あなたのお母様は、あなたが慰めてください
「エレーヌ、君とは結婚できない。エステル嬢を愛しているんだ」
ロデリク様はそう言ってから、扉の向こうへ目をやった。
廊下には、革の旅行鞄が二つ並んでいる。いつもなら、どちらへお出かけですかと尋ねるところだった。今日は、鞄についた新しい金具を見たまま、何も言えなかった。
私の手には、濃い青の紙で包んだ本がある。母の五十歳の誕生日に贈るつもりで、ここへ来る前に買ったものだ。
「母には話してある。両家の手続きについては、改めて君のお父上にお詫びに伺うよ」
椅子を勧められることもなかった。
三年間の婚約が、玄関から続く小さな控えの間で終わろうとしている。私は今日、母の誕生日なので夕方までには帰りますと、それを伝えに来ただけだった。
「いつから、その方と……」
「三か月ほど前からだ。君には申し訳ないと思っている。だが、気持ちを偽って結婚する方が、よほど不誠実だろう」
この三か月、私は彼の母親と、婚礼に着る服の相談をしていた。
お客様を迎える時は、あなたが私の隣にいてね。そう言われて、まだ何も分からないけれど頑張りますと答えた。ロデリク様も聞いていたはずだ。私と目が合うと笑って、心配ないと言ってくれたのだから。
「では、あの時も……」
続きを聞くのが怖くなって、声が止まった。
彼は私の手元へ視線を落とし、本の包みを見た。
「母への贈り物かい? ちょうどよかった。君からも、これからのことを話してやってくれないかな」
「これは、私の母に」
「そうか。いや、贈り物がなくても構わないんだ。君が来てくれるだけで、母は安心するから」
話が繋がらなくて、私は彼の顔を見直した。
別の女性と結婚する。私との婚約は終わりにする。その次に、どうして私がここへ来る話になるのだろう。
「今までどおり、母の相手をしてやってほしい。僕とのこととは別に、君たちは仲がいいだろう?」
包み紙の端が、指の下で潰れた。
ロデリク様は気づかず、明るさを取り戻した声で続ける。
「息子の婚約者ではなくなっても、娘同然の相手を失いたくないそうだ。母も、君に気を遣って言い出せないのだと思う」
気を遣われたのは、私なのだろうか。
彼の口からは、私がこれからどうしたいかを尋ねる言葉が、一つも出てこなかった。
ラヴァル伯爵家へ通い始めたのは、先代の伯爵様が亡くなった頃だった。婚約して間もない私に、ロデリク様は頼みがあると言った。
急に父の仕事を引き継ぐことになって、母にまで気が回らない。少し話し相手になってくれないか、と。
好きな人の力になりたかった。初めてブリジット様の部屋へ行った日の私は、どんなお話なら慰めになるのか、馬車の中でずっと考えていた。
最初の頃は、私も一緒に泣いた。夫を失った寂しさを、まだ若い私には本当には分からないと思いながら、それでも隣にいた。
その夜、ロデリク様は私を玄関まで送り、手を握ってくれた。
『君がいてくれてよかった。母をこんなに大切にしてくれる人と、結婚できるんだね』
嬉しくて、帰りの馬車でも手袋を外せなかった。
次に頼まれた時も、その次も、私は喜んで頷いた。
「母は居間にいるよ。僕はこれから出かけるので、あとは頼む」
彼が向きを変えたので、思わず袖を掴みかけた。指は布に届かなかった。
「今日も、私を置いていらっしゃるのですか」
ロデリク様は眉を寄せた。
「エステル嬢のご一家が、温泉町で待ってくださっているんだ。三泊の予定でね。急に取りやめるわけにもいかない」
私とは、約束を取りやめられた。
春の花市も、夏の音楽会も、彼と二人で出かけるはずだった。母が寂しがっているからと頼まれるたび、私は切符を人に譲り、この家の居間へ入った。
その彼が、別の女性のもとへ出発する。私は残って、彼の母親を慰める。
胸の奥が痛むのに、あまりにひどくて、すぐには泣けなかった。
「……ブリジット様に、お話をしてまいります」
