記憶
夜中、シャルロットははっと目を覚ました。
暗い天井が視界に映る。
胸が苦しい。
呼吸が浅い。
全身がじっとりと汗ばんでいた。
「……っ」
ゆっくりと体を起こす。
髪が首筋に張り付いて気持ち悪い。
寝間着も少し湿っていた。
また夢を見ていた。
このところ毎晩のように見る夢だけれど今日は少し違った。
煌びやかな場所、豪華な装飾、美しいドレスと傅く使用人たち。
そこまではいつもと同じだった。
だが、その後、今日は誰かに呼び出されていた。
薄暗い部屋、重苦しい空気、目の前に立つ誰か。
顔は見えないけれど、恐ろしかった。
その人の前に立つだけで、心が縮こまるようだった。
そして何かを命令される。
何を言われたのかは思い出せないけれど、嫌だった。
嫌で嫌でたまらなかった。
逃げ出したかった。
拒絶したかった。
なのに、夢の中の自分は頷いていた。
受け入れていた。
逆らわなかった。
「どうして……?」
ぽつりと呟く。
誰もいない部屋に声が溶けた。
どうして嫌だったのに従ったのだろう。
どうして怖かったのに逃げなかったのだろう。
どうして、どうして。
考えれば考えるほど頭が痛くなる。
記憶の向こう側に何かがある。
そんな気がするけれど、手を伸ばしても届かない。
霧の向こうに隠れてしまう。
胸の奥がざわざわした。
不安だった。
理由もなく怖かった。
思い出したいのに、思い出したくない気もする。
そんな矛盾した感情が渦を巻いていた。
シャルロットはそっとベッドから降りる。
喉が渇いていた。
水を飲もう、そう思った。
それに、このまま一人で部屋にいると、また夢のことばかり考えてしまいそうだった。
床板を踏まないよう慎重に歩く。
静かな廊下には窓から月明かりが差し込んでいる。
少し前にもこんなことがあった。
夜中に目が覚めて、水を飲みに行って。
それから――。
クルルと話した。
キッチンで偶然会って、他愛もない話をして、少しだけ気持ちが軽くなった。
あの時も夢を見ていた気がする。
内容は覚えていないけれど、今思えば、その頃からだったのかもしれない。
少しずつ、少しずつ、夢が変わり始めたのは。
階段を降りながらシャルロットは胸元を押さえる。
怖い、けれど、誰にも言えない。
クルルにも、オーウェンにも、心配をかけたくなかった。
せっかく助けてもらったのだから。
せっかく今は幸せなのだから。
自分だけが勝手に不安になっているだけかもしれない。
そう思う。
そう思おうとする。
でも、夢の中で感じた恐怖だけは、どうしても消えてくれなかった。
まるで、本当にあった出来事を思い出しかけているように。
キッチンで水を汲む。
冷たい水が喉を通ると、少しだけ気分が落ち着いた。
それでも胸のざわつきは消えない。
シャルロットはコップを片手に裏口を開けた。
夜風が頬を撫でる。
「……気持ちいいわ」
小さく呟く。
昼間は暖かくなってきたが、夜はまだ少し涼しい。
診療所の庭は静かだった。
虫の鳴き声、木々の葉が揺れる音。
そして空には大きな月。
あまりにも綺麗で、シャルロットはしばらく見上げていた。
庭の木の下に腰を下ろして、コップを両手で包み込む。
夢のことを考えないようにしよう。
そう思ったけれど、ふと月を見上げた瞬間だった。
頭の奥がずきりと痛んだ。
「っ……!」
反射的に額を押さえる。
視界が揺れる。
そして、突然、知らないはずの景色が脳裏に流れ込んできた。
――大きな庭園。
色とりどりの花。
青空。
噴水。
そして、銀色の髪の少年。
『君がシャルロット?』
驚くほど鮮明だった。
少し不機嫌そうな顔だけれど綺麗な赤い瞳。
幼い自分。
緊張している自分。
『ルカス様……』
その名前が自然に浮かぶ。
知らないはずなのに、知っていた。
知っている。
ずっと。
その後も映像は止まらない。
庭園で本を読む少年。
その隣に座る自分。
ぎこちない会話。
少しずつ増えていく言葉。
並んで歩いた社交界。
婚約者として紹介された日。
隣に立つことが当たり前だった日々。
