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届かない手


 クルルは薪を割りながら、ふと空を見上げた。

雲ひとつない青空だった。

穏やかな午後、遠くから子供たちの笑い声が聞こえる、そんな平和な光景だった。

けれど、その平和がどれほど脆いものなのか、クルルは知っている。

皇太子は今も自分を探しているだろう。

もちろん、シャルロットも。

もし生きていることが知られれば、間違いなく追手が差し向けられる。

だからこそ、この町に来た。

オーウェンがいたから。

それも大きな理由だ。

オーウェンは信頼できる。

昔から変わらない親友だ。

だが、それだけではない。

もっと現実的な理由があった。


「……ここだから、か」


クルルは小さく呟く。

この町は特殊だった。

地図の上では王国の中に存在しているけれど、実際には違う。

町そのものは隣国の飛び地。

周囲を王国の領土に囲まれているだけで、法的には別の国だった。

さらに厄介なのは、その周囲の領地を治めている貴族たちである。

彼らは王政反対派で、皇太子とは折り合いが悪い。

表向きは従っていても、心の底から忠誠を誓っているわけではない。

だからもし皇太子が命令を出しても、彼らは最低限しか動かない。

あるいは、もっと巧妙に手を抜く。

そういう土地だった。

皇太子にとっては目の届きにくい場所だからこそ、クルルはここを選んだ。

最初は半分賭けだった。

シャルロットを背負って山を下りた時、必死だった。

生き延びることしか考えていなかった。

それでも頭の片隅では、この町のことを思い出していた。

もし逃げるならここしかないと、そう確信していた。

実際、その判断は正しかった。

オーウェンの診療所には色々な人間が来る。

農民、商人、旅人。

そして時には、出自を聞かない方がいい人間も。

盗賊に、密輸商に、賞金首、裏社会の住人。

普通の医者なら断るような患者だが、オーウェンは治療する。

金さえ払えば。

あるいは本当に困っているなら、誰であろうと診る。

王都なら問題になっていただろう。

だがこの町では違う。

誰も気にしない。

なぜならこの町そのものが境界の町だからだ。

王国と隣国。

表と裏。

様々なものが混じり合う場所。

だから許されている。

だから、シャルロットとクルルは、生きていける。




 クルルは斧を下ろした。

薪が綺麗に割れる。

もし王都に残っていたら、今頃どうなっていただろう。

捕まっていたかもしれないし、処刑されていたかもしれない。

シャルロットはもっと酷い。

死んだほうがましだと思えるような、酷い扱いを受けた後に、生きていることすら許されなかっただろう。

そう考えると背筋が冷えた。

家の方を見ると、窓が開いていた。

その向こうでシャルロットが洗濯物を畳んでいる。

オーウェンは診察中だろう。

なんでもない光景の平凡な日常。

けれどクルルにとっては奇跡のような時間だった。

あの日、山小屋で倒れていたシャルロットを見つけた時は、こんな未来は想像できなかった。

笑っているシャルロット。

穏やかに暮らす自分。

親友と同じ食卓を囲む毎日。

全部、手の届かないものだと思っていた。

だからこそ、守りたかった。

皇太子の手から、過去から、あらゆるものから。

クルルは無意識に拳を握る。

今はまだ、皇太子に見つかっていない。

だが油断はできない。

皇太子は諦めるような男ではない。

いつかこの町に辿り着くかもしれない。

それでも、少なくとも今だけは、皇太子の手は届かない、この小さな田舎町は、王国の中にありながら王国ではなく、皇太子の権力が及びそうで及ばない場所だった。

だから今日も、シャルロットは笑っていられる。

その事実に、クルルは静かに安堵するのだった。



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