それだけ言うと、彼はほっとしたように息を吐いた。
「ありがとう。母も喜ぶ」
私は返事をしなかった。
ブリジット様なら、こんな別れ方はおかしいと言ってくださるかもしれない。娘のように大切だと、何度も言ってくれた人だもの。
そう考えながら廊下を歩いた。まだ誰かに、間違いだと言ってほしかった。
* * *
「聞いたのね。急なことで、驚いたでしょう」
ブリジット様は、いつもの長椅子に座っていた。
膝には読みかけの雑誌が載っている。私を見ると、それを閉じ、隣の場所を空けてくれた。何百回も座った場所だった。
私は腰を下ろさず、椅子の背に手を置いた。
「ロデリク様は、三か月前からエステル様とお付き合いをなさっていたと伺いました」
「ええ。あの子も悩んだのよ。あなたを傷つけたくないと、ずっと言っていたわ」
おかしい。
さっきから、私を傷つけたくなかったという話ばかりだ。私は今、こんなに苦しいのに、その苦しさの行き先がない。
「ご存じだったのですか」
ブリジット様は、少し困ったように雑誌の角を撫でた。
「相談は受けていたわ。心配しないで、あなたの悪口を言ったのではないのよ。エステル様が、あの子にとって特別な方になってしまったというだけ」
「いつから、ご存じだったのですか」
もう一度尋ねると、彼女は私の声の硬さに気づいたらしかった。
「……三か月前よ。だから、最初からということになるかしら。でも、私が決めたことではないわ」
椅子の背に置いた手が、じわじわと冷えた。
三か月前、ブリジット様は庭で育った薔薇を見せてくださった。この色を婚礼の花に使いたいと言ったら、私の手を取って、あなたには似合うわねと笑ってくださった。
あの時から、知っていたのだ。
「私が、婚礼のお話をしていた時も?」
「決まっていないことを、私から言うわけにはいかないでしょう。あなたを無駄に不安にさせるのも、可哀想だったのよ」
可哀想だったから、黙っていた。
私の知らないところで私を可哀想だと思いながら、来春には家族になる話をしていた。
私は膝が崩れそうになり、さっき空けられた場所ではなく、向かいの椅子に座った。本の包みを抱いていないと、手の置き場が分からなかった。
「先週も、ロデリク様がお帰りにならないから、夕食をご一緒しました。その時も、エステル様のところだとご存じで?」
彼女は否定しなかった。
「一人の食事は味気ないもの。あなたがいてくれて、助かったわ。あの子も、私が寂しがっていないと分かれば、安心して……」
言い終える前に、ブリジット様は唇を閉じた。
私がどんな顔をしたのかは、自分でも分からない。ただ、耳の奥で、安心して、という言葉が繰り返されていた。
安心して、別の女性に会いに行けた。私がその人の母親を慰めている間に。
「私に、そんなことをさせていたんですか」
声が震えた。ブリジット様が、慌てて身を乗り出す。
「エレーヌ、悪く取らないで。あなたと過ごすのが楽しかったのは、本当なのよ。息子がいないから仕方なく、ということではなくて」
「私は、ロデリク様が好きでした」
遮るつもりはなかったのに、言葉が出てしまった。
「あの方と家族になれるのが嬉しくて、こちらへ来るのも、最初は楽しみだったんです。お母様にも、私を好きになっていただきたかった。結婚してからも仲良くしてくださったらと、ずっと……」
涙が本の包みに落ちた。
私は慌てて拭こうとした。青い紙に丸い染みができて、母への贈り物なのに、とますます泣けた。
「まあ、そんなに泣かないで。私たちまでお別れする必要はないのよ」
ブリジット様が手巾を差し出した。私は受け取らず、自分の鞄から取り出した。
「嫁には来てくれなくても、娘だと思っていることは変わらないわ。これからも、お母様と呼んでちょうだい。エステル様にはエステル様の、あなたにはあなたのよいところがあるのだから」
「私の、よいところ?」
