日鐘第二高等学校3年A組 大宝寺泰雅(3)
内側で声がする。頭の中で聞こえているのかもしれないし、右腕、左腕、あるいは、鼓膜そのものが直接響いているのかもしれない。根源さえも、俺には突きとめられなかった。ダメだ、ダメだ。どうしようもなく、耳を両手で塞いだ。いくら耳を押さえつけても、声は変わらず聞こえていた。頭痛が酷かった。本当に頭が芯から割れていくような、そんな例えでもまだ足りないくらいの痛みだった。走り続けてきた足を止めて額に手を当てた。その瞬間に、とてつもない吐き気が胃の底から競り上がってきた。立っていることすらできなくて、その場にしゃがみ込んだ。下を向いた途端、なにもかも吐き出しそうになった。口を押さえて、強引にそれを堰き止める。口の中に厭な味が広がった。
太陽が眩しかった。これだけ陽が照っているのに、全身からは汗が噴き出しているのに、寒気は背中から身体全身へと駆け巡っている。暑いのに寒い。寒いのに暑い。余計に気分が悪くなった。それでも、こんな街中で休むわけにはいかなかった。塀伝いに渾身の力を振り絞って、なんとか立ち上がった。
1歩1歩、ゆっくりと踏み出す。その度に、胃が破壊されるような痛みが走る。戻すのものなんてもう胃袋にはないはずなのに、ないならないで、胃液ばかりが波立っている。吐いても吐いても楽にはならない。吐いたその瞬間、少し気分がすっきりするだけだ。すぐに次の吐き気がやってくる。食べる度、飲む度にトイレにしがみつく。ここ数日間、ずっとそんな調子がループしている。
なんとか家に辿り着いた後も、ループは継続していた。吐き気を懸命に堪えて、俺はゆっくりと自分の部屋に引き上げた。母さんは家にいなかった。買出しにでも出ているのかもしれない。母さんはいつもと変わらず笑顔を絶やさないけれど、俺が自分で彫刻刀を胸に突き立てようとしてから以来、ちょっとだけ頬と顎が骨張ってしまった。母さんの愛情は本当にすごい。俺が一人っ子ということもあるかもしれないけど、なにせ、とにもかくにも俺のことを一番に考えてくれる。あの一件で母さんに心配をかけすぎてしまった。だからこれ以上、母さんに余計な気負いをさせるわけにはいかなかった。突然現われた少女の声のことは、母さんは知らないままだった。
俺の中で、声が笑う。無邪気なんて可愛らしいものじゃなかった。俺が大嫌いな声。黙れ黙れと念じるのに、声は意地悪いほどに黙ってはくれなかった。なにがそんなに面白いのか、声はひたすら笑い続ける。それも堂々と笑うのではなく、無理矢理押し殺したような笑い方だ。ただでさえ癪に障るのに、もっと神経に触れる。ベッドに座って、両手で耳を塞いで歯を食い縛った。
――惜しかったわね。どうして途中でやめちゃうのかなぁ。
なにが途中だ。俺はなにもしてない。普通になれる。お前がいなければ、お前さえいなければ、俺は普通だ。まだ大丈夫だ。この前は七瀬が逃げてくれなかったらどうなったかわからないけど、今回は俺自身の意思だった。ぎりぎりだったけど間に合ったのだ。大丈夫、大丈夫だ。なにも手遅れなんかじゃない。俺は必死に自分に言い聞かせた。
――自分以外の声が自分の中から聞こえてくるのに、どうして手遅れじゃないと思うの。
黴菌娘。黴菌娘は、得意げにせせら笑っている。煩い。俺は固く目を閉ざした。強引にでも、なにも考えないようにしたかった。でも、寝るのはダメだった。俺が静かにすればするほど、声は大きく響いてくる。夜も最近はほとんど寝ていなかった。柄でもなくテレビを観たり、七瀬に借りているゲームをやったりして、無理矢理目蓋をこじ開けていた。そういうときに浅く眠りかけていると、不思議なことに、声は俺の中から消え失せていた。
