしゅっ、と小気味のいい音がした。上野が缶を開けた。俺もプルタブに指を引っかけた。同じ音が弾けた。
「就職にしても進学にしても、来年の夏はこんな制服着てないんだよな。変な感じだ」
「そうかな」
「ああ」
校舎の裏は、意外にも風通しがよかった。冷たいアスファルトの壁に背中をくっつけていると、体感温度は結構下がる。真夏の屋外にしては、居心地は上々のスポットだった。
爽快なサイダーを、上野は軽く飲み鳴らしている。対して俺は、量を調節しながらサイダーを口に含んでいる。
「七瀬は、卒業した後どうするつもりなんだ。大学に行くのか」
自然な流れで上野は質問してくる。俺は、いや、と否定する。
「行かない。補習に出てるのも、今までの成績のツケだし。専門学校に行こうかと思ってる」
「へえ。なんの?」
「V系メイク。バンドの」
V系メイク。口の中のサイダーを噴き出しそうな勢いで、上野は繰り返した。上野を横目に、俺は少しずつサイダーを喉に滑らせる。
「そんなに意外かな。俺、結構前から考えてることだけど」
「いや、随分と非現実的なこと言うんだなって思って」
「だよな。現実的じゃないよな」
あーあーあーあーあー、と上野は誤魔化すように両手を激しく振る。サイダー、零れる。俺が忠告するよりも先に、上野は缶に口をつけた。それから俺に向き直り、興味津々といった顔をして上野は俺に迫る。
「V系、好きなのか? 激しいやつ」
「弟が好きなんだ。あいつ、本気でそういうバンド組んで、人前で歌ってみたいと思ってるんだ。俺、あいつなら本当にできると思う。だから俺は、弟がデビューするまでにメイクを勉強したくて」
「なるほど、弟のメイクをしてやりたいってか。弟想いのいい奴なんだな、七瀬って」
弟想いのいい奴。単語が胸に突き刺さる。今の俺は、本当にいい奴なんだろうか。こんなにも苛立って、むかついていて、腹の底が熱いのに。漠然と描く未来の像に揺らぎがないのは当たり前だ。現状で、胸の内側が揺らぎすぎている。前なんて見えない。不安定な視界で先は臨めない。見えないのだから、揺らぐわけがなかった。
「実は、俺も結構V系好きなんだよな。泰雅に無理矢理CD貸したりして、意味わかんないし声煩いし最悪、なんて突っ返されたことが何度も」
言葉はそこで区切られた。改めて決心をつけるかのように、上野は口をしっかりと閉じて沈黙する。グラウンドの部活動生たちの、まとまった声が俺の耳に入ってくる。この暑いのに、運動部はよくやっていると思う。俺は感心するしかない。
「本題なんだけどさ、七瀬」
ようやく口火を切った上野の声は、飽くまで平常を装ってはいるものの、言い辛そうだった。無理して喋るような事柄なら言わなくてもいい、と俺は思ったけど、そんなことを言って話を終わらせるわけにはいかなかった。俺は上野を促す。またいくらか黙った後、やっと上野は言葉を繋いだ。
「七瀬と泰雅って、一体どういう関係なのかなって思って」
「どうって?」
「いや、まあ、なんというか」
上野はやたらと口篭っている。一瞬、俺にはわけがわからなかった。口篭るほどの大層ななにかを俺に見受けているというのだろうか。そんな疑問さえも、頭をすり抜けていった。でも、意味不明だと俺が感じたのは、本当に一瞬だけだった。上野がなんのことを言っているのか、俺はすぐに理解できた。
光景が目に浮かんでくる。あの日、理科室に都合よく現われた誰か。不安定な目をした大宝寺が迫ってきて、俺もどうすることもできなかったあのときに、誰かが勢いよく理科室の扉を開けた。その拍子で、俺はあの場から逃げ出せた。そのときは必死で、それが誰なのかを確認する余裕なんて微塵もなかった。でもその誰かは、今俺の目の前にいる上野だったのだ。今頃になって気が付いた。あのタイミングがなければ、俺はどうなっていたかわからない。言えば上野は、俺の恩人だった。