「こうしてゆっくり話を聞いてくれるところよ。エステル様はお付き合いも広くて、お忙しい方なの。あの家のお嬢様に、私の寂しさまで押しつけるわけにはいかないでしょう」
私は濡れた手巾を握った。
押しつける、という言葉を、この人も知っていた。
相手によっては、してはいけないことだと分かっていた。
「私には、よかったのですか」
「そんな意味ではないわ。あなたは、私と一緒にいるのが好きだと言ってくれたじゃない」
好きだった。
刺繍を教えてもらった時も、夫婦になってからの暮らしを聞いた時も、本当に楽しかった。私の母よりも社交に慣れているこの人に褒められると、自分も立派な伯爵夫人になれるような気がした。
けれど、楽しいだけではなくなってからも、私は来ていた。
友人との約束を断った日がある。帰りたいと言い出せず、食事を待つ両親へ使いを出した夜もある。
ロデリク様が母親の話を聞いてくれない。その話を、私は何度も聞いた。
同じところで頷き、同じところで憤り、一度、あの方にもお話しになってはと勧めると、分かってもらえないからあなたに話しているのよと返された。
翌日には、また同じ話が始まった。
「帰りたい日もありました」
口にしたら、ブリジット様の目が丸くなった。
「去年の母の誕生日も、帰りたかったんです。でも、今夜だけは一人にしないでとおっしゃったから、残りました。ロデリク様にも頼まれて」
「そんなに嫌だったなら、そう言えばよかったでしょう。私は、あなたに無理をさせた覚えはないわ」
喉の奥が熱くなった。
無理をさせた覚えはない。私は一体、何を恐れて予定を断っていたのだろう。
帰ると言った時に黙り込む顔を。翌日、あなたまで私を置いていくのねと言われることを。ロデリク様に、母を困らせないでくれと頼まれることを。
そのどれも、この人たちの中では、私が喜んでしていたことになっていた。
「では、今日は帰ります」
私は立ち上がり、手巾をしまった。
ブリジット様が、私の手から本を取ろうとするように指を伸ばした。私は包みを胸元へ引き寄せる。
「待って。今、そんなふうに出ていったら、私があなたを追い出したようになるわ」
「お母様が無理をさせていないなら、帰れるはずです」
彼女の指が止まった。
私はその手を見ながら、ずっと聞きたかったことを、ようやく尋ねた。
「本当に娘だと思ってくださるなら、どうして一度も、私がつらいか聞いてくれないのですか」
返事は、すぐにはなかった。
ブリジット様は手を下ろし、口元を引き結んだ。
「私だって、つらいのよ。息子は好きな方を見つけて出ていく。あなたまで来なくなったら、誰が私の話を聞いてくれるの?」
私は彼女を見た。
自分がここに座り続けたら、この人の寂しさは少し薄れるのだろう。その代わり、私は好きだった人が別の女性と結婚する話を、この椅子で聞くことになる。
母親としての喜びも、新しい嫁への不満も、私が相槌を打って受け止める。
考えただけで、腹の底から怒りが湧いた。
「私に、慰めてほしいのですか。あなた方に傷つけられた私に、まだ?」
ブリジット様の顔が強張った。
「傷つけたのはロデリクでしょう。私は、あなたとの仲を大切にしたくて」
「ご存じだったのに、私をここへ呼び続けたのは、あなたです」
もう、お母様とは呼べなかった。
私が涙を拭く間、彼女は雑誌の上へ手を重ねた。さっきまで差し出されていた手巾は、長椅子の脇に落ちていた。
いつもなら拾った。今日は、彼女が自分で拾うのを待つことさえしなかった。
「今日で、こちらへ伺うのは終わりにします。ロデリク様との婚約も、解消してください。私からも両親へ話します」
言い終えると、足が震えた。
それでも、扉まで歩けた。後ろで私の名を呼ぶ声がしたけれど、立ち止まらず廊下へ出た。
* * *
「エレーヌ! 何を言ったんだ、母が泣いている」
玄関で外套を受け取ったところへ、ロデリク様がやってきた。