またしても声が意地悪に微笑んだ。瞬間的な頭痛がした。重いものを力ずくで叩き割ったような鈍い痛みが、俺の頬を歪ませる。
――ねえ、泰雅。
「気安く呼ぶな」
――わたし、名前が欲しいな。
「ああ、上等な名前がある。黴菌娘だ」
――モモカがいい。
大太鼓を思い切り叩いたような、心臓の音が聞こえた。黴菌娘に心臓はない。俺の心臓の音に違いなかった。激しく波打つ左胸を、率直に痛いと思った。音の根源を両手でぐっと押さえつけても、現状はなにも変わらなかった。見開いた瞳に映る世界は、いつもと変わらない殺風景な俺の部屋でしかないはずなのに、何故か不自然に輪郭線を歪ませている。左胸が痛かった。より一層、心臓の箇所を掌で押さえ込んだ。
――ねえ、わたし、モモカがいいな。とってもキュートな名前だわ。モモカって呼んで。
黴菌娘は、こんなときだけ無邪気に声のトーンを上げる。なにがモモカだ。小さく口に出した言葉は、黴菌娘にはしっかりと聞こえていたようだった。不服だと言わんばかりの口調で、黴菌娘は口を尖らせる。女の態度は、ころころと変わってだるい。
――モモカ、いいじゃない。貴方もモモカって名前つけてたじゃない、見ず知らずの女の子に。
「好きに呼んでくれってあいつが言うから」
――じゃあ、わたしも好きに名前つけてもいいじゃない。わたし、ずっと考えてたのよ。名前はモモカがいいかなぁって。
「お前、モモカのこと知ってるのか」
当たり前よ。黴菌娘は楽しそうに語尾を伸ばした。聞いてもないことを、黴菌娘はべらべらと喋り倒す。
――わたしは貴方のことならなんだって知ってるわよ。モモカと貴方がなにをしてたか、わたし、ぜーんぶ知ってるんだから。
それを知った上で、この鬱陶しい黴菌娘は、自らモモカと呼べなどとほざくようだ。うんざりしたけれど、どうしてか俺は、少し可笑しくなってきた。口元に刻まれた微笑はもちろん無意識で、他意なんてなかった。俺は自分の感情すらコントロールできなくなってきたのかもしれない。いよいよ末期だ。そう思うと、また可笑しかった。
ふと俺は考えた。黴菌娘は本人が言う通り、どうせ俺のすべてを知っているのだ。黴菌娘がモモカと声に出したのは、さっき七瀬の家でモモカのことを口にしたタイミングよりも遅い。だから、俺の言葉を拾って適当に単語の意味を繋いでいると考えることもできなくはないけれど、その線はきっとあり得ない。なにひとつ疑う理由も必要も一切なく、俺は本当は最初からすべて知っているのだ。黴菌娘は間違いなく、俺の一部であること。俺の内側で声を発しているんだから、それは当たり前の話だ。黴菌娘は俺の精神が不確定に生み出した存在で、所詮、俺の知る世界の域を出ることはできない。裏を返せば、黴菌娘は、俺が知っている世界なら呼応して理解する。だから黴菌娘は、俺が知っていることならなんだって知っている。お見通しだとかそういうものじゃなくて、黴菌娘は俺自身なんだから、知っていて当然だ。今までの出来事も思い出も感情も、黴菌娘は、俺のことなら事実として知っている。
「なあ、黴菌娘」
違うわ、モモカ。黴菌娘は怒るけれど、俺は気にせずに続ける。
「今ここにモモカがいたら、俺、どうするかな」
黴菌娘は一瞬黙り、すぐに答えを出してくる。
――やっちゃうんじゃない?