じゃあ上野は、どこからかはわからないけど、俺と大宝寺のシチュエーションを目撃していて、その真意を今俺に問うている、というところだろうか。大宝寺が俺の首に触れたときの、あの手の冷たさと生々しさは、未だ肌から抜けてくれない。
「ただの友達」
俺は言って、更にもう一度言い切った。
「クラスは一緒になったことないけど、大宝寺とは一年生のときから友達なんだ。高校生になって初めてできた友達だよ」
上野は目を見開いて俺を見つめた後、そうか、とだけ言った。
大宝寺は友達だ。俺は自分に言い聞かせる。大宝寺は、自分にとって脅威ではなく、大事な友達なのだ。妙なことにはらない。友達なんだから当たり前だ。大宝寺はなにか事情があって、変な行動をするようになった。その事情がなにで、いつからなのか。問題はそこだった。
いつから。思い出さないようにはしているけど、思い出してしまう。俺が学校をさぼったその日、大宝寺が家に来た。玄関のドアを開けた詩仁となにか口論みたいなことになって、そして、大宝寺は詩仁を殴った。首を絞めていた。大宝寺は、俺の弟の詩仁を殺そうとしていた。俺もそれを言わないし、詩仁もなにも言わないけど、あのとき、既に大宝寺はおかしくなっていた。今ほど顕著ではなかっただけだった。ただ大宝寺は、この出来事よりも前に、俺の本当の気持ちを認識している。
俺の英語の教科書が破られていたその日、会話の流れで大宝寺は、俺が詩仁を邪魔だと思っていることを知った。俺もそれを否定しなかった。いつもなら否定するけど、そのときの俺は、もうなんだってよかった。なにもかもどうでもよくて、興味も失くしていた。実際、俺をのけ者にしようとする奴らか詩仁かを殺せるとしたら、俺は詩仁を殺すと言った。嫌な思いは昔からしてきたけど、それほど具体的ないじめの例がないまま高校三年生になった。このままなんとかいけると思っていた。そうしたら、教科書を破られるなどという古典的で幼稚な嫌がらせを受けて、自暴自棄になった。過去に起きたいろいろな嫌なことと、様々な形で詩仁が結びつくのも確かだった。だから俺は詩仁を殺せると思った。思ってしまった。そんな思考回路の許容が、根本的には、大宝寺をおかしくした。大宝寺の頭には常に俺がいるようになって、そのうちに大宝寺本人が、俺の世界の最優先事項だと思い込むようになってきて、そしてそれは違っていた。俺のもうひとりの友達である立川景に嫉妬する気持ちが、大宝寺の中で強くなっていった。直接確かめたわけじゃないけど、だいたいそんな経緯だということは、容易に想像がつく。その道筋の末が、あの展開だった。
大宝寺が言う「俺と七瀬が物理的に、一番近くにいる方法」。大宝寺に言わせれば、俺と景は、精神的に最も近い位置にいるらしい。そのポジションを、大宝寺も望んでいたようだった。
察しがついても、上野には話せなかった。俺や大宝寺が特別に悪いことをしたわけでもないけれど、話せば、上野を巻き込んでしまうような気がした。それに、まさか大宝寺が弟を殺そうとしてた、なんて。俺は唇を結ぶ。大宝寺が人殺しを図っていたなんて、到底口にできそうにもなかった。
ふうん、と上野は鼻を鳴らす。上野だってきっとわかっているのだ。俺はそう思う。俺が一から説明しなくても、少なくとも、大宝寺がなにか思い詰めていることを上野は知っている。理科室の件だって、異常な事態だと感じ取ったから如何にも偶然っぽく現われたのだ。そうだとしたら、上野は既に大宝寺をマークしていたのかもしれない。大宝寺の様子がおかしいことに、上野は俺よりも早く気が付いていたのかもしれなかった。
「泰雅の奴、学校で信用してるのはお前だけっぽいぞ」
上野が天気の話でもするかのように言う。え、と俺は訊き返した。上野は嫌な顔をするでもなく、普通の調子で同じことを繰り返した。
「学校の連中で、泰雅が信頼してるのは七瀬だけなんだよ」
「そう、なの?」
「なんせガードが固いよな。それはお前もわかってたんじゃないの」