ルカス。
ルカス。
ルカス。
記憶の中の自分はいつも彼を見ていた。
嬉しそうに、幸せそうに、恋をする少女の顔で。
「……あ」
コップを持つ手が震える。
呼吸が浅くなって、涙が一粒零れ落ちた。
どうして、どうして忘れていたのだろう。
どうして思い出せなかったのだろう。
夢の中でずっと手を伸ばしていた相手。
夢の中でずっと探していた相手。
その人が誰なのか、今ようやく分かった。
「……ルカス様」
自然と名前が零れる。
懐かしい。
愛しい。
胸が苦しくなるほど、大切だった人。
思い出したのはそこまでだった。
まだ続きがあるような、そんな気がする。
けれど今は、出会いから、共に過ごした日々から、彼の両親が亡くなる、その少し前まで。
そこまでしか思い出せない。
それでも十分だった。
今まで霧の向こうにいた誰かが、はっきりと輪郭を持った。
夢で追い続けていた人。
ずっと手を伸ばしていた人。
その正体を知ってしまった。
シャルロットは月を見上げる。
胸の奥が熱い。
そして同時に、どうしてだろう。
言いようのない不安も生まれていた。
まるで、この先の記憶には、思い出さない方が幸せだったものが眠っているかのように、冷たい夜風が吹いた。
シャルロットはしばらく動けず、月明かりの下でただ一人、失った記憶の名前を何度も胸の中で繰り返していた。
――ルカス様。
その名前を胸の中で繰り返す。
懐かしい、どうしようもなく懐かしい。
月明かりの下で、シャルロットは震える指先を握り締めた。
思い出した。
やっと、夢の中で追い続けていた人を。
手を伸ばし続けていた人。
その人の名前も顔も。
――ルカス様。
そう思った瞬間だった。
「……あれ……?」
ふと、別の記憶が浮かぶ。
銀色の髪。
整った顔立ち。
赤い瞳。
つい最近、どこかで見た。
どこでだっただろう。
シャルロットは必死に思い返す。
そして、思い出した。
朝食の席。
クルルが慌てた様子で隠そうとしていた新聞。
結婚式の記事。
写真。
幸せそうに並ぶ新郎新婦。
その隣に立っていた銀髪の男性。
「…………」
血の気が引いた。
まさか。
そんな。
だって、あの人は。
「同じ……」
ぽつりと呟く。
間違いない。
新聞の写真の男性。
あれは、ルカスだった。
記憶の中の少年ではない。
成長した姿だったけれど、間違いなく同じ人。
「どうして……?」
混乱して頭が追いつかない。
だって、もし自分がルカスを知っていたのなら。
あの写真を見た時に気付いていたはずだ。
なのに何も感じなかった。
『綺麗ね、幸せそうね』
それだけだった。
それなのに今は、胸が痛い。
息が苦しい。
心臓が嫌な音を立てる。
写真の隣にいた女性も思い出す。
美しい花嫁。
金色の髪。
幸せそうな笑顔。
その時は何も思わなかった。
なのに、今は、胸の奥に重たい石が落ちたようだった。
「どうして……」
分からない。
ルカスが自分にとってどんな人だったのか。
なぜあんなにも大切だったのか。
そして、なぜ今、自分はこんなに苦しいのか、分からない。
分からないことだらけだ。
けれど一つだけ確かなことがある。
ルカスは結婚している。
新聞に載るほど盛大な結婚式を挙げて、あの花嫁と幸せに暮らしている。
それは事実だ。
なのに、なぜだろうか、その事実を考えるだけで、胸が締め付けられる。
「私……」
言葉が続かない。
夜風が吹く。
冷たいはずなのに、額にはじっとりと汗が滲んでいた。
完全に記憶が戻ったわけではない。
まだほんの一部だ。
それでも、シャルロットは本能的に理解してしまった。
ルカスという人は、自分の人生にとって、とても大切な人だったのだと。
そして、その人はもう、自分とは全く違う場所で生きているのだと。
月明かりの下。
シャルロットは胸元を押さえる。
どうしてこんなに苦しいのか、その答えはまだ思い出せない。
けれど、思い出した記憶の先にあるものが、決して幸せなものではないことだけは、なぜか、分かってしまった。