「やっぱり?」
予想通りの返答に笑うしかなかった。自分でもうっすらと考えていた。今この場にモモカがいたら、俺は以前と同じことをやると思う。実際、俺とモモカはそういう関係だった。モモカはそういう俺を許容してくれていた。俺はモモカにお金を払ったこともないし、逆にモモカが俺に報酬をくれたこともなかった。今考えれば、明らかに異常な関係だった。異常すぎた。俺は12歳だったし、モモカもいっていて17か、その辺りだった。
「なんであんなことしてたんだろうな、俺」
出し抜けに疑問になってくる。モモカと出会った経緯も不思議だけど、それ以上に俺は、どうしてあの頃、あれほどまでに欲に正直に動いていたのかがわからなかった。最初からそういう目的でモモカに出会ったわけじゃなかった。それだけはなんとか覚えていた。モモカもきっと、そんな関係になりたくて俺と知り合ったわけじゃない。
「たった12歳だったのに、俺、なんであんなに荒んでたんだろうな。俺は一人っ子だし、父さんも母さんも周りの親戚も、本当に俺によくしてくれてたんだ。昔ちょっと聞いた話なんだけど、母さんは子供ができにくかったみたいで」
幼稚園にも通っていないような、夜寝る前に絵本を読んでもらわないと不安で目を瞑れなかったような、それくらい小さかった頃の話だ。祖母か祖父か叔父か叔母か、正確には思い出せないけれど、抱いてくれていた誰かが、俺の髪を撫でながら教えてくれた。「お前のお母さんは、結婚してからお前を産むまでに十数年かかった。お前はこれから本当に大切にされるんだから、お前はもちろん自分も大事に、そしてお母さんもお父さんも本当に大事にしなくちゃいけない」。言葉を聞いたときはよくわからなかった。でも、今は意味を理解できる。あの頃には俺には難しくて理解不能だったけれど、単純な話だった。
「誕生日やクリスマスには絶対パーティーを開いてくれたし、無駄に派手なパフォーマンスとかあってさ。褒めるときは褒めてくれたし、叱るときは叱ってくれたし、俺、滅茶苦茶大事にされてたのに。柔道だって、本当に嫌になったらやめていいってずっと言われてた。いろいろ引き止められもしたけど、やめなかったのは、結局は俺の意思だった。こんなに大切にされてきたのに、俺、なんでこんなことになっちゃったんだろう。なんであんなに虚しかったのかな」
一言で言い表すなら、俺はずっと病んでいたんだと思う。理由は自分でもわからない。生活を不便に感じたこともなかったし、当たり前のように日常に食い込んでくる柔道を窮屈だと思ったことも、ほとんどなかった。いつからか柔道をやめたいと思うようになって、その練習のない生活を空想したりすることは増えた。それでも、学校や近所で人と関わることが苦手だった俺にとっては、ほぼマンツーマンだった柔道の特訓は、それほど辛くもなかった。厳密には苦痛だったけど、同時に、俺には必要な安らぎの時間でもあった。厳しい練習が安らぎだったなんて、俺、Mかよ。自分で考えたことなのに面白くて、俺はまた笑ってしまった。
ひとつ思い当たる節がある。俺が病んでしまった理由が、すっと脳裏をよぎった。こんなこと言っていいものなのか。躊躇が俺の口を閉じさせている。そうだ、こんなこと言っていいわけがない。俺自身がせっかく留まっているのに、黴菌娘は面白がって言葉に換えてしまう。この女の扱いには、俺もそろそろお手上げだった。
――みんなに大事にされすぎちゃったのよ、泰雅。
「名前が腐るから呼ぶのをやめろ」
――過保護な両親に、それはそれは大切に育てられたの。親にとって可愛いのって当たり前よ、だって子供は貴方ひとりなんだもの。
「そんなこと、俺だってわかってるんだよ」
――自覚があるなら、尚更そうじゃない。大切に育てられたままに、素直に成長すればよかったのに。親が自分を可愛がってくれるのは、本当の自分のことをなにも知らないからだなんて、捻くれたことなんて考えなきゃよかったの。
「俺だって素直に成長したかったんだ」
黴菌娘の声の調子は、いつだって明るかった。それに引き換え、俺の声は沈みきっていた。俺は、小さい頃から優遇されすぎたのだ。一人っ子で、しかも親族の中に入れば最も年下の子供だった。とにかく俺は、優遇されすぎていた。優遇されすぎて、逆に考える癖がついた。俺がこうしたらみんな喜ぶだろうと考えて、ならばシンプルにそれを実行すればいいのに、俺がこうすればみんな喜ばないだろう、なんていちいち考えるようになった。そうしたら、そっちの「みんなが喜ばない」選択のほうが、俺にとっては楽しかったり面白かったりする行為のように思えてきた。反抗期というよりは幼児期の所謂「イヤイヤ期」に近い、幼い感情だったのかもしれない。