上野が言う通り、大宝寺は確かに人に心を開きにくいタイプだと思う。気難しいとか扱いにくいとか、そういう話ではなくて、大宝寺は人間そのものに対して希薄でありたいと願っているような、そんなオーラさえ漂わせていた。自分から人を避けようともしていたし、もとより人から少し距離を置かれる要因も持ち合わせていたのだと思う。俺がたまに大宝寺のクラスを覗きに行くと、大宝寺はいつもひとりで席に着いて、頬杖をついて窓の外を眺めていた。
「でも、だからなのかな。普通に接することには間違いないけど、男子からはちょっと距離取られてるのに、女子の目は相当惹くんだよな。確かに女子が好きそうな設定ではあるよな、あんなに静かで大人しいのに、実はスポーツの全国大会で個人チャンピオンだとか。運動神経はさながら、あいつ顔も普通にいいし」
ここで上野は、ほんのちょっとだけ悔しそうにはにかんだ。悔しそう、と感じた自分の感性を俺は疑問に思った。
「だけどさ、たとえ自分を好いてる女子だろうと、寄ってくれば寄ってくるほど泰雅は鬱陶しがってた。直接そんなこと言わないし、顔には出さないけど」
「上野は大宝寺と仲がいいんだな。下の名前で呼んでるし」
「長いだろ、『大宝寺』って。向こうは俺のことを『一心』とは呼んでくれないけど」
――下の名前で呼んでくれよ、嘉仁。
反射で、俺は耳を塞いだ。辛うじて、それは片耳だけで済んだ。両手を使って耳を押さえていたら、さすがに不審がられてしまう。今ばっかりは、自分の鈍さに安心した。
何度もフィードバックするくらいだから、これは本当だ。確実に「怖い」と認識しているのに、俺は大宝寺を放っておけなかった。変な責任を感じているつもりはなかった。でも、大宝寺がおかしくなったきっかけは、俺であることに間違いはなかった。大宝寺が俺だけを信頼しているなら、尚更だった。俺がしっかりして、大宝寺を救わなければならない。
俺が大宝寺を助けなきゃ。呪文のように、そんな言葉が脳内を駆け巡った。頭の中がその一定の響きで埋め尽くされていく。やめろ、やめろ。やめろ。俺の潜在意識が怒声を飛ばす。それは俺の義務じゃない。俺の役目じゃない。別に俺がやらなくてもいいことじゃないか。やめろってば。俺の中で、更にもうひとつ、叫びに近い声が震えた。どっちが俺の本当の意思なのか、もう俺自身にもわからなかった。
「大丈夫、だといいんだけど」
凄まじい感情の嵐だった。どうしようもなく、俺は腕を引っ掻いた。直接肌に伝わる爪の感覚から、行き場のない焦燥が逃げていくようだった。それなら、俺は俺を傷つけていたかった。どこにもやれない感情を、こうして外気に流す。気分のいいことだった。大宝寺はもしかして、こんな気持ちで自分の左腕を傷ものにしたのかもしれない。そうだとしたら、今はそれも、全然恐ろしくない行為に思えた。視界に入れる度に心臓が凍てつくようだった、大宝寺のあの左手の包帯も、今ならちっとも怖くない。なにも怖いことではない。
「大丈夫ならいいんだけどな」
上野は同じことを口にする。俺は、そうだな、と相槌を打った。大宝寺って溜め込むタイプっぽいし、とも言っておいた。すると上野はこう言った。「案の定」。意表を突かれて、俺は上野に視点を定めた。
「泰雅も心配だけど、さっきのは七瀬のこと」
「俺? なんで?」
「今、すごく怖い顔してたから」
まじで、と確認してみると、上野は、まじで、と同じ言葉で返答をよこしてきた。
間を置いて、俺は引っ込んだ。俺も怖い顔するんだ。当たり前のことのように思えるのは間違いないのに、不思議な気持ちだった。
「あんまり我慢ばっかしてると、爆発しちゃうぞ」
「俺は大丈夫だよ」
「泰雅はそろそろだな。ひとりで考え込むくらいなら、いっそ爆発させたほうがいいかもな」
「取り返しのつかないことになったらどうすんだよ」
「そのときは警察がなんとかしてくれるだろ」
