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『もったいない』――怪異・紗央里との暮らし

もったいない

作者: 月白ふゆ
掲載日:2026/08/16

午後六時十二分。


窓の外には、まだわずかに明るさが残っていた。

昼とも夜ともつかない、薄紫色の空。


昔、祖母がこういう時間を「逢魔が時」と呼んでいたのを思い出した。


魔物に逢う時間だから、暗くなる前に帰ってこい。


子供の頃は素直に怖がったものだが、二十六にもなればどうでもいい。


仕事から帰り、シャワーを浴び、適当に夕食を済ませた。

明日は休みだ。


動画を眺めているうちになんとなくその気になって、俺はベッドに横になった。


一人暮らしだ。

誰に気兼ねする必要もない。


しばらくして、身体の奥から熱がせり上がった。


その時だった。


「……勿体ない」


女の声がした。


耳元だった。


「っ!」


飛び起きた。


部屋には誰もいない。

玄関を見る。鍵は掛かっている。


クローゼットを開けた。

誰もいない。


ベッドの下まで確認した。

当然、誰もいない。


スマホから流れていた動画を止める。


女の声が入っていたのかと思って巻き戻したが、そんな台詞はなかった。


時計を見る。


午後六時三十一分。


窓の外は、もう暗かった。


気味が悪くなって、その日はそのまま寝た。


翌日。


会社から帰ったのは昨日より少し早かった。


昨日のことは、疲れていたせいだと思うことにしていた。

聞き間違いか、半分寝ていたか。


そんなところだろう。


そう思っていたのに、夕方になると妙に昨日の声を思い出した。


――勿体ない。


何が勿体ないんだ。


一人ですることか。

若いのに相手がいないことか。


馬鹿馬鹿しい。


俺はカーテンを閉めた。

時計は午後六時十八分。


意地になったわけではない。

ただ、昨日のことで自分の生活を変えるのが嫌だった。


昨日と同じようにベッドへ横になる。

今度は音を消した。


静かな部屋だった。

エアコンの作動音だけが聞こえる。


何も起こらない。


やっぱり気のせいだった。


そう思った頃には、昨日よりずっと身体が熱くなっていた。


その時。


耳元に、吐息が触れた。


背筋が凍った。


「や、め……」


声が出ない。


女が笑った。


すぐそばで。


身体だけが止まらなかった。


そのまま熱が一気にせり上がり、身体が跳ねた。


いつもより、ずっと多かった。


俺はシーツを握りしめた。


息を整えることもできずにいると、耳元で女が囁いた。


「昨日より良かったでしょ?」


しばらく動けなかった。


やがて震える手で振り向いた。


誰もいない。


「誰だよ……」


返事はなかった。


「何なんだよ!」


部屋の中に、自分の声だけが響いた。


時計を見る。


午後六時三十四分。


昨日とほとんど同じ時間だった。


三日目。


定時で会社を出た。

まっすぐ帰る気にはなれなかった。


コンビニ。

ファミレス。

本屋。


意味もなく時間を潰した。


七時を過ぎてから帰宅する。

もう夜だ。


これなら大丈夫だろう。


玄関の照明をつける。

部屋の照明も全部つけた。


何もしない。

今日は絶対にしない。


テレビをつけ、缶ビールを開けた。


八時。

九時。


何も聞こえない。


やっぱり時間だったのか。


逢魔が時。


そんな昔話を思い出してしまった自分がおかしくて、少し笑った。


その日は早めに寝た。


翌朝。


何事もなかった。

会社でも何もない。


夕方になっても、耳元に声はしなかった。


俺は安心した。


夕方さえ避ければいい。

たったそれだけだ。


その日の夜、十一時を過ぎてから風呂に入った。


ベッドに入る。


あの時は、いつもよりずっと多かった。

その感覚が妙に残っていて、身体が落ち着かなかった。


今は深夜だ。

逢魔が時でもない。


馬鹿馬鹿しいと思いながら、俺は手を伸ばした。


何も起きない。

声もしない。


やっぱり大丈夫だ。


そう思った。


翌日の夕方。


会社から帰宅すると、部屋が薄暗かった。


カーテンを開けたまま出勤したから、西日が差し込んでいる。


時計は午後六時二十二分。


すぐにカーテンを閉めようとした。


その時。


「ねえ」


耳元で声がした。


身体が固まった。


あの女だ。


昨日の夕方は何もしていない。

今だって何もしていない。


なのに。


「……何だよ」


答えてしまった。

声が震えた。


女は嬉しそうだった。


「昨日ので出来たよ」


意味が分からなかった。


「……は?」


「昨日の」


昨日。


夜十一時。


あの時。


「何が」


聞きたくなかった。

それでも口から出た。


女が、耳元で小さく笑った。


「あなたの子」


息が止まった。


「……何、言って」


「ちゃんと出来たよ」


「嘘だ」


「ほんと」


「お前、誰なんだよ」


答えはなかった。


代わりに、耳のすぐ後ろで何かが擦れる音がした。

衣擦れのような。

髪が揺れるような。


俺は振り向けなかった。


女はしばらく黙っていた。


やがて、とても嬉しそうな声で言った。


「だから最初に言ったでしょ」


少し間を置く。


窓の外から、夕日が最後の一筋だけ差し込んでいた。


「捨てるなんて、勿体ないって」


その日から、女の声は聞こえなくなった。


三か月経った。

半年経った。


俺は引っ越した。


祖母の言っていた逢魔が時を、二度と笑わなくなった。


夕方にはなるべく一人にならないようにした。

夜になっても、しばらくは何もする気になれなかった。


それでも時間が経てば、恐怖は少しずつ薄れていった。


夢だったのかもしれない。

疲れていただけなのかもしれない。


そう思える日も増えた。


やがて一年が経った。


今日。


仕事から帰ったのは、午後六時二十九分だった。


新しい部屋の郵便受けに、一枚の封筒が入っていた。


切手はない。

宛名もない。

差出人もない。


白い封筒だった。


嫌な予感がした。


それでも、その場で捨てることはできなかった。


部屋へ入り、照明をつける。

封を開けた。


中には写真が一枚だけ入っていた。


女が写っていた。


知らない女だった。


長い黒髪。

白い服。


顔だけが、どうしてもうまく見えない。


俯いているわけでも、写真がぼやけているわけでもない。


そこに顔があるはずなのに、目を向けると形が頭に入ってこなかった。


なのに、身体つきだけは妙にはっきり分かった。


胸の大きさも。

腰の細さも。

脚の線も。


昔から、自分が女を見る時に好んでいたものを、そのまま集めたような身体だった。


一度も誰かに話したことなどない。


女は、その身体で赤ん坊を抱いていた。


まだ小さい。

けれど、もうしっかりと目を開けている。


こちらを見ていた。


鼻。

口元。

眉の形。


どこかで見たことがある。


思い出した。


実家にある、俺が赤ん坊だった頃の写真だ。


似ていた。


あまりにも。


写真を落としかけた。


裏返す。


文字があった。


鉛筆のようなもので、強く、何度もなぞった跡。

たどたどしい字だった。


な 前 かんがエテ

    紗央里


名前は同じ鉛筆で書かれた文字だが、そこだけは、妙に迷いがなかった。


その瞬間。


耳元で、


女が笑った。

「な 前 かんがエテ」


良い名はありますか?

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― 新着の感想 ―
ハッピーエンドじゃねーか(違うw)
写真の次はどうなるんだろう? 会社から帰ってきたけど、 明日(2日目)は休みじゃなかった?
赤ん坊が男の子か女の子か気になって眠れないじゃないか。
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