俺が今考えていることも、全部黴菌娘には筒抜けだ。思考のままに、俺は話す。
「周りが嬉しくないし、怒ったりする選択のほうに、俺自身の本質を見つけ始めたんだろうな。周りがイメージしてる俺らしからぬ俺というか、俺が本当に選びたいのは、周囲の人間に焼きついた俺以外の別の俺というかさ」
――俺、俺、俺、俺。「俺」が多くてややこしいわ。
まったくもう、と言わんばかりに、黴菌娘は口を尖らせた。確かに今の台詞はちょっと「俺」が多かった。黴菌娘を相手取っては、なにを気にする必要もあるはずがないので、俺はそのまま続けた。
「泰雅ならこうする、泰雅ならこう言う、ってわかった顔されるのが嫌だったんだろうな。いつまでも小さい子供じゃない、俺は、みんなが理解したつもりになってる俺とは別人なんだってことを、ずっと表明したかったんだ。でも、そうする勇気はなかった。父さんや母さんや、ほかのみんなが期待して求める理想の俺をやめられなかった」
――そしたら、他人はともかく、親にまで嘘ばかり吐いてる自分が嫌になってきた。自分がこのまま嘘にまみれて、嘘そのものになって、そのうち消えていくような気がして怖くなった。
流れるような自然な口調で、黴菌娘は抵抗なくと俺の言葉を引き継いだ。こいつはやっぱり俺自身だ。俺のことでわからないことなんてなにもないのだ。そのくせこっちは黴菌娘がどうやって発生したのかもわからないし、どうすればこいつがいなくなるのか、想像すらもつかなかった。俺が死ぬこと以外で、黴菌娘の存在が失せる方法は、今のところ謎のままだった。俺の内側の話なのに、とても不公平だった。
「いつ、どこで、どういう展開でモモカに初めて出会ったのか。本当にわからない」
とぼけているわけじゃなかった。いくら記憶を探っても、おぼろげな過去を漁っても、モモカと出会った当初のことなんて、一片足りとも俺の脳に刻まれていなかった。頭に残っているのは、モモカが隣にいたときに俺の中で常に燻っていた、次から次へと沸き立っていた感覚だけだった。その感覚が、最終的には止め処なく生まれ続けた虚無感だった。目には映らない曖昧なものだけど、はっきりとした温度を持って、その記憶だけは俺の脳髄に根を張っている。
「わからないけど、モモカとそういうことをしてるときは自然体だったんだよ。正直にやりたいことをやってたんだ。自分が最低なことやってるのはわかってたし、そんなのは嫌だって思うこともあったけど、嘘を吐かなくていい時間はほかになかった。モモカは俺をいつだって受け入れてくれた。だから依存してたんだ。居心地がよくて、何度も繰り返してたんだよ」
モモカは結局何者だったのか。今に至っても、モモカの正体は不明だった。モモカは、急に俺の前に現われなくなった。報酬さえくれれば誰でも相手にする、とモモカが言っていたのを聞いたことがあった。十二歳の俺は、そういう意味では、既に大人の男並みの経験をしていたし、モモカが発したその言葉の意味も理解していた。だから、モモカがよく座っていた公園のベンチから消えたのは、警察に補導でもされて家が厳しくなったとか、そういう感じなのだと勝手に思い込んでいた。とにかくモモカは、俺の目の前から姿を消した。
寂しいと思うことはなかった。そもそも今までのことのほうが異常だったんだから、モモカのことは忘れよう。俺はそう思っていた。ほかの感情が入り込む隙なんて、俺自身が認めなかった。一片の事実も存在しない、嘘だらけの大宝寺泰雅。俺はそこに戻るしかなかった。それから数日後、女子高生が電車に飛び込んで自殺したというニュースが耳に入ってきた。モモカがいた公園の近くで、俺の家からもそう遠くない駅だった。近場ということもあって、死んだ女子高生の身元も割れた。崎山百花、それが彼女の名前だった。慣れた響きを持つその名前は、忘れたくても忘れられない音になった。