上野は悪びれた様子もなく飄々と喋った。大宝寺を気にかけるクラスメートの割りには、妙にさっぱりと切り捨てるようなことを言う。変な奴。サイダーの炭酸で口を湿らせながら、しっかりと首を固定して上野を観察してみる。外見は普通の高校生にしか見えない。そう言えば、なんだかんだで大宝寺も変わっていると思う。そういう視点でものを言うなら、上野は別に変わってなんかなくて、普通の男子なのかも。なんとなく俺は納得した。
でも、友達なら助けたいと思うものじゃないのだろうか。俺は素直に訊いてみた。「大宝寺が苦しんでることがわかってるのに、なんとかしたいとは思わないのか」。すると上野は、少し眉を下げた。困った顔だ。上野は感情豊かな奴のようだった。
「別に、どうでもいいと思ってるわけじゃないんだけど」
サイダーは既に飲み干してしまったらしく、上野は、缶の口を地面に向けて振っている。なんというかなぁ、と、上野は頭を掻いた。
「友達ぶるというか、仲良しを演出するというかさ。そういうことすると、泰雅には逆効果みたいなんだよな」
「逆効果?」
「自分から人を避ける奴だろ。優しい顔して近付いてくる人間は警戒するし、こっちに敵意がないことを言えば言うだけ、殻に籠っちゃうんだろうな。自分に味方はいないって決めつけてる感じ」
「でも、それって変だぜ。大宝寺は俺を信用してるって言ったじゃないか」
間髪を入れずに身を乗り出した俺に見向きもせず、上野は言う。
「それもシンプルな話だな。泰雅自身が、七瀬は自分に害を及ぼさないって認めたんだろ。だから七瀬にだけは頼ることもあるし、それ以外の自分が認めてない人間が寄ってきたら、突っぱねる。そいつが本当に泰雅のことを心配してたとしても」
上野は元々、人を分析する能力が高いみたいだった。そうでなければ、こんなにはっきりとした説得力がひとつひとつの言葉についてくるわけがなかった。一日大宝寺と同じ教室で過ごしている上野は、その分、大宝寺のことを視覚している。クラスが同じなら、様々なことに関して動向を探ることだって可能だ。そして大宝寺は、そんな上野を認めていない。認めていないから突っぱねる。自分に害を与えるかもしれない、と思うことはしないまでも、積極的に関わるべき人間ではないと思っている。これもまたシンプルな話だった。
避けられていることがわかった上でも、まだ大宝寺が気にかかるとは。まるで兄貴みたいな奴だ。上野の横顔を、俺はじっと眺めてみる。目や鼻の形が整っていて、なかなかに男前だった。
兄貴。口の中で、俺はその言葉を噛みしめる。上野のような兄貴なら、頼ってもいいかもしれない。頼られたら、いつでも自信を持って応えられるかもしれない。どんなに気分が沈んでも、落ち込んでも、それを逆手に感情を裏返すことができるかもしれない。弟の自慢の兄貴を、なんの苦もなく続けられるかもしれない。堂々と本心から、弟が自慢なのだと言えるかもしれなかった。
本心から弟が自慢、だと。頭の中で、その言葉が宙吊りになっている。自慢の弟、自慢の弟。自慢の、俺の弟。眩暈がした。俺の視界は真っ白になった。視界はすぐに正常に戻った。なんの変哲もない学校の風景を、なんの変哲もなく、俺の瞳は映し出している。
自慢の弟。嘘まみれだ。俺のための嘘に、俺しか気付くことができない。俺だけがわかって理解している、俺の本当の言葉だ。俺しか知らない。俺しか知ることができない。だって俺自身が、そう仕向けている。
荒れる胸の内側の奥深くを、ぐっと押さえつけた。波が少しも弱くならない。俺らしくもない。こんなに苛つく俺は、俺じゃない。
「アテにされると大変だな」
精いっぱい、俺は声のトーンを上げた。ほんの少しの間を空けた後、そうだな、と上野は感なく言った。それだけだった。
笑顔は俺に必要だ。失くすわけにはいかなかった。失くすわけにはいかないのだ。缶に残ったサイダーを、一気に喉に流し込んだ。炭酸がきつすぎる。それでも今は、思考が停止して、口の中が痛むくらいの感覚が愛おしかった。ハードな炭酸のせいで視界が潤んだ一瞬、面倒なことすべてが頭の中から消え失せた。その一瞬だけは、俺も幸福だと感じられた。