旅鞄は、まだ二つとも置いてあった。彼は手袋を片方だけはめ、もう片方を手に持っている。出発の直前に呼び止められたのだろう。
「もう伺わないと、お伝えしました」
「そんな急なことを言ったら、母が動揺するのは分かるだろう。君は母の扱いに慣れているんだから、もう少し上手に」
「私も、今日初めて伺いました。あなたが別の方と結婚なさることを」
彼は言葉を止めた。
母親の動揺なら想像できる人なのだと思うと、悔しくてたまらなかった。私の顔も、泣いたあとだと分かるはずなのに。
「君とのことは、改めて謝る。今は、母を落ち着かせてほしいんだ。僕が出発するまででいいから」
出発するまで、で終わったことは一度もなかった。
門を出る馬車の音を聞くと、ブリジット様はまた悲しくなる。あの子は私を一人にしても平気なのね、と。私が隣に座っているのに、一人だと言われた。
私は外套に腕を通し、留め金を掛けた。
「あなたのお母様は、あなたが慰めてください」
ロデリク様は、私の手元を見た。いつもは彼を見送ったあとでしまってもらう外套を、今日は私が着ている。
「僕では駄目なんだ。何を言っても、最後は君と話したがる。君は、聞くのがうまいから」
「お母様は、ご自分の話をあなたが聞いてくださらないとおっしゃっていました。今日は、お聞きになっては」
彼が廊下を振り返った。
居間の扉は開いていた。ブリジット様が、手巾を目に当てながらこちらへ来る。その足取りはしっかりしていた。
「エレーヌ、私が悪かったわ。言い方が悪かったのね。だから、そんなふうに怒って帰らないで。今日だけ、いつものようにしてちょうだい」
今日だけ。
昨年の母の誕生日にも聞いた言葉だった。
「今日は、私の母の誕生日です」
「それなら、明日改めてお祝いすれば……」
答えがあまりに早くて、私は笑いそうになった。笑えなかったけれど。
この人の寂しさは今日聞かなければならず、私の母の誕生日は明日でいい。娘のようだと言うのに、私に母がいることは、いつも忘れてしまう。
「母は、今日を楽しみに待っています。私も、一緒にお祝いしたいんです」
青い包みを見下ろすと、角が少し潰れていた。紙の染みも消えていない。
それでも中の本は渡せる。今日の夕食にも、まだ間に合う。
「ロデリク様は、三日もお留守なのですね。その間も私をお呼びになるおつもりでしたか」
ブリジット様が息子を見た。
「三日も? その間、私はどうするの」
今度は、ロデリク様が困った顔をした。
「三泊です、母上。先日お話ししました。エステル嬢のご両親にも、ご挨拶をしなければなりませんから」
「それは、エレーヌが来てくれると思ったからよ。こんな時に私を置いていくなんて、あなたは何を考えているの」
彼女が息子の腕を掴んだ。
ロデリク様は、その手をそっと外そうとしたが、母親は離さなかった。私は昨日まで、あの手を包んで、息子はお忙しいのですと説明していた。
「家には皆がいます。困ることはないでしょう」
「そういうことを言っているのではないのよ。誰もいない食卓に、私だけ座れと言うの?」
ロデリク様は、玄関に控える侍女を見た。
「誰か、今夜だけでも母の話し相手に――」
「使用人に息子の愚痴を聞かせろと言うの? あなたは、私を何だと思っているの」
侍女は黙っていた。急に頼まれても困るだろうと思った。部屋を整える仕事と、家の主の不満を夜まで聞くことは、同じではない。
ロデリク様は私へ目を戻した。
誰かを探しても、最後にはここへ戻ってくるのだ。
「エレーヌ、少しだけ来てくれ」
彼は声を落とし、母親から離れようとした。けれどブリジット様の手が袖に残っているので、十分には近づけなかった。
「このままでは、出発できない。先方を待たせてしまう。今日だけ聞いてくれれば、そのあとのことは帰ってから考えるから」
「その間、私の母には、また待ってもらうのですか」
「君のお母上は、事情を話せば分かってくださるだろう。うちの母は、そう簡単には……」