嘘だらけの日常。そこに本当の俺はいない。俺の嘘を、誰も見抜けなかった。気付けなかった。小さい頃からずっと続いてきた慣れた習慣に、俺はなにを期待していたのだろうかと疑問になってくる。誰かが俺の嘘を暴いてくれる、誰かが俺のこの世界を覆してくれる、そんな幻想を抱き続けて、現在に至った。俺の嘘を暴いてくれる誰かは、現われなかった。幻想は叶わなかったけど、俺自身が気を遣わずに、一緒にいてもありのままの自分を保てる人間は現われた。七瀬嘉仁だった。俺が唯一友達だと思えた七瀬だからこそ、七瀬を縛る弟が憎かったし、七瀬に俺以外の友達がいることが不快だった。しかもその友達は、俺が出会うよりも前に七瀬と出会っていた。そのことがは面白くなかった。立川景に嫉妬した。だから俺は、七瀬を少しでも自分に近付けておきたかった。完全に子供の感情だった。子供のくせに、やろうとしていたことだけは一丁前だった。そこがまた幼稚だった。自分で思うよりも数段高く、十八にもなって、俺は子供のままだ。
黴菌娘は、突然押し殺したように笑い始めた。なんなんだよ、一体。苛立つ俺に追い討ちをかけるかの如く、頭の奥で鈍い痛みが振動した。脳のずっと奥のほうから、痛みは秒刻みで近付いてくる。特撮映画で怪物が海の向こうから歩み寄ってくるような感覚だった。言いようのない激痛が迫る。俺には成す術のひとつもなく、黙って耐えることしかできなかった。
――貴方、本当に壊れちゃってるわね。
自分の言葉を皮切りにして、黴菌娘は狂ったように声を上げた。高らかに、得意げに、躊躇なく堂々と黴菌娘は笑っていた。いやに大きく、心臓の鼓動めいた音が耳を突き刺したのは、その瞬間だった。感電したように瞬間的な、それでもはっきりとした寒気が全身を走り抜けた。痺れる余韻が残る身体に、どくん、どくん、と低い振動が反響する。その裏側から、眩しい光沢を放つ金属をこすり合わせるような不快な音が上乗せされている。低い音と、超音波のような高い音だった。ふたつの音が、右の耳から左の耳から、俺の内部へと押し寄せていた。味わったことのない感覚だった。どうしようもなく、俺はベッドから腰を上げた。一定のリズムを持って、身体に鳥肌が立ち続けている。急に寒くなってきて、自分自身を抱きすくめた。猛烈な速度で身体が冷えていく。必死に腕をさすっても、体温を維持できない。寒い、寒い、寒い。押寄せる寒気に、不自然なほど大きな心臓の鼓動が融合する。煩い。耳を塞いだけれど、耳の内側からは、相も変わらず金属同士を故意にこすり合わせているような音が響いていた。
――嘘吐き、本当に嘘吐きよ。嘘吐きすぎて、こんなにもおかしくなっちゃったのよ。壊れもので大嘘吐き、めんどくさい人間よ、貴方って本当に。
あはははははは。黴菌娘の高い声が、部屋中を劈いた。頭が割れる。ぽつんと脳裏に浮かんだ、この先に起こるかもしれない事実に、俺の呼吸が瞬間的に停止した。頭が割れたらどうなるんだろう。唐突にイメージした暗闇は、まさに死そのもの以外のなんでもなかった、と思う。じゃあ、死んだらどうなる。連鎖する想像、そこはただ暗いだけで、なにも存在していなかった。暗いことさえ耐えられるなら、死ぬことは、別に怖いことではないのかもしれない。幸い俺は、暗闇恐怖症やらなんやら、そんな体質ではなかった。そうだとしたら、なにもない空間に行くのだとしたら、今の自分にとってはもしかしたら最良の選択なんじゃないだろうか。自分の中に黴菌娘がいると考えたら辛いし、七瀬のこともいっそ出会わないほうがよかった。俺は生まれてこない方が幸せだったのかもしれない。いや、存在しないなら、幸せだと感じることすらないのか。それならそれで一向に構わない。
黴菌娘の声が響く。脳内に、胸に、身体中に、俺に澱みなく行き渡る。煩い。煩すぎて、むしろ痛い。黙れ、黙れ。黙ってくれ。頼む。頬を涙が伝っていく。一筋、二筋と雫が落ちたその瞬間、俺の中でなにかが崩壊した。
「煩いんだよ!」
叫んだ。傍にあったクローゼットを腕で思い切り叩く。みしり、と音がして、クローゼットのど真ん中に拳大の穴が空いた。どうでもよかった。続けざまに、力いっぱい本棚を蹴り飛ばした。ほんの少し、何冊か辞書が収められていただけの本棚は、信じられないくらい簡単に倒れ込んできた。自分で蹴ったんだから当然のことだけど、俺に向かって倒れてくる本棚が煩わしかった。渾身の力を込めて、再度本棚を蹴り飛ばす。衝撃で辞書をすべて吐き出し、派手な音をたてて壁にぶつかった末に、本棚は結局俺に迫ってきた。鬱陶しい。方向を変えて、もう一度俺は本棚を蹴った。吹っ飛んだ本棚は、なにかに引っかかったのか、壁に斜めの角度で張りついたまま動かなくなった。特に激しい運動をしたわけでもないのに、俺の息は途切れていた。できる限り呼吸を整えようと、大きく息を吸い込んだ。
――ねえ、泰雅。わたしがどこにいるか、わかる?
