もったいない
午後六時十二分。
窓の外には、まだわずかに明るさが残っていた。
昼とも夜ともつかない、薄紫色の空。
昔、祖母がこういう時間を「逢魔が時」と呼んでいたのを思い出した。
魔物に逢う時間だから、暗くなる前に帰ってこい。
子供の頃は素直に怖がったものだが、二十六にもなればどうでもいい。
仕事から帰り、シャワーを浴び、適当に夕食を済ませた。
明日は休みだ。
動画を眺めているうちになんとなくその気になって、俺はベッドに横になった。
一人暮らしだ。
誰に気兼ねする必要もない。
しばらくして、身体の奥から熱がせり上がった。
その時だった。
「……勿体ない」
女の声がした。
耳元だった。
「っ!」
飛び起きた。
部屋には誰もいない。
玄関を見る。鍵は掛かっている。
クローゼットを開けた。
誰もいない。
ベッドの下まで確認した。
当然、誰もいない。
スマホから流れていた動画を止める。
女の声が入っていたのかと思って巻き戻したが、そんな台詞はなかった。
時計を見る。
午後六時三十一分。
窓の外は、もう暗かった。
気味が悪くなって、その日はそのまま寝た。
翌日。
会社から帰ったのは昨日より少し早かった。
昨日のことは、疲れていたせいだと思うことにしていた。
聞き間違いか、半分寝ていたか。
そんなところだろう。
そう思っていたのに、夕方になると妙に昨日の声を思い出した。
――勿体ない。
何が勿体ないんだ。
一人ですることか。
若いのに相手がいないことか。
馬鹿馬鹿しい。
俺はカーテンを閉めた。
時計は午後六時十八分。
意地になったわけではない。
ただ、昨日のことで自分の生活を変えるのが嫌だった。
昨日と同じようにベッドへ横になる。
今度は音を消した。
静かな部屋だった。
エアコンの作動音だけが聞こえる。
何も起こらない。
やっぱり気のせいだった。
そう思った頃には、昨日よりずっと身体が熱くなっていた。
その時。
耳元に、吐息が触れた。
背筋が凍った。
「や、め……」
声が出ない。
女が笑った。
すぐそばで。
身体だけが止まらなかった。
そのまま熱が一気にせり上がり、身体が跳ねた。
いつもより、ずっと多かった。
俺はシーツを握りしめた。
息を整えることもできずにいると、耳元で女が囁いた。
「昨日より良かったでしょ?」
しばらく動けなかった。
やがて震える手で振り向いた。
誰もいない。
「誰だよ……」
返事はなかった。
「何なんだよ!」
部屋の中に、自分の声だけが響いた。
時計を見る。
午後六時三十四分。
昨日とほとんど同じ時間だった。
三日目。
定時で会社を出た。
まっすぐ帰る気にはなれなかった。
コンビニ。
ファミレス。
本屋。
意味もなく時間を潰した。
七時を過ぎてから帰宅する。
もう夜だ。
これなら大丈夫だろう。
玄関の照明をつける。
部屋の照明も全部つけた。
何もしない。
今日は絶対にしない。
テレビをつけ、缶ビールを開けた。
八時。
九時。
何も聞こえない。
やっぱり時間だったのか。
逢魔が時。
そんな昔話を思い出してしまった自分がおかしくて、少し笑った。
その日は早めに寝た。
翌朝。
何事もなかった。
会社でも何もない。
夕方になっても、耳元に声はしなかった。
俺は安心した。
夕方さえ避ければいい。
たったそれだけだ。
その日の夜、十一時を過ぎてから風呂に入った。
ベッドに入る。
あの時は、いつもよりずっと多かった。
その感覚が妙に残っていて、身体が落ち着かなかった。
今は深夜だ。
逢魔が時でもない。
馬鹿馬鹿しいと思いながら、俺は手を伸ばした。
何も起きない。
声もしない。
やっぱり大丈夫だ。
そう思った。
翌日の夕方。
会社から帰宅すると、部屋が薄暗かった。
カーテンを開けたまま出勤したから、西日が差し込んでいる。
時計は午後六時二十二分。
すぐにカーテンを閉めようとした。
その時。
「ねえ」
耳元で声がした。
身体が固まった。
あの女だ。
昨日の夕方は何もしていない。
今だって何もしていない。
なのに。
「……何だよ」
答えてしまった。
声が震えた。
女は嬉しそうだった。
「昨日ので出来たよ」
意味が分からなかった。
「……は?」
「昨日の」
昨日。
夜十一時。
あの時。
「何が」
聞きたくなかった。
それでも口から出た。
女が、耳元で小さく笑った。
「あなたの子」
息が止まった。
「……何、言って」
「ちゃんと出来たよ」
「嘘だ」
「ほんと」
「お前、誰なんだよ」
答えはなかった。
代わりに、耳のすぐ後ろで何かが擦れる音がした。
衣擦れのような。
髪が揺れるような。
俺は振り向けなかった。
女はしばらく黙っていた。
やがて、とても嬉しそうな声で言った。
「だから最初に言ったでしょ」
少し間を置く。
窓の外から、夕日が最後の一筋だけ差し込んでいた。
「捨てるなんて、勿体ないって」
その日から、女の声は聞こえなくなった。
三か月経った。
半年経った。
俺は引っ越した。
祖母の言っていた逢魔が時を、二度と笑わなくなった。
夕方にはなるべく一人にならないようにした。
夜になっても、しばらくは何もする気になれなかった。
それでも時間が経てば、恐怖は少しずつ薄れていった。
夢だったのかもしれない。
疲れていただけなのかもしれない。
そう思える日も増えた。
やがて一年が経った。
今日。
仕事から帰ったのは、午後六時二十九分だった。
新しい部屋の郵便受けに、一枚の封筒が入っていた。
切手はない。
宛名もない。
差出人もない。
白い封筒だった。
嫌な予感がした。
それでも、その場で捨てることはできなかった。
部屋へ入り、照明をつける。
封を開けた。
中には写真が一枚だけ入っていた。
女が写っていた。
知らない女だった。
長い黒髪。
白い服。
顔だけが、どうしてもうまく見えない。
俯いているわけでも、写真がぼやけているわけでもない。
そこに顔があるはずなのに、目を向けると形が頭に入ってこなかった。
なのに、身体つきだけは妙にはっきり分かった。
胸の大きさも。
腰の細さも。
脚の線も。
昔から、自分が女を見る時に好んでいたものを、そのまま集めたような身体だった。
一度も誰かに話したことなどない。
女は、その身体で赤ん坊を抱いていた。
まだ小さい。
けれど、もうしっかりと目を開けている。
こちらを見ていた。
鼻。
口元。
眉の形。
どこかで見たことがある。
思い出した。
実家にある、俺が赤ん坊だった頃の写真だ。
似ていた。
あまりにも。
写真を落としかけた。
裏返す。
文字があった。
鉛筆のようなもので、強く、何度もなぞった跡。
たどたどしい字だった。
な 前 かんがエテ
紗央里
名前は同じ鉛筆で書かれた文字だが、そこだけは、妙に迷いがなかった。
その瞬間。
耳元で、
女が笑った。
「な 前 かんがエテ」
良い名はありますか?