彼はそこで言葉を切った。
分かってくれる方に、我慢をしてもらう。私はそのやり方を、この三年でずいぶん覚えた。自分の母へ何度も使ってしまった。
もう、それをしたくなかった。
「母は、私が来なくても、お祝いを始めます。待ち続ける必要はないと、今日は私から伝えます。でも、私はそこへ帰りたいのです」
ロデリク様の口元が歪んだ。
「そんなに頑なにならなくてもいいだろう。母の話は長いんだ。終わったと思っても、また同じところへ戻る。僕には、いつまで聞けばいいのか分からない」
ブリジット様が、息子の腕を引いた。
私は彼女より先に口を開いた。
「知っていらしたのですね」
ロデリク様は私を見た。
「私がいつ帰れるか分からないまま、ここにいたことを。あなたが出かけたあと、何時間も、同じお話を聞いていたことを」
「君は、母といるのが好きなんだと思っていた」
「好きなら、つらい時も、帰りたい時もないのですか」
声が大きくなった。玄関にいた使用人が目を伏せたけれど、今日は声を下げられなかった。
「あなたのお帰りを待っていた日もあります。お母様が眠ったら少しだけ、二人で話せるかもしれないと思って。今日、何があったのか、私の話も聞いてほしかったんです」
彼が唇を動かした。
私は続けた。今やめたら、また何でもないことにされてしまう気がした。
「待ちくたびれて家へ帰ると、お帰りになったあなたからお礼の手紙が届きました。母をありがとう、また頼む、と。次はお茶に誘ってくださるかしらと思いながら、私はまたここへ来たんです」
手紙は捨てられず、引き出しに入れていた。
嬉しかった言葉を、今日、こんなふうに話すことになるとは思わなかった。
「私と結婚したかったのですか。それとも、お母様を任せられる人が欲しかったのですか」
ロデリク様は、すぐには答えなかった。
答えを待っている間が、ひどく長かった。愛していたと言ってほしい自分が、まだいた。
「君の優しさを、好きになったんだ」
やっと出てきた言葉に、胸が痛んだ。
「母を大事にしてくれる君なら、きっとうまくやっていけると……」
「私は、あなたと一緒に、大事にするつもりでした」
彼の目が揺れた。
私一人に任せて、別の女性を好きになる。それで終わったあとまで、私の優しさを使いたがる。
あの夜、手を握ってくれた人が、目の前にいるのに遠かった。
「あなたが帰ってから考えることを、私が待つ必要はありません。もう、婚約者ではなくなるのですから」
私は指輪を外した。
返すための箱は持っていなかったので、手のひらに載せて差し出す。ロデリク様は、空いていた方の手で受け取った。片方の手袋と、小さな指輪が、一緒に握られている。
「エレーヌ。せめて、母には落ち着いてから」
「ブリジット様には、もう自分でお伝えしました」
彼女へ向き直ると、涙の残る顔がこちらを見ていた。
「今まで親しくしていただいて、嬉しかった時間もあります。でも、同じようには戻れません。息子さんが私を傷つけたことまで、私に慰めてもらおうとなさらないでください」
「私は、あなたを失いたくないだけなのよ」
その言葉を、もっと早く聞きたかった。
息子から別の女性の話を聞いた時に、一度でも私のことを考えてくれたなら。せめて今日、私が傷ついたことを、自分の寂しさより先に見てくれたなら。
けれど、もう来てしまった今日を、別の日にはできなかった。
「私も、失いたくありませんでした。あなた方と家族になるつもりだったんです」
泣き声になった。それが嫌で、私は一度唇を噛んだ。
「それでも、帰ります」
玄関の扉を開けてもらった。
外には、私を乗せてきた実家の馬車が待っている。いつもなら夜まで近くで待機する御者が、驚いた顔で駆け寄ってくれた。
階段を下りる間、後ろからロデリク様の声が聞こえた。
「母上、今は彼女を追っても……」