楽しそうな、黴菌娘の声だった。まだこいつの声が聞こえるのかと思うと、とてつもなく憂鬱な気分になった。それと同時に、妙な違和感を覚えた。声の雰囲気が、ついさっきとは少し違うような気がした。声そのものは変わらないし、いつも通り鬱陶しい、最早聞き慣れてしまっている耳障りな声質だった。でもどこか、なにかが異なっていた。なにが異なっているのか、俺はすぐに閃いた。
――ねえってば、返事してよ。わたしがどこにいるのか、わかるんじゃない?
黴菌娘は面白そうに言葉を繰り返す。俺は反射的にまた両耳を塞ぎそうになった。塞ぎそうになっただけで、塞がなかった。鳥肌が立ったままの左腕をじっと見つめた。青白い肌が精神状態をよく表している。
――泰雅。
ここだ。黴菌娘が俺の名前を口にした瞬間、悟った。黴菌娘はここにいるのだ。俺の左腕。俺の邪魔な俺自身が、この腕の内側から聞こえてくる。
息を呑んだ。ずっとわからなかった黴菌娘の所在が、今なら間違いなくわかっている。考え込まないはずがなかった。黴菌娘はここにいる、つまり殺すなら今だ。傷つけて黙らせるなら、今しかない。最初に黴菌娘の不快な声を聞いたときから、発生源がどうしてもわからなかった。でも、今のこの瞬間、それがわかる。再度俺は息を吞み込み、勉強机の上に無造作に転がっていたボールペンを右手に取った。五本の指で、ペン軸を握りしめた。
俺の心臓は波打っていた。一度右手の力を緩めて、もう一度ボールペンを握り直した。この部屋は暑い。唐突に俺は、蒸し暑さを感じ始めた。こめかみや首筋を流れる汗が、居心地の悪い真夏の室温を象徴している。そのはずなのに、自分の身体が芯からゆっくりと冷えていくような感覚に囚われていた。
暫く俺は、身動きひとつせずに左腕を眺めていた。鳥肌は引っ込む気配すらもなく、毅然とそこにあり続けている。俺はバカみたいに立ち尽くしていた。黴菌娘はここで笑った。こっそりと、隠して笑った。声の元は、俺の左腕の内側だった。俺の中でまたひとつ崩壊した。鷲掴みにしたボールペンを高く振り翳し、勢いをつけて左腕に突き落とした。鋭く、同時に鈍く、後に引く痛みが全身に伝わった。生温い血が、その一点から溢れ始めた。唐突に遮断したかのように、黴菌娘の声も途切れた。安心した俺は、ボールペンを傷口から引き上げて、安堵の息をついた。そこで響いたのが、こともあろうか、元気そうな黴菌娘の声だった。
――やっちゃったわね。自傷よ、それ。
予想外の出来事だった。俺は思わず、ボールペンを投げ捨てた。フローリングの床に、冷たく乾いた落下音が響く。左腕を突き刺した瞬間、完全に黴菌娘は消え失せたと思い込んでいた俺は、不意を突かれて何歩かさがった。さがっても俺の左腕は変わらずここに存在しているし、だから黴菌娘も生きていた。深くボールペンを刺した箇所は、生温い血液が渦を作って溢れ出ている。ついさっきまで安堵の対象でさえあった血と痛みが、即座に、俺の中で恐怖に変わった。あまりに怖くて、俺は、噴き出す血液から目を逸らすことができなかった。
黴菌娘は死んでいない。揺るぎなく君臨する事実に、俺は驚愕した。自分の腕を刺しまでしたのに、そんなバカなことがあるか。あってたまるか。声にならない内の声で俺は必死に主張するけれど、全然ダメージを被った様子さえなく笑い転げるその声が、変えようのない現実に拍車をかけて存在している。もう自分ではどうすることもできなかった。信じられないくらい情けない、怯えたようなか弱い吐息が、夏の湿気を含んで周囲に舞い上がった。
やり切れず、奥歯を噛んだ。食い縛った歯に歯がこすれて、嫌な音がした。強く握りしめた拳に爪が食い込んで、少し痛かった。流血し続ける左腕の傷一点に比べれば、本当に些細な痛覚だった。黴菌娘がいなくならない、その真実が、断固とした存在感を示している。どうしてこいつはいなくならない。俺の内側で、苛々が急加速する。脳の淵を力任せに叩いて回るような頭痛がする。なんでこいつは消えてなくならないんだ。俺はこの手で、この手を刺したのに。この女を殺すために。それなのに。
「お前、一体どこにいるんだ」
俺が声を絞り出しても、黴菌娘は面白がるように笑うだけだった。そういえば、左腕から聞こえてくると思えていた黴菌娘の声は、そんな響きではなくなっていた。あれだけはっきりと認識できていた出所だったのに、俺の錯覚でしかなかったということなのだろうか。それとも、俺は本当におかしくなってしまったのだろうか。どっちにしても黴菌娘は生きていて、結果、いいことはなにもなかった。
「どこにいるんだよ。教えてくれよ。頼む」
再度、俺は声を絞り出した。霞む声にも、黴菌娘は同情の一色さえも滲ませなかった。回答が得られないことに、俺は絶望する思いだった。力が抜けて腰が落ちた。左腕の傷口を、俺は無意識に右手で匿っていた。血の生温さとべとつく感触が、リアルに俺に浸透した。
わたしはどこにいるんでしょうね、と黴菌娘は俺に問う。確信犯の質問。完全に遊ばれている。苛々が募る。左腕の痛みが引かない。黴菌の娘がそこにいるという事実が、すべてが俺に障っている。全身が小さく震えていることに気がついた。今の俺は恐怖していて苛立っていて、もうこの感覚をどうしようもない。耐えるしかないと俺は思った。同時に、耐えられるわけがないと思った。そう、耐えられる理屈もないし、そのはずもなかった。耐えられなかった。俺はこれ以上、耐えられない。このおかしな戯曲を、お願いだから終わりにして欲しい。そんな俺の意向を読み取ったかのように、黴菌娘は、またしても甲高い声を掲げる。いい加減にしてくれ。本当にやめてくれ。やめろ、やめろやめろやめろ。やめろ。やめろと言うのがわからないのか。わからないらしい。俺の中で、波が荒れ狂っていた。どうにもできずに、両手で髪を掻き毟る。どのタイミングかで、自分でも信じられないような声を上げていた。奇声とまではいかないまでも、ほとんどそれに近い、無意味な音の連続だった。
勉強机に備え付けられたペン立てに、鋏が入っていたのが俺の目についた。彫刻刀がしまわれていた引き出しには、二度と早まった行為をしないようにと、自分で鍵をかけている。だから手近な刃物は、その鋏だけだった。腕の傷を押さえた俺の右手は、指の隙間に至るまで真っ赤に染まっていた。その手で、俺は、鋏を手に取った。俺の息は上がっていた。不自然なくらいの暑さが、じわじわと俺を蝕んでいる。
「出てこいよ、黴菌娘」
一瞬、視界がぼやけた。俺は鋏を握りしめて、ゆっくりと立ち上がった。足に力が入らなくて、ふらついた。壁によりかかるようにして、なんとか直立を保つ。
「殺してやる。殺してやるから、今すぐ出てこい。爪を剥いで、目玉を抉り出して、脳をかき回して、内臓を引きずり出してやる。残酷非道の限りを尽くして殺してやるよ」
俺の脳内では、既に残酷極悪冷酷極まりのない、黴菌娘極刑劇のシナリオが再生されていた。渾身の力でかち割った黴菌娘の頭から、真っ赤な血液と濃いピンク色の脳が噴き出す映像だった。その様子を見て、俺は一度満足する。でも、すぐに飽きてしまう。頬に血が飛び散っても、黴菌娘を殺した感覚をリアルに手に残しても、スリルが足りなかった。死んだ黴菌娘を、俺は、それこそ鋏やらの小道具を使って、更に解体するのだ。いい気味だ。その一言に尽きる。
――そんなこと、できるわけないじゃない。
虚を突くように、黴菌娘の声が俺の耳をついた。ほんの一瞬、俺の中で荒れていた感情が、完全に収まった。波はすぐにぶり返した。荒ぶるそれに、俺は支配される寸前だった。鋏を持ち直して、血が出るほどに下唇を噛んで、左胸を左手で押さえつけた。実体のない黴菌娘を傷つけることは不可能だということくらい、俺にもわかっている。だからこそこんなにも煩わしくて、気持ちを切り替えることさえもできなくて、結局自傷までしてしまった。そうだというのに、この女は。この、女は。