「あなたは、私と話すこともできないの? あの子に任せればいいと、いつも言っていたでしょう」
私は馬車の扉の前で足を止めた。
ブリジット様が、息子を居間へ連れて戻ろうとしていた。ロデリク様は玄関の鞄を見て、それから、もう馬車に乗り込む私を見た。
「鞄を戻してくれ。先方へ、出発が遅れると使いを……」
言いながら、彼は母親を宥めようとした。けれど母親は、まだ話し終えていなかった。
私は本の包みを膝へ置き、御者に、家へ帰ってほしいと頼んだ。
閉まる扉の隙間に、旅鞄を持って廊下へ戻る使用人が見えた。ロデリク様の姿は、その奥へ消えた。
母親の話を聞くために、彼が予定を変えた。
私がいなくなっても、変えられる人はいたのだ。
馬車が動き出してから、私は膝の本へ顔を伏せた。帰れたことが嬉しくて、三年間が悲しくて、しばらく声を出して泣いた。
* * *
家の玄関に入ると、母が大きな花瓶を抱えていた。
庭師に切ってもらった花を、食卓へ運ぶところらしい。私を見るなり、花瓶を近くの台へ置いた。
「エレーヌ、今日は早かったのね。どうしたの、その顔」
よく来てくれたとも、助かったとも言わなかった。
母はまず私の顔を見た。
それだけで、堪えていたものがまた崩れた。
「お母様。私、ロデリク様と結婚するのを、やめたいの」
母の腕の中へ入ると、花の葉が袖に一枚ついていた。取ってあげようとして、指がうまく動かなかった。
母は私の背を撫で、居間へ行こうと言った。
父も呼んでもらい、三人で座った。話しているうちに腹が立ってきて、私は何度も同じところを言い直した。
自分が、ついさっきまで聞きたくないと思っていたような話し方をしていることに気づき、口をつぐんだ。
「ごめんなさい。同じことばかり。お母様のお誕生日なのに」
「今日はそういう話をする日になったのよ。あなたが、私に話したいならね」
母は私に手巾を渡した。
「私も腹が立っているから、少し聞かせて。ただ、お父様にもお話ししてちょうだい。さっきから口を挟みたくて、ずっと座り直しているの」
見ると、父が本当に椅子の端へ移動していた。
私は泣きながら、少し笑ってしまった。父は笑わず、私の顔を見て言った。
「婚約は解消しよう。お前が望むとおりに進める。相手の気持ちが変わっても、戻りたくはないのだね」
「戻りたくありません」
それは、もう考えなくても答えられた。
「あの家へ通うのも、終わりにしたいです。寂しいと言われても、私が行かなければと、思わないようになりたい」
「では、その返事もお前が決めてよい。こちらへ使いが来た時には、勝手に約束をしないから」
父の言葉に頷いてから、私は母へ向き直った。
昨年の誕生日のことが、ずっと喉に引っかかっていた。
「去年は、帰れなくてごめんなさい。私がいなくても、お母様なら分かってくださると思ってしまったの」
母は、すぐにいいのよとは言わなかった。
「寂しかったわよ。新しい家族になる方を大事にしたいのだと思って、止められなかったけれど」
私は俯いた。
「でも、今日は帰ってきたでしょう。来年の約束まで、今ここでさせるつもりはないわ。今夜、あなたと食卓に座れるのが嬉しいの」
母が私の手を取った。
握り返すと、温かかった。私はここへ帰ってきたかったのだと、やっと自分で分かった。
「お祝いをしたいの。今からでも、いい?」
「ええ。ちょうど花を飾るところだったから、手伝って。背の高いものばかり選んでしまって、あれでは食卓でお父様のお顔が見えないのよ」
父が、見えなくても困るまいと言ったので、母と二人で見た。
困るわよ、と母が答えた。私は、今夜はこの人たちの顔を見ながら食べたいと思った。
花を少し切り、背の低い鉢に移した。私の目は赤いままだったが、食卓から父の顔も母の顔も、ちゃんと見えた。
夕食の途中で、青い包みを差し出した。紙が汚れてしまったと謝ると、母は中まで濡れているか確かめ、それから題名を見て声を上げた。
「『北塔の首なし伯爵』! これ、新しい巻が出ていたの?」
私は頷いた。
「まだ私も読んでいないの。今度こそ、本当に幽霊が出るそうよ」
「前の巻は、全部、叔父さんの変装だったものね。あれはひどいわ。地下室まで一緒に怖がった私たちを、どうしてくれるの」
母の言い方が、昔と同じだった。
十六歳の頃、寝る前に二人で読んで、廊下へ出られなくなったことがある。父に水を取ってきてもらったくせに、翌朝には二人で、少しも怖くなかったと言い張った。
ロデリク様と婚約してから、私はほとんど続きを読めていなかった。
「今夜、最初だけ読んでみる?」
私が誘うと、母はすぐに本を抱えた。
「最初だけで済むかしら」
「では、眠くなるまで。怖くなったら、お父様にもいていただきましょう」
「怖くなる前から、いるつもりだったのだが」
父が言ったので、今度は母が笑った。
* * *
食後、母と私は長椅子に並び、父が向かいの椅子で本を開いた。
父の朗読は、伯爵が扉を開けるだけでも大げさだった。軋む音まで声で表そうとするので、私は途中で、そんなに長く鳴ったら蝶番を直すべきだと言ってしまった。
母が肩を震わせ、父は真剣な顔のまま続きを読んだ。
やがて、窓の外を何かが横切る場面になった。
父の声が低くなり、母が私の袖を掴む。私も本へ身を寄せた。
窓に、白い手が――と父が読んだ時、廊下で物が倒れた。
母と私は同時に声を上げた。
扉の外から、箒を倒しましたと侍女が慌てて謝る。父は本を持ったまま固まっていた。私たちよりも大きく肩を跳ねさせたのを、私は見逃さなかった。
「お父様、今、怖かったでしょう」
「お前たちが急に叫ぶからだ」
「まだ叫ぶ前だったわよね、お母様」
母が頷こうとして、笑い出した。
私も笑った。笑っているうちに少し涙が出て、でも今度は、悲しいばかりの涙ではなかった。
今日は朝から何もいいことがなかったと思っていた。それでも、この時間までなくなったわけではなかった。
翌週、両家の話し合いで、婚約は正式に解消された。
私からも返事を出し、戻るつもりがないことを伝えた。父は相手から届いた書面を私にも読ませ、勝手に話を終わらせなかった。
そのあと、ロデリク様から一通だけ手紙が来た。
ブリジット様が寂しがっている。息子には話せないこともあるようだ。一度、顔を見せてやってほしい。
文末には、君なら分かってくれると思う、とあった。
机の上へ返事の紙を出した。
断る言葉を考えているうちに、相手が傷つかない言い方ばかり探している自分に気づいた。あの家を出た時も、私は何度も泣いた。傷つかずに終わることができなかったのは、私も同じだった。
『もう伺いません。お母様とのお話は、これからはご自分でなさってください』
それだけを書き、名前を添えた。
封をしてから、指輪のなくなった手を見た。寂しさは、まだある。たぶん、明日もふとした時に思い出す。
それでも、あの居間へ戻りたいとは思わなかった。
廊下から、母が私を呼んだ。
「エレーヌ、続きを読もうと思うのだけれど、来る? 今日は忙しいなら、先に読んでおくわ」
私は返事の手紙を、使いに渡す盆へ置いた。
読みたい。今朝から、塔の階段に残った足跡が気になっていた。
「行くわ。私が扉を閉めたら、始めてね」
部屋を出ると、母が本に指を挟んで待っていた。父はもう居間にいるらしい。三人で読むなら、今日こそ窓の外に何がいたのか分かるはずだ。
母と並んで歩きながら、私は尋ねた。
「今度も叔父さんだったら、どうする?」
「二人で作者に文句を言いましょう。まずは最後まで、ちゃんと読んでからね」
笑いながら、居間の扉を開けた。
今日は私が読みたいと申し出て、母から本を受け取る。母が隣の席を空けてくれたので、私はそこに座った。
行きたいと思って来た場所で、好きな話の続きを、声に出して読み始めた。
面白かったら、評価・ブックマーク頂けるとうれしいです。