「なんなんだよ、お前は!」
鋏を壁に突き立てた。飽き足らず、俺は何度も鋏を壁に突き刺す。ざくり、ざくりと簡単に穴が空いてしまう壁が、関係ないのに鬱陶しかった。涙が止まらなかった。どうやったら涙が止まるのか、それさえもわからなかった。情けない嗚咽が喉から漏れた。いっぱいに力を込めて、壁に刺さった鋏を抜いた。繰り返し繰り返し、俺は壁を鋏で刺す。穴だらけだった。壁だなんて堂々たる姿を持っているくせに、傷つけようと思えばすぐに傷つく、傷つけるつもりがなくても簡単に傷ついてしまう、そんな脆さがまるで俺みたいだった。物理的には、俺は確かに強いかもしれない。でも本当は、こんな壁ひとつに自分自身を見出してしまうほどに、俺は弱すぎる人間なのだ。自分で勝手に作り出した妄想の女ひとりにさえ、まともに太刀打ちできやしない。涙が止め処もなく零れていく。もう嫌だった。嫌悪のままに、俺はまた鋏を振り翳す。
「消えろよ、消えろよ、消えてくれよ! お願いだから消え失せてくれよ、俺をこれ以上苦しめないでくれ! 普通に戻らせてくれ、俺は普通の生活がしたいんだよ! 七瀬とは普通に友達でいれればそれでいい、立川景に嫉妬なんてバカげてたんだ! 七瀬弟も立川景も、七瀬にとっては大切な存在なんだよ!」
嘘のように声が聞こえなくなった。しんと静まり返った部屋のどこを見ても、黴菌娘の姿があるはずもなかった。脳が直接、震えているような気がする。頭が痛くて、力が抜けて、俺は鋏を取り落とした。ずるずると座り込む。フローリングの床の冷たさが、すごく心地よかった。なんだか疲れた。そっと目蓋を下ろしてみた。静かで確かな、安らかな暗闇が展開していた。このまま眠って、もう、二度と目覚めたくない。
部屋の扉をノックする音で、俺はすぐに目を開けた。泰雅、と俺を呼ぶのは、紛れもなく母さんの声だった。いつの間にか帰宅していたらしい。俺がなにか妙な行為に走っていないか、母さんも気が気じゃないのだ。俺が出かけている間に自分の用事を済ませようと思ったんだろうけれど、俺のほうが先に帰っていたから、少し心配になった。母さんの心境はそんなところだと思う。
疼く頭を片手で支えながら、俺は部屋のドアを開けた。その瞬間に、全身に電気が流れたような衝撃が走った。心配しすぎて憔悴しきった様子の母さんの表情が、一気に青ざめた。それがそのまま、俺の目に映る。
母さん、と俺は言いかけて、言えなかった。母さんは慌てふためていて、なにか聞き取れないことを言いながら俺に背を向けた。俺は目を両手で擦った。でも、確かにそいつはそこにいた。姿は見えないけれど、そこにいることはわかった。わかってしまった。黴菌娘が母さんの内側にいた。
「お前なんで、そんなところに」
楽しげに笑う黴菌娘の声は、間違いなく母さんの中から聞こえていた。なにがどうなっているのか、俺にはわからなかった。黴菌娘は、俺が勝手に作り出した妄想じゃないのか。全部、俺にはわからなくなった。ただ、母さんが黴菌娘に支配されているという、そんな認識だけは色濃く俺に染み込んだ。
「返せよ。返せ」
え、と、母さんの姿をしたそいつは振り向いた。涙で溢れた真っ赤な目をして、俺の左腕を見て衝撃を受けた顔をして、本当にしらじらしい態度。俺は咄嗟に、足元の鋏を拾った。俺はまた涙を流していた。泣いていたのは無意識だった。泣きながら、俺は思い切り鋏を振り上げていた。刃を向けて、その姿に突きつけて、覚悟を決める。
「母さんを、返せ」
今度こそ、今なら殺せる。母さんを返せ。返してくれ。これ以上、俺からなにも奪わないでくれ。その一心で、俺は叫んだ。母さんの顔が、その瞳が大きく揺らいだ。
「母さんを返せーっ!」